『やあ、兄さん』
腐葉土から滲み出した湿気と生温い風が木々を湿らせる雨季へと季節が移る狭間にて。
背後から聞きなれた同族ののほほんとした唸りが隻眼の獣の耳へ届く。顔を顰め、身体ごと振り返る。。
『何の用だ?』
『特にないよ。たまたま兄さんを見つけたから声をかけたんだ』
『ぶるぶるぶる……恐いよ、風』
赤い布を上半身に纏った肥満体のオスの若いクマ一頭と一般的な個体より大きなオスの
タヌキが一匹。
オスグマは左前脚に蜂蜜の香りが漂う壺を持っており、目を細めて歯を見せた「ニンゲン」のような友好的は笑顔を見せている。
その一方、首から林檎の入った竹の籠をぶら下げている
タヌキはこちらの視線に身体を振るわせて怯えていた。
『そんなに怖がらなくても大丈夫だよ、
タヌキ。兄さんとぼくは昔から助け合ってきた友達同士だから』
『誰がトモダチだ。ニンゲンの真似をしおって気色悪い』
『ひどいこと言うなぁ……』
タヌキを宥めつつ、媚びるとも見下すとも違う「ニンゲン」のような笑顔をこちらに向ける肥満体の同族に苛立ちを募らせる。
気色悪い笑みを浮かべるこの若いオスは忌まわしき人間共から「熊野風」と呼ばれているらしい
独眼熊にとって数少ない友好的な接触をする獣。
風との付き合いは彼が幼獣時代、
独眼熊が成獣なりたて――彼の右目が健在であった頃まで遡る。
時は住処が紅葉で彩られる秋季。来たる冬季に向けて獣が各々冬を超す準備を行う季節。
その頃の自分より巨大なツキノワグマとの縄張り争いに負けて冬眠のための巣穴を追い出され、餌場すら奪い取られて途方に暮れていた時。
『独りぼっちなの?お兄さん』
口に岩魚を咥え、小さな唸りと共に無防備にこちらへと近づいてくる小熊が一頭。独眼熊の前に岩魚を置いて『食べていいよ』と促す。
近くに母熊はいないらしく、この小熊を喰らってもなんら己の身に危険は及ばないと判断。
『母親はどうした?』
『んーと、ご飯を取りに行くっていったきり、ずっと戻ってきていないんだ』
疑うべくもない。彼の母親は自分の母親と同じく人間共に獲物として狩られたのだ。
そんなことも知らず、能天気にこちらにすり寄ってくる小熊。自分にとって冬を越すための絶好の獲物にも思えた。しかし――。
『お前、冬ごもりのための巣穴は見つけたか?』
『うん、あっちの方にあるよ』
『そうか。なら我も一緒に行こう』
『どうして?』
『巣穴を間借りさせてもらう。その代わり、お前が成獣になるまで面倒を見てやる』
立場は違えど、孤独な彼に過去の自分を重ねてしまった。小熊ただ一頭で生きる彼に。
そこからこの小熊が成獣になるまでの共同生活が始まった。
ある時、小熊が人里に降りて蜂蜜を奪い、逃げ回っていた際は
独眼熊が人間を誘き寄せて彼を逃がした。
またある時、
独眼熊が獲物を狩れずに飢えていた際は、小熊が木の実や魚を取ってきて共に腹を満たした。
その奇妙な関係は小熊が独り立ちしてからも続いていた。もっとも成獣になってからの頻度は減ったが。
『ところで、だ。そこのクマの言葉を介する
タヌキをいつになったら喰らうのだ?』
『ひィ……!!』
ジロリと左目で
タヌキを睨みつけると彼はずんぐりとした身体を一層強く震わせ、風の背後へと隠れた。
『ああほら、兄さんが怖~いこと言うから
タヌキがびっくりして隠れちゃったじゃない。大丈夫だよ、
タヌキ。ぼくは友達を食べないから。
それと兄さん。ぼくにはニンゲンの友達からもらった"熊野風"って名前があるんだ。"お前"じゃなくって"フウ"って呼んでくれると嬉しいな』
えへんとでっぷりした腹肉を揺らして自慢する風に
独眼熊は怪訝な表情を浮かべた。
ニンゲンの友達?主義主張には口を出すつもりはないが、風の警戒心のなさには不快感を隠さずにはいられない。
『ニンゲンのトモダチ?言っている意味が分からんぞ』
『そのままの意味だよ。"ウサギ"っていう名前のメスでとっても優しいんだ。
ウサギの住処に行くと壺たっぷりの蜂蜜や甘くておいしい林檎を貰えるんだよ。』
『…………』
『それとね、ボール遊びもしてくれるんだ。ウサギが投げたボールをキャッチして、キャッチしたボールをウサギに投げ返す遊び。
あ、それからお返しにぼくの背中にのせてあげるとウサギはとっても喜んでくれ……兄さん、どうして地面に頭をくっつけてるんだい?』
『…………いや、もういい』
あまりの危機管理能力のなさに怒りを通り越して呆れ、何も言えなくなる。
この阿呆は自分が人間に飼われている自覚すらないらしい。
ふと何を思ったのか、風は
タヌキから林檎を受け取ると壺の蜂蜜に浸して、ずいっと
独眼熊へと差し出した。
『はい、どうぞ。ニンゲン嫌いの兄さんもウサギとなら仲良くできると思うんだ。ニンゲンが作った林檎はおいしいよ』
『いらん!』
気色悪い笑顔と共に差し出された蜂蜜浸しの林檎をはたき落とす。べちゃりと林檎が腐葉土へと落ちる。
『ああもったいない』と風は能天気な唸りの後に土のついた林檎を口へと放り込んだ。
『もうお前に言うことはない……が、人間に現を抜かすのはそこまでにしておけよ』
捨て台詞のような警告を風に残し、
独眼熊は風に背を向ける。
どこで教育を間違えたのか、小熊の頃から言い聞かせていた人間の悍ましさや危険性は彼の中に根付かなかったらしい。
もう奴がどうなろうと知らん。山暮らしのメスや白髪交じりのオスにでも狩られてしまえ。
憤りを隠さずに足音荒く
独眼熊は森の奥深くへと去っていく。
『ねえ、風。何度も聞くけど本当に君のお兄さん、大丈夫なの?』
『大丈夫だよ。兄さんは威嚇が大好きなだけだから』
『そ、そうかなぁ……?ぼくには乱暴者にしか見えなかったけど……』
『そこまで兄さんは乱暴者じゃないよ。兄さんはただ―――なだけなんだから』
『聞こえてるぞ!』
『ヒィ……ごめんなさい!』
『兄さんは耳がいいなぁ』
それは未曽有の大災害が起こる数日前。山折村北部のとある山中での出来事であった。
◆
倒壊した建物や崩れたコンクリ塀が並ぶ高級住宅街。民家と民家の間の小路にて、巨大な生物が足を引き摺っていた。
巨顎と丸い耳、体毛と鱗を持つ三メートル程の二足歩行の怪物。ワニとクマの合成獣とも呼べる悍ましき姿をしている。
地球上の生物とかけ離れた見た目であるが、彼は未来人類発展研究所の実験によって生まれた生物ではない。
災害により異能に目覚め、更に山折村の怪異に寄生された人食い熊の変異体。
独眼熊と呼称されていたヒグマのなれの果てである。
「ヴヴゥーーー……!グゥーーー……!」
憎悪と怨恨の唸りが閑散とした住宅街に響き渡る。
独眼熊は激怒していた。
己の縄張りを奪い、未だ姿を見せない山暮らしのメスに。
右目を奪うのにも飽き足らず、残された左目も穿った忌まわしき猟師のオスに。
銃で追い詰めて二度も己に苦汁を舐めさせた新米猟師の"ひなた"に。
怪異としての力を削り取るに飽き足らず、獲物と定めていた"けいこ"を横取りした隠山一族に。
猟師と手を組んで己の走狗たる分身を討った特殊部隊に。
そして何より―――。
(五度……五度目だ……!我は何をやっているのだ……!)
