夏の暑い最中、俺は長い石段を登っていた。
登っても果ての見えない、いつまでも続くかのように思えた石段。
とはいえ本当に終わりのないと言うことはなく、その頂上が見え始めていた。
やがて目の前が灰一色の景色から、青と緑の世界に変わる。
「やっと着いたか……」
誰に言うでも無しに呟いていた。
石段脇に手水場を見つけ、歩み寄る。
柄杓の一つを取り、左手、右手、口とゆすぎ、水を頭に何度かかける。
頭の粗熱が取れる頃合に後ろから声が掛けられた。
「あら珍しい、参拝者? 素敵なお賽銭箱はあっちよ」
振り返ると腋の開いた珍奇な装束を着た巫女がいる。
親指で指し示した先は参道で、その終わりに社殿があった。
とりあえず賽銭箱に手持ちの幾らかを放り込み、鈴を鳴らすと巫女は満足そうに頷いた。
手招きをされ、促されるままに付いていく。行き着く場所は縁側だった。
簾の下で冷えた茶を一杯貰い一服する。
「それで、用件は?」
適当に世間話をした後に切り出される。
「ここから向こうに帰してもらえるんなら帰してもらおうと思って」
「ああ、外からの人なの。それじゃ渡し賃十円五十銭ね」
金を取るとは。しかも存外高価だ。
「それじゃあ1弗あげよ……」
言った端から手を払われた。金に兌換すれば結構いい値になると思うんだが。
「まあ冗談よ。それじゃ準備するからちょっと待ってて頂戴」
巫女はそのまま奥の部屋に引っ込んで行き、縁側には自分一人になった。
茶と一緒に出された漬物を食いながら、幾らか待っていると巫女が戻ってきた。
もう暫くすれば準備が整うので、それまで待っていて欲しいとの由である。
どういった手順で帰るのかと聞いていると、不意に横から声が掛けられた。
「そうですか、やっぱり外に行ってしまうんですか……」
「!」
聞き覚えのある声。振り向くとそこにはやはり見知った顔がいた。
「なッ……阿求!」
「この間神社の場所を聞かれたときから、そんな予感はしていたんですが……」
彼女はゆっくりとした足取りで近づいてきた。
どうしたのかと巫女が尋ねてくるが、自分にも把握できていないのでどうとも言えない。
「何でここに…?」
「今日大荷物を持って出かけるのが見えたので、急いで後をつけてきまして」
大荷物というのは迷い込んだ時に持っていた鞄のことだろうか、確かに教科書などが入っていてそれなりに大きい。
知り合いだったの? と見れば判ることを巫女が訊いて来るが無視する。
「いや、そうじゃなく」
「どうやってかですか? もちろん歩いてです」
これでも結構体は強いんですよ、と続けてくる。体は弱いと聞いていたのだが。
巫女がどういう関係か、と肩を揺すりながら訊いてくるがそれどころではない。
「いや、何でここに来たんです?」
「恋人が旅に出ようって言うのに、引止めに来ちゃいけませんか?」
後ろでほほうと面白い物を見つけたかのような表情で巫女が頷く。
正直鬱陶しいがそんなものに構っている暇はなく、問いかける。
「恋人って……誰と誰がで?」
周りを見回しても人はいない。この場にいるのは三人だけである。
「もちろん、私とあなたです」
俺は眉根を寄せながらまた問いかける。
「いつそんな関係になりましたっけ?」
「酷い! 腕枕だってしてくれたじゃありませんか」
「あれ、そんなことしましたっけ」
「一昨昨日の夕立の日にもやってもらいました。まあ私が潜り込んだんですけど」
「起きた時に左腕が妙に痺れていたのはその所為か……」
阿求は素っ恍けるようなはぐらかすような、そんな調子で受け答えていた。
「あー、痴話喧嘩は余所でやってくれる?」
唐突に後ろから声がかかる。今まではさんざ無視していたが、これは無視できない声量だ。
巫女はそのままこちらに向き、言葉を続ける。
「あんたも、喧嘩したからって一々帰ろうとしないで話し合いなさい」
「そういう理由で帰りたいって訳じゃないんだが……」
しかしその有無を言わさぬ物言いは、こちらの意見など物ともしない。
「阿求ももっとちゃんと繋いでおかないと」
「はあ、すみません」
これには予想外といった面持ちで阿求が謝る。
「ほら、分かったら向こうでやって頂戴。ただでさえ暑いっていうのに」
巫女が明らかに邪魔そうに、手を追いやるように振った。
渋々といった表情で両者手水場の傍の木陰に移動する、途中で論点がずれているのに気づいた。
「で、向こうに帰るって言うのはどうなったの?」
「え? まだ帰るつもりなの?」
巫女がきょとんとした顔で聞き返してくる。まさか本当に痴話喧嘩とでも思っていたのだろうか。
「仲直りして、里で仲良く暮らしてなさいよ」
どうやらそのまさかだったらしい。巫女は呆れたとでも言いたげな様子である。
「そんな、夫婦だなんて」
阿求は阿求で盛大に真ん中をすっ飛ばしている。
頬を赤く染める阿求を見て巫女が笑い、俺は頭を抱えていた。
どうやらというかやはりというか、巫女は同じ女の味方のようで、これは自分の分が悪い。
「仲直りも何も、端から仲違いなんざしてやいないんだが」
「喧嘩してないんなら、帰って家で遊んでなさいよ」
七面倒臭そうに巫女が言う。俺は続けて言う。
「だから喧嘩したからとかじゃなくって、帰りたいから家に帰せって言ってるんだが」
巫女は溜息をつきながらそれを聞き、溜息をつきながら言う。
「しょうがないわねえ。じゃあ右腕に掴まりなさい。阿求は背中ね」
よくは判らないが、言われたとおりに右腕に掴まる。
こんなに簡単な方法で戻れるのなら準備など要らなかったのではないか。
外に出るにしては阿求もいるのが気にかかるが。
「ところで阿求の家って里のどの辺り?」
「真ん中くらいの一等地を占拠してます」
「待て待て、何で稗田の屋敷に行くんだ」
「何でって、家に帰してあげようとしてるんじゃない」
当然でしょ、とでも言いたげな表情で巫女が言う。
「何よ、あの階段下りたくないでしょう?」
「そりゃあ下りたくは無いが」
「じゃあいいじゃない」
「稗田の屋敷に戻るつもりも無いんだが」
「……あの家は嫌ですか?」
巫女の背中に乗っかっていた阿求が言う。
肩越しにかろうじて見える目元は些か悲しげに見える。
「まあ場違いなんで、肩身が狭いって言うのはありますわな」
右腕から離れ、木陰に移り言う。阿求も背中から下りて近づいてきた。
「場違いってなんで?」
やはり近づいてきた巫女が問うてくる。
「外の者だし、家人でも無いから」
俺は肩をすくめてそれに答えた。
「でも誰も何も言ってはいませんよ。寧ろ男手が増えて喜んでいます」
「男手って言ったって役にゃ立たんでしょう」
「それでも嬉しかったんですよ、私は。雇われたのではない人が来るのは」
すぐ傍までやってきた阿求に見上げられ、俺は思わず目を背けた。
「ねえ、あそこが嫌いだと仰るならどこか他のところに移りますか?」
唐突に阿求が言い、それに巫女が応じて言う。
「なら結婚しちゃったほうがいいでしょ」
それは内の者になってしまえと言う意味なのだろう、実際そういう者も多いと聞く。
つまりはこちらの人間、一部の好き者は妖怪、と恋に落ちてそのまま結婚する人間だ。
そのような例もあるのだし、結婚するのには問題ないのかもしれない。だが自分にその気は無い。
「結婚だのというわけにはいかんでしょう」
盛り上がりかけた彼女らに水をさすような形で割り込む。
「まだ幾らの付き合いというわけでも無いんだし、それに若いんだから」
「付き合いが浅いと言うなら、もうちょっとここに居れば良いじゃないですか」
発言は藪蛇だったかと後悔する。これは要らぬ手札を与えてしまった。
「それが良いわね、それじゃあお茶でも飲んでいきなさい。後で送っていくわ」
巫女が話を〆にかかる。全く自分の首を絞めるとはこの事か。
また簾の下で冷茶を飲んでいる。違うのは左で阿求が寄りかかっているということだ。
巫女は後ろでうんざり半分微笑み半分といった塩梅で眺めている。
やがて茶を入れた椀に水滴も付かなくなるような頃、阿求が完全に肩にもたれかかってきた。
長い間歩いた所為で疲れていたのだろう、どうやら寝入ってしまったらしい。
頭をゆっくり下ろしてやり、膝の上に乗せて頭を撫でてやる。
それを見ていた巫女が声をかけてきた。
「満更でもなさそうじゃないの、阿求のこと」
「好かれるのは構わないさね。そりゃあ」
冷やかすようでも無い、大分真面目な口調であったので相応に応じてやる。
「だからと言ってそれとこれとは話が別さな、結婚とは」
膝上の阿求が動いた、様な気がした。
「……つまりは遊び、とは違うか」
目元を険しくして巫女が尋ねる。それに首を横に振って答える。
「いや、なんだろうか。仲の良い友達というか、そういう関係かね」
そこで話を区切り、ぐいと一息に茶を流し込む。
「まあ生来適当な性分だもんでその手のことも億劫になってしまっているのさ」
空になった椀を置きながら続けた。巫女は思案顔で茶を飲み、やがて口を開く。
「別に何とかなるでしょ、そのくらい」
その口振りは或いは呆れたといったものあった。
「今までもよくやっていたんでしょう。それなら何とかなるわよ。まあ恋人も居ない私が言っても詮無い事かもしれないけど」
そう言ってまた茶を啜る。どうやら温茶であるらしい。
「かも知れない、し、そうじゃないかもしれない」
俺もまた飲み止しの阿求の茶を奪って飲み、言った。
「それでも結婚は御免なのさ。特に婿入りは」
奪った茶もまた一息に飲み干し、椀を置く。その時阿求がむくりと起き上がった。
「そんなに私と一緒にいるのが嫌ですか?」
阿求は起き上がるや否やそのようなことを口走った。どうやら寝ぼけ眼に会話の端々を聞いていたらしい。
「枕も共にした仲だというのに」
と言って阿求はさめざめと泣くように、目元を着物の袖で隠した。
それを聞いた巫女が音もなく近づいてきて耳元で囁いてくる。
「ちょっと、ちゃんと責任取りなさいよ」
その声色は明らかに怒気を孕んでいて、何もしていないにも関らずとても怖い。
「なんの責任だよ」
俺が言うと、それを聞いてか巫女が更に怒りの表情を帯びていった。
「女の子に恥かかせて、なにもしないっていうの?」
「誰も同衾なんざしちゃおらんがな」
怒っているのは、一緒に寝た、と言う意味合いの言葉だろう。
しかし記憶にある限りそのようなことは一度も無い。
「酔っ払って忘れてるんじゃないの」
「酒なんか滅多に呑まないんだがね」
妙に突っかかってくるのは同じ少女だからだろうか。幾分自分の旗色が悪い気がする。
「大体ブラフの可能性だってあるだろうが」
「はったりでもあんなこと口走ったりしないわよ」
成る程確かにそうかもしれない。だがブラフだからこそともいえよう。
「腕枕みたいに潜り込んだとかじゃないのかね」
自慢じゃないが、俺の夜は遅く朝はとても遅い。
夜中に潜り込んでしまえば、気づかれずに抜け出すのは容易だ。
「既成事実作るだけなら見せないと意味ないじゃない」
巫女の言うことは尤もなことだ。しかしやけに詳しいところが、将来どうなるか気にかかる。
「いいからここまできたらいい加減腹を括りなさい」
握り潰さんばかりの力で肩を引き掴み、巫女が言う。俺はそれに反する。
「えい、無い腹など括れんぞなもし」
掴んだ手を振り解こうとするが、一向に緩む気配すら見えなった。
「霊夢」
その時何処とも無しに声がすると突然青空に亀裂が入り、そこから誰かが飛び出してくる。
それは白い服に前垂れのような物をかけた金髪の女性で、日傘を差していた。
「紫、あんたいつから見てたの?」
巫女はそれが出てくる方向が予め判っていたかのようにそちらに目をやり言った。
阿求も既に泣き止んだか、或いは最初から嘘泣きだったのか、目元を隠すのを止めて新たな闖入者のほうを見ている。
「霊夢、彼を帰しちゃダメよ。彼の思い通りにさせては」
「判ってるわよ、それぐらい」
霊夢、紫と呼び合った彼女らはしかし自分には非常に都合の悪いことを話し合った。
紫と呼ばれた日傘妖怪は巫女の言葉を受けて満足そうに頷いていたが、こちらは到底納得できるものではない。
「ちょっと待て、なんで帰れんのだ」
言うが両者はとても冷ややかな目を向けるだけで、特に何も言っては来なかった。
「女の子を弄んでおいて逃げられると思って?」
溜息を吐きつつ先に口を開いたのは日傘妖怪だった。いつの間にか阿求のすぐ傍まで移動している。
「観念して、里の一員になってしまいなさい」
巫女も巫女でそのような無理難題を吹っかけてくる。阿求は乗り遅れたようにうろたえている。
「何もやってないっての、俺は潔白じゃ、裏を取れ」
「裏ねえ……」
日傘妖怪が目を横に、阿求のほうに向けけ、尋ねた。
「本当に一緒に寝たのかしら?」
「はい」
間髪入れず阿求が答える。
「いや、他の人に訊くもんだろそれは」
「さて、落とし前はきっちりつけてもらわなきゃね」
俺の発言は無視され、力の政治が始まりかける。
「他の人が知っている訳は無いでしょう」
「俺はやってないって言っているんだが」
「しらばっくれているだけじゃないの?」
全く男と女で酷い扱いの違いだ。出来試合とはこのことか。
「大丈夫よ」
日傘妖怪が突然に口を開く。
「稗田の家はお舅さんもお姑さんも優しいわ、たぶん」
「それは何に対してかかってくるので?」
意図することが全くわからず困惑する。しかも言ってることは憶測だ。
「良かったじゃない、婿と舅の争いは怖いんでしょう?」
こちらも意味不明なことをのたまう。
「いや、なんでまた結婚するって話になってるの?」
「そう共寝して……それでも尚結婚を拒むというの」
虚空から巨大な牛刀が現れる。彼女はそれを持ち大仰に構える。
「なら、私が責任もってあなたを食べて差し上げましょう」
突きつけられた牛刀の切っ先は鋭く尖り、歯もよく研がれているらしく光っている。
「最近はあまり食べてないとはいえ、私とて妖怪。人間くらいは嗜みますわ。まあ……」
じろじろと自分の体を上から下まで嘗め回すように日傘妖怪が見ている。
俺はその視線から逃れるように半身をよじる。
「まあ、あなたは痩せぎすで随分喰い出がなさそうですが」
「あの、紫様……」
阿求が横からおずおずと口を挟んでくる。
「紫様、苛めるのもそのくらいにしておいてもらえませんか」
「あなたがそう言うなら、そうしましょう」
途端に牛刀がしまわれ、代わりにその手には扇子が握られていた。
「有り難い。助かった」
「いえ、どういたしまして」
一息つき礼を言う。喉の渇きを覚え茶碗に手を伸ばすも中身は何も無い。
そういえば先程すべて飲み干したのであった。
話も区切れたからと、巫女が代わりの茶を用意しに台所へ向かっていった。
しかし、一番いなくなって欲しい日傘妖怪はそのまま縁側に居座り続けている。
「大体阿求はどう思っているんだ?」
俺が聞くと、阿求は何が? という表情を返してきた。
「結婚云々の事。特にどうとも言ってなかったけど」
ここまで話して得心がいったのか、阿求は手を叩いて理解の旨を示す。
そしてこちらに向き直り、居住まいを正してこう言ってきた
「不束者ですが、どうぞ宜しくお願いします」
横で日傘妖怪が囃し立て、巫女に早く来いと呼び寄せている。
巫女は急いで、茶碗の三つ乗った盆を運んできた。
日傘妖怪は文句を言っていた。なんで自分の分の茶が無いのかと。
巫女は、あんたが早く来いって言うからでしょ、と一蹴したので仕方なく自分で取りに行ったらしい。
「後はあんたのほうだけね」
巫女が言う。正直、茶飲みすぎだろ俺と考えていた俺は聞き取れずに聞き返す。
「だから、あんたさえ腹を決めてしまえば結婚が決まるのよ」
未だに続くその話。将来仲人小母さんにでもなるつもりなのだろうか。
「結婚はせんよ。なんにしろまだ若すぎる」
苦笑しながら言い返す。巫女がまた言ってくる。
「若すぎるって、別にあんたくらいの歳ならとっくに結婚してるわよ。阿求くらいでもいるわね」
「外だと、三十路超えてから結婚するのが多いのよ」
日傘妖怪が補足する。俺はそれに頷いて肯定する。
「外は随分遅く結婚するんですねえ」
阿求も巫女も驚いたようで目を丸くしていた。
「でもここは幻想郷だし、もっと若いうちに結婚しても良いのよ」
巫女が言う。日傘妖怪もそうねと頷く。
「まあ、重要なのはあなたの気持ちね」
日傘妖怪が言ってくる。その右手には何処から持って来たのか酒瓶が握られていた。
手早く蓋を開けると茶を飲み干した椀に注ぐ日傘妖怪。巫女も自分のにも入れろと茶碗を差し出している。
注ぎ終わり、酒瓶を勢いよく置くと巫女が訊いてきた。、
「どうなの? 阿求のこと好きなの?」
「そりゃあ、まあ嫌いではないが」
「嫌いでは、無い?」
何か詰問するような調子で茶碗と御幣が寄せられる。
「随分歯切れの悪い返答じゃないの」
御幣が額に刺さる。
「何なら好悪の境界をきっちり引いてあげましょうか?」
日傘妖怪が茶碗を頬に押し付けながら言う。
「ほら、はっきりしなさい」
どちらとも無しに言ってくる。もう半ば脅されているといっても良いのかもしれない。
そんな二人の方を見たくなく、自然に顔は阿求を見るように動く。
「阿求のことどう思ってるの?」
阿求は頬を赤く染め俯き加減になって、それでもこちらをしかと見つめていた。
それを見て自分も小っ恥ずかしくなってしまう。
「ちゃっちゃと吐いて故郷のお母さんを安心させてあげなさい」
阿求は目があった所為か、更に頬を赤くして不安げな顔を横に背けてしまった。
その時自分は、そんなに不安そうにしないでもいいのに、と考えていた。
嫌いでは無いといって言ること、何より態度から好意を持っている事は判るだろうに。
「ほら、どうなの」
巫女が尚も詰問する。阿求とは対照的にこの二人は期待で顔が満ち溢れていた。
俺は一つ嘆息してから言った。
「言えるわけ無いでしょう、こんな雰囲気で」
それで場は一気に崩れた。
それもそうだ、や意気地無しめといった諸々の雰囲気の残滓が表出し、そしてすぐに消えていく。
巫女は呆れたような素振りを見せると、酒の肴を作りに台所に引っ込んでいった。
日傘妖怪は別の酒をもってくると言って、目を放した隙に何処かへと去っていった。
阿求も気の抜けたように畳の上に座っている。それを手招きして呼びつける。。
なんでしょうという風に、嬉しそうに近寄ってくる阿求を抱き寄せ、耳元で只一言好きだと言う。
そうして阿求を開放すると、阿求も自分の耳に顔を近付け、私もですと囁いた。
そのまま彼女は自分の胸に傾いてきたので、それをゆっくり抱きとめた。
/*
巫女が戻ってきた時に見たものは大分予想外なものだったかもしれない。
なにせ先程まで離れていた阿求が膝の上に乗って体を揺すって遊んでいるのだ、まあ魂消よう。
ただ巫女の反応もそれだけで、結局痴話喧嘩だったんじゃない、と言うと椀に注がれた酒を呑みそれぎり黙ってしまった。
もう少しすると日傘妖怪が戻ってきた、こちらは酒瓶を幾らも抱えて持って来ている。
自分にもたれかかる阿求を見ると大層驚いたような好々爺然とした顔をしていた。
「それで、なんて求婚したのかしら?」
数杯酒を呑んだ後、日傘妖怪が訊いてくる。
「まだそこまでは言ってないが」
適当に肴を摘みながら答える。これから屋敷に戻らないといけないので茶椀の中身は茶のままだ。
「結局帰るのは辞めたのね」
巫女が言ってくる。
「ああ、世話かけてすまないが、今は帰るのを辞めとくよ」
「別にいいわよ、おかげでいいお酒が呑めるんだもの」
「あら、今はって? まだ帰るつもりなのかしら?」
言うと酒を呷る巫女と茶々を入れてくる日傘妖怪。
「おや、実家に帰ることもできんので?」
それに軽口で返してやると言い返された。
「今からそんなことじゃ先が心配ね。尻に轢かれるんじゃないかしら」
「大丈夫ですよ」
膝上に座っていた阿求が言う。
「あの家にはいろいろな物や部屋がありますから、きっと帰せなくするでしょう」
なにやら含みのある物言いとその表情は、随分と歳不相応なものに見えた。
「まあ帰る帰らないはそこまでにして、一つ固めの盃といこうじゃないか」
「それは親御さんに挨拶してからでしょう」
割り込んできた軽い声に応答し、茶を喉に流し込む。
声の主はいつの間にか隣にいた角の生えた童女だった。
「……なんだこれ?」
「鬼でしょう」
巫女は事も無げに言ってくれる。
「……この神社に普通の人はいないのか」
「いないわ」
それを即答してくれるな、巫女よ。
「ほら、辛気臭い顔してないで呑め、今夜は無礼講だ」
そう言って酒を茶碗に注ぐ鬼と、あんたはいつもそうでしょうと突っ込む巫女。
どうやら今日中に屋敷に帰るのは諦めたほうが良さそうだ。
うpろだ1285
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今日も今日とて阿求を膝の上に乗せて縁側に座っていた。
阿求は幻想郷縁起を書き終えて時間があるようで、日がな一日のんびりと何かをしている。
今は黄色に熟した富有を手に、どうすれば口の周りが気持ち悪くならずに食べられるかを悩んでいた。
四つか八つに切ってしまえば楽なのにそれは嫌いらしく、蔕を持って回しながらどこに齧り付こうか逡巡している。
その可愛らしい様を眺めていると玄関の開く音がして、程なくして女中が阿求を呼びに来た。
それに応じて阿求が柿を皿に置き、ゆっくり立ち上がると玄関に歩いていく。
さて折角の寛いだ時間を邪魔したのはどういう輩なのかしらんと思っていると、阿求と朱色の誰かがやって来た。
大きな籠と小さな箱を持ってやってきた彼女らは、手を上げて挨拶をすると自分の横に荷物を置いた。
自分もそれに手を上げて応じると、近くの部屋から座布団を持ってきて手渡した。
「いつぞやの神様。どれくらいぶりですかね」
座布団を荷物の横に置いて、上掛けを取ろうとしている二柱に話しかける。
彼女らは脱げば寒いと思ったのか、袖まで外したところでまた着込んでボタンを留めながら言う。
「大体一月ぶりくらいかしら。あの柿どうだった?」
目線で庭に植わっている一本の柿の木を示す。
それは前回やってきた時に、甘くなると言われたものだった。
「残念ながら甘いのと渋いのが半々でしたよ」
それを聞くと、さもありなんといった表情で帽子を取りながら穣子が言った。
「でしょうね。もう生っていたらあんまり良くはならないもの」
そしてけらけらと笑う。
しかし甘いのと渋いのが入り混じったものを食わされる方としては余り面白くはない。
甘柿は干し柿にするのには適さないし、甘柿と思って食ったら渋かったなど落胆と言ったものではない。。
「まあそんな顔しないの。お詫びにこれを持ってきたわ」
自分の渋面を見たのか、脇の箱を差し出しながら言ってくる。
それを阿求が受け取ると蓋を空け、中身を取り出す。中に入っていたのは鍋であった。
「アルマイトの鍋? こっちでは珍しいっちゃ珍しい」
アルマイトはアルミ表面に酸化皮膜を作ったものだ。
基本的にボーキサイトも電気もない幻想郷では供給は外から流れてくるのを待つことになる。
「違う、その中」
苦笑しながら言われる。蓋を取ると中には茶色の塊が入っていた。
一つ手に取ると汁が指についてべとつく。
半欠け口に入れた感触は柔らかく、甘く、齧った断面は薄い茶色だった。
「渋皮煮か」
言いながら残りを口に放り込む。
阿求に行儀が悪いと窘められるが、気にすることでもないだろう。
「これだけ作るのは大変だったでしょう」
二個目をまた文句をつけてきた阿求の口に放り込んで言う。
渋皮煮を作るのは時間と手間が大分掛かる、面倒な作業だ。
鍋一杯にあるが、自分の分なども含めれば相当数作っているだろうし、相当の時間が掛かっているだろう。
「収穫祭が終われば時間があるからいいのよ。煮ている最中は暇だし」
そう言いながらまた脇に置いてある籠を差し出してくる。
またそれの中を見てみると、米や栗の他に南瓜やら胡麻やらが入っていた。
阿求が怪訝な表情で見つめると、また穣子が言う。
「そっちはもう一つのお土産。みんなで食べて」
それを聞くと、阿求はびっくりした様な声で言った。
「こんなに沢山頂けませんよ」
それに穣子は手を振って構わないという表現をして答える。
「この間のお礼だし、いいのよ」
「でも……」
言い淀む阿求を静葉は手招きして、籠の近くに寄させる。
上げてみてと籠を持たせて力を入れさせるが、籠は端が少し浮くばかりでちっとも持ち上がらない。
やがて観念したのか阿求は籠を下ろし、痛そうに手を振っている。
それを仁王立ちして見ながら、二柱は言う。
「重くて持って帰りたくないし、受け取ってちょうだい」
阿求はゆっくりと首を縦に振った。
女中が茶と茶菓子を持ってくる頃合には、銘々適当に座布団を敷いて座っていた。
例えば自分は縁側から足を放り出し、阿求はその膝の上に座り、神様達は柱にもたれたり肩にもたれている。
彼女らはその姿勢のまま、好き勝手姦しく喋り、自分はそれを熱い緑茶を胃に流し込みながら黙ってみていた。
「それにしたって、何でまたこんなに持ってきたんです?」
縁側で話す話題が途切れた瞬間を見計らって切り出す。
二柱は何がと言う顔をしている。それは阿求も同様だ。
「いや、この間の礼にしては随分多いから」
補うように言うと、静葉も同調した。
「確かにちょっと多すぎる気もするわねえ」
籠の中を覗き込みながら言う。
中身は女中らが手分けして持っていったが、それでも依然として四半分程度は残っている。
「いいじゃない余ってたんだし。腐らせるよりは良いでしょ」
そう言って穣子が口を尖らせ、阿求も同意する様に頷いている。
「去年も畑に撒いたり鳥にやったり、潰したりして処分したじゃない」
「そういえば、豊作だったものねえ」
豊穣の神がいるのに豊作じゃない年があるのかという疑念は置いておくにしても、その処理方法はあんまりだろう。
神社にもって言ってやるなり、氏子にやるなりすればいいものを、何故捨ててしまうのか。
「それ酒にすればよかったんじゃ」
大体ほとんどのものは備蓄なり酒に加工できるんだから、野菜みたいに捨ててしまわなくても良いだろう。
そう言ってやると二柱は驚いた表情をした後、多少の間慌てふためき協議のようなことをすると、露骨に沈んだような顔をして言った。
「その手があったか……」
どうにも加工すると言うのを全く念頭においていなかったようである。
それを静葉が突っつくと穣子は泣きそうな顔になった。
これは拙いと思っているうちにも、どんどん目の端には涙がたまっていく。
「だって私豊穣の神だもん。お酒の神じゃないんだもん」
果ては子供のように癇癪を起こしてしまった。これには他のふたりも困っている。
こんなものどうやって収めればいいのか、皆目見当も付きやしない。
宥め賺して泣かせ止ませると辺りはもうすっかり薄暗くなっていた。
「だんだん冷えてきましたね」
阿求が身を震わせながら言う。
暦の上では未だ秋とはいえ冬も近づいており、日も沈みかければ気温は大分下がっていた。
部屋から火鉢を持ってきてはいるが、それだけではもう暖まりきれない程度の温度になっている。
「そうね、そろそろお暇しましょうか」
どちらともなしにそう言うと、それを阿求が引き止めた。
「なら中で温かいものでも飲んで暖まっていって下さいな」
「いや、そこまで甘えるわけには」
そう言いながら穣子は引張られる袖を振り解こうとするが、その実あまり力は入れていない。
単にお約束として遠慮する振りをしているだけで、最終的には折れて中に入る予定である。
「いやいや」
「いやいやいや」
「いやいやい「長い」」
とはいえ何処で区切るかのタイミングはつかめず、突っ込まれるまでは続いてしまうのだが。
冬の代名詞である炬燵というものは幻想郷にもある。当然電気炬燵ではないのだが。
掘り炬燵なら熱源は囲炉裏であり、置き炬燵なら火鉢を布団で覆った櫓の中に入れることになる。
部屋にあるのは大抵は簡便な置き炬燵であり、その性質上足は伸ばしづらい。
だのでこういうことも発生する。
「穣子ちゃん、足乗ってるんだけど」
「乗ってるんじゃないの。乗せてるのよ」
コンフリクトが発生した時、それが致命的でない場合に無視するのは精神衛生上の最善手の一つである。
今の場合炬燵を放り捨てるのは悪手であり、神様を放り捨てても帰ってくるだけなのでやはり無視は善手であった。
茶を啜りながら遣り取りを眺めていると、阿求が制止するように声を上げた。
「穣子様」
二柱は喧嘩をやめて阿求の方を見る。
「ちょっと話したいことがありますのでこっちに」
言って阿求は立ち上がり手招きをする。穣子は促されるままに付いていく。
自分はこれこの間も見たなあと思いながら、それを見送った。
「あの二人はなにを話しているんでしょうね」
「さあ? 家に帰っても何も話してくれなかったし」
言って静葉は茶を啜る。
少し考え込む。前の時も阿求は何を話していたのかを教えてくれなかった。
別段秘密の一つ二つあったところで構わないだろう、自分にもあるのだから。
ただ、これはそういうのとは少し性質の違うものではないかと言う考えもある。
それで無性に気になった。だから動いた。
慎重に、聞き耳を立てながら摺足で廊下を進む。
稗田の屋敷は古く、廊下は鴬張りというわけでもないのにギシギシと音が鳴る。
普段なら一分と掛からない道程をたっぷり五分は掛け、それでもあまり近づくことは出来ない。
部屋から出ようという気配になったとき、速やかに逃げられる距離より数歩引いたところが精々だ。
その所為で話す内容のうちで聞こえる事は断片的なものになってしまう。
集音器があれば聞きやすいだろうにと思いながら聞き耳を立てると、気に掛かる単語が聞こえてきた。
(…一月……山の上の…)
(…精……貰って…)
なにを話し合っているのだろうか、山の上という単語で思い当たるのは神社二つだけだ。
後は天狗やら河童の住処という話だが、こいつらはどう考えても絡んでは来ないだろう。
帰る帰らないで博麗神社には数度行ったことがあるが、あの巫女が何もないのに動くとは考えづらい。
ならば守矢神社の誰かなのだろうが、祭神がどういった神なのかも碌に判っていないので、やはり何をしたいのか判らない。
(…夜……)
やはり何なのか判らない。
幸魂だろうし、害になることは無いだろうから良いのだが判別付かないのは気持ちが悪い。
とはいえもう盗聴も潮時だろう、話はだんだん少なくなってきている。
もうじき部屋から出てくるだろうから、早々に退散しなければ見つかりかねない。
足音を立てない程度に急いでその場から撤退した。
「何話してた?」
盗聴から戻るなり聞かれた。こちらも妹が何も話さないものだから、存外詰まらなかったのかもしれない。
「いや、遠くからでさっぱり要領がつかめなくて」
正直に満足に情報を得られなかった事を話すと、静葉は明らかに落胆したような表情を見せた。
「山の上の神様がどうのといってましたが、どんな神様だったか」
「守屋神社の神様は農業の神様でしょう。あとは山とか軍事ね」
多少は知り得たことを話すと、静葉もそれに応えた。
「どれもうちとは余り関連のないご神徳ですな」
「そうね。もう片方はなんだったか、いまいち判らないのよね」
「あれ、守屋神社は神様は二柱いるんですか」
そこまで話していると、別部屋に行っていた二人が戻ってきた。
「守屋神社がどうしました?」
「いや、阿求あの神社神様二柱いるんね」
「結構ありますよ、そういう神社」
「うん、大抵の神社が一杯いる。減るものでもないし」
特別なんでもないという風に返されるとどうにも困る。
確かに減りはしないが、それで良いものなのかどうか。
「所でこれからどうなさいます? お酒の用意も出来ますけど」
そういう間にも、廊下から隣室に女中らが料理を運ぶ音が聞こえている。
「それならご馳走になって行こうかしら」
その音を聞いて苦笑しながら穣子は言った。
結局夕食は酒宴になり、二柱が酔い潰れた所で上がりとなった。
帰るには遅くまた酔っており危ないため、一晩泊まっていく。
部屋は客間の中でも存外広い物が宛がわれ、風呂にも入らずに寝入っているらしい。
「阿求、夕方はなにを話していたんだ?」
行灯の火を消しながら尋ねる。
「気になりますか?」
「そりゃあね。気にならないなら聞かないよ」
行灯の火を吹き消し、部屋は月の光もない暗闇に変わる。
阿求が枕を叩き、それを目当てに布団に戻った。
「まあ、気にしないでもいい内容ですよ」
「それなら話してもいい内容じゃないのかね」
相対しているのだろう、阿求が言いそれに返す。
「そうかもしれませんねえ」
阿求は言いながら、膝に尻を乗せ、肩に顎を乗せてきた。
「でも言わなくて問題ないことでもあるんですよ」
「なら俺にも関係のないことかい」
そう言うと阿求は埋めていた顔を上げ、こちらに向き直る。
息の掛かるような近い距離でお互いじつと見詰め合う。
「いえ、大いに関係ありますが……」
阿求は一つ小さなため息を漏らすとそう言って、ゆっくりと唇を重ねてきた。
幾らかの間そうしていると、阿求から離れてまた言う。
「話さないでも伝わることってあるでしょう」
言われて今度はこちらから阿求の唇に近づいた。
…
……
………
障子の外から太陽の光がさしてくる。どうやらもう朝らしい。
隣に阿求はおらず、ただ放られた夜着と脱ぎ捨てられた寝巻きだけが残っていた。
痛む腰を擦りながら起き上がり、自分も着物を着替える。
「結局教えてくれんのやもんなあ、阿求も」
帯を結びながらぼやくが、誰も聞く者はいない。
井戸水で顔を二三度濯ぐと早々に炉辺に避難する。
すでに炉辺には阿求も神様達もいて、どうやら自分が最後だったらしい。
朝の寒さで皆黙って火に当たっているのかと思ったが、どうにも阿求の胸元を覗き込んでいる。
なんだろうと思って自分も覗き込もうとすると言われた。
「ほら、お父さんですよ」
「だから阿求早い、って言うか誰の子ぉ?」
よく出来た人形でした。
新ろだ92
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昼過ぎに大通りを歩いていたら見慣れぬ変人がいた。
別段里人全員を覚えているわけではないのだから見慣れない人間がいるのは当然だし、変人というのもよくいる。
とはいえ巨大な注連縄に柱を指して担いでいる女というのは、今までで一二を争う位に変だ。
一緒に大きな目玉のついたシルクハットのような帽子を被った童女が歩いているが、全くこれが普通に思えてくる。
あまり目を合わせたくなかったのですれ違いざま目で追う程度にとどめ、道を急いだ。
どうやらその奇人は自分の来たのと同じ通り、稗田の屋敷に続く道を歩いて行ったらしい。
それがつい一刻前のことである。
そして小用を済ませて屋敷に帰ってみれば、門の屋根に真新しい傷があった。
これはまさかと思いながら戸を開けると、玄関を入ってすぐの所に先ほど見た巨大な注連縄が置いてある。
嗚呼やっぱりかと少し嫌になりながら阿求に帰った旨を告げると、例の二人も同席していた。
軽く挨拶をしてから荷物を置きに部屋へ戻り、類は友を呼ぶというやつだろうかと考えていると阿求からこっちへ来いと声が掛かる。
すわ考え事がばれたのかと戦々恐々としていれば何のことはない、単にもう一人交えて話がしたかっただけということだ。
自己紹介をして座布団に座ると阿求に向こうさんを紹介され、その話によるとどうやら神様ということらしい。
なんでも幻想郷縁起に自分たちも書いてほしいとの由でやってきたそうで、どうにも目立ちたがりのようだ。
とは言えすでに縁起は書き終わったようなのでどうするのだろうか。まあ後ろに紙でも貼り付けて追補するのだろう。
さて件の神様らは話してみると意外とまともな様子だった。見てくれだけで判断してはいけないということか。
両者とも存外に気さくな性格ですぐに打ち解け、直に酒盛りでも始まろうかという勢いだ。
とはいえ実際に宴会が始まるわけではなく、片方がしきりに玄関の方を気にしている。
何か待っているのかを聞くと、もう一人巫女のようなもの遅れてが来るはずだったのに遅いと言う。
ようなとは何だという疑問はさておき、場所が分からないのではないか言うとこんなに大きな屋敷は間違えようが無いと言われた。
まあ確かにその通りなもので、稗田ほど大きな屋敷というのはこの近辺には存在しない。
それでは少し探しに行ってこようかと言い掛けたところで、丁度よく戸の開く音と呼び声がした。
やってきたのはこれまた珍奇な格好をした女子で、男一人では居心地が悪いことこの上ない。
奴さんは促されるままに二柱のうち大きいほうの隣に座り、自己紹介をするとすぐに阿求と打ち解けたようである。
そのまま女四人で姦しくやるものだから、どうにも居た堪れなくなり部屋を出ると自室で今日仕入れてきたものの品定めなどをしていた。
しばらくすると廊下が騒がしくなり、嗚呼これは酒盛りでもするのだろうなと灯火の下で思っていると、程なくしてまた阿求に呼ばれる。
用事はやはり酒盛りの誘いで、阿求は一人で居ないで此方に来て皆と一緒に居て飯を食えと言う。
ついでに神様や巫女のようなものから外の話を聞く横で、判らない事に解説を加えて欲しいとも言われる。
それは構わないのだが、今まで外の事を聞いていなかったのなら二刻以上も何を話していたのか甚だ疑問だ。
しかしそれを問うても阿求はただ笑ってはぐらかすだけであった。
酒と肴が持ってこられると瞬く間に徳利三本が空けられ、更に数本の壜の蓋が呑み比べするように開けられる。
こちらが一口呑む間にもう一杯呑んでいるといった具合なので、向こうの調子に飲まれればこちらが酒に呑まれているという羽目になりかねない。
現代暮らしの長かった所為か無理矢理酒を勧めてくるという事は無いのだが、それでも杯を空けろという無言の圧力が圧し掛かってくる。
その圧をのらりくらりと交わしつつ、ちびちびと酒の味比べなんぞをしていると巫女のようなものが襖を開けて出て行った。
なにやら思いつめたような表情をして悩んでいる様子だったので声をかけてやると、何故に阿求はあんなに酒を飲めるのかと訊かれた。
やはり体質で若い時から多く呑めるのだろうかと溜息なんぞ吐きながら言うが、二人で呑んでいる時は存外直ぐに真赤になるのでそうではないだろう。
いやあれは誤魔化し誤魔化し呑んでいるからで、本当はそう呑めはしないと教えてやると得心したらしく首を縦に振っていた。
実際酒豪と呑むときには、阿求は股の間に盆を隠して、ちょくちょくその中に杯の中の酒を放って呑んだ振りをしている。
盆の中の酒は後で料理に使うとか女中が飲んでいるとか、或いは捨てているとか諸説あるが、真実どうなっているのかは知らない。
しかしなぜにそんなことを聞くのかと尋ねると、自分は下戸なのであんなに小さい子が呑んでいるのが信じられないと言う。
確かに上役が蟒蛇な上にあんな子供までよく呑むのでは、下戸の人間の居場所なんぞ無いだろう。
特にアルハラなどという言葉の存在しそうにないこの幻想郷で、それでどうやって生き抜いていく心算なのかと茶化し半分に言ってみると泣かれてしまった。
このままでは余所聞きが悪いし、どうやって宥めようか思案していると、何事かをうわ言の様に呟いている。
何かと思って耳を澄ませて聞いてみると、やれサイダーが飲みたいだのアイスが食いたいだのと言っていた。
食い物の話かと思うがやはり懐かしいものなのか、その点自分は食事にはまるで興味の沸かない人間だったから特に思い出したりはしなかったが。
しかしまあアイスなんざ氷に塩を入れた寒剤を作ってやればアイスキャンディーくらいなら作れるだろうと言うとその氷が無いという。
そんなもの真冬に凍った池なり湖から切り出して氷室に入れるなりすればいいだろうがと思うが、引っ越して一年ではそこまで頭の回りようが無い。
これは手詰まりかと思ったが、どこにいるのか知らないとはいえ氷精なんぞという御誂え向きの代物がいるのを思い出し教えてやる。
それに米軍は飛行機に改造した増槽を装備させて飛ばしてアイスを作っていたらしいと教えると、少し驚いてから後で作ってみると言ってメモをしていた。
なかなかに逞しいというか、どうにもこれも変人のようであるがとりあえずやるなら暖かくしてやらないと風邪どころではすむまい。
何を目的としているのか皆目見当がつかないが、なにせ腋の辺りが全く露出しているのだから高空が寒くないはず無いだろう。
全体なんだってそんな物理的におかしな服を着ているのかと疑問をぶつけようとした矢先に、阿求が襖を開けてやってきた。
阿求は自分の首根っこを掴むと、こんなところで何をやっているのかと強い語調で問い詰めてきた。
灯火も無く、暗い部屋の中なので良くは判別できないが阿求の顔は大分赤くなっていて、幾分酔っていることが判る。
早く休んでいないで神様らの言っている事を解説しろと、部屋へ引き摺ろうとしながら阿求が言う。
とは言うものの数年離れていた所為ですっかり外の知識には疎くなってしまい、解説しろといわれてもそうできるものではない。
というよりは経済学なんぞこれっぽちもやっていなかった人間に世界経済なんざ訊かれたところで、答えられるはずも無いだろう。
しかしそう言っても逃れられるわけも無いもので、仕方なしにまたもといた部屋へと戻ろうと動く。
戻るときに後ろを振り返ってみると、阿求が動かず、ただじっと向こうの巫女のような者のいる方を豪く剣呑な雰囲気で見ていた。
向こうも向こうでどうにも阿求を睨み付けていた様に見えたが、暗い中の事であるし多分に目の錯覚だろう。
また宴会の輪に戻り卓の前に胡坐をかくと、阿求がどっかりと膝の上に腰を下ろし酒の入った杯を渡してくる。。
正対していた神様らもこれには驚いたようであったが、仏頂面をする阿求を見ると何も言うことが出来ずそのまま置いておくことにした。
それに気を良くしたのか阿求の機嫌も幾分は直ったようで、自分の胸にもたれかかって肴の漬物を食っている。
さてそれを笑って見ていた神様達であったが、一杯酒を呷るとところで早苗は何処に行ったのかと大きい方に尋ねられた。
聞いた覚えの無い名前だったので、はてそれは誰ぞやと訊き返すとさっき出て行った巫女のような者だと言う。
それなら酔っ払ったようで隣の部屋で横になって休んでいると言うと、二柱共立ち上がって様子を見に行った。
まあ随分大切にされているようでと阿求に言うと、二柱は彼女のことを妹のように思っているようだと阿求が言う。
幾らか思うところはあるがそれは心の内にしまっておいたほうがいいのだろう。表へ出せば危険に過ぎる。
阿求が股座の間に座り、足に痺れが出てくる頃に酒の残りが心許なくなった。
神様達が衰え無しに呑み続けるのに加え、阿求もいやに酒を自分の杯に注いだり、それを呑んだりするものだから林立していた壜ももうほとんどが切り倒されている。
とは言えまだお開きという雰囲気では無く、だがちょうど良く女中が居ることも無く、仕方無しに自分が台所まで酒を取りに行くことにした。
出るついでに隣で寝ている奴の様子でも見て行ってやろうと襖を開けると、ちょうど起きたような顔をしてこちらを見ている。
起こしてしまったかと訊くと、少し前から起きていたが体を起こす気になれず、ずっと横になっていたと言う。
何処に行くのかと問うてくるから、台所まで酒を取りに行く途中だと答えてやると付いてくると言ってきた。
運ぶのに人の多い分には構わないが、酒の抜けきっていなさそうな顔をしているものだからどうにも大丈夫なのかと不安になる。
しかし自分が何かを言う前に、彼女はそれじゃあ早く行きましょうと畳に手を付いて立ち上がろうとし、立ちくらみでも起こしたかぐらりと大きく体を傾けた。
それを抱きとめてから座らせ、このままここで寝ていろと言ったが、強情に付いて行くと言って聞かない。
根負けして連れて行くことにしたが、ふらふらと廊下の右左を行き来する様を見、これも自分が運ぶ羽目になるのではないかと内心恐々としていた。
早苗は時折障子に体をぶつけたり庭に転げ落ちそうになりながら、やっとのこと台所にたどり着いた。
これでは荷物運びは出来ないだろうなと思いながら、棚から肴になりそうなものを選んで取り出していく。
酒は何処にも置いていなかったので、蔵に酒樽があればそれから、無ければ酒屋まで行って徳利に移してくる必要があるだろう。
蔵も蔵の鍵も近いところにあるので問題はないが、さて酔っ払いを一人で残していいのかと少し考える。
彼女は今床に座ってこっちを見ながら笑っているが、まあ放っておいても変な悪さはするまい。
急いで鍵を取ってきて蔵に行き酒樽にまだ酒があることを確認すると、三升ほどを徳利に移しまたすぐに戻った。
彼女はその間もおとなしくしていた様で、床板に片膝を立てその上に顎を乗せて目を閉じている。
それを軽く肩を叩いて起こし何か飲みたいものは無いかと訊くと、迷い無くサイダーと答えてきた。
嗚呼そう言えばさっきもそんなことを言っていたなと思うが、さてどうしたものか炭酸飲料などここには置いていない。
思案しても無い物は無いので、自分で適当な物をでっち上げてしまえばいいという結論に至った。
サイダーというのは要は砂糖の入った炭酸水なのだし、二酸化炭素が出てきてくれればいいのだろう。
昔は檸檬水に重曹を加えて炭酸を発生させていたそうで、無駄知識がこんなところで役立つとは思いもよらなんだ。
しかし檸檬も甘橙も蜜柑すらない上に、重曹などというものも無い為八方手詰まりの形になる。
いや要は炭酸が出きればいいだけなのだと思い直し、砂糖水に酢と貝殻を混ぜたものを飲ませたら吐かれた。
やはり黒酢五割は暴挙ともいえる沙汰であったようで、全く申し訳ないことをしたと反省すること頻りである。
口を真水で濯がせると多少静まったようであったが、水を口に含むのでもまた幾らかの葛藤はあったように見えた。
どうにもまた酢が入っているのではないかと警戒したようで、トラウマを残さないかと少し心配になる。
数分したら口を押さえてはいるものの落ち着いたようで、涙目でこちらを見上げていて、何か言おうとしているらしい。
促すと、責任とって今度ちゃんとした物を作ってくださいと言われ、それに首肯してから立ち上がりもと居た部屋へと一緒に歩き始めた。
途中ふらふらと危なっかしい足取りをしている早苗を肩に掴まらせ、両手に酒と肴を持って部屋に戻る。
掴まると言うよりはむしろ抱きつくと言ったほうが良い体勢なので、非常に歩き難くあまり早くは歩けない。
暗さも相まって、ともすればこちらが転んでしまいそうになりながら、ゆっくりと進んでいった。
部屋へ後もう半分と言うところで、微かな月明かりに照らされた小さな輪郭が目に入る。
あれは誰だろうと目を凝らしているとその輪郭は早足で近づいて来、やがてそれが阿求だと十二分に判る近さで止まった。
阿求は一つ指をこちらに突きつけ、こんなに遅くまでかけて何をしていたのかと尋ねてきたので、酒が無く汲みに行っていたと返し同意する声が背中から上がる。
声の主は今自分の首にぐるりと大きく両腕を回し、背に伸し掛かるようにして立っていた。
阿求はそれを見咎めるも早苗は何処吹く風と言った体で、けらけら笑いながら依然肩に顎など乗せて遊んだりしている。
それに気を悪くしたのか阿求は首に絡まる腕を解こうと背伸びをするが、そこは阿求も酔っている事も有って一向に解くことが出来ないでいた。