五度も人間に謀られて深手を負い、その度に逃げの一手を打つ他なかった己自身に対して。
己は獣としてヒトとは比べるべくもない強靭な肉体を持ち、知恵もつけ、進化も果たした。
だのに人間に対しての行動は馬鹿の一つ覚えと言わんばかりに突撃・突進・体当たりと知恵をつける前とさして変わらぬ行動ばかり。
対して人間共は害獣として駆除せんと脆弱な肉体を生まれ持った知恵で補い、確実に追い詰めていく。
もはや
独眼熊に後は残されていない。以前のままでは再び対峙した際、今度こそ駆除されるだろう。
数多の失態失策を得て、力を経た魔獣は漸く人間を「取るに足らない獲物」ではなく「排除すべき脅威」であると認識した。
ふぅと息を吐いて頭に巣食うナニカに働きかけ、無理やり猛り狂う衝動を抑え込んで頭を冷やす。
(だが、どうする?以前のように分身を突っ込ませるだけでは先程の二の舞だ。銃を使うにしても猟師共と同じように使えるとは限らん)
"ひなた"が銃を撃った時のことを思い出し、肉体変化にて生み出した人間の腕で構えてみる。
引き金を引けば獣を射殺す弾丸が発射されるが、臭いだけでは命中精度が極端に下がる。
かといって視力も頼りにならない。右目は言わずもがな、左目も白髪交じりのオスに穿たれて水を張ったように視界がぼやけて映る。
(であるならば、蜥蜴擬きから奪った異能はどうだ?)
蜥蜴擬き――
ワニ吉の脳を喰らって得た分身を生み出す異能『ワニワニパニック』。現在は『クマクマパニック』と名を変えた異能。
分身を一つ、新たに生み出す。ついでにもう一つ生み出そうと試みるも失敗に終わる。
分身の生成に上限はないが、時を待たずに分身を生み出すのは不可能であると判断。小半刻ばかりの時が経たねば分身の再生成は不可。
そして分身に異能を反映させることは――。
(隠山共の巣へ分身を斥候に行かせたとき、我が操作をすれば肉体変化の異能を用いて一色洋子の声を出させることができていたな)
きっかり十五分が経ち、二体目の分身を生み出す。そして発音、肉体の変化を分身に強要する。同時に五感の共有を分身達に命じる。
(……なるほどな。頭目と定めた"い号"には視界や肉体変化を適応できたが"ろ号"には肉体の変化は適用されない。だが行動だけは両方に命令できる)
先程の襲撃に失敗したが得たもの自体は非常に有益なものであり、八方塞がりになりつつあった現状を打破できる鍵になるかもしれない。
(だが、未だに肥満体のオスより得た異能は分身に反映できない。油断は禁物だ)
もはや己の力を過信することはできない。窮鼠の一?筋みが自身を絶命させる牙になりうるかもしれないのだ。
だが、行動を起こさねば自身は狩られる弱者へと転落するであろう。
(どちらにせよ、亡者ではない獲物を見つけて経験を積まねば……ん……?)
鼻に着く酒精(アルコール)の僅かな匂い。それが徐々に近づいてくる。
油や煙の匂いの混じった特殊部隊のものではない、ヒトと豚の血の混じった匂い。石牢の周りで嗅ぎ取ったもの。
(ああ、なるほど。これが特殊部隊の匂いか)
◆
タァン……!
遠方より発せられる猟銃の発砲音が震災跡地と化したゴーストタウンに木霊する。
その音に反応を示したのは迷彩柄の防護服に防弾・防刃製のガスマスクを被った巨漢――日本最強の特殊部隊員である大田原源一郎。
美羽風雅隊員及び六紋兵衛を支配下に置いた山折圭介から戦術的撤退を余儀なくされ、ターゲット達の打倒手段を模索している最中であった。
僅かな時間で目視した限り、山折圭介が支配していた猟師――六紋兵衛の猟銃は総弾数約五発程のライフルと目測。
今の発砲が六紋の猟銃と仮定し、相当甘く見積もってリロードしていないと考えれば残弾数は三発から四発。
高級住宅街担当の広川成太の姿は未だ視認できず。既に絶命したと判断。
かといって放置するわけにはいかず。数少ない正常感染者である以上、確実に始末しなければなるまい。
山折圭介の護衛にはサイボーグである美羽が存在するため、近接戦闘は避けるべき。
その上、圭介の視界に入れば六紋の狙撃が待ち構えている。
であるのならば手段はただ一つ。
拳銃による山折圭介の隠密狙撃である。
SSOG随一の狙撃手である成田三樹康には到底及ばぬものの、大田原の狙撃術は一般隊員を上回る。
物陰に隠れ慎重かつ迅速に銃声の方向へと駆ける。すると――。
「ヴゥゥゥゥゥゥ……!」
「ア"ぉォォォォ……!」
赤いシャツを着た肥満体のヒグマと一般的な個体よりサイズが大きな狸が民家の曲がり角から現れ、こちらへと首を向ける。
語るまでもなくゾンビである。
(豚人間と言い、人間以外にも感染するウイルスだとはな……)
そう思いつつも即座にサバイバルナイフを構え、臨戦態勢を取る。
SSOGにとって目の前の事象など任務遂行に比べれば足らぬ問題。精々事後報告書に記述する事柄が一行増える程度の些事であった。
「ブォォォォォォ……!」
ヒグマのゾンビが大田原へ向け、成人男性の全速力以上の速さで突進を仕掛けてくる。
それと呼応するように狸のゾンビも大田原の足元へ牙をむいて駈け出す。
ヒグマの頭蓋は並の銃弾であらば弾くことを大田原は知識と経験で既知済み。
眼球に当てれば脳へと届く可能性もあるが、限りある弾数はできる限り節約したい。
故に大田原はナイフ一本による対処を選択した。
突進するヒグマの体格より低く身を屈め、巨体へ向けて疾走。すれ違う瞬間、頸動脈目掛けて一閃。
突然の出来事にヒグマは対応できず、大田原の十数メートル先で漸く静止。噴き出す赤黒い血がナイフを濡らした。
次いで牙をむいて大田原の左頸部へと襲い掛かる大狸。狸の咬合力であればあるいは防護服に傷をつける可能性も僅か乍ら存在しうる。
その可能性は決して見逃せるものではない。足を振り上げ、着地点を通り過ぎる瞬間に全力で叩き潰す。
ぶちゅりとした肉の潰す音の後、
タヌキは残る身体を痙攣させて血の海に沈む。
それに目もくれずに大田原は致命傷を与えたヒグマのゾンビへと身体を向ける。
血を流しすぎたのかヒグマの動きは非常に緩慢なものに変わり、漸くこちらに図体を向けたようだった。
突進を仕掛けられる前に大田原はヒグマゾンビへと接近し、右目へと拳ごとナイフを突き刺してグリグリと何度も捻る。
大量の失血か、はたまた脳のダメージが生命活動を許容できる範囲を超えたのか、ヒグマのゾンビは大きな音を立てて巨体を沈めた。
ヒグマをナイフ一つで倒した。しかしその事実にも大田原の心に何ら達成感もない。
かつて北千歳駐屯地での野外訓練にて、メスのヒグマに遭遇した際の行動をなぞっただけに過ぎない。
彼の心を満たすのは自分の手で秩序を維持したと実感した時。即ち任務を遂行した時以外ない。
ただ無駄に時間を消費した、という感想以外は持たなかった。
ヒグマと狸の死骸には目もくれずに道を通過し、大田原は大通りへと出た。
そこにはガソリンの漏れて潰れた乗用車や崩れたブロック塀、ガラスの割れた一軒家を視認。
また、その一軒家の門塀の近くでは三体のゾンビが老人に群がって捕食活動を行っている。
(どうやらここで戦闘があったようだな)
群がる三体のゾンビを無力化し、老人の遺体を検分する。
スーツ姿の老人には右腕がなく、左手も銃で撃ち抜かれたのか歪な傷を負っていた。
全身の至る所には細やかな裂傷。倒れ伏す老人の口付近にはアウトドア用のナイフが転がっており、辺りには彼の所持していた物資が散らばっている。
現場検証から察するに老人はここで戦闘を行い、対敵を退けたものの致命傷を負っていたため、ゾンビに成すすべもなく捕食されたと考えられる。
老人の近くには子供二人と男女一人ずつの足跡が見て取れる。その足跡は子供一人分が減り、山折村の北部である森林地帯へと向かったいる。
気になる点が一つ。女の足跡は他の三人のものと比べて薄いのだ。まるで訓練を受けてきた人間のものに思える。
(ハヤブサⅢであれば分かりやすい痕跡を残す失態はしない。となると候補は二つ。小田巻か、またはそれに匹敵する存在か)
即ち小田巻相当の正常感染者を含むグループが老人を襲い、彼に退けられて森林地帯へと逃走した。
小田巻が集団を率いて戦ったとしても梃子摺るとなれば、老人は強力な異能の持ち主であったのだろう。
どちらにせよ排除すべき存在が森林地帯へと向かったのは事実。
仮に小田巻であったのならばSSOGが包囲している森林地帯を突破を目指すなど愚を犯すはずがない。
時間と共に戦力を増強していく山折圭介の排除を優先すべきか。森林地帯へと向かった小田巻らしき人物がいると思われる一団を追うべきか。
思考と決断の僅かな隙間。五秒にも満たぬ逡巡。それを縫うように。
ダァン、ダァンと猟銃の発砲音が南南西より響く。
その方向へと頭を向ける。配布された拳銃――H&K SFP9のパラベラム弾のものとは思えぬ重低音。
即座に大田原は決断した。
発砲元である山折圭介ら一団、または村の猟師と思える正常感染者を排除する。
村の猟師であるのならばいわずもがな処分。
山折圭介が他の正常感染者と戦闘をしているのであれば優先的に山折圭介を排除し、彼と敵対している正常感染者も皆殺しにする。
確率は低いと思われるが、広川成太が山折圭介と戦闘を行っているのであれば彼と共に山折圭介を排除する。
先程と同様、秩序の具現者たる死神は巨体に似合わぬ静かな疾走にて狩場へと向かう。
◆
「なかなか、あたるものではないな。そら、もっとすばやくうごけ。れんしゅうにならぬだろう」
「ヴッ……ヴッ……ヴッ……!!」
四本足のワニとクマの合成獣が二本の足で直立。舌っ足らずのと共に人間の腕で猟銃を構えて発砲。
発砲先は六足歩行の同じ爬虫類と哺乳類が悪魔合体を果たした個体。こちらは獣成分を多く残しているらしく声を発することも二足歩行もしていない。
(なんだ、これは……)
瓦礫の陰より様子を伺った大田原。彼の頭を一瞬フリーズさせる奇妙かつ悍ましい光景。
数時間前に駆除した巨大な豚人間が可愛く見えるほどのモンスターが目の前で銃を撃っている。
未来人類発展研究所の動物実験で生み出された怪物か、または異能により変異した元クマか元人間か。
山折圭介との戦闘確率が高いと思っていた大田原の予想を遥か斜め上に裏切った結果になった。
幾度かの発砲の後、遂に直立した怪物の銃弾が逃げ回っていた六足歩行の怪物の腹部へと命中する。
ガァと呻きを上げて巨体を横たえる六足歩行の怪物。地響きがあたりに響く。
それを確認すると、銃を持つ怪物は大顎を剥いた笑顔らしきものを浮かべて倒した怪物へと歩み寄る。
「では、とどめといこう」
痙攣する死に体の怪物へともう一方の腕――ナイフがずらりと並んだような鋭い爪を振り降ろして腹を裂いた。
腹を裂かれた怪物はひときわ大きく身体を震わせる。銃を人間の腕に持った怪物は獲物の傷口から腸を引っ張り出していたぶるように弄ぶ。
知性を持っているとしか思えぬほどの邪悪。その暴虐から銃を持った怪物を正常感染者と判断。
ふと、怪物は臓物を弄んでいた手を止め、鼻をすんすんと鳴らす。
「にんげんが、のぞいているな」
大田原の隠れていた瓦礫の隙間へと向けて発砲。しかし命中精度は低いらしく、大田原と数メートル離れた瓦礫へと銃創をつける。
「かくれおにでもしているつもりか?ならばおにをふやしてやろう」
下卑た笑いと共に怪物の傍に粒子が収束する。それが頭から形作り、怪物と寸分違わぬクローンと思わしき物体が出現する。
「ゆけ」と大田原の方へと怪物は人間の指を向けると、クローンはすぐさま飛び掛かった。
すぐさま転がって怪物の着地点から逃れ、銃を構えてクローンの潰れた右眼球へと銃弾を放つ。