いい加減両腕も肩も重い事も有り、早いところ部屋に行って荷物を降ろしてしまいたかったが阿求に前を塞がれ動くにも動けない。
仕方が無いので一旦両手に持っていた酒を床に降ろし、背中の厄介者を阿求に渡してまた荷物を持ちあげる。
阿求は面食らった様な顔をしていたが、あまり待たせると拙いと急かしたてると彼女を支えながら後に続いて歩き始めた。
障子を肘で開け放ち中に入ると、小さい方の神様が大きい方のかいた胡坐の上に座っている。
これには阿求も少し驚いたようで、肩に担いで居るものも忘れてしばし何かを考え込んでいた。
何故そんなところに座っているのかと問いかけると、真似をしてみたが存外に気分がいいので続けていると答えられた。
まあ背もたれの付いた椅子と思えば存外に座りやすい物ではあるが、立場的に如何なものかと思う。
唖然としていると、ところで抱えている物を置いたらどうかと声がかかり、それでやっとまともに戻った。
自分は持ち物を卓の上に置き、阿求は幾分放り投げるようにしてもう半分寝入っている客人を座布団の上におく。
それを見て、先程の神様が膝の上から降り座布団を折り曲げたのを彼女の頭の下に潜り込ませ、そこらに置いてあった座布団を掛布団代わりに掛けていた。
しかし座布団ではあんまりなのでよその部屋から夜着でも持ってきてやろうと思ったが、放って置かれる酔っ払いというのも宴会の華かと思いやめる。
代わりに乗っていた座布団を一つ取り、自分の居た場所に投げて胡坐をかくと、また阿求はその上に座り酒の注がれた杯を持たせてきた。
自分はそれを受け取ると一息に飲み干し、阿求の腹に腕を回して更に抱き寄せた。
宴会は夜の遅くにようやっとお開きになった。
阿求は遅いのだから泊まっていけばいいと引き止めたが神様達はそれを固辞し、眠りこける巫女を背負って神社へと文字通り飛び去って行く。
飛び立つ間際に背中で寝ていた早苗が起き、約束は守ってくださいねと手招きをして言い、またすぐに眠った。
約束とは何かと阿求やら神様達やらに訊かれるも、自分にも心当たりが無いのでどうにも答えられない。
背中の早苗に訊こうにももうすっかり寝入っているため訊くに訊けず、明日訊くと言って神様は帰っていった。
二柱と一人の帰った後、暫く門前に立って後姿を見送っているとまた阿求に何の約束なのかと訊かれた。
とはいえ誰に秘密にするような話でもなく、真実覚えの無いものだからどうしようもない。
阿求は大分不満そうだったが、問い詰めても意味が無いと悟ったのか、それ以上の追求はせずに屋敷に戻った。
自分もその後を追って中に入り、何も言わずに阿求の後を付いて歩く。
その日は夜も遅く面倒なので、風呂に入らず着替えもせずに阿求と共に布団に入った。
次の日は終日阿求が不機嫌であった。菓子をやっても何をやっても一向に治る気配が無い。
二日酔いにでもなったのか、それともその他に何か嫌な事でもあったのかと思うがさして思い当たる節も無い。
ただ放っておけば何日も臍を曲げたままになるのも目に見えているので機嫌でも取ろうと考えていると客が来た。
呼ばれて誰だろうかと出て見れば、小包を抱えた早苗が所在無さげに立っている。
早足に近づき挨拶してから何の用かと訊いてみると、昨夜のお礼と一つ約束を果たして貰いたいと言ってきた。
やはり約束が判らず、渋面を作って何の約束かと尋ねてみようとした矢先に後ろから来ていた阿求に先に尋ねられた。
阿求の声色は先に増して不機嫌そうで明らかに怒気を孕んでおり、客に対して使う声音ではない。
早苗はそれを受けて尚にっこり笑うと、昨夜酷いことをされた責任を取ってくれると言っていたのでと言う。
自分は嗚呼それかと納得するが、阿求は経緯を知らず理由を知らず、説明を求める問い詰めの矛先はこちらに向く。
しかし仔細を語ろうとする前に、早苗が自分の手を取り早く外に出ろと引っ張ってきた。
片方では阿求が怖い顔をして睨み付け、他方では早苗が笑顔で自分を迫っついてくる
嗚呼両手に花とは言うが、これは面倒な修羅場だと骨身に沁みて思う昼であった。
新ろだ156
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幻想郷縁起、という本がある。
この本は、一人の少女によって書き綴られている書物だ。
たった一人で、何千年にも渡って。
少女は妖怪ではない。純粋な人間である。
ではどうして人間がそれほどのもの間、膨大とも呼べる数の書物を書き続けていられるのか。
それは少女の能力と性質のためである。
阿礼乙女――あるいは阿礼男と呼ばれる存在。
求聞持の――つまりは一度見聞きしたことを忘れない程度の能力を持ち、転生によって能力と記憶を受け継ぐ人間。
しかし、それも完全ではない。
その能力のためなのか、それとも転生の術を用いる事の代償なのか、三十まで生きることが無い。
加えて、転生の術を準備するには年単位での時間がかかる。
故に、普通の人間としての生活は殆ど期待できない。
その上、すぐに転生できるものでもない。
生きて、死んで、次の命へと繋ぐ。 人の、人間の摂理。
人の身のままでそれに背くという事は、大きな罪なのだろう。
故に新しい身体を用意してもらう為の対価として、地獄で数百年ほど働くのだという。
果たして、対価として軽いのか、それとも重いのかは判らない。
けれども、真っ当な人間は、次に少女が転生する頃には生きていない。
だから少女は恐怖する。 少女は孤独を感じる。
周囲に居る、近しい存在は全て、居ないのだから。
記憶の中にしか存在しない人を思うのは、どれほどつらい事なのだろうか。
最近は妖怪の知り合いが出来た為に、以前よりも和らいでいるとは聞くが。
やはり、親しい存在が傍に居ない辛さに変わりはなく。
屋敷に住んでいる者にでさえ、一線を引いて接しているのかもしれない。
悲しみが大きくならないように。
そうして思うのは、自分のことだ。
最早答えは出ているようなものなのに。
どうして、どうしてこの気持ちを諦めきれないのだろうか。
見込みなど無いに等しいのに。
こんなにも彼女に焦がれている。
――湖面の月は掴めない。 そんな当たり前の事すら忘れる程に。
「失礼します」
「どうしたんですか、○○」
「もうお昼だと言うのに、一向に姿を見せないので」
もしやと思って足を運べば案の定。
彼女――阿求は幻想郷縁起の執筆作業に没頭していた。
時間が限られているから仕方の無いことだとはいえ、食事を抜くのは身体に悪い。
だから、という訳ではないけれども、運んできたのだ。
「ああ、もうそんな時間ですか」
「調子が良いのは喜ばしい事ですが、身体を疎かにしては元も子もないですよ?」
苦笑しながら紡いだ言葉に、阿求は拗ねたような顔を見せる。
「わかってますよう。 ただちょっと、ちょーっとばかり忘れてしまっただけじゃないですか」
「通算八回はちょっと、とは言えない気もしますがねえ」
また○○が意地悪をー、と言って目元を袖で隠す阿求。
その行動を見ても、特に悪いことをしたとは思えない。
むしろ可愛らしく、微笑ましいとすら思える。
「何度目ですかねえその泣き真似。 しかし、すごく可愛いですよ、うん」
「ああ、酷く狼狽していた頃の純粋な○○は何処へ行ったのかしら」
「今にも消えてしまいそうなくらいに儚い、雪のような印象の阿求は何処へ溶けたのでしょうねえ」
言葉を言葉で返せば、今度は座布団が返ってきた。
寸分違わず顔に直撃するが、流石は座布団、何とも無い。
「こらこら、近くに御飯があるというのに」
「余計な事を言う貴方が――ああ、止めましょうかこんな不毛な話」
「口では私に勝てたことがありませんからねえ」
「悔しいけれども事実だから、聞かなかったことにしてあげる」
言いながら、阿求はてきぱきと卓上の墨やら筆やらを片付けている。
意識したら、お腹が酷く訴えてきちゃって――
顔には、はにかんだような笑み。
何気ない仕草の一つ一つが、どうしてか心を強くとらえて。
焦がれれば焦がれるほどに衝動ばかりが強くなる。
いっそ、今この場で押し倒してしまいたいとも思えるほどに。
「どうしたの」
「……まあ、少しばかり物思いを。 では、失礼致しました」
だが、本能的な衝動には従えない。
外来人である自分の面倒を見てくれた恩というのも、多分にある。
しかしそれ以上に、見知った屋敷の者ではなく、どこの者とも知れぬ自分に用事をよく頼んでくれている。
信頼を裏切る訳にはいかない。
最も、最近自分のことをよく使うのは、見知らぬ存在だからだというのも関係しているのかもしれないが。
屋敷に来てから半月が経つが、逆に言ってしまえば半月なのだ。
情も移りにくいだろう。 つまりは、そういうことだ。
加えて、外来人であるという事も大きい。 外の世界の話を何度かせがまれた事だってある。
今でも時間があれば、外の話をねだってはくるけれども。
(結局、それまでなのでしょうかね……。 確かに私のような存在であるならば、用いやすいでしょうし)
見聞きしたことを覚える程度の能力とはいえ、そうして知りえたことに意味を見出すかどうかはまた別の話。
少しばかり胸が痛むが、思い上がりも甚だしい。
そんな風に強がって、無理矢理にでも自分を騙すしかなかった。
それから一時間ほど経過して。
流石にもう食べ終えているだろうから、再び阿求の部屋へと足を運ぶ。
が、その途中でありえないものを見た。
屋敷の庭には、それは立派な桜が植えてある。
今は季節も外れている為、葉が生い茂るばかりではあるが。
重要なのはそこではない。 その桜の、最も太くて丈夫そうな枝の上。
そこに何故か、食事を行っていたはずの人物がいる。
錯覚や幻覚、といった思い違いで処理して、流そうかとも思った。
思ったが、しかし。
目の前の出来事が事実だったとして、スルーした後に何かが起こらないとも限りません――
その場合、責任は誰持ちなのかと問われれば、見過ごした自分だろう。
何事も無かったかのように流したくもなるが、やはり双方にとってよろしくない。
「仕方ありません、か」
軽く溜息を吐いて、桜の樹へと歩いていく。
「ああ、○○」
「ああ、○○。 じゃあないでしょう、一体何をしているのですか」
「木登り」
見れば判る。 いや、そうではなくて。
「聞き方が悪かったですね。 どういった経緯で木を登ったのか、という事です」
「高いところからの景色を見たかったんですよ。 そのついでに食後の運動をと思いまして」
聞く分には随分とアグレッシブな運動だ。
しかし、無茶をしないで欲しい。
最も、仕方の無いことなのかもしれないが。
あまりにも短いから。
その分、精一杯輝こうとする。
桜の枝に腰掛け、心地よさそうに風と日光を浴びる姿に、思わず眼を細める。
……ああ、眩しいな。
「それで、気分はどうですか」
聞くまでもないだろうな、と思いながらも尋ねられずにはいられない。
「とても良い気分よ。 風も、お日様も、今までに無いくらいに心地よいの」
例えるならば、些か安直ではあるが――ひまわりだろうか。
日の光に、よく映える花だ。
今の彼女と、同じように。
けれども、和やかな雰囲気はそこまでだった。
「心地よさに浸っている所を申し訳ないのですが、そろそろ降りてきてもらませんか」
「もう少し居ては駄目?」
「駄目です。 誰も居ないときに足を滑らせでもしたら、大変ですからね」
いくらなんでもそんなヘマは――そう言って、降りる為に立ち上がった瞬間、
「ぁ?」
足を、滑らせた。
「阿求っ!」
身体を枝に打ちつけはしなかったものの、危険であることに変わりは無い。
阿求の近くで話していたのが幸いした。
距離的には充分間に合う。 だが、問題は上手く受け止められるかどうか。
けれども迷っている時間など無い。 落下してくる地点を予測し、あらかじめ先回り。
そうして腕を大きく広げ、胸や体全体で受け止めるように体勢を整える。
直後に衝撃がきた。 それなりに高さのある桜から落ちただけあって、中々に堪える。
堪えるが、絶対に落とす訳にはいかない。
だから、阿求が腕に落ちてきた勢いに逆らわず。
勢いに任せて、自分から体勢を崩し、背中から落ちる――!
勿論腕の中の阿求はしっかりと抱きとめたまま。
(怪我はさせない)
背中に強い衝撃。 同時に胸にも衝撃。
庭には玉石を敷き詰めてあるのだが、今回ばかりはそれを恨む。
(息が……)
強い衝撃を背と胸に、それもほぼ同時に受けたことで息が詰まる。
だが、それだけ。 それだけだ。
しかし、予想以上にダメージが大きい。
阿求単体ならば問題は無かったかもしれない。 重力を甘く見ていたのが敗因か。
腕の中の阿求を確認すれば、どこにも怪我は無い様子。
勝った――第三部完、と続けたいところだが、そうもいくまい。
「大丈夫、ですか?」
何とか声を絞り出せば、阿求は最初こそ一体何がどうなったのか理解できなかった様子で。
呆けたような視線でこちらを見つめていたが、
「○○!?」
がばっ、と擬音が付きそうな勢いで胸から飛び起き、現状を理解する。
「いた、イタタタた……。 すみませんが中々に痛いので、もう少しこう、ゆっくりと」
軽口ではなく、実際に響く。 本音としては乗られているだけでもじわじわ痛いのだが、ここは痩せ我慢。
「ご、ごめんなさい……じゃなくて! 誰か、誰か医者を――!」
耳に阿求の叫びが届き、それを切欠として意識が遠のく。
それでも、それでも彼女が怪我一つなく、無事で居ることに安堵しながら。
視界が徐々に墨で染められていった。
次に眼を覚ましてみた物は、三途の川。
ではなく、見慣れた天井。
そのことに安心しながらも、あれから自分は一体どうなったのかと考えを巡らせる。
覚えているのは阿求が叫んだところまでだが、果たしてどれだけの時間が経過しているのか。
思考の海に沈みかけた矢先に、襖の開く音。
首だけを動かしてそちらを見やれば、赤青二色の特徴的な服をまとった人物――八意 永琳が。
「全治二週間って所かしらね。 まあ死ぬとまではいかない怪我でよかったけれども」
無茶をしすぎだと叱られた。
そもそも体格的に云々だとか、長かったのでよく覚えてはいないが。
兎も角、一段落してから話を聞けば、あれから四時間ほど経過していたらしい。
念の為に阿求も観たが、特に問題はないこと等を伝え、薬を置いて永琳は去っていった。
最後に、
「あまり無理をしては駄目よ。 貴方を心配する人も、いるのだから」
という言葉を残して。
それから少し眠ったような気がする。
まだ痛む身体を起こしてみれば、視界に飛び込んできたのは小さな背中。
「阿求?」
「やっと起きてきたんですね。 もうすっかり日も暮れてしまいましたけど」
どうして阿求が自分の部屋に、しかも日が暮れてからも居るのか。
蝋燭の灯に照らされた室内を軽く見回して、そこで初めて違和感に気付く。
「ここ、私の部屋ではないですよね」
「今更気付きましたか。 まあ、私の部屋が近かったので、運んでもらったのですよ」
「……男と女ですよ?」
「今は介護される男と介護する女です」
そういうわけですので、と前置きして、
「こうなってしまったのも私が原因ですから、回復するまでしっかり面倒見させて頂きます」
真っ直ぐな視線に射貫かれるような気がした。
何を言っても無駄だろう。 彼女の意思は梃子でも動きそうにない。
「せめて自分の部屋に戻してくれませんかねえ」
けれども、流石に阿求の部屋で世話になる訳にもいかない。
それだけは譲れない一線なのだが、しかし。
「個人的に嫌です。 何かあった時に誰かが傍に居ないと」
別に阿求でなくても良いのではないだろうか。
手伝いの方なら他にも居るのだし。
そう言いかけて、結局止めた。
多分、彼女なりの感謝と謝罪なのだ、これは。
自分が木に登って、落っこちてしまって。 それで結果として怪我をした人がいる。
それが誰であっても、きっと阿求は自分で世話をすると言うだろう。
怪我をさせてしまって申し訳ない気持ちと、助けてくれてありがとう、という気持ち。
その気持ちを彼女なりに形にすれば、こういった行動になるのかもしれない。
それならば、細かいことを気にするのは失礼であり無粋というもの。
「わかりました。 阿求の言う事は最もですし」
「そうですそうです。 ○○は大人しく私の世話になっていればいいのです」
言い終わるか終わらないかのうちに、阿求は行動に移る。
具体的には、私の為に用意してあったであろう食事――食べやすいように粥だ――を掬って、
「さ、口を開けてください」
私の口元へと持っていく。
「いや、食べることくらいは自分でできますよ?」
というより、体が痛むだけで普段の行動に支障は無いのだけれども。
「駄目です。 少しでも早く治って貰わないといけませんので」
頑として聞かない。 言い分は最もだが。
外の世界に居た頃は、こんな事とは無縁だと思っていた。
それだけに余計恥ずかしい。 恥ずかしいが、悪い気分ではない。
それどころか、嬉しいとさえ思う。
雛鳥が餌をねだるように、差し出されるままに口を開けて粥を食べる。
果たして、自分は今現在どんな顔なのだろうか。
頬にじんわりと熱を感じながら、そんなことを考えた。
それ以降、阿求との仲が深まったような気がしていた。
私の思い違いなのかもしれないのだが。
それでも、よく一緒に行動するようになっていた。
一歩踏み込んだ話を聞きたいと言われることもあった。
自分の中の想いが、どんどん募って大きくなっていく事も、自覚していた。
けれど、それは表に出してはいけない感情だから。
ぐっと押し殺して、彼女の傍に経ち続けた。
もしかすると、彼女は私の気持ちを察していたのかもしれないけど。
そうして進展もなく時間は過ぎて。
とうとう、その日が訪れたのだ。
このところ暫く、阿求は伏せっていた。
見るからに体調が悪そうで、起き上がるのも億劫。
それでも、私と一緒に居たがった。
だからなのか、周囲の手伝いさん達は私が行うべき仕事も引き受けて行ってくれた。
まるで、阿求の傍に居るのが仕事だとでも言うかのように。
そのお陰で時間だけはあったので、望みの通りに居ることは出来た。
「○○、今までありがとう」
突然にそんなことを呟かれて、
「どうしたのですか、今にも死んでしまいそうですよ?」
内心では動揺しつつ、いつも通りに返してみれば、
「だって……そろそろ、死ぬもの」
心を直接殴られたような気がした。
何もいえない、言うことができない。
私だって薄々とは感付いていた。 いたけれども、それだけ。
認めることができなかった。
認めたくは、なかった。
「ねえ○○、どうして私が死にそうなのに、父も母も姿を見せないと思う?」
ずっと疑問に思っていたこと。
そうだ、この屋敷に来てから長い時間を過ごしたが、一度も阿求の両親を見たことが無い。
けれども、考えないようにしていた。
己の推測が正しければ、それはあまりにも残酷なのだから。
けれども今、目の前で伏せる阿求は。
その事を告げようとしている。
「子供だと、思われていないのよ。 私達は」
阿礼乙女、ないし阿礼男は――短命だ。
加えて以前の記憶を引き継いで生まれてくる。
それを親は知っているから。
初めから死ぬと判っている子に、愛情など注げるのか。
判っているからこそ、注ぐものなのかもしれないが。
阿求の、いや、阿礼の子の親となった者は。
それをしていない。 自らの子ではなく、阿礼の子としか見ていない。
だから、この屋敷も。
稗田家の家であると同時に、阿礼の子の家でもある。
つまりは、そういうこと。
大きな屋敷だとは思っていたけれども、それがわかってしまうと逆に薄ら寒い。
「だからね、私はここで生きているの。 稗田家でありながら、稗田家ではない所で」
この屋敷の一角は、文字通り阿求に、阿礼の子達に与えられたものなのだ。
阿礼の子という存在を、切り離して置く為に。
「手伝いの人たちは、私の事を慕ってくれている。 けれど、それが辛いの」
別れる時に、とてもね――
「だから、少しだけ距離を置いて接してた」
もちろん、貴方にも――
「けれどね、どうしてなのかな。 何時の間にか、距離感が狂っちゃったみたい」
微笑んで、こちらを見た。
「本当はお墓にまで持っていこうと思ってたの。 でも、駄目」
それが貴方を苦しめるとわかっているのだけれども、と前置きして告げられる。
「私は、貴方が大好き」
「私も、貴女が大好きでしたよ。 阿求」
その言葉が、彼女を苦しめると判っていながら。
どうしても、告げずには居られなかった。
「なんだ、両想いだったのね」
くすくすと笑うが、その笑顔にも蔭りがあるように感じる。
「もっと早く告げていれば、色々でたかもしれないのに。 勿体無い事しちゃった」
「でも、これでいいのだと思いますよ、私は」
結果として、軽く済んだのだと思う。
「良くありません。 未練ばかりが残ります」
「それでも――」
次の言葉は継げなかった。
「せめてもっと早く言ってくれたなら、良い思い出だけを胸に抱いて逝けたのに」
「――――」
「貴方は私の事を想ってくれていた」
だから私が次に生まれる時、孤独感に苛まれないように案じてくれていた。
けれども、
「思い出全てが、悲しく残る訳じゃないわ」
暖かい記憶だって、思い出せるのだから。
孤独を感じたときに、それを思い出して。
いない人を想うことも、できるのだから。
そこから更に孤独を感じるのか、一人ではないと感じるのかは、自分次第。
「まあ、過ぎてしまったことは悔やんでも遅いから――」
もう少し、近づいて欲しい。
「最後にお願い、聞いてくれる?」
「喜んで」
――抱きしめて。
彼女の望み通りに、その細い身体を抱きしめる。
今にも何処かへ消えてしまいそうで、怖くて。
「暖かいね。 不思議と気持ちが落ち着いて、すごく安心できるよ」
自分の腕に収まる彼女の声は、少しだけ震えていた。
「もう少し早く、こうできればよかったのでしょうね」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
なんとも曖昧な言葉だ。
その曖昧な言葉の後に、でも、と続けて、
「今、幸せだよ。 こんなに満ち足りた気分なんて、初めてかもしれない位に」
あの頃と同じ笑顔を見せてくれた。
「ああ、やはり貴女の笑顔は素敵だ。 私はその笑顔に惹かれたんですよ」
「変なものよね、命が尽きる間際になって気持ちが通うというのも」
でも、悪くはないかな――
そんな呟きが聞こえて。
「阿求。 私が人でなくなっても、変わらず好きでいてくれますか?」
思わず、ずっと考えていた事を打ち明けた。
「どういう意味?」
「言葉のとおりですよ。 具体的には、妖怪ですかね」
ずっと考えていたことだ。 時の流れが違う彼女と共に歩む為には、どうすればいいのかと。
もっとも、自分の想いが成就するとは想像も出来なかったが。
「いいの?」
「何がですか」
「私よりも素敵な人、沢山いると思うのだけど」
「忘れることなんて出来ない性分でして」
きっと妖怪になるなら蛇ですね、と笑ってみせる。
「ずっと女で生まれてくるとは限りませんよ」
「些細なことです。 男だろうが女だろうが、貴女は貴女でしょう?」
「男の私にその気がなかったら?」
その時は良い友人で居ましょう――
「ばか」
「ええ、馬鹿も馬鹿、大馬鹿ですとも」
何せ寿命の違う人を好きになったのですからね、といつも通りに返せば、
「それじゃあ私も馬鹿ですね。 寿命の違う人を好きになったのですから」
そう返されて、二人で笑った。
「転生には数百年かかりますよ?」
「それでも待てます。 待ってみせますとも」
焦がれるのが恋ならば。