牽制のつもりで放った銃弾だがクローンの目を貫くと、途端にその巨体は霧のように胡散する。
(なるほど。このデカブツの親玉の異能は分身を作成するもの。頭部または眼球に衝撃を加えると消える分身体か。
となると、先程親玉が銃で撃った怪物もまた分身体。頭部を狙うと消えることを知っていたため、首から下を狙っていた訳か)
親玉の身体がヒグマベースだと仮定するならば、手持ちの銃を頭に撃った程度では死なないだろう。
一時撤退などという選択肢はない。正常感染者である以上、駆除の順番が変わっただけだ。
例え逃げたとしてもヒグマの性質が残ると仮定するとその性質上、こちらを獲物として追いかけてくる可能性が高い。故に迎撃が推奨。
だが己の経験則や知識以上に、大田原自身の本能が目の前の怪物の存在を許容できない。必ず駆除しなければならない。
生命倫理に反する悍ましき姿。人間の悪意を詰め込んだかのような行動。己に向けられる昆虫を思わせる奇異な眼差し。
大田原はオカルトなど存在を証明できぬ曖昧なものを決して信じない。それでも尚、確信する。この怪物の中には―――
歴戦の勇士は戦闘態勢へと移行する。
瓦礫の物陰から隠れていた分身体が現れ、大田原に敵意を向ける。
崩れた家の二階の窓からう分身体がガラスを突き破って飛び降り、親玉を守るようにその前へ立つ。
怪物の親玉は持っていたリュックサックからショットシェルを取り出して猟銃に補充する。
怪物と勇士、彼らは同時に口を開く。
「かりのじかんだ、にんげん」
「標的を確認。速やかに処理する」
―――近代科学では決して証明できない「ナニカ」がいると。
◆
「ゆけ」
親玉の号令と共にが身を屈め、四つん這いで大田原へと突っ込んできた。
その背後では怪物が狩猟用のショットガンを今にも発砲せんと不格好な姿勢で構えていた。
また、猟師の真似事をしている親玉の傍らでは一帯の分身体が守護者の如く控えている。
怪物の特徴を確認する。
全長三メートル前後で体重は恐らく七〇〇キロ。数時間前に駆除した豚人間のワンサイズダウン。それは分身体にも適用される。
また、守護する存在がいないためそちらに狙いを定めて隙を作ることは不可。
だが知性の方は未だ発展途上。野生の名残が行動のところどころに残っており、付け入る隙があるとすればそこだ。
そして現状。
ヒグマの突進は時速約五六キロ。一般道路における最大の法定速度に匹敵する。
まともに喰らえば防護服の性能が高いといえど、無事では済まないだろう。
それを対処したとしても待っているのはショットガンによる狙撃。
命中精度があまり高くないとはいえど防護服に穴をあける可能性が高い。故に油断は禁物。
また、周囲には大田原の全身を隠せる遮蔽物は存在せず、絨毯から身を守るものは防護服のみ。
二つの攻撃を掻い潜りつつ、攻勢に映らなければならない。
身を分身体よりも低く屈め、後方へと数歩ほど下がる。
巨体が激突する一歩手前。怪物の大顎が頭上を通過する刹那。屈伸していた両足を発条の如く跳ね上げて拳を頭上に突き出す。
頭蓋すら軽々と砕く大田原の鉄拳が大顎を砕き、衝撃が脳にまで達し、血液すら零さずに分身体が掻き消える。
その空白を縫うかのように親玉が猟銃の引き金を引く刹那。
大田原は拳銃を手に取り、崩れた体勢のまま怪物へと発砲する。
飛来する弾丸を傍らに佇んでいた分身体が立ちふさがり、身を挺して親玉を守った。
遮蔽物となった分身体。怪物の指は動きを止めず、そのまま引き金を引いた。
ダン、と破裂音が鳴り響く。
散弾は大田原に到達せず。奴隷が主の攻撃を阻害して対敵の手助けする不本意な結果に終わった。
倒れ伏す分身体。目論見が外れ、驚愕の表情を浮かべる怪物。
その隙を見逃さず、二体に狙いを定めて発砲する。
ダン、ダンと二発のパラベラム弾が吐き出される。
一発目は血に伏せる寸前の怪物の下僕。右目に命中し、掻き消える。
二発目は表情を凍り付かせた怪物。ヒグマの特性から頭蓋に命中したとしても効果は薄いと判断。
牽制のつもりで右わき腹に着いた、鱗が付いていない薄橙色の人間の左腕に発砲する。
「グゥッ……!」
低い唸り声を上げ、痛みに顔を顰める。
しかしすぐに体勢を整える。そして目を吊り上げ、激憤の表情を浮かべた。
底から間を置かずに大田原へと銃口を向けて発砲。
だが、素人同然の射撃など歴戦の勇士に通じる筈もなし。ダッキングの要領で身を屈めて頭上に弾丸を通過させる。
三発、四発、五発と銃口から獣狩りの鉄矢が吐き出されるが、いとも容易く回避。
「……チッ!」
弾切れを悟ったのであろう。怪物は舌打ちする。一時撤退をするべく大田原へ背を向けて頭を守るため四つん這いになり、走り出す。
怪物の底は知れた。だがこのままおめおめと逃走を許すつもりはない。
怪物に追従するように大田原も走り出すが、距離が少しずつ離されていく。
大田原のトップスピードは時速三五キロ前後。その倍近くはあるヒグマの疾走には追いつく筈もない。
拳銃をヒグマの右後脚へ向けて発砲する。あくまで威嚇射撃。ほんの一瞬でも動きを止められれば成果と考えていたが―――。
「ガァ……!!」
銃弾が怪物の堅強な鱗を貫き、傷口から血が零れ落ちる。怪物の疾走速度が目に見えて落ち、流れる血が点々と道しるべを作り出す。
大田原は知る由もないが犬山うさぎや烏宿ひなたらの奮闘により、怪物――
独眼熊は銃に対する抵抗力が本体、分身問わずに落ちている。
その振れ幅はあまりにも大きい。弱体化前は熊撃ち用のスラッグ弾すら防げる。
対し、数多もの弱体化を猟師と隠山一族、一般人達に付与された現在。皮膚の強度は銃に対して人間の柔肌程度にまで落ちている。
(あの鱗は防弾・防刃性能を備えていたと考えていたが、見掛け倒しか?)