「それじゃあ待ちます。 待たせてもらいます」
焦がれられるのが恋ならば。
「だから、約束して下さい。 必ず私の傍に居てくれると」
悪い女ですよね、と笑みを見せて。
「約束しましょう。 必ず貴女の傍に居ると」
愚かな男ですよ、と笑みを見せて。
それから間も無く、腕の中で阿求は逝った。
とても満ち足りた、安らかな顔で。
葬儀が終わって暫くしてから、長い暇を貰う事、何時になるか判らないが、必ず戻ることを告げた。
そうして屋敷を出て、護衛を雇って紅魔館へと足を運んだ。
館の主は私がここに来ることと、その目的をあらかじめ理解していたようで、すんなりと図書館へ入れた。
そうして人が妖怪へと転じる方法を読み漁り、幾つかを頭に叩き込む。
その後で主に礼を述べ、私は人里を離ることにした。
――あれから数百年が経過し、私は再び稗田の屋敷へ戻ってきていた。
阿礼の子が誕生したとの話を聞いたからだ。
見知った顔は殆どいなかったが、私をいぶかしむ者はいなかった。
どうやら手紙が残されていたらしい。
補修などはされているが、間取りは昔のまま。
阿求の部屋は、今でも阿礼の子の部屋として使われているらしい。
「失礼します」
部屋に入れば、彼女はこちらを待っていたようで、
「女性を待たせるのは感心しませんね」
太陽の似合う笑顔で、出迎えてくれた。
変わらない。 けれど、二人の関係は変えていこう。
そう思いながら、謝罪の言葉を述べる。
新ろだ183
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「外の世界には、毎年十二月二十四日、二十五日に聖誕祭があります」
「せいたんさい? 誰かの誕生日を祝うのかしら」
流石に頭の回転が速い。
「イエス・キリストなる人物ですね。 彼は人を愛するべきという教えを説いて回りました。
結果、今でも教えは宗教として残っています。 かなりかけ離れてしまっているかもしれませんが。
後は――国によれば唯一神と同じ扱いをされていたりしますね」
そもそも、日本と幻想郷には唯一の神など存在しないからいまいち結び付かないだろうが。
「ただの人間よね?」
「まあ基本的には。 奇跡を起こしたとも言われてますが、確かめる術もないですし」
まあキリスト云々はこのあたりで切り上げておくとして。
「外の世界――幻想郷があるのは日本ですか――は多神教なんですけどね」
「どうしてか、祝っている、と」
確かに不思議なものですね、と阿求は微笑む。
「まあ、基本的にお祭り好きなのでしょう。 呑んで食べて騒ぐ為の口実ですね」
それに、大多数のお楽しみは別のところにあるのだろうし。
「ちなみに子供は二十四日の夜にプレゼントがもらえるので、それを楽しみにしています」
「それも不思議な話ですね。 渡す方じゃないんですか」
それもそうではあるが。 気持ちだけ供えるのが日本式というか。
「プレゼントを渡すのはサンタクロースなる赤服の人物ですから」
トナカイに乗って、子供達にプレゼントを配る老人。
もっとも、最近の子供は夢離れが進んでいるので、こっちに来ていそうだが。
「それも何か謂れのあるもので?」
「ええ、元々このサンタクロース、聖ニコラウスなる実在の人物でして」
前述したキリスト教徒の一人だ。
結婚できない娘達の居る家を不憫に思い、煙突から金貨を投げ入れた。
そのとき、暖炉にかかっていた靴下の中に入り、そこから――
「二十四日の夜、靴下の中にプレゼントが、という話になった訳ですね」
「素敵な話ですね」
その表情を見て、実際には親が子供の欲しいものを買ってきているのだという事は伏せておいた。
ここは幻想郷だ。 夢そのものともいえる場所で夢を壊すのは無粋というもの。
「最も、日本でのクリスマスは名ばかりで――プレゼントこそありますが
キリストの聖誕祭というよりは、主に大切な異性と過ごす一日としての側面が強いです」
「それでも素敵な話じゃないですか」
そう言って微笑むが、しかし、
「相手が居る人はそうでしょうけど、独り身の人は地獄ですよ」
何せ、出かける先で幸せそうなカップルに出会うのだから。
独りでいる自分が惨めに思えてきてしまうのも無理はない。
「それこそ人を愛せ、の精神ですよ」
「それができれば戦争も幻想郷に入ってこれますよ。 個人的には遠慮願いたいですが」
それならば、争いは無くならない方が良い、というのは悪人の考えか。
「外の人間は、見ず知らずの他人の為に幸福を祈れる方が珍しいですから」
もちろん、自分も含めてですが、と付け加えてお茶を啜る。
「祈って、願うだけならタダなのにですか?」
「生憎タダより高い物はない、という言葉もありまして」
またそうやって返す、と苦笑いされてしまった。
でも事実だ。
「つまり、○○は祈れない側だった、と」
「ははは、万年独り寂しくですよ。 こっちに来ても、風習が無いだけで変わ――」
言いかけて、けれど言えなかった。
「○○」
阿求の声に応えてそちらを向けば、唇に温もり。
「違いますよね」
微笑みを浮かべて、確認を取るように問い返されてしまえば、こちらとしてはもう何も言うことなどなく。
「そうでしたねえ」
顔が熱を帯びていることを自覚にしながら、笑って見せて。
今年は幸せを祈れそうだな、などと考えてしまったりして。
「来年の日の出を見れるよう、願でも掛けましょう」
「それならこちらは、貴女が再来年も日の出を見れるように願でも掛けましょうか」
今年のクリスマスは、一風変わった、けれど楽しいものになりそうだと、そう感じた。
必ず別れが訪れようと、その時まではせめて――
互いにとって、幸いな時間が多くあれ、と――
新ろだ190
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外の世界では、あまり雪が降らない。
だからなのだろうか、冬の幻想郷は、良く雪が降る。
「いやあ、今日も降ってますね」
昨晩から降り続けて、すっかり分厚く積もっている庭は、朝日を反射して煌く。
まさしく幻想。 現実の中にも、わずかながら幻想は存在する。
夕日と雲が空に描く、美しい風景画を見ていた日々が蘇るようで。
年甲斐も無く気分が昂揚して、新雪に足跡を残しまくる。
「朝から元気ですね」
「外じゃこんなに積もる事も稀ですからねえ。 雪を見ること事態、随分と久しぶりですし」
だから自然に顔が緩んでも仕方の無いこと。
しかし、そんな感じで舞い上がる自分とは対照的で。
「寒くないんですか? そんな薄着で」
火鉢が温まるまで布団から出ないつもりなのだろう。
彼女は顔だけを出して布団に包まっている。
「いやあ寒いですよ。 寒いですけど、嬉しいんですよ」
震えながら吐き出す息は白い。
しかしまあ、いくら嬉しいとは言え限度はあるもので。
「あ、そろそろ無理だ」
さくさくと雪の音を残して、そそくさと部屋へ駆け込む。
そうしてすっかり冷めた布団に潜り込んで縮こまり、思い出すのは、
「そういえば私が来たときに着用していた防寒具は何処へ?」
愛用していた黒いコートのことだ。
「そういえば何処かに仕舞ってあった筈ですけど。 でも洗い方わかりませんから、においが……」
確かにそれは不安ではあるけれども。
「まあでも、その分暖かいですし。 少し重ね着した上から羽織るだけで割と行動できるかと」
こちらの防寒具もなかなか暖かいけれども。
というか、冬の厳しさはこちらの方が上なのだろうが。
「じゃあ探してくださいよ。 私は動きませんから」
「本当に寒いの嫌なんですね貴女。 折角差し上げようかと思っていたのに」
そういう事ならば話は別です、と。
火鉢が温まった頃合を見計らって布団から抜け出た。
自分もその後に続いて抜け出して、手伝い始める。
コートはほどなくして見つかった。 気になっていたにおいもさほど問題はない。
むしろ甘くかぐわしい果実臭が漂っている。
「何かしましたか」
「まあ、ちょっと知り合いの妖怪から聞いた保存方法を」
どんな保存方法なのだろうか。 気になるがちょっと怖い気がしたので聞かないでおく。
「ともあれこれで阿求も外を駆け回れますね」
「駆け回ること前提で話を進めないで下さい」
部屋が暖まってきたことで、彼女も本来の調子に戻ったようだ。
こうでなくては面白くない、というもの。
「そもそもどうしてそんなに雪が好きなんです」
「冬の生まれでして。 だから無意識にテンションがアチョー入るのかもしれませんねえ」
もうギアが三段くらい一気に入ってる今の自分。 ステイ私ステイ。
ほら現に阿求が不思議そうな顔で小首をかしげて――たまらなく可愛いですねああもう!
「ごめん○○、言っている事が少しわからない」
「いやあすみません、自分テンション高くなると一部にしか通じない俗称とかだだ漏れでして」
簡単に言うと、嬉しくて楽しくてたまらないということです。
そう伝えると、納得した表情を浮かべて、
「なるほどそういう意味でしたか」
などと笑ってくれるのだからもう。 もう……。
「ああ、今すごく可愛いですよ阿求。 自分には勿体無いくらいに素敵だと、心からそう思いますよ」
柄にもなく本音を冬の空気にさらしてみれば、顔と身体は余計に熱く。
「さらっとそういう事を言わないでください。 その、嬉しいのと恥ずかしいのがいっぺんに来てしまって」
――勢いに任せたくなってしまいますから。
消え入りそうな、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどか細い声。
見れば顔は耳まで紅い。
「あ、熱いですよねこの部屋。 ちょっと外の風に当たりましょうか」
恥ずかしさをごまかすためか、そう言って彼女は庭へと出て行く。
朝日は姿を潜め、再び雪が降り始めていた。
「どこかの雪女がはしゃいでるのかもしれませんね」
阿求の表情は苦く、どこか暗い。
不思議に思っていれば、
「私、雪は嫌いなんですよ」
唐突に呟きが。
「触れればすぐに溶けて消えてしまうでしょう? なんだか、自分を見ているようで――」
温もりに触れれば水となって消える雪。
ああ、確かにそうかもしれない。
温もりに触れれば、その分涙が増えるから。
悲しくないように、辛くないように、寂しくないようにと。
触れるか触れないか、そのぎりぎりの線を手探りで探しながら。
薄氷の壁で己を律して。
「私は好きですよ。 自分よりも暖かい存在に触れればすぐ溶けてしまう、その儚さも」
それに、と言葉を続ける。
「消えはしませんよ。 土なら土に、人肌なら人肌に。 水として溶け合うのですから」
「それでも、風が吹けば乾きます」
「それでも、少しくらいは吸われます」
付け加えるならば、
「こうして固めてしまえば、そう易々と溶けて消えるものではありませんし。
日陰に積もったならば、尚更長く残りますよ」
そう言うと、
「敵いませんね、どうも」
力を抜いた笑みが咲く。
「私だって敵いませんとも」
同じように咲かせて。
「後悔しても知りませんよ? たくさん降らせて大雪にしてしまいますから」
「望むところですとも。 風や太陽では太刀打ちできないくらいに固めますから」
この雪と同じように――
ふれふれ、つもれ、おもいゆき――
新ろだ195
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大晦日に自室の火燵に入りながら元日になるのを待っていると、どこからか鐘のなる音が聞こえてきた。
はてこのあたりに寺なんぞあったかいなと思いながら酒を呑んでいると、阿求が目をこすりながら火燵の中に入ってくる。
卓の上に置いた腕時計を見ると年が変わるまであと幾らも無いと言う時間になっていた。
阿求は自分の対面に陣取ると卓の上に出していた肴を奪い、眠気覚まし代わりにと噛み始める。
「こんな時間にどした。眠ったんじゃなかったんか」
酒の入った杯を隠しながら尋ねる。別段酒に弱いというわけでは無さそうだが、子供に飲ませるのは気が引ける為だ。
「ええ、ちょっと新年を一緒に迎えたかったもので」
半纏の袖で頬を隠しながら、嬉しい事を阿求が言ってくる。自分は笑いそうになるのを留めながら、杯の中の酒を呷った。
「それともう一つ用事がありまして」
「ほう、なんね?」
阿求が身を乗り出して来、それに釣られて一緒に火燵の上に身を乗り出す。
二人の額が引っ付きそうになる距離まで近づくと、阿求は言った。
「お年玉下さい」
「無いよ」
即座に返事をすると抗議の声を阿求が上げる。
「まだ早いし、そもそも食客に強請らんでおくれ」
「食客ならお酒なんて呑まないで下さい」
阿求はなおも抗議して来るが自分はそれを無視し、徳利から酒を杯に注ぐ。
その様を阿求は睨むような視線で見ているが気付いていない振りをし、杯を少し上に掲げて言う。
「何、こいつらは自分の稼ぎで買ったもんだよ」
阿求はまだ不満そうだったが、一瞬何かを思いついたような顔をすると、笑みを浮かべながら火燵を出、此方に近寄って来た。
その不可解な様に多少警戒を強めていると、阿求が自分のすぐ横に座りながら言う。
「無いなら別の玉でもいいんですよ」
「うん? ギョクの類なんざ持っちゃおらんぞ」
「いえいえ、そんなものじゃありません」
阿求はそう言うと自分に横から抱きつき、肩の上に顎を乗せながら言った。
「子供が欲しいですね。玉のような」
危うく咽そうになるのを押さえて阿求の顔を見るが、冗談を言っているような顔には見えない。
「そいつは十月十日待たにゃならんからお年玉にはならんだろう」
苦笑しながら言うと、阿求は少し怒ったような顔をして自分と火燵の間に滑り込み胡坐の上に陣取った。
空いた腕を腰に回してずり落ちないようにしてやると、阿求は自分に凭れかかり、肩に後ろ頭を乗せる。
幾らかの時間そのままの姿勢で過ごすと、不意に阿求がもうすぐと言う。
何がかと思って阿求の方を見ると、何時の間にやら頭を起こし、卓上の時計を見ていた。
「もうすぐ年が変わりますよ」
「そうやね。あと数分か」
言いながら酒を呑む。阿求は黙り込んでどうやら何かを考え込んでいるらしい。
頭でも撫でてみようかと腰に回した腕を解くと、股座の上に座った阿求はもぞもぞと動いて対面に座りなおした。
「あと二分です」
耳元で阿求が言う。どこで時間を見ているのかと思ったが、向き直る際に腕時計を奪っていたらしい。
杯を一旦卓に置きその手で阿求の頭を撫で付けると、阿求は此方の頬に擦り寄ってきた。
首筋に掛かる鼻息の多少のくすぐったさを堪えていると、後ろ向きに加重が掛かり阿求に押し倒される形になる。
阿求は始めはしてやったりといった表情で自分を見下ろしていたが、居場所を腹の上に伸し掛かるようなものにし、また顔を近づけてきた。
鼻先が触れ合うくらいの距離まで阿求は顔を近づけるとそこで止まり、またちらりと時計を見る。
横目に見たそれはあと凡そ三十秒ほどで針が一並びになるような時刻だった。
しばし、と言っても十秒程度のものだが、の間二人見詰め合った姿勢で固まる。
始めに動いたのは自分であった。このままで居ても意味が無いと思い、体を起こそうとしたのだ。
しかし阿求はそれを遮るように体重を掛けて、なおも寝かせたままにする。
体を起こす事を諦めると阿求は三度顔を近づけて来、二人の唇が触れ合った。
どの程度の時間経ったか、短くもないが長いとも言えない時間の後、阿求がゆっくりと顔を遠ざけて行く。
「二年越しですね」
その言で先程のは時間を計っていたものと悟る。
よくやるものだと思いながら後頭をぽんぽんと叩いてやると、それを合図にしたように阿求は体を横に移し、一緒に自分も体を起こす。
阿求は自分が体を起こしきったのを確認すると、またまたの間に座り込み胸に凭れ掛った。
「明けまして、今年もよろしくお願いするよ」
頭を撫でながら阿求に言うと、阿求も自分の頬に手をやりながら応えた。
「はい。それではお世話しますので、よろしくお願いします」
言って二人顔を近づけ、また口付けをした。
新ろだ248
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「はぁ……」
茶を啜り吐息を一つ。
阿求は、掘り炬燵でまったりしていた。とにかくまったりしていた。目の前には玉露と温州。これ以上の贅沢はない。
対面に座る青年はさっきからもくもくと蜜柑を胃に収めている。元来無口無表情な彼であるが、よく見るといつもより眉根が緩んでいる。
「ん~」
まるで時間がゆっくり流れているかのよう。この上なく幸福だと、阿求は思う。
はふぅ、と息を吐いて、炬燵の上に頭を寝かせる。そのまま首を回し、最近一緒に住むようになった青年をもう一度見た。
すると、視線に気づいてちらりと阿求を見たものの、すぐにまた蜜柑を食べ始める。
む、と短く唸る。その反応は気に入らない。
そう思ったので、阿求は炬燵から身体を引く抜くと、いそいそと彼の側に回りこんで、
「よっこいせ」
「────」
強引に、彼の脚の間を空けさせ、そこにちょこんと収まった。
青年は何も言わなかったが、蜜柑を食べる手は止まっていた。
それをいいことに、阿求は青年の手を取り、自分の腹を抱くように持ってくる。
青年の胸に体重を預け、眠たい猫のように、彼の肩に頬を擦り付ける。そのまましばらく、背中から伝わってくる熱を感じていた。
「ん……」
ぐ、と不意に青年の腕に力が篭もる。肉の薄い腹にかかる圧迫を、心地よいと阿求は感じた。
腕は腹だけでなく、阿求を囲うように、閉じ込めるように、強く抱き締めてくる。
両腕の上から抱かれているので、もう阿求は自分の意思では身動き一つとることはできない。
逃げられない。
押し付けられた青年の鼻先が、阿求の髪を掻き分けて赤い柔肉を見つける。既に、阿求の身体は熱に浮かされたように震え、耳は真赤に染まっていた。
青年の乾いた唇が、それを食んだ。
「は、ん……」
がっつくような真似はせず、じわじわと、湿り気が耳を浸食していく。
つ、と舌先が耳の外縁をなぞっていく。常人より少し高い温度の水が触れるたびに、阿求は熱い吐息を洩らした。
水の音が、皮膚を通して直接鼓膜を震えさせる。
「あ、ん、ふぁ……」
自由を奪われた阿求は、つたない声でしかその感覚の表現を赦されない。
抱き締める腕の力はますます強まり、痛みさえ伴うのに、しかしその全てが阿求の中で熱に変換されていく。
密着した全身から伝わってくる鼓動は、青年もまたこの行いに昂ぶっていることを教えてくれる。
固い感触。青年の歯が、何度も何度も確かめるように、耳の肉を噛む。電信のようにリズム良く跳ねる柔らかな痛みに、阿求の喉から細い声が洩れた。
愛撫は止まらない。彼の口は阿求の右耳のほとんどをその内に収め、甘噛みを繰り返しながら、舌で容赦なく、執拗にねぶっていく。
耳朶をなぞる舌先は、とうとう敏感な内側にまで辿り着き、ぐりぐりと無理にその充血した先端を捻じ込もうとする。
その度に圧縮された空気と唾液の触れ合いが淫靡に歌い、阿求の幼い肢体から、力を奪い去っていく。
「ひゃ、ぁ、やぁ……!」
直接、脳を陵辱されているかのよう。漏れ出る喘ぎは悲鳴じみていて、けれど目尻に浮かぶ涙は、悲哀からでは決してない。
抱き締められ、耳を弄ばれているという、それだけの行為なのに、何か途轍もなく悪いことをしているような背徳感に身を焦がし。
そしてそれから逃れられない、逃れようともしない自分を受け入れる。
されるがままに身を預けるという快楽に、彼女は浸っていた。
だから、彼の唇が耳から離れたとき、喉から切なげな呻きが漏れた。
「は……」
彼の腕の拘束が緩み、茫とした頭のまま振り返ると、彼と視線がかち合った。
どちらからともなく顔を寄せ合う。青年の唇が阿求のそれと触れ合った。
横抱きにするように位置を変え、右手は阿求の身体を、左手は頭を支える。唇の啄ばみは、細かくお互いの頭の位置を動かしながら、余すところなく行われた。
けれども決してそれ以上は、青年は踏み込もうとしなかった。阿求の呼気を奪い、言葉を封じ、唾液の混交を赦さなかった。
それが阿求にはじれったい。まるで襦袢の上から受ける愛撫のようなもどかしさに、我知らず、瞳が潤みを帯びていく。
もっと、と、堪らず視線で催促しようとして、──それより一瞬早く、彼の舌が唇の裏側に滑り込んだ。
「ふむ、ぅん……!」
不意打ち。
ぬち、という音。青年の舌が、歯と歯茎の段差をぞろりとなぞった。
舌先で歯をこじ開けると、容赦なく青年は阿求の口腔に侵入する。反射的に反らした首は、けれど大きな手に押さえ込まれ、逆により強く接合した。
一瞬、息が詰まる。だがそれだけに青年の動きを感じられた。
「んんっ、ちゅ、はぷっ、ちゅ……」
唇の端から、言葉にならない息がこぼれる。
口の中にじわじわと唾液が滲み出てくる。異物感に反応してか、それとも、極上の味を思い出したからか。
青年はそれすら味わおうとするように、遠慮なく、阿求の唇を、歯を、舌を犯していく。
代わりに流れ込んでくる彼の味に、阿求の意識が蒸発していく。もう何度繰り返したか分からないこの行いは、その度に、劣化しえぬ焦熱をもたらし続ける。
「ぷ、は、んん……ちゅ、ちゅる、んん……」
ともすれば力が抜けてしまいそうな身体を、彼の服を握り締めて必死に支えようとし、けどそれも、結局長くは続かない。
「はちゅっ、じゅっ、ぁっ、んちゅ、ん──!」
じゅるるるるるるるるぅ……!
正気を喪わせるような、卑猥な音色をわざとらしく立てながら、青年が阿求の口を吸い上げる。
たっぷり十秒間は続く音の中、阿求の身体はびくびくと痙攣し続けていた。
「は、ぁ……」
泡立ち、白濁した唾液の橋が引かれ、そして自身の重みで落ちた。
服が乱れ、露になった阿求の鎖骨を唾液が汚す。口の端からは溢れた液体が零れ、頬に線を引き、首筋にまで伝っていた。
瞳はどこか茫っとしていて焦点を結びきれておらず、浅く長い息が半開きの口から漏れ出している。
それでも、青年の腕は阿求を解放していない。
「……、ぁ……」
差し出される赤い肉。彼が何を求めているか分かったので、阿求は何も考えることなくそれに応える。
瞼を閉じ、小さな口を大きく開き、ぬらぬらと光る舌を精一杯に差し伸べた。
「ン……」
先端が触れ合い、そして徐々に貼り合わされていく感覚。
かと思えばずるりと彼の舌が蠢き、刺激に慣れていない裏側の柔らかな肉をつついてくる。
「ァ、んぷちゅ……」
躊躇いなく、再び侵入する舌。先程と違うのは阿求のそれも、彼を求めて蠢いていることだ。
まるで潤滑液のように唾液はとめどなく溢れ、顎を伝い二人の間に落ちていく。混ざり合って、どちらのものかなど分かりはしない。
阿求はやや顎を上に持ち上げ、懸命に舌先の彼を感じようとし、彼もまたそれに応え、より苛烈に、直接的に絡んでいく。
舌尖が味蕾をなぞるたび、電気の味が阿求の脳裏に弾ける。口だけの触れ合いだというのに、指先まで痺れが伝播して、身体から力が抜けていく。
「ンンッ、っふ、あ、んじゅうぅ……!」
双方の舌は別の生き物のように、まだ足りぬと蠢動しつづける。
口の端から泡立った粘液が吐き出されてなお、自分を満たしてくれる何かを求めて這いまわる。
「お、ぼォ……!」
ずぶりと、これまでより一際深く青年の舌が阿求の口腔に突っ込まれた。
反射運動として喉がえずき、胃の腑から苦い物が込み上げてくるが、その味すら楽しむが如く、彼は存分に少女の口を犯していく。
奥歯の歯茎や、舌の付け根、上顎に至るまで満遍なく彼の長い舌にねぶられていく。
通常ならありえない場所への接触に、満足に呼吸することすら許されず、胃から肺からじわじわと吐き気が込み上げてくる。
(ああ、ああ……!)
だがそれすらも、今の阿求にとっては快感を助長するものでしかない。
食べるための器官が、逆に内側から貪られている――その異常な悦楽に酔い痴れている。
(わたし、この人に、食べられてる――)
いっそのこと、と思う。唇と舌だけでなく、全てを。
指先から爪先から、自分のおとめの全てに至るまで、この人に食べてもらえたら、それはどれほどの幸せなことだろう。
阿求はそれをいつも渇望しているし、恐らくは青年も同じ心であっただろうが――それでも、今は駄目なのだ。
「あ……ン、っは、だ、めぇ……!」
だから、必死に身をよじって快楽の束縛から逃れ、声を上げた。
着物の襟から滑り込もうとしていた彼の手を、そっと押し留める。
「それ以上は、まだ、駄目ですよ……?」
告げる声は、けれど阿求自身辛そうだ。本当ならこんなことしたくはないと。全てを為すがままに任せてしまいたいのだ――と。
しかしそうはできない事情が、阿求にはあった。
仮にも、屋敷持ちの旧家の娘である。御阿礼の子としての役目は幻想郷縁起の完成を以て終わってるとはいえ、まだ嫁入り前の少女であることに変わりはない。
後々、この青年と一緒になることは既に認められているとはいえ、守らなければならない節度というものは存在した。
「…………」
潤み、熱を孕んだ瞳で阿求は青年を見上げる。そこにどのような意志が含まれるのか、阿求自身にも分からない。
これまでと同じように堪えて欲しいのか、しきたりなど無視して犯して欲しいのか。
だがそのどちらであるにしろ、阿求が答えを見出す前に――彼は阿求を押し倒していた。
あ、という声を上げる暇もあらばこそ、彼は三度唇を重ね合わせる。
「ァ、んん、っぶ、は」
そのまま赤い穂先を強引に捻じ込み、乱暴な抽送を繰り返した。
性交の代わりとするように、その動きは乱暴で執拗で、ただ強く阿求を求めていた。
「おッ、ぼ、ぉ、じゅ、んんっ!」
じゅぷじゅぷと、水と空気が混ざり弾ける音が、狭い室内に響いている。
二人の身体は既に炬燵から出てしまっていた。転がり落ちた食べかけの蜜柑の行方を気にするものは誰もいな。
彼は右腕を阿求の腋下をくぐらせて頭を抱き、左手は阿求の右手に絡めた。
「はっ、ばぁ、ぷぢゅ、ん、んぶぅ……!」
阿求もまた、空いた手で彼の服をしっかと握り、着物の裾からはしたなく伸びた脚で彼の身体にしがみついている。
傍目から見れば少女が男に犯されているようにしか見えない。だが二人の行為は、あくまで首から上だけに限定されていた。
小さな身体は押し潰されるように抱かれながら、それでも、間に存在する布地の数だけもどかしさと情欲を募らせた。
(ああ、好き、好きです、好きぃ……!!)
「んぁっ、ァ、っぷぁ、はぢゅ、ぅぅンっ!」
言葉として発することのできない想いを、行為に全て込めるように、二人は首から上だけの交わりに没頭した。
衣服の下で蠢いている熱も淫欲も、今許されていることだけで、全て伝えてしまいたいと。
「ぢゅ、は、んじゅぅ、ぅぁ、っああ、はぶッ、ン、ちゅく、んん、っぱぁ、んん――――ッ!!」
二人の行為は、これより十分後、訪れた上白沢慧音が黄色い悲鳴を上げながら成年の尻を全力で蹴り上げるまで続いた。
新ろだ251
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その日はとても寒い朝だった。
不用意に彼女が布団から出した手先はすぐに凝り、瞼を開ければ涙も凍るのではないかというほどだ。
部屋には火鉢があったが火は無く、隣に敷かれた布団には誰も居らずで、つまりは暖を取れるものは布団しかない。
彼は、隣の布団を使っていた人間は起きたかを見に来るかしらん、と阿求は期待するが一向に来る気配は無く、仕方無しに彼女は枕元の半纏を布団の中に引き摺りこんだ。
火鉢に火ぐらい入れて行ってくれてもいいのに、と八つ当たり気味に考えながら阿求は暖めた半纏に袖を通すと、障子を顔一つ分開けて庭の様子を窺い、寒い訳を思い知った。
なにせ眼前の庭には雪が高く積もり、誰が造ったのかは知らないが二三人は入れそうなかまくらまであったのだ。
寝る前には降っていなかったし、深夜から明け方辺りまで降っていたのか、しかし見逃したのは残念だ、と阿求は思う。
阿求も大量の記憶を抱え、本の編集まで出来るとは言え、流石にまだまだ子供な性質もあり、雪ともなれば喜色満面であるのだ。
この分なら池にも川にも氷が張っているでしょうと、阿求は半纏に続き着物も布団の中で暖め、着替えると朝食を食べに居間に向かった。
居間には座布団が二つと火鉢が一つ、それと男が一人いた。
男は阿求が障子を開けた音に気付いたのか、そちらに顔を向けると挨拶をし、少し火鉢の前から移動する。
阿求もそれに返事をすると、背中からその男に抱きつき一緒に火鉢に当たった。
こんなところに居るのなら布団の中に居ればいいのに、と阿求は男の肩に顎を乗せながら思うが、そうもいかないかと内心溜息を吐く。
何せ彼はただの居候なのだから、いつまでも眠りこけていると言う訳にはいくるまい。
まあ寝ているのと火鉢に当っているだけなのとでは大した違いが無いとも言えるのだが、それは体面の問題だ。
やがて食事が運ばれてきたので阿求は背中から離れ、一人で膳の前に正座した。
朝食を食べ終え、熱い茶を飲みながら阿求は新聞を読んでいる。
その内新聞も読み終えると、阿求は男に今日は何か予定はあるかと訊いた。
男は何も無いと首を横に振ると、それはいいと阿求は手を叩き、なら後で一緒に善哉を食べに行こうと男を誘った。
美味しいお店が通りに出来たらしいですよと阿求は言う。男はそういう情報は何処で仕入れるのかと苦笑しながら承諾した。
ざぐりざぐりと里の大通りを転ばないように二人は小股で歩いて行く。
男は外から流れてきた登山靴を、阿求は革の靴を履き、両者とも黒色の外套を羽織っている。
懐には鷹の爪数個と火鉢で温めた小石を懐炉代わりに入れ、暖を取っていた。
昼も過ぎて大分雪も緩んでいるとは言え、日陰では踏み固められた部分が氷になっていて滑らないとは言えない。
阿求は転ばないようにと男の腕に掴まり、男はその所為でよろけそうになりながら、しかし阿求を突き放すことなく慎重に動く。
腕を離して歩いた方が安全じゃなかろうかと男は思っていたが、必死の形相でしがみつく阿求にそのようなことを言えるわけも無く、言う気に成る訳も無い。
結局二人して二度三度と転びながら目的の甘味屋に着いたのだった。
甘味屋はお八つには少し早い時間にも関わらず存外に盛況で、店の椅子は八割方埋まっていた。
そのうちに奥まった所の二人掛けの卓に案内されると、阿求は善哉を、男は阿求の勧めで大汁粉を頼む。
届くまで少し時間が掛かりそうだったので、熱いほうじ茶で手先を温めつつ、無駄話に花を咲かせた。
曰く、少し背が伸びただの庭の冬牡丹に花がついただの、或いは寺小屋の試験問題を難しく作ったら怒られただのだ。
もっぱら阿求が話し、男はそれを笑いながら聞いていたが、時折、例えば、全体何故こんな天気の日に外出なんざしたのか、というような問いをした。
その随分適当な問いに、阿求はこんな天気だからしたんですと言うような、やはり適当そうな意味の深そうな返事をする。
男はその答えに多少考え込むような表情を作るが、やがてどうでもいいかと言うように阿求に向き直り、阿求とのお喋りを再開した。
さて品物が来ると男は顔に疑問符を浮かべ、それを疑問に思った阿求が何故渋面を作るのかと問い質した。
すると汁粉なのに何故に漉し餡なのだろうか、と割と切実そうな声で男は言う。
阿求は漉し餡は嫌いですか、と問いかけると、男はそんな事は無いと答えた。
ならいいじゃないですかと阿求はそこで切り上げようとするが、しかし男は渋面を崩さない。
このときの渋面の意味は未知との遭遇のそれであったが、当然だろう、丼一杯の汁粉など普通ありはしないのだから。
蓮華と箸を両手に持ち、男は意を決して食べ始める。阿求はそれを笑いながら見ていた。
六割程度を食べた所で男は嫌になって汁粉を食べるのを止め、大分先に普通の大きさの善哉を食べ切っていた阿求は、その残りを貰うと嬉々として食べ始めた。
男は些か謀られた感もしたが、阿求は善哉とお汁粉の両方が食べられると喜んでいたのでとりあえずは良しとする。
だけれどもまあ、頼むなら善哉ではなく豆かんなり葛きりなりの汁粉とは似ていないものにすれば良かったのに、と男は溜息を吐く。
しかしまあどうでもいいことか、と餡蜜を追加注文する阿求に茶を喉に詰まらせながら男は思った。
予断だが、大汁粉はその店の人気商品らしい。
なんでも一つの杯を恋人同士で分け合うのが流行っているとか言う話だ。
新ろだ295
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目の前で繰り広げられるどんちゃん騒ぎ。
そこには人妖の区別はこれといってなく、皆思い思いに楽しんでいる。
「ほんと、あいつらはいつも元気だなー」
「○○さんだっていつもならあの中に飛び込んでるじゃないですか」
そう言ってくすくすと笑う阿求。
確かに普段ならあの輪に入って腹踊りやら一気やらをやったりしている。
祭り好きの人間として、どんちゃん騒ぎが嫌いなんてことは
まったくもってないのである。
「いいんですか?行かなくて」
「いいよ。たまにはこうしてのんびりと酒を飲むのも」
杯をくいっと一杯。
「……オツなもんだ」
置いた杯に、とくとくと澄んだ液体が注がれる。
徳利を持つ細い手の先には、愛しい妻の姿があった。
「そういうものですか」
「そういうもんだよ」
僅かばかりの間の後、ほぼ同時に相好を崩す。
「それに」
注がれた一杯をぐいと飲み干し、ごろんと横になる。
頭は彼女の膝の上。ここ最近の定位置である。
「こうしてお前と二人で過ごせる時間もまた、いいもんだ」
まあ、と少し驚いている阿求の顔ごしに天井を眺める。
「あらあら……嬉しい事をいってくれるじゃありませんか」
そろりと手が伸び、俺の顔を優しく抱く。
針金のようだ、と揶揄された髪に、細い指が絡みつく。
一向に静まる気配のない外の騒ぎを見ていると、
不意に彼女が口を開いた。
「ねぇ、あなた」
「なんだ」
「そろそろ子供が欲しいとは思いません?」
「っ……ごほっ、ごほごほっ!」
あまりにもな内容に、飲み込みかけた唾が気管へと入ってしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
膝枕の状態から起き上がり、地面を見つめながらしばし咳き込む。
いつか母親にされたように背中をさすられ、落ち着くまで数分。
再び先の膝枕体勢に落ち着き、話を再開する。
「"子供が欲しい"とかお前な……そういう事はもっとこう」
「?」
「……いや、何でもない。気にしないでくれ」
「はい」
終始ニコニコとしてはいるものの、どこか真剣味を帯びた目。
茶化して流そうと思ったが、そうもいかないらしい。
真面目な話なのだから起き上がって話を、と思ったのだが、
"どうかそのままで"とやんわりと押さえられてしまった。
後頭部に感じる、枕とはまた違った柔らかさを堪能しつつ、話をすることにした。
「で、子供の話だったか」
「はい」
ニコニコしていた顔からはいつの間にか笑みが抜け、真剣さだけが残っていた。
「どうしてまた突然……まだ俺たちには先があるじゃないか」
形式上俺こと○○と阿求は夫婦である。これには間違いも相違も何一つないのだが、
いかんせん二人してまだ成人には遠かったりする。
というのも、親同士が勝手に、宴会の席で取り決めてしまいやがった縁談だからなのだが、
俺たち二人はというと割とすんなりと受け入れていた。
小さい頃からちょこちょこと交友があったからというのもあるのだが、
実のところはとてもシンプル、俺は阿求に、阿求は俺に惚れていただけのことであった。
ただ一つ不満があるとすれば、告白しようと思ったその日に縁談を決めてしまったおかげで、
やり場のない決意と勇気と恥ずかしさの塊を発散するのに、少々日数を要しただけである。
失礼、話が逸れた。
夫婦である以上はいつかは子を為すのが自然、いや、必然。
かといって若いのだから、まだまだ楽しみたいお年頃なのである。
"阿求は違うのか?"という意味合いの視線を送ってみると、
無事に通じたようで、彼女は真面目な顔をしたまま、それでいて僅かに頬を朱に染めつつ、口を開いた。
「その、あなたの仰りたいことも重々承知で――私も思わないでも――こほん、分かっているつもりです。
ただ、私たちの一族、とりわけ御阿礼の子として生まれた者は、一般的に短命と言われています」
そういえば婚姻の儀をする際に、色々言われた事を思い出した。
それが何だ、と阿求の親族相手に啖呵を切ったのは、ついぞ先月のこと。
先程のびっくり発言も、背景を鑑みればすぐに分かりそうなことだった。
「だからこそ、か」
「ええ」
「でもなー……お前、それでいいのか?」
頭の上に「?」が見えんばかりの顔をする阿求。
「子供が二人に増えてしまうぞー?」
膝に頭を置いたまま体を反転――うつ伏せに――させ、彼女の細い体を抱き締めた。
「ちょ、ちょっとあなた!?」
「うはは、よいではないか」
もぞもぞ、となんとか引き剥がそうと服の裾を捕まれたり、頭をぽかぽかと叩かれたりしたが、
ここは男と女である。しばらくして彼女も諦めたのか、同じように横になる。
「もう一度聞く。お前は本当にそれで"良い"のか?」
しばらく間が空く。ほんの十数m先で繰り広げられる宴会の音が、えらく遠くに感じた。
「……さっきの短命云々、というのは実は、本音半分の建前で、その……」
ごにょごにょ、と肝心の部分が小さくて聞き取れない。
「聞こえないぞー」
「……との……を、……しょに……」
「もう一度頼む」
ずるずる、と床を僅かに這い、阿求の口元まで頭を寄せる。
「貴方との子を、一緒に育ててみたくて」
阿求の顔は、炬燵で燃え上がる炭火よりも赤くなっていた。
胸にこみ上げてきた愛おしさそのままに、妻を抱き寄せる。
「なあ、阿求」
「……はい」
「俺は幸せもんだよ」
「はい。でも、私も負けないくらい幸せですよ」
ふふ、と僅かに笑う声。吐息が前髪にかかる。
「それじゃあ、俺達の子供はもっと幸せにしてやらないとな」
「そうですね」
二人して、くすくすと笑いあった。
後日、いつのまにか撮られていた写真を新聞にされ、
酒の肴として色々囃されることになるのだが、それはまた別の話。
新ろだ308
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自分が彼女の私室に入ったとき、彼女はこちらに背を向けて書き物をしていた。
「阿求」
呼びかけると、阿求は筆を止めてこちらを向きなおる。
何の用かと小首を傾げる彼女の横に座ると、懐から小さな箱を取り出し言った。
「結婚しよう」
箱の中には前から、本当に前から用意していた小さな指輪がひとつ。
阿求はそれを見ると数瞬固まり、そして首を振って言った。
「だめですよ……」
自分の言に、悲しげに阿求は顔を俯かせる。
「前に言ったじゃないですか。私は先が短いって」
泣いているのかもしれない、阿求は肩を震わせながら言った。
「それでも……!」
しかし自分の話す前に、阿求はそれを遮る様にして顔を上げ言った。
「エイプリルフールと言う奴でしょう。あなただって納得してくれたじゃありませんか」
真っ赤な目で精一杯に睨み付け、阿求はこちらを威嚇している。
自分は、膝の上で血の出そうなくらいに強く握り締められた彼女の手を取り上げ、自分の膝に置いた。
「それでも構いやしないだろう。俺がお前を欲しいだけなんだ」
両の手で尚震える阿求の手を包みながら言う。
「それともお前は俺と一緒になるのは嫌なのかい」
また俯いてしまった阿求の頭を見ながらそう尋ねると、阿求の動きは全く固まってしまった。
どうしたことかと思っていると、少しして段々と阿求の体が自分に向かって落ちてくる。
それを抱きとめると、阿求は自分の胸の内で肩を震わせ、声を殺して泣き始めた。
そのまま抱き締めていると、泣き声に混じって何事かを小さな声で呟いているのに気づく。
しかし耳を澄ませて聞き取ろうとしても聞き取れず、やがて多少は落ち着いたのか、阿求は顔を上げると泣き声交じりに言ってきた。
「そん…なことを言われっ……たら、私だって我慢が……」
ぐずぐず泣く阿求の頭を撫で擦りながら、ただ落ち着くのを待つ。
返事を貰うのはまた後ででもいいだろう。机に置かれた箱を見てそう思った。
「そういえば、ひとつ話しておくことがあるんでした」
阿求は自分の膝の上に頭を置くと、頬をぺちぺちと叩きながら言ってくる。
自分がなんだ、と促すと、阿求は咳払いをひとつして続けた。
「私、赤ちゃんが出来たみたいです」
満面の笑みで腹を擦りながら阿求は言う。
それを信じられない、といったような面持ちで自分は見ていた。
「嘘…だろ…」
ついつい口を出てしまった言葉に阿求は笑いながら返した。
「エイプリルフールって言うのは、悪い嘘は吐いちゃいけないんですよ」
>>新ろだ432
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登っても果ての見えない、いつまでも続くかのように思えた石段。
とはいえ本当に終わりのないと言うことはなく、その頂上が見え始めていた。
やがて目の前が灰一色の景色から、青と緑の世界に変わる。
「やっと着いたか……」
誰に言うでも無しに呟いていた。
石段脇に手水場を見つけ、歩み寄る。
柄杓の一つを取り、左手、右手、口とゆすぎ、水を頭に何度かかける。
頭の粗熱が取れる頃合に後ろから声が掛けられた。
「あら珍しい、参拝者? 素敵なお賽銭箱はあっちよ」
振り返ると腋の開いた珍奇な装束を着た巫女がいる。
親指で指し示した先は参道で、その終わりに社殿があった。
とりあえず賽銭箱に手持ちの幾らかを放り込み、鈴を鳴らすと巫女は満足そうに頷いた。
手招きをされ、促されるままに付いていく。行き着く場所は縁側だった。
簾の下で冷えた茶を一杯貰い一服する。
「それで、用件は?」
適当に世間話をした後に切り出される。
「ここから向こうに帰してもらえるんなら帰してもらおうと思って」
「ああ、外からの人なの。それじゃ渡し賃十円五十銭ね」
金を取るとは。しかも存外高価だ。
「それじゃあ1弗あげよ……」
言った端から手を払われた。金に兌換すれば結構いい値になると思うんだが。
「まあ冗談よ。それじゃ準備するからちょっと待ってて頂戴」
巫女はそのまま奥の部屋に引っ込んで行き、縁側には自分一人になった。
茶と一緒に出された漬物を食いながら、幾らか待っていると巫女が戻ってきた。
もう暫くすれば準備が整うので、それまで待っていて欲しいとの由である。
どういった手順で帰るのかと聞いていると、不意に横から声が掛けられた。
「そうですか、やっぱり外に行ってしまうんですか……」
「!」
聞き覚えのある声。振り向くとそこにはやはり見知った顔がいた。
「なッ……阿求!」
「この間神社の場所を聞かれたときから、そんな予感はしていたんですが……」
彼女はゆっくりとした足取りで近づいてきた。
どうしたのかと巫女が尋ねてくるが、自分にも把握できていないのでどうとも言えない。
「何でここに…?」
「今日大荷物を持って出かけるのが見えたので、急いで後をつけてきまして」
大荷物というのは迷い込んだ時に持っていた鞄のことだろうか、確かに教科書などが入っていてそれなりに大きい。
知り合いだったの? と見れば判ることを巫女が訊いて来るが無視する。
「いや、そうじゃなく」
「どうやってかですか? もちろん歩いてです」
これでも結構体は強いんですよ、と続けてくる。体は弱いと聞いていたのだが。
巫女がどういう関係か、と肩を揺すりながら訊いてくるがそれどころではない。
「いや、何でここに来たんです?」
「恋人が旅に出ようって言うのに、引止めに来ちゃいけませんか?」
後ろでほほうと面白い物を見つけたかのような表情で巫女が頷く。
正直鬱陶しいがそんなものに構っている暇はなく、問いかける。
「恋人って……誰と誰がで?」
周りを見回しても人はいない。この場にいるのは三人だけである。
「もちろん、私とあなたです」
俺は眉根を寄せながらまた問いかける。
「いつそんな関係になりましたっけ?」
「酷い! 腕枕だってしてくれたじゃありませんか」
「あれ、そんなことしましたっけ」
「一昨昨日の夕立の日にもやってもらいました。まあ私が潜り込んだんですけど」
「起きた時に左腕が妙に痺れていたのはその所為か……」
阿求は素っ恍けるようなはぐらかすような、そんな調子で受け答えていた。
「あー、痴話喧嘩は余所でやってくれる?」
唐突に後ろから声がかかる。今まではさんざ無視していたが、これは無視できない声量だ。
巫女はそのままこちらに向き、言葉を続ける。
「あんたも、喧嘩したからって一々帰ろうとしないで話し合いなさい」
「そういう理由で帰りたいって訳じゃないんだが……」
しかしその有無を言わさぬ物言いは、こちらの意見など物ともしない。
「阿求ももっとちゃんと繋いでおかないと」
「はあ、すみません」
これには予想外といった面持ちで阿求が謝る。
「ほら、分かったら向こうでやって頂戴。ただでさえ暑いっていうのに」
巫女が明らかに邪魔そうに、手を追いやるように振った。
渋々といった表情で両者手水場の傍の木陰に移動する、途中で論点がずれているのに気づいた。
「で、向こうに帰るって言うのはどうなったの?」
「え? まだ帰るつもりなの?」
巫女がきょとんとした顔で聞き返してくる。まさか本当に痴話喧嘩とでも思っていたのだろうか。
「仲直りして、里で仲良く暮らしてなさいよ」
どうやらそのまさかだったらしい。巫女は呆れたとでも言いたげな様子である。
「そんな、夫婦だなんて」
阿求は阿求で盛大に真ん中をすっ飛ばしている。
頬を赤く染める阿求を見て巫女が笑い、俺は頭を抱えていた。
どうやらというかやはりというか、巫女は同じ女の味方のようで、これは自分の分が悪い。
「仲直りも何も、端から仲違いなんざしてやいないんだが」
「喧嘩してないんなら、帰って家で遊んでなさいよ」
七面倒臭そうに巫女が言う。俺は続けて言う。
「だから喧嘩したからとかじゃなくって、帰りたいから家に帰せって言ってるんだが」
巫女は溜息をつきながらそれを聞き、溜息をつきながら言う。
「しょうがないわねえ。じゃあ右腕に掴まりなさい。阿求は背中ね」
よくは判らないが、言われたとおりに右腕に掴まる。
こんなに簡単な方法で戻れるのなら準備など要らなかったのではないか。
外に出るにしては阿求もいるのが気にかかるが。
「ところで阿求の家って里のどの辺り?」
「真ん中くらいの一等地を占拠してます」
「待て待て、何で稗田の屋敷に行くんだ」
「何でって、家に帰してあげようとしてるんじゃない」
当然でしょ、とでも言いたげな表情で巫女が言う。
「何よ、あの階段下りたくないでしょう?」
「そりゃあ下りたくは無いが」
「じゃあいいじゃない」
「稗田の屋敷に戻るつもりも無いんだが」
「……あの家は嫌ですか?」
巫女の背中に乗っかっていた阿求が言う。
肩越しにかろうじて見える目元は些か悲しげに見える。
「まあ場違いなんで、肩身が狭いって言うのはありますわな」
右腕から離れ、木陰に移り言う。阿求も背中から下りて近づいてきた。
「場違いってなんで?」
やはり近づいてきた巫女が問うてくる。
「外の者だし、家人でも無いから」
俺は肩をすくめてそれに答えた。
「でも誰も何も言ってはいませんよ。寧ろ男手が増えて喜んでいます」
「男手って言ったって役にゃ立たんでしょう」
「それでも嬉しかったんですよ、私は。雇われたのではない人が来るのは」
すぐ傍までやってきた阿求に見上げられ、俺は思わず目を背けた。
「ねえ、あそこが嫌いだと仰るならどこか他のところに移りますか?」
唐突に阿求が言い、それに巫女が応じて言う。
「なら結婚しちゃったほうがいいでしょ」
それは内の者になってしまえと言う意味なのだろう、実際そういう者も多いと聞く。
つまりはこちらの人間、一部の好き者は妖怪、と恋に落ちてそのまま結婚する人間だ。
そのような例もあるのだし、結婚するのには問題ないのかもしれない。だが自分にその気は無い。
「結婚だのというわけにはいかんでしょう」
盛り上がりかけた彼女らに水をさすような形で割り込む。
「まだ幾らの付き合いというわけでも無いんだし、それに若いんだから」
「付き合いが浅いと言うなら、もうちょっとここに居れば良いじゃないですか」
発言は藪蛇だったかと後悔する。これは要らぬ手札を与えてしまった。
「それが良いわね、それじゃあお茶でも飲んでいきなさい。後で送っていくわ」
巫女が話を〆にかかる。全く自分の首を絞めるとはこの事か。
また簾の下で冷茶を飲んでいる。違うのは左で阿求が寄りかかっているということだ。
巫女は後ろでうんざり半分微笑み半分といった塩梅で眺めている。
やがて茶を入れた椀に水滴も付かなくなるような頃、阿求が完全に肩にもたれかかってきた。
長い間歩いた所為で疲れていたのだろう、どうやら寝入ってしまったらしい。
頭をゆっくり下ろしてやり、膝の上に乗せて頭を撫でてやる。
それを見ていた巫女が声をかけてきた。
「満更でもなさそうじゃないの、阿求のこと」
「好かれるのは構わないさね。そりゃあ」
冷やかすようでも無い、大分真面目な口調であったので相応に応じてやる。