血の跡を辿って
独眼熊を追跡しつつ、大田原は思考する。
あまりにも呆気ない。そう感じつつも速度を緩めず、確実に殺せる距離まで走り続る。
後ろ足に負った傷故か、怪物の速度は以前の六割程度まで落ち込んでおり、もうしばらくすれば射程範囲まで届く距離になっていた。
追う側と追われる側。人間の極限に至った現代の戦士の前には如、何に強靭な肉体を持つ獣でさえも狩られる側に回らざるを得ない。
圧倒的有利な状況であろうとも大田原は一切油断せず。標的の息の根を止めるその時まで殺戮機構として機能する必要悪。
怪物が角を曲がり、道路の脇道へと逸れる。
大田原も怪物に倣って追従せんと脇道へと曲がろうとする。
「―――ガァアアアア!!」
「―――ッ!」
角を曲がる寸前。いつ潜んでいたのであろう、怪物の分身体がコンクリート塀を突き破り、大田原へ刃の如きかぎ爪を振り下ろす。
ずらりと並んだ五本のかぎ爪は鋭利かつ強靭。名のある刀匠の鍛えた刀剣を思わせる。
あれが掠めでもしたら、防護服が引き裂かれて己も美羽風雅のようなゾンビの仲間入りだ。
爪がガスマスクを叩き潰す寸前、バックステップで怪物の射程圏内から離脱する。
振り下ろされる剛腕が地面へと叩きつけられる。爪がアスファルトを抉り、新たな罅割れを生み出す。
たかが分身一体であれば銃は不要。総弾数の多いH&K SFP9と言えど無駄な消費は避けたい。
対処は大田原にとって容易い。豚人間やヒグマの経験を合わせれば確実に排除できる。
アスファルトから暗褐色の右前足を持ち上げる寸前。その巨大な手に足をのせて腕を駆け上がる。
予期せぬ人間の動きに怪物は一瞬動きを止めるものの、すぐさま残る左前脚を駆け上がらんとする大田原へ振るわんとする。
だがそれより先に、大田原が腰から抜いた白銀が怪物の潰れた右目を貫いた。
腕の振るわれる寸前の紙一重。目ごと分身体の脳が抉られて只の幻影となり、現世界から強制退去させられた。
着地し、パンくずの役割を担う血の痕跡の方向――逸れた脇道へと顔を向ける。
「ヴウゥゥゥゥ……!」
そこは袋小路。その最奥にて手負いの怪物が歯を剥き、銃を片手に持って威嚇の唸りをあげている。
傍らにはリュックサック。周りには予備弾が転がっており、弾を詰め込む前にこちらが現れてしまったようだ。
正義執行。
それを成すべく銃を構えて唸り声を上げる獲物へと距離を詰める。
だが――。
「――――かかったな」
怪物の口角が釣り上がる。
同時に大田原の足元より現れる分身体のかぎ爪。
反応が僅かに遅れたが、分身体の出現か所を予測し、前方へと速度を殺さずに転がることで何とか躱す。
すぐさま体勢を立て直し、銃を後方へと向ける。
罅割れたアスファルトから両腕が這いだし、分身体が三メートルにも及ぶ巨体を表した。
同時に背後から聞こえる銃弾を装填する音。そして背後から向けられる殺気。
「おわりだ、とくしゅぶたい」
じりじりと距離を詰める分身体。ゆっくりと狙いを定める親玉。
最後の最後で弱肉強食の優劣は逆転し、怪物が再び王座へと返り咲いた。
獲物を追いかけていた狩人はもはや絶体絶命。その命を散らすまでそう時間はかからないだろう。
それが大田原源一郎でなければ、の話だが。
乗用車並みの速度で突撃を仕掛ける分身体。道幅が狭く常人ならば回避行動は不可。
後ろに下がろうにも待っているのは怪物の頭目。距離が縮めばその分だけ銃の命中精度が上昇する。
だが、大田原は敢えて突っ込んでくる分身体へ向けての前進を選ぶ。
「やぶれかぶれとはおろかな」
大田原の愚行を見逃さず、怪物の親玉は銃口を彼の巨体へと向けて引き金を引く、その寸前。
「――――なッ……!」
大田原が壁を蹴って跳躍する。三角跳びの要領で分身体の背に着地する。
既に引き金は引かれている。弾丸は寸分違わず分身体の頭部へと命中。衝撃が脳へと伝わり、偽りの肉体が消えゆく。
その直前、大田原の巨体が宙を舞い、体操選手もかくやというサマーソルトにて方向転換と有効範囲への接近を同時に行う。
「な……に……!?」
驚愕に目を見開く怪物。猟銃の引き金を引こうとするも、吐き出されるのは銃弾にあらず。カチリとした無慈悲な音のみ。
例え充分に弾丸が装填されたとしても大田原に命中することは決してないだろう。
地に足が付く。その寸前で大田原は未だ忘却の彼方にいる怪物へと銃を向け、発砲。
吐き出されたパラベラム弾が怪物の傷のない左目を貫き―――その異形をかき消した。
「―――――馬鹿なッ……」
衝動的に口をついて出た驚愕。大田原の思考が一瞬停止する。
手に持った物体を透明化させる極道の剣客。
硬質化した筋肉の鎧を纏う大男。
人ならざる巨大な異形へと変貌した豚人間。
水で作られた鍵を生み出し、ガレージへと命を賭して己を閉じ込めた少女。
ゾンビ軍団を率いて己に次ぐ実力を誇る美羽風雅をも走狗へと変えた少年。
最後の少年を除き、大田原が確実に葬り去った正常感染者達。
怪物の異能は少年――山折圭介と相似しているものと踏んで、親玉と思わしき個体を狙っていた。
その推察は誤りであり、知性を持った個体ですら分身であった。
だとするのならばこの木偶人形を操っていた存在はどこにいる。
動揺を抑えて冷静さを取り戻す。分身を生み出す異能者の正体を探るために行動を起こす僅かな空白。
その答え合わせは間を置かずに行われた。
「―――――!!」
背後から猛烈な速度で迫る異形。
顔に憤怒と喜悦の交じり合った表情を張り付けた怪物
それが腹部から腸をブラブラと揺らしながら時速一〇〇キロを優に超える速度で迫る。
「――――終わりだ、特殊部隊」
対応が遅れ、呆然としていた三秒にも満たぬ空白。
眼前で囁かれる流暢な囁き。
それを認識すると同時に大田原源一郎の巨体は轢き飛ばされた。
◆
猟師と手を組んで召喚した分身共を軽々と屠った特殊部隊員。
その事実を目にし、無策での特殊部隊への対峙は己の死と同義と認識。脅威度は隠山及びひなたら猟師と同等と判定する。
だが、この地獄と化した山折村にて貴重な異能に目覚めていない人間であり、ある意味異能の吸収よりも優先的に捕獲すべき対象。