「だからと言ってそれとこれとは話が別さな、結婚とは」
膝上の阿求が動いた、様な気がした。
「……つまりは遊び、とは違うか」
目元を険しくして巫女が尋ねる。それに首を横に振って答える。
「いや、なんだろうか。仲の良い友達というか、そういう関係かね」
そこで話を区切り、ぐいと一息に茶を流し込む。
「まあ生来適当な性分だもんでその手のことも億劫になってしまっているのさ」
空になった椀を置きながら続けた。巫女は思案顔で茶を飲み、やがて口を開く。
「別に何とかなるでしょ、そのくらい」
その口振りは或いは呆れたといったものあった。
「今までもよくやっていたんでしょう。それなら何とかなるわよ。まあ恋人も居ない私が言っても詮無い事かもしれないけど」
そう言ってまた茶を啜る。どうやら温茶であるらしい。
「かも知れない、し、そうじゃないかもしれない」
俺もまた飲み止しの阿求の茶を奪って飲み、言った。
「それでも結婚は御免なのさ。特に婿入りは」
奪った茶もまた一息に飲み干し、椀を置く。その時阿求がむくりと起き上がった。
「そんなに私と一緒にいるのが嫌ですか?」
阿求は起き上がるや否やそのようなことを口走った。どうやら寝ぼけ眼に会話の端々を聞いていたらしい。
「枕も共にした仲だというのに」
と言って阿求はさめざめと泣くように、目元を着物の袖で隠した。
それを聞いた巫女が音もなく近づいてきて耳元で囁いてくる。
「ちょっと、ちゃんと責任取りなさいよ」
その声色は明らかに怒気を孕んでいて、何もしていないにも関らずとても怖い。
「なんの責任だよ」
俺が言うと、それを聞いてか巫女が更に怒りの表情を帯びていった。
「女の子に恥かかせて、なにもしないっていうの?」
「誰も同衾なんざしちゃおらんがな」
怒っているのは、一緒に寝た、と言う意味合いの言葉だろう。
しかし記憶にある限りそのようなことは一度も無い。
「酔っ払って忘れてるんじゃないの」
「酒なんか滅多に呑まないんだがね」
妙に突っかかってくるのは同じ少女だからだろうか。幾分自分の旗色が悪い気がする。
「大体ブラフの可能性だってあるだろうが」
「はったりでもあんなこと口走ったりしないわよ」
成る程確かにそうかもしれない。だがブラフだからこそともいえよう。
「腕枕みたいに潜り込んだとかじゃないのかね」
自慢じゃないが、俺の夜は遅く朝はとても遅い。
夜中に潜り込んでしまえば、気づかれずに抜け出すのは容易だ。
「既成事実作るだけなら見せないと意味ないじゃない」
巫女の言うことは尤もなことだ。しかしやけに詳しいところが、将来どうなるか気にかかる。
「いいからここまできたらいい加減腹を括りなさい」
握り潰さんばかりの力で肩を引き掴み、巫女が言う。俺はそれに反する。
「えい、無い腹など括れんぞなもし」
掴んだ手を振り解こうとするが、一向に緩む気配すら見えなった。
「霊夢」
その時何処とも無しに声がすると突然青空に亀裂が入り、そこから誰かが飛び出してくる。
それは白い服に前垂れのような物をかけた金髪の女性で、日傘を差していた。
「紫、あんたいつから見てたの?」
巫女はそれが出てくる方向が予め判っていたかのようにそちらに目をやり言った。
阿求も既に泣き止んだか、或いは最初から嘘泣きだったのか、目元を隠すのを止めて新たな闖入者のほうを見ている。
「霊夢、彼を帰しちゃダメよ。彼の思い通りにさせては」
「判ってるわよ、それぐらい」
霊夢、紫と呼び合った彼女らはしかし自分には非常に都合の悪いことを話し合った。
紫と呼ばれた日傘妖怪は巫女の言葉を受けて満足そうに頷いていたが、こちらは到底納得できるものではない。
「ちょっと待て、なんで帰れんのだ」
言うが両者はとても冷ややかな目を向けるだけで、特に何も言っては来なかった。
「女の子を弄んでおいて逃げられると思って?」
溜息を吐きつつ先に口を開いたのは日傘妖怪だった。いつの間にか阿求のすぐ傍まで移動している。
「観念して、里の一員になってしまいなさい」
巫女も巫女でそのような無理難題を吹っかけてくる。阿求は乗り遅れたようにうろたえている。
「何もやってないっての、俺は潔白じゃ、裏を取れ」
「裏ねえ……」
日傘妖怪が目を横に、阿求のほうに向けけ、尋ねた。
「本当に一緒に寝たのかしら?」
「はい」
間髪入れず阿求が答える。
「いや、他の人に訊くもんだろそれは」
「さて、落とし前はきっちりつけてもらわなきゃね」
俺の発言は無視され、力の政治が始まりかける。
「他の人が知っている訳は無いでしょう」
「俺はやってないって言っているんだが」
「しらばっくれているだけじゃないの?」
全く男と女で酷い扱いの違いだ。出来試合とはこのことか。
「大丈夫よ」
日傘妖怪が突然に口を開く。
「稗田の家はお舅さんもお姑さんも優しいわ、たぶん」
「それは何に対してかかってくるので?」
意図することが全くわからず困惑する。しかも言ってることは憶測だ。
「良かったじゃない、婿と舅の争いは怖いんでしょう?」
こちらも意味不明なことをのたまう。
「いや、なんでまた結婚するって話になってるの?」
「そう共寝して……それでも尚結婚を拒むというの」
虚空から巨大な牛刀が現れる。彼女はそれを持ち大仰に構える。
「なら、私が責任もってあなたを食べて差し上げましょう」
突きつけられた牛刀の切っ先は鋭く尖り、歯もよく研がれているらしく光っている。
「最近はあまり食べてないとはいえ、私とて妖怪。人間くらいは嗜みますわ。まあ……」
じろじろと自分の体を上から下まで嘗め回すように日傘妖怪が見ている。
俺はその視線から逃れるように半身をよじる。
「まあ、あなたは痩せぎすで随分喰い出がなさそうですが」
「あの、紫様……」
阿求が横からおずおずと口を挟んでくる。
「紫様、苛めるのもそのくらいにしておいてもらえませんか」
「あなたがそう言うなら、そうしましょう」
途端に牛刀がしまわれ、代わりにその手には扇子が握られていた。
「有り難い。助かった」
「いえ、どういたしまして」
一息つき礼を言う。喉の渇きを覚え茶碗に手を伸ばすも中身は何も無い。
そういえば先程すべて飲み干したのであった。
話も区切れたからと、巫女が代わりの茶を用意しに台所へ向かっていった。
しかし、一番いなくなって欲しい日傘妖怪はそのまま縁側に居座り続けている。
「大体阿求はどう思っているんだ?」
俺が聞くと、阿求は何が? という表情を返してきた。
「結婚云々の事。特にどうとも言ってなかったけど」
ここまで話して得心がいったのか、阿求は手を叩いて理解の旨を示す。
そしてこちらに向き直り、居住まいを正してこう言ってきた
「不束者ですが、どうぞ宜しくお願いします」
横で日傘妖怪が囃し立て、巫女に早く来いと呼び寄せている。
巫女は急いで、茶碗の三つ乗った盆を運んできた。
日傘妖怪は文句を言っていた。なんで自分の分の茶が無いのかと。
巫女は、あんたが早く来いって言うからでしょ、と一蹴したので仕方なく自分で取りに行ったらしい。
「後はあんたのほうだけね」
巫女が言う。正直、茶飲みすぎだろ俺と考えていた俺は聞き取れずに聞き返す。
「だから、あんたさえ腹を決めてしまえば結婚が決まるのよ」
未だに続くその話。将来仲人小母さんにでもなるつもりなのだろうか。
「結婚はせんよ。なんにしろまだ若すぎる」
苦笑しながら言い返す。巫女がまた言ってくる。
「若すぎるって、別にあんたくらいの歳ならとっくに結婚してるわよ。阿求くらいでもいるわね」
「外だと、三十路超えてから結婚するのが多いのよ」
日傘妖怪が補足する。俺はそれに頷いて肯定する。
「外は随分遅く結婚するんですねえ」
阿求も巫女も驚いたようで目を丸くしていた。
「でもここは幻想郷だし、もっと若いうちに結婚しても良いのよ」
巫女が言う。日傘妖怪もそうねと頷く。
「まあ、重要なのはあなたの気持ちね」
日傘妖怪が言ってくる。その右手には何処から持って来たのか酒瓶が握られていた。
手早く蓋を開けると茶を飲み干した椀に注ぐ日傘妖怪。巫女も自分のにも入れろと茶碗を差し出している。
注ぎ終わり、酒瓶を勢いよく置くと巫女が訊いてきた。、
「どうなの? 阿求のこと好きなの?」
「そりゃあ、まあ嫌いではないが」
「嫌いでは、無い?」
何か詰問するような調子で茶碗と御幣が寄せられる。
「随分歯切れの悪い返答じゃないの」
御幣が額に刺さる。
「何なら好悪の境界をきっちり引いてあげましょうか?」
日傘妖怪が茶碗を頬に押し付けながら言う。
「ほら、はっきりしなさい」
どちらとも無しに言ってくる。もう半ば脅されているといっても良いのかもしれない。
そんな二人の方を見たくなく、自然に顔は阿求を見るように動く。
「阿求のことどう思ってるの?」
阿求は頬を赤く染め俯き加減になって、それでもこちらをしかと見つめていた。
それを見て自分も小っ恥ずかしくなってしまう。
「ちゃっちゃと吐いて故郷のお母さんを安心させてあげなさい」
阿求は目があった所為か、更に頬を赤くして不安げな顔を横に背けてしまった。
その時自分は、そんなに不安そうにしないでもいいのに、と考えていた。
嫌いでは無いといって言ること、何より態度から好意を持っている事は判るだろうに。
「ほら、どうなの」
巫女が尚も詰問する。阿求とは対照的にこの二人は期待で顔が満ち溢れていた。
俺は一つ嘆息してから言った。
「言えるわけ無いでしょう、こんな雰囲気で」
それで場は一気に崩れた。
それもそうだ、や意気地無しめといった諸々の雰囲気の残滓が表出し、そしてすぐに消えていく。
巫女は呆れたような素振りを見せると、酒の肴を作りに台所に引っ込んでいった。
日傘妖怪は別の酒をもってくると言って、目を放した隙に何処かへと去っていった。
阿求も気の抜けたように畳の上に座っている。それを手招きして呼びつける。。
なんでしょうという風に、嬉しそうに近寄ってくる阿求を抱き寄せ、耳元で只一言好きだと言う。
そうして阿求を開放すると、阿求も自分の耳に顔を近付け、私もですと囁いた。
そのまま彼女は自分の胸に傾いてきたので、それをゆっくり抱きとめた。
/*
巫女が戻ってきた時に見たものは大分予想外なものだったかもしれない。
なにせ先程まで離れていた阿求が膝の上に乗って体を揺すって遊んでいるのだ、まあ魂消よう。
ただ巫女の反応もそれだけで、結局痴話喧嘩だったんじゃない、と言うと椀に注がれた酒を呑みそれぎり黙ってしまった。
もう少しすると日傘妖怪が戻ってきた、こちらは酒瓶を幾らも抱えて持って来ている。
自分にもたれかかる阿求を見ると大層驚いたような好々爺然とした顔をしていた。
「それで、なんて求婚したのかしら?」
数杯酒を呑んだ後、日傘妖怪が訊いてくる。
「まだそこまでは言ってないが」
適当に肴を摘みながら答える。これから屋敷に戻らないといけないので茶椀の中身は茶のままだ。
「結局帰るのは辞めたのね」
巫女が言ってくる。
「ああ、世話かけてすまないが、今は帰るのを辞めとくよ」
「別にいいわよ、おかげでいいお酒が呑めるんだもの」
「あら、今はって? まだ帰るつもりなのかしら?」
言うと酒を呷る巫女と茶々を入れてくる日傘妖怪。
「おや、実家に帰ることもできんので?」
それに軽口で返してやると言い返された。
「今からそんなことじゃ先が心配ね。尻に轢かれるんじゃないかしら」
「大丈夫ですよ」
膝上に座っていた阿求が言う。
「あの家にはいろいろな物や部屋がありますから、きっと帰せなくするでしょう」
なにやら含みのある物言いとその表情は、随分と歳不相応なものに見えた。
「まあ帰る帰らないはそこまでにして、一つ固めの盃といこうじゃないか」
「それは親御さんに挨拶してからでしょう」
割り込んできた軽い声に応答し、茶を喉に流し込む。
声の主はいつの間にか隣にいた角の生えた童女だった。
「……なんだこれ?」
「鬼でしょう」
巫女は事も無げに言ってくれる。
「……この神社に普通の人はいないのか」
「いないわ」
それを即答してくれるな、巫女よ。
「ほら、辛気臭い顔してないで呑め、今夜は無礼講だ」
そう言って酒を茶碗に注ぐ鬼と、あんたはいつもそうでしょうと突っ込む巫女。
どうやら今日中に屋敷に帰るのは諦めたほうが良さそうだ。
うpろだ1285
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今日も今日とて阿求を膝の上に乗せて縁側に座っていた。
阿求は幻想郷縁起を書き終えて時間があるようで、日がな一日のんびりと何かをしている。
今は黄色に熟した富有を手に、どうすれば口の周りが気持ち悪くならずに食べられるかを悩んでいた。
四つか八つに切ってしまえば楽なのにそれは嫌いらしく、蔕を持って回しながらどこに齧り付こうか逡巡している。
その可愛らしい様を眺めていると玄関の開く音がして、程なくして女中が阿求を呼びに来た。
それに応じて阿求が柿を皿に置き、ゆっくり立ち上がると玄関に歩いていく。
さて折角の寛いだ時間を邪魔したのはどういう輩なのかしらんと思っていると、阿求と朱色の誰かがやって来た。
大きな籠と小さな箱を持ってやってきた彼女らは、手を上げて挨拶をすると自分の横に荷物を置いた。
自分もそれに手を上げて応じると、近くの部屋から座布団を持ってきて手渡した。
「いつぞやの神様。どれくらいぶりですかね」
座布団を荷物の横に置いて、上掛けを取ろうとしている二柱に話しかける。
彼女らは脱げば寒いと思ったのか、袖まで外したところでまた着込んでボタンを留めながら言う。
「大体一月ぶりくらいかしら。あの柿どうだった?」
目線で庭に植わっている一本の柿の木を示す。
それは前回やってきた時に、甘くなると言われたものだった。
「残念ながら甘いのと渋いのが半々でしたよ」
それを聞くと、さもありなんといった表情で帽子を取りながら穣子が言った。
「でしょうね。もう生っていたらあんまり良くはならないもの」
そしてけらけらと笑う。
しかし甘いのと渋いのが入り混じったものを食わされる方としては余り面白くはない。
甘柿は干し柿にするのには適さないし、甘柿と思って食ったら渋かったなど落胆と言ったものではない。。
「まあそんな顔しないの。お詫びにこれを持ってきたわ」
自分の渋面を見たのか、脇の箱を差し出しながら言ってくる。
それを阿求が受け取ると蓋を空け、中身を取り出す。中に入っていたのは鍋であった。
「アルマイトの鍋? こっちでは珍しいっちゃ珍しい」
アルマイトはアルミ表面に酸化皮膜を作ったものだ。
基本的にボーキサイトも電気もない幻想郷では供給は外から流れてくるのを待つことになる。
「違う、その中」
苦笑しながら言われる。蓋を取ると中には茶色の塊が入っていた。
一つ手に取ると汁が指についてべとつく。
半欠け口に入れた感触は柔らかく、甘く、齧った断面は薄い茶色だった。
「渋皮煮か」
言いながら残りを口に放り込む。
阿求に行儀が悪いと窘められるが、気にすることでもないだろう。
「これだけ作るのは大変だったでしょう」
二個目をまた文句をつけてきた阿求の口に放り込んで言う。
渋皮煮を作るのは時間と手間が大分掛かる、面倒な作業だ。
鍋一杯にあるが、自分の分なども含めれば相当数作っているだろうし、相当の時間が掛かっているだろう。
「収穫祭が終われば時間があるからいいのよ。煮ている最中は暇だし」
そう言いながらまた脇に置いてある籠を差し出してくる。
またそれの中を見てみると、米や栗の他に南瓜やら胡麻やらが入っていた。
阿求が怪訝な表情で見つめると、また穣子が言う。
「そっちはもう一つのお土産。みんなで食べて」
それを聞くと、阿求はびっくりした様な声で言った。
「こんなに沢山頂けませんよ」
それに穣子は手を振って構わないという表現をして答える。
「この間のお礼だし、いいのよ」
「でも……」
言い淀む阿求を静葉は手招きして、籠の近くに寄させる。
上げてみてと籠を持たせて力を入れさせるが、籠は端が少し浮くばかりでちっとも持ち上がらない。
やがて観念したのか阿求は籠を下ろし、痛そうに手を振っている。
それを仁王立ちして見ながら、二柱は言う。
「重くて持って帰りたくないし、受け取ってちょうだい」
阿求はゆっくりと首を縦に振った。
女中が茶と茶菓子を持ってくる頃合には、銘々適当に座布団を敷いて座っていた。
例えば自分は縁側から足を放り出し、阿求はその膝の上に座り、神様達は柱にもたれたり肩にもたれている。
彼女らはその姿勢のまま、好き勝手姦しく喋り、自分はそれを熱い緑茶を胃に流し込みながら黙ってみていた。
「それにしたって、何でまたこんなに持ってきたんです?」
縁側で話す話題が途切れた瞬間を見計らって切り出す。
二柱は何がと言う顔をしている。それは阿求も同様だ。
「いや、この間の礼にしては随分多いから」
補うように言うと、静葉も同調した。
「確かにちょっと多すぎる気もするわねえ」
籠の中を覗き込みながら言う。
中身は女中らが手分けして持っていったが、それでも依然として四半分程度は残っている。
「いいじゃない余ってたんだし。腐らせるよりは良いでしょ」
そう言って穣子が口を尖らせ、阿求も同意する様に頷いている。
「去年も畑に撒いたり鳥にやったり、潰したりして処分したじゃない」
「そういえば、豊作だったものねえ」
豊穣の神がいるのに豊作じゃない年があるのかという疑念は置いておくにしても、その処理方法はあんまりだろう。
神社にもって言ってやるなり、氏子にやるなりすればいいものを、何故捨ててしまうのか。
「それ酒にすればよかったんじゃ」
大体ほとんどのものは備蓄なり酒に加工できるんだから、野菜みたいに捨ててしまわなくても良いだろう。
そう言ってやると二柱は驚いた表情をした後、多少の間慌てふためき協議のようなことをすると、露骨に沈んだような顔をして言った。
「その手があったか……」
どうにも加工すると言うのを全く念頭においていなかったようである。
それを静葉が突っつくと穣子は泣きそうな顔になった。
これは拙いと思っているうちにも、どんどん目の端には涙がたまっていく。
「だって私豊穣の神だもん。お酒の神じゃないんだもん」
果ては子供のように癇癪を起こしてしまった。これには他のふたりも困っている。
こんなものどうやって収めればいいのか、皆目見当も付きやしない。
宥め賺して泣かせ止ませると辺りはもうすっかり薄暗くなっていた。
「だんだん冷えてきましたね」
阿求が身を震わせながら言う。
暦の上では未だ秋とはいえ冬も近づいており、日も沈みかければ気温は大分下がっていた。
部屋から火鉢を持ってきてはいるが、それだけではもう暖まりきれない程度の温度になっている。
「そうね、そろそろお暇しましょうか」
どちらともなしにそう言うと、それを阿求が引き止めた。
「なら中で温かいものでも飲んで暖まっていって下さいな」
「いや、そこまで甘えるわけには」
そう言いながら穣子は引張られる袖を振り解こうとするが、その実あまり力は入れていない。
単にお約束として遠慮する振りをしているだけで、最終的には折れて中に入る予定である。
「いやいや」
「いやいやいや」
「いやいやい「長い」」
とはいえ何処で区切るかのタイミングはつかめず、突っ込まれるまでは続いてしまうのだが。
冬の代名詞である炬燵というものは幻想郷にもある。当然電気炬燵ではないのだが。
掘り炬燵なら熱源は囲炉裏であり、置き炬燵なら火鉢を布団で覆った櫓の中に入れることになる。
部屋にあるのは大抵は簡便な置き炬燵であり、その性質上足は伸ばしづらい。
だのでこういうことも発生する。
「穣子ちゃん、足乗ってるんだけど」
「乗ってるんじゃないの。乗せてるのよ」
コンフリクトが発生した時、それが致命的でない場合に無視するのは精神衛生上の最善手の一つである。
今の場合炬燵を放り捨てるのは悪手であり、神様を放り捨てても帰ってくるだけなのでやはり無視は善手であった。
茶を啜りながら遣り取りを眺めていると、阿求が制止するように声を上げた。
「穣子様」
二柱は喧嘩をやめて阿求の方を見る。
「ちょっと話したいことがありますのでこっちに」
言って阿求は立ち上がり手招きをする。穣子は促されるままに付いていく。
自分はこれこの間も見たなあと思いながら、それを見送った。
「あの二人はなにを話しているんでしょうね」
「さあ? 家に帰っても何も話してくれなかったし」
言って静葉は茶を啜る。
少し考え込む。前の時も阿求は何を話していたのかを教えてくれなかった。
別段秘密の一つ二つあったところで構わないだろう、自分にもあるのだから。
ただ、これはそういうのとは少し性質の違うものではないかと言う考えもある。
それで無性に気になった。だから動いた。
慎重に、聞き耳を立てながら摺足で廊下を進む。
稗田の屋敷は古く、廊下は鴬張りというわけでもないのにギシギシと音が鳴る。
普段なら一分と掛からない道程をたっぷり五分は掛け、それでもあまり近づくことは出来ない。
部屋から出ようという気配になったとき、速やかに逃げられる距離より数歩引いたところが精々だ。
その所為で話す内容のうちで聞こえる事は断片的なものになってしまう。
集音器があれば聞きやすいだろうにと思いながら聞き耳を立てると、気に掛かる単語が聞こえてきた。
(…一月……山の上の…)
(…精……貰って…)
なにを話し合っているのだろうか、山の上という単語で思い当たるのは神社二つだけだ。
後は天狗やら河童の住処という話だが、こいつらはどう考えても絡んでは来ないだろう。
帰る帰らないで博麗神社には数度行ったことがあるが、あの巫女が何もないのに動くとは考えづらい。
ならば守矢神社の誰かなのだろうが、祭神がどういった神なのかも碌に判っていないので、やはり何をしたいのか判らない。
(…夜……)
やはり何なのか判らない。
幸魂だろうし、害になることは無いだろうから良いのだが判別付かないのは気持ちが悪い。
とはいえもう盗聴も潮時だろう、話はだんだん少なくなってきている。
もうじき部屋から出てくるだろうから、早々に退散しなければ見つかりかねない。
足音を立てない程度に急いでその場から撤退した。
「何話してた?」
盗聴から戻るなり聞かれた。こちらも妹が何も話さないものだから、存外詰まらなかったのかもしれない。
「いや、遠くからでさっぱり要領がつかめなくて」
正直に満足に情報を得られなかった事を話すと、静葉は明らかに落胆したような表情を見せた。
「山の上の神様がどうのといってましたが、どんな神様だったか」
「守屋神社の神様は農業の神様でしょう。あとは山とか軍事ね」
多少は知り得たことを話すと、静葉もそれに応えた。
「どれもうちとは余り関連のないご神徳ですな」
「そうね。もう片方はなんだったか、いまいち判らないのよね」
「あれ、守屋神社は神様は二柱いるんですか」
そこまで話していると、別部屋に行っていた二人が戻ってきた。
「守屋神社がどうしました?」
「いや、阿求あの神社神様二柱いるんね」
「結構ありますよ、そういう神社」
「うん、大抵の神社が一杯いる。減るものでもないし」
特別なんでもないという風に返されるとどうにも困る。
確かに減りはしないが、それで良いものなのかどうか。
「所でこれからどうなさいます? お酒の用意も出来ますけど」
そういう間にも、廊下から隣室に女中らが料理を運ぶ音が聞こえている。
「それならご馳走になって行こうかしら」
その音を聞いて苦笑しながら穣子は言った。
結局夕食は酒宴になり、二柱が酔い潰れた所で上がりとなった。
帰るには遅くまた酔っており危ないため、一晩泊まっていく。
部屋は客間の中でも存外広い物が宛がわれ、風呂にも入らずに寝入っているらしい。
「阿求、夕方はなにを話していたんだ?」
行灯の火を消しながら尋ねる。
「気になりますか?」
「そりゃあね。気にならないなら聞かないよ」
行灯の火を吹き消し、部屋は月の光もない暗闇に変わる。
阿求が枕を叩き、それを目当てに布団に戻った。
「まあ、気にしないでもいい内容ですよ」
「それなら話してもいい内容じゃないのかね」
相対しているのだろう、阿求が言いそれに返す。
「そうかもしれませんねえ」
阿求は言いながら、膝に尻を乗せ、肩に顎を乗せてきた。
「でも言わなくて問題ないことでもあるんですよ」
「なら俺にも関係のないことかい」
そう言うと阿求は埋めていた顔を上げ、こちらに向き直る。
息の掛かるような近い距離でお互いじつと見詰め合う。
「いえ、大いに関係ありますが……」
阿求は一つ小さなため息を漏らすとそう言って、ゆっくりと唇を重ねてきた。
幾らかの間そうしていると、阿求から離れてまた言う。
「話さないでも伝わることってあるでしょう」
言われて今度はこちらから阿求の唇に近づいた。
…
……
………
障子の外から太陽の光がさしてくる。どうやらもう朝らしい。
隣に阿求はおらず、ただ放られた夜着と脱ぎ捨てられた寝巻きだけが残っていた。
痛む腰を擦りながら起き上がり、自分も着物を着替える。
「結局教えてくれんのやもんなあ、阿求も」
帯を結びながらぼやくが、誰も聞く者はいない。
井戸水で顔を二三度濯ぐと早々に炉辺に避難する。
すでに炉辺には阿求も神様達もいて、どうやら自分が最後だったらしい。
朝の寒さで皆黙って火に当たっているのかと思ったが、どうにも阿求の胸元を覗き込んでいる。
なんだろうと思って自分も覗き込もうとすると言われた。
「ほら、お父さんですよ」
「だから阿求早い、って言うか誰の子ぉ?」
よく出来た人形でした。
新ろだ92
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昼過ぎに大通りを歩いていたら見慣れぬ変人がいた。
別段里人全員を覚えているわけではないのだから見慣れない人間がいるのは当然だし、変人というのもよくいる。
とはいえ巨大な注連縄に柱を指して担いでいる女というのは、今までで一二を争う位に変だ。
一緒に大きな目玉のついたシルクハットのような帽子を被った童女が歩いているが、全くこれが普通に思えてくる。
あまり目を合わせたくなかったのですれ違いざま目で追う程度にとどめ、道を急いだ。
どうやらその奇人は自分の来たのと同じ通り、稗田の屋敷に続く道を歩いて行ったらしい。
それがつい一刻前のことである。
そして小用を済ませて屋敷に帰ってみれば、門の屋根に真新しい傷があった。
これはまさかと思いながら戸を開けると、玄関を入ってすぐの所に先ほど見た巨大な注連縄が置いてある。
嗚呼やっぱりかと少し嫌になりながら阿求に帰った旨を告げると、例の二人も同席していた。
軽く挨拶をしてから荷物を置きに部屋へ戻り、類は友を呼ぶというやつだろうかと考えていると阿求からこっちへ来いと声が掛かる。
すわ考え事がばれたのかと戦々恐々としていれば何のことはない、単にもう一人交えて話がしたかっただけということだ。
自己紹介をして座布団に座ると阿求に向こうさんを紹介され、その話によるとどうやら神様ということらしい。
なんでも幻想郷縁起に自分たちも書いてほしいとの由でやってきたそうで、どうにも目立ちたがりのようだ。
とは言えすでに縁起は書き終わったようなのでどうするのだろうか。まあ後ろに紙でも貼り付けて追補するのだろう。
さて件の神様らは話してみると意外とまともな様子だった。見てくれだけで判断してはいけないということか。
両者とも存外に気さくな性格ですぐに打ち解け、直に酒盛りでも始まろうかという勢いだ。
とはいえ実際に宴会が始まるわけではなく、片方がしきりに玄関の方を気にしている。
何か待っているのかを聞くと、もう一人巫女のようなもの遅れてが来るはずだったのに遅いと言う。
ようなとは何だという疑問はさておき、場所が分からないのではないか言うとこんなに大きな屋敷は間違えようが無いと言われた。
まあ確かにその通りなもので、稗田ほど大きな屋敷というのはこの近辺には存在しない。
それでは少し探しに行ってこようかと言い掛けたところで、丁度よく戸の開く音と呼び声がした。
やってきたのはこれまた珍奇な格好をした女子で、男一人では居心地が悪いことこの上ない。
奴さんは促されるままに二柱のうち大きいほうの隣に座り、自己紹介をするとすぐに阿求と打ち解けたようである。
そのまま女四人で姦しくやるものだから、どうにも居た堪れなくなり部屋を出ると自室で今日仕入れてきたものの品定めなどをしていた。
しばらくすると廊下が騒がしくなり、嗚呼これは酒盛りでもするのだろうなと灯火の下で思っていると、程なくしてまた阿求に呼ばれる。
用事はやはり酒盛りの誘いで、阿求は一人で居ないで此方に来て皆と一緒に居て飯を食えと言う。
ついでに神様や巫女のようなものから外の話を聞く横で、判らない事に解説を加えて欲しいとも言われる。
それは構わないのだが、今まで外の事を聞いていなかったのなら二刻以上も何を話していたのか甚だ疑問だ。
しかしそれを問うても阿求はただ笑ってはぐらかすだけであった。
酒と肴が持ってこられると瞬く間に徳利三本が空けられ、更に数本の壜の蓋が呑み比べするように開けられる。
こちらが一口呑む間にもう一杯呑んでいるといった具合なので、向こうの調子に飲まれればこちらが酒に呑まれているという羽目になりかねない。
現代暮らしの長かった所為か無理矢理酒を勧めてくるという事は無いのだが、それでも杯を空けろという無言の圧力が圧し掛かってくる。
その圧をのらりくらりと交わしつつ、ちびちびと酒の味比べなんぞをしていると巫女のようなものが襖を開けて出て行った。
なにやら思いつめたような表情をして悩んでいる様子だったので声をかけてやると、何故に阿求はあんなに酒を飲めるのかと訊かれた。
やはり体質で若い時から多く呑めるのだろうかと溜息なんぞ吐きながら言うが、二人で呑んでいる時は存外直ぐに真赤になるのでそうではないだろう。
いやあれは誤魔化し誤魔化し呑んでいるからで、本当はそう呑めはしないと教えてやると得心したらしく首を縦に振っていた。
実際酒豪と呑むときには、阿求は股の間に盆を隠して、ちょくちょくその中に杯の中の酒を放って呑んだ振りをしている。
盆の中の酒は後で料理に使うとか女中が飲んでいるとか、或いは捨てているとか諸説あるが、真実どうなっているのかは知らない。
しかしなぜにそんなことを聞くのかと尋ねると、自分は下戸なのであんなに小さい子が呑んでいるのが信じられないと言う。
確かに上役が蟒蛇な上にあんな子供までよく呑むのでは、下戸の人間の居場所なんぞ無いだろう。
特にアルハラなどという言葉の存在しそうにないこの幻想郷で、それでどうやって生き抜いていく心算なのかと茶化し半分に言ってみると泣かれてしまった。
このままでは余所聞きが悪いし、どうやって宥めようか思案していると、何事かをうわ言の様に呟いている。
何かと思って耳を澄ませて聞いてみると、やれサイダーが飲みたいだのアイスが食いたいだのと言っていた。
食い物の話かと思うがやはり懐かしいものなのか、その点自分は食事にはまるで興味の沸かない人間だったから特に思い出したりはしなかったが。
しかしまあアイスなんざ氷に塩を入れた寒剤を作ってやればアイスキャンディーくらいなら作れるだろうと言うとその氷が無いという。
そんなもの真冬に凍った池なり湖から切り出して氷室に入れるなりすればいいだろうがと思うが、引っ越して一年ではそこまで頭の回りようが無い。
これは手詰まりかと思ったが、どこにいるのか知らないとはいえ氷精なんぞという御誂え向きの代物がいるのを思い出し教えてやる。
それに米軍は飛行機に改造した増槽を装備させて飛ばしてアイスを作っていたらしいと教えると、少し驚いてから後で作ってみると言ってメモをしていた。
なかなかに逞しいというか、どうにもこれも変人のようであるがとりあえずやるなら暖かくしてやらないと風邪どころではすむまい。
何を目的としているのか皆目見当がつかないが、なにせ腋の辺りが全く露出しているのだから高空が寒くないはず無いだろう。
全体なんだってそんな物理的におかしな服を着ているのかと疑問をぶつけようとした矢先に、阿求が襖を開けてやってきた。
阿求は自分の首根っこを掴むと、こんなところで何をやっているのかと強い語調で問い詰めてきた。
灯火も無く、暗い部屋の中なので良くは判別できないが阿求の顔は大分赤くなっていて、幾分酔っていることが判る。
早く休んでいないで神様らの言っている事を解説しろと、部屋へ引き摺ろうとしながら阿求が言う。
とは言うものの数年離れていた所為ですっかり外の知識には疎くなってしまい、解説しろといわれてもそうできるものではない。
というよりは経済学なんぞこれっぽちもやっていなかった人間に世界経済なんざ訊かれたところで、答えられるはずも無いだろう。
しかしそう言っても逃れられるわけも無いもので、仕方なしにまたもといた部屋へと戻ろうと動く。
戻るときに後ろを振り返ってみると、阿求が動かず、ただじっと向こうの巫女のような者のいる方を豪く剣呑な雰囲気で見ていた。
向こうも向こうでどうにも阿求を睨み付けていた様に見えたが、暗い中の事であるし多分に目の錯覚だろう。
また宴会の輪に戻り卓の前に胡坐をかくと、阿求がどっかりと膝の上に腰を下ろし酒の入った杯を渡してくる。。
正対していた神様らもこれには驚いたようであったが、仏頂面をする阿求を見ると何も言うことが出来ずそのまま置いておくことにした。
それに気を良くしたのか阿求の機嫌も幾分は直ったようで、自分の胸にもたれかかって肴の漬物を食っている。
さてそれを笑って見ていた神様達であったが、一杯酒を呷るとところで早苗は何処に行ったのかと大きい方に尋ねられた。
聞いた覚えの無い名前だったので、はてそれは誰ぞやと訊き返すとさっき出て行った巫女のような者だと言う。
それなら酔っ払ったようで隣の部屋で横になって休んでいると言うと、二柱共立ち上がって様子を見に行った。
まあ随分大切にされているようでと阿求に言うと、二柱は彼女のことを妹のように思っているようだと阿求が言う。
幾らか思うところはあるがそれは心の内にしまっておいたほうがいいのだろう。表へ出せば危険に過ぎる。
阿求が股座の間に座り、足に痺れが出てくる頃に酒の残りが心許なくなった。
神様達が衰え無しに呑み続けるのに加え、阿求もいやに酒を自分の杯に注いだり、それを呑んだりするものだから林立していた壜ももうほとんどが切り倒されている。
とは言えまだお開きという雰囲気では無く、だがちょうど良く女中が居ることも無く、仕方無しに自分が台所まで酒を取りに行くことにした。
出るついでに隣で寝ている奴の様子でも見て行ってやろうと襖を開けると、ちょうど起きたような顔をしてこちらを見ている。
起こしてしまったかと訊くと、少し前から起きていたが体を起こす気になれず、ずっと横になっていたと言う。
何処に行くのかと問うてくるから、台所まで酒を取りに行く途中だと答えてやると付いてくると言ってきた。
運ぶのに人の多い分には構わないが、酒の抜けきっていなさそうな顔をしているものだからどうにも大丈夫なのかと不安になる。
しかし自分が何かを言う前に、彼女はそれじゃあ早く行きましょうと畳に手を付いて立ち上がろうとし、立ちくらみでも起こしたかぐらりと大きく体を傾けた。
それを抱きとめてから座らせ、このままここで寝ていろと言ったが、強情に付いて行くと言って聞かない。
根負けして連れて行くことにしたが、ふらふらと廊下の右左を行き来する様を見、これも自分が運ぶ羽目になるのではないかと内心恐々としていた。
早苗は時折障子に体をぶつけたり庭に転げ落ちそうになりながら、やっとのこと台所にたどり着いた。
これでは荷物運びは出来ないだろうなと思いながら、棚から肴になりそうなものを選んで取り出していく。
酒は何処にも置いていなかったので、蔵に酒樽があればそれから、無ければ酒屋まで行って徳利に移してくる必要があるだろう。
蔵も蔵の鍵も近いところにあるので問題はないが、さて酔っ払いを一人で残していいのかと少し考える。
彼女は今床に座ってこっちを見ながら笑っているが、まあ放っておいても変な悪さはするまい。
急いで鍵を取ってきて蔵に行き酒樽にまだ酒があることを確認すると、三升ほどを徳利に移しまたすぐに戻った。
彼女はその間もおとなしくしていた様で、床板に片膝を立てその上に顎を乗せて目を閉じている。
それを軽く肩を叩いて起こし何か飲みたいものは無いかと訊くと、迷い無くサイダーと答えてきた。
嗚呼そう言えばさっきもそんなことを言っていたなと思うが、さてどうしたものか炭酸飲料などここには置いていない。
思案しても無い物は無いので、自分で適当な物をでっち上げてしまえばいいという結論に至った。
サイダーというのは要は砂糖の入った炭酸水なのだし、二酸化炭素が出てきてくれればいいのだろう。
昔は檸檬水に重曹を加えて炭酸を発生させていたそうで、無駄知識がこんなところで役立つとは思いもよらなんだ。
しかし檸檬も甘橙も蜜柑すらない上に、重曹などというものも無い為八方手詰まりの形になる。
いや要は炭酸が出きればいいだけなのだと思い直し、砂糖水に酢と貝殻を混ぜたものを飲ませたら吐かれた。
やはり黒酢五割は暴挙ともいえる沙汰であったようで、全く申し訳ないことをしたと反省すること頻りである。
口を真水で濯がせると多少静まったようであったが、水を口に含むのでもまた幾らかの葛藤はあったように見えた。
どうにもまた酢が入っているのではないかと警戒したようで、トラウマを残さないかと少し心配になる。
数分したら口を押さえてはいるものの落ち着いたようで、涙目でこちらを見上げていて、何か言おうとしているらしい。
促すと、責任とって今度ちゃんとした物を作ってくださいと言われ、それに首肯してから立ち上がりもと居た部屋へと一緒に歩き始めた。
途中ふらふらと危なっかしい足取りをしている早苗を肩に掴まらせ、両手に酒と肴を持って部屋に戻る。
掴まると言うよりはむしろ抱きつくと言ったほうが良い体勢なので、非常に歩き難くあまり早くは歩けない。
暗さも相まって、ともすればこちらが転んでしまいそうになりながら、ゆっくりと進んでいった。
部屋へ後もう半分と言うところで、微かな月明かりに照らされた小さな輪郭が目に入る。
あれは誰だろうと目を凝らしているとその輪郭は早足で近づいて来、やがてそれが阿求だと十二分に判る近さで止まった。
阿求は一つ指をこちらに突きつけ、こんなに遅くまでかけて何をしていたのかと尋ねてきたので、酒が無く汲みに行っていたと返し同意する声が背中から上がる。
声の主は今自分の首にぐるりと大きく両腕を回し、背に伸し掛かるようにして立っていた。
阿求はそれを見咎めるも早苗は何処吹く風と言った体で、けらけら笑いながら依然肩に顎など乗せて遊んだりしている。
それに気を悪くしたのか阿求は首に絡まる腕を解こうと背伸びをするが、そこは阿求も酔っている事も有って一向に解くことが出来ないでいた。
いい加減両腕も肩も重い事も有り、早いところ部屋に行って荷物を降ろしてしまいたかったが阿求に前を塞がれ動くにも動けない。
仕方が無いので一旦両手に持っていた酒を床に降ろし、背中の厄介者を阿求に渡してまた荷物を持ちあげる。
阿求は面食らった様な顔をしていたが、あまり待たせると拙いと急かしたてると彼女を支えながら後に続いて歩き始めた。
障子を肘で開け放ち中に入ると、小さい方の神様が大きい方のかいた胡坐の上に座っている。
これには阿求も少し驚いたようで、肩に担いで居るものも忘れてしばし何かを考え込んでいた。
何故そんなところに座っているのかと問いかけると、真似をしてみたが存外に気分がいいので続けていると答えられた。
まあ背もたれの付いた椅子と思えば存外に座りやすい物ではあるが、立場的に如何なものかと思う。
唖然としていると、ところで抱えている物を置いたらどうかと声がかかり、それでやっとまともに戻った。
自分は持ち物を卓の上に置き、阿求は幾分放り投げるようにしてもう半分寝入っている客人を座布団の上におく。
それを見て、先程の神様が膝の上から降り座布団を折り曲げたのを彼女の頭の下に潜り込ませ、そこらに置いてあった座布団を掛布団代わりに掛けていた。
しかし座布団ではあんまりなのでよその部屋から夜着でも持ってきてやろうと思ったが、放って置かれる酔っ払いというのも宴会の華かと思いやめる。
代わりに乗っていた座布団を一つ取り、自分の居た場所に投げて胡坐をかくと、また阿求はその上に座り酒の注がれた杯を持たせてきた。
自分はそれを受け取ると一息に飲み干し、阿求の腹に腕を回して更に抱き寄せた。
宴会は夜の遅くにようやっとお開きになった。
阿求は遅いのだから泊まっていけばいいと引き止めたが神様達はそれを固辞し、眠りこける巫女を背負って神社へと文字通り飛び去って行く。
飛び立つ間際に背中で寝ていた早苗が起き、約束は守ってくださいねと手招きをして言い、またすぐに眠った。
約束とは何かと阿求やら神様達やらに訊かれるも、自分にも心当たりが無いのでどうにも答えられない。
背中の早苗に訊こうにももうすっかり寝入っているため訊くに訊けず、明日訊くと言って神様は帰っていった。
二柱と一人の帰った後、暫く門前に立って後姿を見送っているとまた阿求に何の約束なのかと訊かれた。
とはいえ誰に秘密にするような話でもなく、真実覚えの無いものだからどうしようもない。
阿求は大分不満そうだったが、問い詰めても意味が無いと悟ったのか、それ以上の追求はせずに屋敷に戻った。
自分もその後を追って中に入り、何も言わずに阿求の後を付いて歩く。
その日は夜も遅く面倒なので、風呂に入らず着替えもせずに阿求と共に布団に入った。
次の日は終日阿求が不機嫌であった。菓子をやっても何をやっても一向に治る気配が無い。
二日酔いにでもなったのか、それともその他に何か嫌な事でもあったのかと思うがさして思い当たる節も無い。
ただ放っておけば何日も臍を曲げたままになるのも目に見えているので機嫌でも取ろうと考えていると客が来た。
呼ばれて誰だろうかと出て見れば、小包を抱えた早苗が所在無さげに立っている。
早足に近づき挨拶してから何の用かと訊いてみると、昨夜のお礼と一つ約束を果たして貰いたいと言ってきた。
やはり約束が判らず、渋面を作って何の約束かと尋ねてみようとした矢先に後ろから来ていた阿求に先に尋ねられた。
阿求の声色は先に増して不機嫌そうで明らかに怒気を孕んでおり、客に対して使う声音ではない。
早苗はそれを受けて尚にっこり笑うと、昨夜酷いことをされた責任を取ってくれると言っていたのでと言う。
自分は嗚呼それかと納得するが、阿求は経緯を知らず理由を知らず、説明を求める問い詰めの矛先はこちらに向く。
しかし仔細を語ろうとする前に、早苗が自分の手を取り早く外に出ろと引っ張ってきた。
片方では阿求が怖い顔をして睨み付け、他方では早苗が笑顔で自分を迫っついてくる
嗚呼両手に花とは言うが、これは面倒な修羅場だと骨身に沁みて思う昼であった。
新ろだ156
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幻想郷縁起、という本がある。
この本は、一人の少女によって書き綴られている書物だ。
たった一人で、何千年にも渡って。
少女は妖怪ではない。純粋な人間である。
ではどうして人間がそれほどのもの間、膨大とも呼べる数の書物を書き続けていられるのか。
それは少女の能力と性質のためである。
阿礼乙女――あるいは阿礼男と呼ばれる存在。
求聞持の――つまりは一度見聞きしたことを忘れない程度の能力を持ち、転生によって能力と記憶を受け継ぐ人間。
しかし、それも完全ではない。
その能力のためなのか、それとも転生の術を用いる事の代償なのか、三十まで生きることが無い。
加えて、転生の術を準備するには年単位での時間がかかる。
故に、普通の人間としての生活は殆ど期待できない。
その上、すぐに転生できるものでもない。
生きて、死んで、次の命へと繋ぐ。 人の、人間の摂理。
人の身のままでそれに背くという事は、大きな罪なのだろう。
故に新しい身体を用意してもらう為の対価として、地獄で数百年ほど働くのだという。
果たして、対価として軽いのか、それとも重いのかは判らない。
けれども、真っ当な人間は、次に少女が転生する頃には生きていない。
だから少女は恐怖する。 少女は孤独を感じる。
周囲に居る、近しい存在は全て、居ないのだから。
記憶の中にしか存在しない人を思うのは、どれほどつらい事なのだろうか。
最近は妖怪の知り合いが出来た為に、以前よりも和らいでいるとは聞くが。
やはり、親しい存在が傍に居ない辛さに変わりはなく。
屋敷に住んでいる者にでさえ、一線を引いて接しているのかもしれない。
悲しみが大きくならないように。
そうして思うのは、自分のことだ。
最早答えは出ているようなものなのに。
どうして、どうしてこの気持ちを諦めきれないのだろうか。
見込みなど無いに等しいのに。
こんなにも彼女に焦がれている。
――湖面の月は掴めない。 そんな当たり前の事すら忘れる程に。
「失礼します」
「どうしたんですか、○○」
「もうお昼だと言うのに、一向に姿を見せないので」
もしやと思って足を運べば案の定。
彼女――阿求は幻想郷縁起の執筆作業に没頭していた。
時間が限られているから仕方の無いことだとはいえ、食事を抜くのは身体に悪い。
だから、という訳ではないけれども、運んできたのだ。
「ああ、もうそんな時間ですか」
「調子が良いのは喜ばしい事ですが、身体を疎かにしては元も子もないですよ?」
苦笑しながら紡いだ言葉に、阿求は拗ねたような顔を見せる。
「わかってますよう。 ただちょっと、ちょーっとばかり忘れてしまっただけじゃないですか」
「通算八回はちょっと、とは言えない気もしますがねえ」
また○○が意地悪をー、と言って目元を袖で隠す阿求。
その行動を見ても、特に悪いことをしたとは思えない。
むしろ可愛らしく、微笑ましいとすら思える。
「何度目ですかねえその泣き真似。 しかし、すごく可愛いですよ、うん」
「ああ、酷く狼狽していた頃の純粋な○○は何処へ行ったのかしら」
「今にも消えてしまいそうなくらいに儚い、雪のような印象の阿求は何処へ溶けたのでしょうねえ」
言葉を言葉で返せば、今度は座布団が返ってきた。
寸分違わず顔に直撃するが、流石は座布団、何とも無い。
「こらこら、近くに御飯があるというのに」
「余計な事を言う貴方が――ああ、止めましょうかこんな不毛な話」
「口では私に勝てたことがありませんからねえ」
「悔しいけれども事実だから、聞かなかったことにしてあげる」
言いながら、阿求はてきぱきと卓上の墨やら筆やらを片付けている。
意識したら、お腹が酷く訴えてきちゃって――
顔には、はにかんだような笑み。
何気ない仕草の一つ一つが、どうしてか心を強くとらえて。
焦がれれば焦がれるほどに衝動ばかりが強くなる。
いっそ、今この場で押し倒してしまいたいとも思えるほどに。
「どうしたの」
「……まあ、少しばかり物思いを。 では、失礼致しました」
だが、本能的な衝動には従えない。
外来人である自分の面倒を見てくれた恩というのも、多分にある。
しかしそれ以上に、見知った屋敷の者ではなく、どこの者とも知れぬ自分に用事をよく頼んでくれている。
信頼を裏切る訳にはいかない。
最も、最近自分のことをよく使うのは、見知らぬ存在だからだというのも関係しているのかもしれないが。
屋敷に来てから半月が経つが、逆に言ってしまえば半月なのだ。
情も移りにくいだろう。 つまりは、そういうことだ。
加えて、外来人であるという事も大きい。 外の世界の話を何度かせがまれた事だってある。
今でも時間があれば、外の話をねだってはくるけれども。
(結局、それまでなのでしょうかね……。 確かに私のような存在であるならば、用いやすいでしょうし)
見聞きしたことを覚える程度の能力とはいえ、そうして知りえたことに意味を見出すかどうかはまた別の話。
少しばかり胸が痛むが、思い上がりも甚だしい。
そんな風に強がって、無理矢理にでも自分を騙すしかなかった。
それから一時間ほど経過して。
流石にもう食べ終えているだろうから、再び阿求の部屋へと足を運ぶ。
が、その途中でありえないものを見た。
屋敷の庭には、それは立派な桜が植えてある。
今は季節も外れている為、葉が生い茂るばかりではあるが。
重要なのはそこではない。 その桜の、最も太くて丈夫そうな枝の上。
そこに何故か、食事を行っていたはずの人物がいる。
錯覚や幻覚、といった思い違いで処理して、流そうかとも思った。
思ったが、しかし。
目の前の出来事が事実だったとして、スルーした後に何かが起こらないとも限りません――
その場合、責任は誰持ちなのかと問われれば、見過ごした自分だろう。
何事も無かったかのように流したくもなるが、やはり双方にとってよろしくない。
「仕方ありません、か」
軽く溜息を吐いて、桜の樹へと歩いていく。
「ああ、○○」
「ああ、○○。 じゃあないでしょう、一体何をしているのですか」
「木登り」
見れば判る。 いや、そうではなくて。
「聞き方が悪かったですね。 どういった経緯で木を登ったのか、という事です」
「高いところからの景色を見たかったんですよ。 そのついでに食後の運動をと思いまして」
聞く分には随分とアグレッシブな運動だ。
しかし、無茶をしないで欲しい。
最も、仕方の無いことなのかもしれないが。
あまりにも短いから。
その分、精一杯輝こうとする。
桜の枝に腰掛け、心地よさそうに風と日光を浴びる姿に、思わず眼を細める。
……ああ、眩しいな。
「それで、気分はどうですか」
聞くまでもないだろうな、と思いながらも尋ねられずにはいられない。
「とても良い気分よ。 風も、お日様も、今までに無いくらいに心地よいの」
例えるならば、些か安直ではあるが――ひまわりだろうか。
日の光に、よく映える花だ。
今の彼女と、同じように。
けれども、和やかな雰囲気はそこまでだった。
「心地よさに浸っている所を申し訳ないのですが、そろそろ降りてきてもらませんか」
「もう少し居ては駄目?」
「駄目です。 誰も居ないときに足を滑らせでもしたら、大変ですからね」
いくらなんでもそんなヘマは――そう言って、降りる為に立ち上がった瞬間、
「ぁ?」
足を、滑らせた。
「阿求っ!」
身体を枝に打ちつけはしなかったものの、危険であることに変わりは無い。
阿求の近くで話していたのが幸いした。
距離的には充分間に合う。 だが、問題は上手く受け止められるかどうか。
けれども迷っている時間など無い。 落下してくる地点を予測し、あらかじめ先回り。
そうして腕を大きく広げ、胸や体全体で受け止めるように体勢を整える。
直後に衝撃がきた。 それなりに高さのある桜から落ちただけあって、中々に堪える。
堪えるが、絶対に落とす訳にはいかない。
だから、阿求が腕に落ちてきた勢いに逆らわず。
勢いに任せて、自分から体勢を崩し、背中から落ちる――!