『七不思議のナナシ』を最後に怪談使いを生み出す力すら失った荒神たる己の力を取り戻すための鍵。
それを確実に無力化する為、
独眼熊は一芝居打つことにした。
始めに生み出した"い号"分身体を自身の生き人形(アバター)と設定。親玉であるというリアリティを出すために銃を持たせる。
進化した自分と同じような発音をさせたがったが『ナニカ』を経由して命令を送る際に異能が劣化してしまうらしく、進化前の拙い喋りになってしまった。
そして、ハンティングに必要な分だけ分身体を生み出し、それぞれ罠とするため所定位置に配置する。
獲物を誘き寄せるための鹿笛は猟銃。
い号を狩人、自身を分身体と役割を一時的に入れ替え、おびき出した特殊部隊の前で分身体を操作して狩りという演目を実施。
分身を本体と徹底的に思い込ませるため、過去の己の愚行を分身体に行わせる。痛覚を失っていることを幸いに、より残虐に自身を嬲らせる。
その際、特殊部隊の注意をこちらに向かせぬように念を入れ、心臓の拍動を弱めて一時的な仮死状態に陥らせる。
そこから先は『ナニカ』のコントロールの元、い号を使い、自身のもう一つの異能を最大限に生かせる場所――袋小路へ特殊部隊を誘導する。
特殊部隊の注意がこちらからい号へと向き、距離が十分に離れたことを確認すると仮死状態から戻って自身も移動を開始。
袋小路へと追い込んだ際、より大きな隙を生み出すためにい号の視界を通して割れたコンクリート下に分身を召喚。
い号の視界が消えたと認識した瞬間に異能を発動。憎悪・憤怒を適度に爆発させて強化した肉体にて袋小路へと追い込んだ獲物へと突進。
歯車が一つでも狂えば忽ち水泡に帰す粗だらけの策。半ば賭けであったが、
独眼熊の目論見は成功した。
◆
大田原ら特殊部隊に支給された防護服。
防御性能は未来人類発展研究所の折り紙付きであり、防刃・防弾だけでなく耐衝撃性も従来の防護服を凌ぐ。
一般道を走る乗用車の衝突――時速六〇キロの衝突であれば非常に軽微なダメージまで軽減する。
だが、異能により強化された
独眼熊の体当たりは中型トラックに等しい一撃。更に理性で制御し、本来の威力を半分以下にまで落とした一撃である。
結果として
独眼熊の激突は科学の結晶を打ち破り、自衛隊最強の大田原源一郎に決して無視できないダメージを与えた。
◆
激突する寸前、大田原は衝撃に備えて後方へバックステップした後に身を固めた。
その直後、怪物のぶちかましが大田原の巨躯を吹き飛ばす。
後方のコンクリート壁を突き破り、そのすぐ後ろの民家のガラス戸を破壊して反対側の道路へ水切りの要領で地を滑る。
「……くっ……フゥ……!」
肺が圧迫されて空気が吐き出される。受け身を取ってダメージを抑えたものの、仰向けの体勢を戻してすぐに立ち上がることは不可。
再び戦闘態勢へ移行するためにはおよそ三〇秒を要すると判断。その間に肉体の損傷具合を始めとした状態認を実施。
頭部は最優先で守ったため損傷なし。全身は防護服の性能によるものか、骨折はなく打撲や擦り傷程度で済んでいる。
だが、その衝撃は決して軽視できるものはない。息を整え、僅かでも休憩を挟まなければふらつきが起こるだろう。
次いで装備を確認。サバイバルナイフはナイフホルダーに確認。拳銃は―――なし。
大田原は装備を手放すという己の失態を恥じ、首を動かす。自身から十メートルに確認。
立ちあがり、銃を取るべく歩みを進めようとするが―――。
ズドンというナニカが落下した重低音。
大田原と拳銃の狭間。そこに現れたるは異形――
独眼熊。
付いた鉄錆の匂いや酒精の匂いから大田原の位置を察知し、野猿の如き跳躍にて移動したのである。
ふらつき、呼吸を乱しながらも怪物を見据え、ナイフを抜構える。一?筋みすらできぬ窮鼠を前に
独眼熊は嗤う。
「さあ、仕切り直しと行こうか」
そこから先はもはや語るまでもない。
◆
もし美羽風雅がいれば、烏合と化した分身共を屠り、怪物本体すらも大田原と共に対処し、確実に葬り去っていだだろう。
もし成田三樹康がいえば、撒き餌を二人で難なく捌き、分身と同様に銃に弱い本体の足掻きもその狙撃術にて無力化し、確実に駆除できたであろう。
もし乃木平天がいれば、その危機管理能力の高さ故、分身が嬲った本体の頭部に止めの一撃を差し、確実に怪物の策をご破算にさせただろう。
もし広川成太いても、黒木真珠がいたとしても同じ。その後の結果はどうあれ、
独眼熊は確実に仕留めていた。
しかし、そうはならなかった。
敗因はただ一つ。日本最強は、歴戦の勇士は、その圧倒的な強さ故ただ一人であったことに尽きる。
◆
海洋の王者シャチ。逆叉という別名の他、「キラーホエール」という異名を持つ海の頂点捕食者である。
頂点と呼ばれる所以はその高い知能にある。彼らは遊びながら狩りを行うのだ。ただ獲物を狩るだけでは面白くないと理由だけで。
餌となる海豹を尾ヒレで何度も宙に打ち上げるなどで嬲り、弄び、散々遊びつくした後は海に引き摺り込んで肉を貪る。
独眼熊と大田原源一郎。彼らの現在の関係はシャチと海豹の関係にあった。
大田原の身体は何度も宙を舞い、振り回され、叩きつけられ、踏みつぶされる。
いかなる抵抗も悪足?惜きにすらならない児戯と同等の意味しか持たない。
暫くして勝者の遊びが終わる。
「まあ、こんなもので良いだろう」
独眼熊の足元には大田原源一郎。四肢は全てあらぬ方向へと曲がり、手足は一部はぺしゃんこに潰されている。
ガスマスクのレンズ部分は吐血か出血か、べったりと真紅で塗りつぶされていた。
幼児が遊び壊した人形。その言葉で説明がつく有様であった。
だが、大田原は虫の息でありながらも生きている。
「ふむ、脳や心臓は潰れていないようだな」
大田原の巨体を仰向けに動かし、顔を近づけて
独眼熊は様子を伺う。
独眼熊には目的がある。故に無力化するという意味も込めて死なぬように、壊れぬように丁寧に大田原を遊び壊した。
常人であれば防護服を纏っていようとも絶命しているであろう重傷。
生きながらえたのは極限まで鍛えた肉体か、鋼鉄の如き揺るがぬ気高く強い精神故か、時の運か。
否、どれか一つ欠けていたとしても大田原はヒトの形を保っただけの肉塊へと変貌していたであろう。
だが、それも最早苦しみを長引かせるだけであり、奇跡でも起こらない限り大田原はものの数分で死体へと変わる。
何を思ったのか、
独眼熊は大田原の頭を守っていたガスマスクを力任せにむしり取る。
ブチブチと音を立てて金具と繊維が引き剝がされ、大田原の頭部が露わになる。
それは余程の運がなければ動く死体の仲間入りを果たす死刑宣告に等しい。
「ほう、日本の防人らしい巌の如き面構えよ」
両目から流れる血涙。鼻は潰れ粘ついた赤を垂れ流す。耳と口も同様。顔中のありとあらゆる穴から血が滴る。
まさしく悲惨の一言に尽きる。比較的無事な頭部でこの有様なのだから、首から下は更に悲惨な状況になっていることが容易に想像できる。
未だ意識を保ち、こちらへと敵意を隠さない四角い顔を眺め、
独眼熊は感嘆の声を漏らす。
「しばし猶予をやろう。言い残すことがあれば聞いてやらんこともない」
目を細めて歯を剥いた笑顔の様な凶相を浮かべ、頭を勇士の顔へと近づける。
声を出すどころか呼吸すら苦痛であろう。それでも大田原は息を吸い込み、無防備に顔を近づける怪物へ向けて何かを吐き出す。
べちゃりと
独眼熊の体毛に何かが付着する。それは粘ついた血の混じった淡であった。
「ク……ハハハハ。なんと気高い」
肉の健気な抵抗に怪物は嗤う。
滅私奉公。平和の礎となるならば己の死もやむなし。
大田原源一郎の精神は死を前にしても決して揺るがない。壊す覚悟以上に壊される覚悟などとうの昔にしている。
例えこの地で岩水鈴菜と和幸に行った拷問を受けたとしても、大田原は己が死ぬその瞬間――否、死んだとしても決して折れない。
「その強靭な心に免じて機会をやろう。せいぜい死なぬように気張れ」
大田原へ顔を近づけ、口を開ける。獣臭と共にベロンと長い舌を出す。
ナニカの異能『肉体変化』を使用。舌肉を細く細く変化させる。
蛭のような細さに変わっても変化を止めずさらに細く。数秒後にはハリガネムシの如き舌――血の滴る触手へと変貌する。
質量をそのままに変化させたことで長さも数倍まで伸びた。
伸びた触手を器用に操り、朦朧としながらも未だはっきりと己への敵意を向ける大田原へ――その右耳へと侵入させる。
侵入した触手は鼓膜を突き破り、中耳、内耳を通り過ぎ、右脳へと到達する。
「オ"……ヴ……ア"ッ……!」
頭蓋と脳の隙間に入り込んだ触手は目下の肉塊を決して傷つけぬように蛞蝓のように粘液を垂らしながら這いずる。
皺がなぞられる度に大田原の身体がビクンと跳ね、目と鼻から血を更に流す。
その様子を愉しみながら、『ナニカ』は幾度も凌辱を繰り返す。
「……これくらいで良かろう」
気が済んだのか、はたまたある程度の成果があったのか、
独眼熊は大田原への凌辱を止めた。
触手を脳を傷つけぬように巻き取って脳から内耳、中耳、鼓膜まで戻る。そして巻き戻しのように肉体変化にて触手を元の長い舌へと戻した。
改めて未だ痙攣を続ける大田原の様子を確認する。
(ふむ。試みは成功……したか?)
山折村を襲った生物災害。細菌に適合しなければ、動く屍と化す史上類を見ない厄災。
医学を知らぬ獣と荒神の視診に過ぎないが、大田原の体温は失われておらず、ウイルスに適合したようだ。
運が大田原を生かしたのか、大田原は肉体を再生させる異能を身に着けたようだった。
その証拠に死に体であった大田原の身体からペキペキと骨が再生する音が聞こえ、土色であった彼の顔色が血色を取り戻し始めている。
(手応えはそこまで感じなかったが、脳に刺激を与えれば異能を目覚めさせることができるらしい)
最早己に血の通う存在に怪異を産み付ける力もなし。走狗を生み出す信仰も隠山に毟り取られた。
であるのならば未知――科学に挑むほかはない。次こそまぐれではなく、己の力で走狗を作り出す。
(では、異能に目覚めた特殊部隊の男はどうするか)
意識を失っていても異能により肉体を再生させ続けている特殊部隊の男。
以前――隠山らから敗走する前であれば、ためらわずに脳を喰らっていたであろう。
だが、無様な敗北が
独眼熊から傲慢を消し去り、警戒心を植え付けた。
我にも天敵がいる。それは猟師であり、神楽であり、隠山一族。
例え己だけが力をつけても人間はそれを上回る策により翻弄し、死へと誘う。故に――
(こいつは生かしておこう)
放送が真実であるのならば怪異でも獣でもない特殊部隊は山折村の住人を忌まわしき隠山ごと葬り去ってくれるだろう。
例え志半ばで死んだとしても所詮捨て駒。その時は再び操り人形を作るか、肉体を捨てて他の正常感染者に乗り移れば良かろう。
尤もそう簡単にこの肉体を捨てる気は非ず、あくまで最後の手段。だが用心するには越したことがない。
(他の特殊部隊もこいつと同格かもしれん)
鬼神の如き強さを誇った眼下の大男。予想が当たっているのならば同じ策が通用するとは思えない。
まだ一回凌いだだけだ。勝利の余韻に浸ることなく、更に気を引き締める。
たまたま時の運で成功しただけ。
独眼熊が余韻に浸るのは力を完全に取り戻したその時のみ。
(次は取るに足らぬと侮っていた山暮らしのメスを狙ってみるか)
狙うのは過去の失態。愚かであった己への決別とケジメを兼ねてターゲットを絞る。
異能により力をつけた己の怨敵はこの状況に適応し、更なる力を身に着けているかもしれない。
弱者へと身を落としてから知る人間の脅威。用心に用心を重ねなければこちらが狩られる。
傲慢を消し去り、衝動や怒りに任せた行動を戒める。準備を重ねて『猟師』として確実に仕留める。
そのためには銃を回収してからこの場を離れて身を隠し、手始めに分身を増やすことから始めてみるとしよう。
だが、その前に―――。
(まずは自傷を回復せねばな。いくら強靭な肉体とはいえ、血を流しすぎた)
そのための死肉はある。特殊部隊の男から判断するに肉塊は近くにあるだろう。
踵を返し、そちらへと身体を動かす。歩みを進める直前、眠る特殊部隊の男へと顔を向けた。
「貴様は我に歯向かった武士(もののふ)の中で一番強い。その強さに恥じぬよう、精々役に立て」
◆
独眼熊(巣食うもの)は決定的な誤認識をしている。
確かに大田原源一郎はウイルスに適合し、異能に目覚めた。
しかし、それは彼らの所業によるものではない。
外気に触れた時点で大田原源一郎は僅か2%のギャンブルに勝ち、異能に目覚めていた。
人間の脳は歴史が生み出した数多の天才を以てしてでも未だ解明されない未知の領域。
それをたかだか半日前に知恵をつけた畜生と探求心の欠片もない悪霊如きが理解など未来永劫できる筈もない。
故に凌辱は意味を為さず、ただ彼らの自尊心を満たすだけの自慰行為に過ぎない。
また、大田原が目覚めた異能にも問題があった。
肉体を再生させる異能。それは合っている。だがその恩恵の代償は大きい。
肉体の再生速度を極限まで上昇させ、それに伴い肉体強度や反応速度も強化される。代わりに『人間』の血肉を求める。
異能の名は『餓鬼(ハンガー・オウガー)』。この地にて亡者と化した黒ノ江和真が得る筈だった異能である。
人間ではない、彼らすらも駆逐対象とする存在を生み出したことを露知らず、
独眼熊(巣食うもの)は次なる実験対象を探す。
新たに生み出された厄災は生誕の時を静かに待ち続ける。
【C-3/高級住宅街/一日目・昼】
【
大田原 源一郎】
[状態]:ウイルス感染、意識混濁、全身粉砕骨折(再生中)、臓器破損(再生中)、全身にダメージ(絶大・再生中)、右鼓膜損傷(再生中)、右脳にダメージ(中)、異能による食人衝動(中・増加中)
[道具]:防護服(マスクなし)、拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ
[方針]
基本.正常感染者の処理
1.???
2.追加装備の要請を検討
3.美羽への対応を検討(任務達成の障害となるなら排除も辞さない)
※ウイルスに適応して正常感染者となり、異能『餓鬼(ハンガー・オウガー)』を取得しました。
※異能による肉体の再生と共に食人衝動が高まりつつあります。
◆
『兄さんはただ意地っ張りなだけなんだから』
◆
「そら、見たことか」
独眼熊の眼下には見慣れた獣の名残。熊野風と呼ばれていたヒグマとそのトモダチの
タヌキ。
特殊部隊に付着していた血の匂いから彼らが駆除されたことは何となく理解はしていた。
頭蓋を砕かれた
タヌキ。
自分と同じように右目を抉られた熊野風。
愚鈍で出来の悪い獣とその友達。
共存などという世迷い事にうつつを抜かした末路がこれだ。
その死を嘲笑う『ナニカ』とぽっかりと穴の開いた己の心がせめぎ合う。
『ナニカ』は傷を治すために早く喰らえと極限の空腹状態に陥らせ、捕食を急かす。
だが、『
独眼熊』としての何かがなかなか行動へと移らせない。
涎がだらだらと流れ、地面に水溜まりを作る。
仕方なく、大顎を開けて
タヌキの遺体をまるごと口に入れる。
バキバキと骨が砕ける音とぐちゃぐちゃと肉が潰れる音が木霊する。
その血肉を一つ残らず栄養へと変換し、左目の修復へと充てる。
金輪際、熊の言葉を介する
タヌキは生まれぬだろう。
そして、治った左目でかつて面倒を見ていた小熊を見る。
蜂蜜が大好きで人間の様な気色の悪い笑顔を見せていたオス。
救いようのない姿で屍を晒した阿呆。
その笑顔をもう二度と拝むことはならず、くだらない話を聞くことはない。
彼が入れ込んだ"うさぎ"とやらが彼を見ればどうなるだろうか?
眼から汁を垂れ流して、石の下に彼を埋めるのだろうか。
それとも、彼の身体を解体し、火に通して貪るのであろうか。
その行動の意味を理解できないし、するつもりも毛頭ない。
故に、
独眼熊は彼なりの弔いを行う。
「…………悪く思うなよ、風」
"うさぎ"という人間のメスから与えられた忌み名。
兄と慕う己にも呼んで欲しがっていた彼の固有名称。
終ぞ呼ぶことのなかったその名を呟き、彼の遺体へと口をつける。
暫く後、獣二匹が転がっていたところから
独眼熊は去る。
残っていたのはそこで何かか死んでいたであろう血痕だけであった。
【C-3/高級住宅街・道路/一日目・昼】
【
独眼熊】
[状態]:『巣くうもの』寄生とそれによる自我侵食、知能上昇中、烏宿ひなた・犬山うさぎ・六紋兵衛への憎悪(極大)、犬山はすみ・人間への憎悪(絶大)、異形化、痛覚喪失、猟師・神楽・犬山・玩具含むあらゆる銃に対する抵抗弱化(極大)
[道具]:ブローニング・オート5(5/5)、予備弾多数、リュックサック、懐中電灯×2
[方針]
基本.『猟師』として人間を狩り、喰らう。
1.己の慢心と人間への蔑視を捨て、確実に仕留められるよう策を練る。
2.準備が終わり次第、"山暮らしのメス"(
クマカイ)と入れ違いになった人間の匂いを辿り、狩りに行く。
3.異能に目覚めた特殊部隊の男(大田原源一郎)は放置し、人間の数を減らさせる。
4.神楽春姫と隠山(いぬやま)一族は必ず滅ぼし、怪異として退治される物語を払拭する。
5."ひなた"、六紋兵衛と特殊部隊(美羽風雅)はいずれ仕留める。
6.正常感染者の脳を喰らい、異能を取り込む。取り込んだ異能は解析する。
7.特殊部隊がいれば、同じように異能に目覚めるか試してみたい。
[備考]
※『巣くうもの』に寄生され、異能『肉体変化』を取得しました。
※
ワニ吉と気喪杉禿夫の脳を取り込み、『ワニワニパニック』、『身体強化』を取得しました。
※知能が上昇し、人間とほぼ同じことができるようになりました。
※分身に
独眼熊の異能は反映されていませんが、『巣くうもの』が異能を完全に掌握した場合、反映される可能性があります。
※銃が使えるようになりました。
※烏宿ひなたを猟師として認識しました。
※『巣くうもの』が
独眼熊の記憶を読み取り放送を把握しました。
※脳を適当に刺激すれば異能に目覚めると誤認しています。
最終更新:2023年09月04日 01:51