勿論腕の中の阿求はしっかりと抱きとめたまま。
(怪我はさせない)
背中に強い衝撃。 同時に胸にも衝撃。
庭には玉石を敷き詰めてあるのだが、今回ばかりはそれを恨む。
(息が……)
強い衝撃を背と胸に、それもほぼ同時に受けたことで息が詰まる。
だが、それだけ。 それだけだ。
しかし、予想以上にダメージが大きい。
阿求単体ならば問題は無かったかもしれない。 重力を甘く見ていたのが敗因か。
腕の中の阿求を確認すれば、どこにも怪我は無い様子。
勝った――第三部完、と続けたいところだが、そうもいくまい。
「大丈夫、ですか?」
何とか声を絞り出せば、阿求は最初こそ一体何がどうなったのか理解できなかった様子で。
呆けたような視線でこちらを見つめていたが、
「○○!?」
がばっ、と擬音が付きそうな勢いで胸から飛び起き、現状を理解する。
「いた、イタタタた……。 すみませんが中々に痛いので、もう少しこう、ゆっくりと」
軽口ではなく、実際に響く。 本音としては乗られているだけでもじわじわ痛いのだが、ここは痩せ我慢。
「ご、ごめんなさい……じゃなくて! 誰か、誰か医者を――!」
耳に阿求の叫びが届き、それを切欠として意識が遠のく。
それでも、それでも彼女が怪我一つなく、無事で居ることに安堵しながら。
視界が徐々に墨で染められていった。
次に眼を覚ましてみた物は、三途の川。
ではなく、見慣れた天井。
そのことに安心しながらも、あれから自分は一体どうなったのかと考えを巡らせる。
覚えているのは阿求が叫んだところまでだが、果たしてどれだけの時間が経過しているのか。
思考の海に沈みかけた矢先に、襖の開く音。
首だけを動かしてそちらを見やれば、赤青二色の特徴的な服をまとった人物――八意 永琳が。
「全治二週間って所かしらね。 まあ死ぬとまではいかない怪我でよかったけれども」
無茶をしすぎだと叱られた。
そもそも体格的に云々だとか、長かったのでよく覚えてはいないが。
兎も角、一段落してから話を聞けば、あれから四時間ほど経過していたらしい。
念の為に阿求も観たが、特に問題はないこと等を伝え、薬を置いて永琳は去っていった。
最後に、
「あまり無理をしては駄目よ。 貴方を心配する人も、いるのだから」
という言葉を残して。
それから少し眠ったような気がする。
まだ痛む身体を起こしてみれば、視界に飛び込んできたのは小さな背中。
「阿求?」
「やっと起きてきたんですね。 もうすっかり日も暮れてしまいましたけど」
どうして阿求が自分の部屋に、しかも日が暮れてからも居るのか。
蝋燭の灯に照らされた室内を軽く見回して、そこで初めて違和感に気付く。
「ここ、私の部屋ではないですよね」
「今更気付きましたか。 まあ、私の部屋が近かったので、運んでもらったのですよ」
「……男と女ですよ?」
「今は介護される男と介護する女です」
そういうわけですので、と前置きして、
「こうなってしまったのも私が原因ですから、回復するまでしっかり面倒見させて頂きます」
真っ直ぐな視線に射貫かれるような気がした。
何を言っても無駄だろう。 彼女の意思は梃子でも動きそうにない。
「せめて自分の部屋に戻してくれませんかねえ」
けれども、流石に阿求の部屋で世話になる訳にもいかない。
それだけは譲れない一線なのだが、しかし。
「個人的に嫌です。 何かあった時に誰かが傍に居ないと」
別に阿求でなくても良いのではないだろうか。
手伝いの方なら他にも居るのだし。
そう言いかけて、結局止めた。
多分、彼女なりの感謝と謝罪なのだ、これは。
自分が木に登って、落っこちてしまって。 それで結果として怪我をした人がいる。
それが誰であっても、きっと阿求は自分で世話をすると言うだろう。
怪我をさせてしまって申し訳ない気持ちと、助けてくれてありがとう、という気持ち。
その気持ちを彼女なりに形にすれば、こういった行動になるのかもしれない。
それならば、細かいことを気にするのは失礼であり無粋というもの。
「わかりました。 阿求の言う事は最もですし」
「そうですそうです。 ○○は大人しく私の世話になっていればいいのです」
言い終わるか終わらないかのうちに、阿求は行動に移る。
具体的には、私の為に用意してあったであろう食事――食べやすいように粥だ――を掬って、
「さ、口を開けてください」
私の口元へと持っていく。
「いや、食べることくらいは自分でできますよ?」
というより、体が痛むだけで普段の行動に支障は無いのだけれども。
「駄目です。 少しでも早く治って貰わないといけませんので」
頑として聞かない。 言い分は最もだが。
外の世界に居た頃は、こんな事とは無縁だと思っていた。
それだけに余計恥ずかしい。 恥ずかしいが、悪い気分ではない。
それどころか、嬉しいとさえ思う。
雛鳥が餌をねだるように、差し出されるままに口を開けて粥を食べる。
果たして、自分は今現在どんな顔なのだろうか。
頬にじんわりと熱を感じながら、そんなことを考えた。
それ以降、阿求との仲が深まったような気がしていた。
私の思い違いなのかもしれないのだが。
それでも、よく一緒に行動するようになっていた。
一歩踏み込んだ話を聞きたいと言われることもあった。
自分の中の想いが、どんどん募って大きくなっていく事も、自覚していた。
けれど、それは表に出してはいけない感情だから。
ぐっと押し殺して、彼女の傍に経ち続けた。
もしかすると、彼女は私の気持ちを察していたのかもしれないけど。
そうして進展もなく時間は過ぎて。
とうとう、その日が訪れたのだ。
このところ暫く、阿求は伏せっていた。
見るからに体調が悪そうで、起き上がるのも億劫。
それでも、私と一緒に居たがった。
だからなのか、周囲の手伝いさん達は私が行うべき仕事も引き受けて行ってくれた。
まるで、阿求の傍に居るのが仕事だとでも言うかのように。
そのお陰で時間だけはあったので、望みの通りに居ることは出来た。
「○○、今までありがとう」
突然にそんなことを呟かれて、
「どうしたのですか、今にも死んでしまいそうですよ?」
内心では動揺しつつ、いつも通りに返してみれば、
「だって……そろそろ、死ぬもの」
心を直接殴られたような気がした。
何もいえない、言うことができない。
私だって薄々とは感付いていた。 いたけれども、それだけ。
認めることができなかった。
認めたくは、なかった。
「ねえ○○、どうして私が死にそうなのに、父も母も姿を見せないと思う?」
ずっと疑問に思っていたこと。
そうだ、この屋敷に来てから長い時間を過ごしたが、一度も阿求の両親を見たことが無い。
けれども、考えないようにしていた。
己の推測が正しければ、それはあまりにも残酷なのだから。
けれども今、目の前で伏せる阿求は。
その事を告げようとしている。
「子供だと、思われていないのよ。 私達は」
阿礼乙女、ないし阿礼男は――短命だ。
加えて以前の記憶を引き継いで生まれてくる。
それを親は知っているから。
初めから死ぬと判っている子に、愛情など注げるのか。
判っているからこそ、注ぐものなのかもしれないが。
阿求の、いや、阿礼の子の親となった者は。
それをしていない。 自らの子ではなく、阿礼の子としか見ていない。
だから、この屋敷も。
稗田家の家であると同時に、阿礼の子の家でもある。
つまりは、そういうこと。
大きな屋敷だとは思っていたけれども、それがわかってしまうと逆に薄ら寒い。
「だからね、私はここで生きているの。 稗田家でありながら、稗田家ではない所で」
この屋敷の一角は、文字通り阿求に、阿礼の子達に与えられたものなのだ。
阿礼の子という存在を、切り離して置く為に。
「手伝いの人たちは、私の事を慕ってくれている。 けれど、それが辛いの」
別れる時に、とてもね――
「だから、少しだけ距離を置いて接してた」
もちろん、貴方にも――
「けれどね、どうしてなのかな。 何時の間にか、距離感が狂っちゃったみたい」
微笑んで、こちらを見た。
「本当はお墓にまで持っていこうと思ってたの。 でも、駄目」
それが貴方を苦しめるとわかっているのだけれども、と前置きして告げられる。
「私は、貴方が大好き」
「私も、貴女が大好きでしたよ。 阿求」
その言葉が、彼女を苦しめると判っていながら。
どうしても、告げずには居られなかった。
「なんだ、両想いだったのね」
くすくすと笑うが、その笑顔にも蔭りがあるように感じる。
「もっと早く告げていれば、色々でたかもしれないのに。 勿体無い事しちゃった」
「でも、これでいいのだと思いますよ、私は」
結果として、軽く済んだのだと思う。
「良くありません。 未練ばかりが残ります」
「それでも――」
次の言葉は継げなかった。
「せめてもっと早く言ってくれたなら、良い思い出だけを胸に抱いて逝けたのに」
「――――」
「貴方は私の事を想ってくれていた」
だから私が次に生まれる時、孤独感に苛まれないように案じてくれていた。
けれども、
「思い出全てが、悲しく残る訳じゃないわ」
暖かい記憶だって、思い出せるのだから。
孤独を感じたときに、それを思い出して。
いない人を想うことも、できるのだから。
そこから更に孤独を感じるのか、一人ではないと感じるのかは、自分次第。
「まあ、過ぎてしまったことは悔やんでも遅いから――」
もう少し、近づいて欲しい。
「最後にお願い、聞いてくれる?」
「喜んで」
――抱きしめて。
彼女の望み通りに、その細い身体を抱きしめる。
今にも何処かへ消えてしまいそうで、怖くて。
「暖かいね。 不思議と気持ちが落ち着いて、すごく安心できるよ」
自分の腕に収まる彼女の声は、少しだけ震えていた。
「もう少し早く、こうできればよかったのでしょうね」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
なんとも曖昧な言葉だ。
その曖昧な言葉の後に、でも、と続けて、
「今、幸せだよ。 こんなに満ち足りた気分なんて、初めてかもしれない位に」
あの頃と同じ笑顔を見せてくれた。
「ああ、やはり貴女の笑顔は素敵だ。 私はその笑顔に惹かれたんですよ」
「変なものよね、命が尽きる間際になって気持ちが通うというのも」
でも、悪くはないかな――
そんな呟きが聞こえて。
「阿求。 私が人でなくなっても、変わらず好きでいてくれますか?」
思わず、ずっと考えていた事を打ち明けた。
「どういう意味?」
「言葉のとおりですよ。 具体的には、妖怪ですかね」
ずっと考えていたことだ。 時の流れが違う彼女と共に歩む為には、どうすればいいのかと。
もっとも、自分の想いが成就するとは想像も出来なかったが。
「いいの?」
「何がですか」
「私よりも素敵な人、沢山いると思うのだけど」
「忘れることなんて出来ない性分でして」
きっと妖怪になるなら蛇ですね、と笑ってみせる。
「ずっと女で生まれてくるとは限りませんよ」
「些細なことです。 男だろうが女だろうが、貴女は貴女でしょう?」
「男の私にその気がなかったら?」
その時は良い友人で居ましょう――
「ばか」
「ええ、馬鹿も馬鹿、大馬鹿ですとも」
何せ寿命の違う人を好きになったのですからね、といつも通りに返せば、
「それじゃあ私も馬鹿ですね。 寿命の違う人を好きになったのですから」
そう返されて、二人で笑った。
「転生には数百年かかりますよ?」
「それでも待てます。 待ってみせますとも」
焦がれるのが恋ならば。
「それじゃあ待ちます。 待たせてもらいます」
焦がれられるのが恋ならば。
「だから、約束して下さい。 必ず私の傍に居てくれると」
悪い女ですよね、と笑みを見せて。
「約束しましょう。 必ず貴女の傍に居ると」
愚かな男ですよ、と笑みを見せて。
それから間も無く、腕の中で阿求は逝った。
とても満ち足りた、安らかな顔で。
葬儀が終わって暫くしてから、長い暇を貰う事、何時になるか判らないが、必ず戻ることを告げた。
そうして屋敷を出て、護衛を雇って紅魔館へと足を運んだ。
館の主は私がここに来ることと、その目的をあらかじめ理解していたようで、すんなりと図書館へ入れた。
そうして人が妖怪へと転じる方法を読み漁り、幾つかを頭に叩き込む。
その後で主に礼を述べ、私は人里を離ることにした。
――あれから数百年が経過し、私は再び稗田の屋敷へ戻ってきていた。
阿礼の子が誕生したとの話を聞いたからだ。
見知った顔は殆どいなかったが、私をいぶかしむ者はいなかった。
どうやら手紙が残されていたらしい。
補修などはされているが、間取りは昔のまま。
阿求の部屋は、今でも阿礼の子の部屋として使われているらしい。
「失礼します」
部屋に入れば、彼女はこちらを待っていたようで、
「女性を待たせるのは感心しませんね」
太陽の似合う笑顔で、出迎えてくれた。
変わらない。 けれど、二人の関係は変えていこう。
そう思いながら、謝罪の言葉を述べる。
新ろだ183
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「外の世界には、毎年十二月二十四日、二十五日に聖誕祭があります」
「せいたんさい? 誰かの誕生日を祝うのかしら」
流石に頭の回転が速い。
「イエス・キリストなる人物ですね。 彼は人を愛するべきという教えを説いて回りました。
結果、今でも教えは宗教として残っています。 かなりかけ離れてしまっているかもしれませんが。
後は――国によれば唯一神と同じ扱いをされていたりしますね」
そもそも、日本と幻想郷には唯一の神など存在しないからいまいち結び付かないだろうが。
「ただの人間よね?」
「まあ基本的には。 奇跡を起こしたとも言われてますが、確かめる術もないですし」
まあキリスト云々はこのあたりで切り上げておくとして。
「外の世界――幻想郷があるのは日本ですか――は多神教なんですけどね」
「どうしてか、祝っている、と」
確かに不思議なものですね、と阿求は微笑む。
「まあ、基本的にお祭り好きなのでしょう。 呑んで食べて騒ぐ為の口実ですね」
それに、大多数のお楽しみは別のところにあるのだろうし。
「ちなみに子供は二十四日の夜にプレゼントがもらえるので、それを楽しみにしています」
「それも不思議な話ですね。 渡す方じゃないんですか」
それもそうではあるが。 気持ちだけ供えるのが日本式というか。
「プレゼントを渡すのはサンタクロースなる赤服の人物ですから」
トナカイに乗って、子供達にプレゼントを配る老人。
もっとも、最近の子供は夢離れが進んでいるので、こっちに来ていそうだが。
「それも何か謂れのあるもので?」
「ええ、元々このサンタクロース、聖ニコラウスなる実在の人物でして」
前述したキリスト教徒の一人だ。
結婚できない娘達の居る家を不憫に思い、煙突から金貨を投げ入れた。
そのとき、暖炉にかかっていた靴下の中に入り、そこから――
「二十四日の夜、靴下の中にプレゼントが、という話になった訳ですね」
「素敵な話ですね」
その表情を見て、実際には親が子供の欲しいものを買ってきているのだという事は伏せておいた。
ここは幻想郷だ。 夢そのものともいえる場所で夢を壊すのは無粋というもの。
「最も、日本でのクリスマスは名ばかりで――プレゼントこそありますが
キリストの聖誕祭というよりは、主に大切な異性と過ごす一日としての側面が強いです」
「それでも素敵な話じゃないですか」
そう言って微笑むが、しかし、
「相手が居る人はそうでしょうけど、独り身の人は地獄ですよ」
何せ、出かける先で幸せそうなカップルに出会うのだから。
独りでいる自分が惨めに思えてきてしまうのも無理はない。
「それこそ人を愛せ、の精神ですよ」
「それができれば戦争も幻想郷に入ってこれますよ。 個人的には遠慮願いたいですが」
それならば、争いは無くならない方が良い、というのは悪人の考えか。
「外の人間は、見ず知らずの他人の為に幸福を祈れる方が珍しいですから」
もちろん、自分も含めてですが、と付け加えてお茶を啜る。
「祈って、願うだけならタダなのにですか?」
「生憎タダより高い物はない、という言葉もありまして」
またそうやって返す、と苦笑いされてしまった。
でも事実だ。
「つまり、○○は祈れない側だった、と」
「ははは、万年独り寂しくですよ。 こっちに来ても、風習が無いだけで変わ――」
言いかけて、けれど言えなかった。
「○○」
阿求の声に応えてそちらを向けば、唇に温もり。
「違いますよね」
微笑みを浮かべて、確認を取るように問い返されてしまえば、こちらとしてはもう何も言うことなどなく。
「そうでしたねえ」
顔が熱を帯びていることを自覚にしながら、笑って見せて。
今年は幸せを祈れそうだな、などと考えてしまったりして。
「来年の日の出を見れるよう、願でも掛けましょう」
「それならこちらは、貴女が再来年も日の出を見れるように願でも掛けましょうか」
今年のクリスマスは、一風変わった、けれど楽しいものになりそうだと、そう感じた。
必ず別れが訪れようと、その時まではせめて――
互いにとって、幸いな時間が多くあれ、と――
新ろだ190
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外の世界では、あまり雪が降らない。
だからなのだろうか、冬の幻想郷は、良く雪が降る。
「いやあ、今日も降ってますね」
昨晩から降り続けて、すっかり分厚く積もっている庭は、朝日を反射して煌く。
まさしく幻想。 現実の中にも、わずかながら幻想は存在する。
夕日と雲が空に描く、美しい風景画を見ていた日々が蘇るようで。
年甲斐も無く気分が昂揚して、新雪に足跡を残しまくる。
「朝から元気ですね」
「外じゃこんなに積もる事も稀ですからねえ。 雪を見ること事態、随分と久しぶりですし」
だから自然に顔が緩んでも仕方の無いこと。
しかし、そんな感じで舞い上がる自分とは対照的で。
「寒くないんですか? そんな薄着で」
火鉢が温まるまで布団から出ないつもりなのだろう。
彼女は顔だけを出して布団に包まっている。
「いやあ寒いですよ。 寒いですけど、嬉しいんですよ」
震えながら吐き出す息は白い。
しかしまあ、いくら嬉しいとは言え限度はあるもので。
「あ、そろそろ無理だ」
さくさくと雪の音を残して、そそくさと部屋へ駆け込む。
そうしてすっかり冷めた布団に潜り込んで縮こまり、思い出すのは、
「そういえば私が来たときに着用していた防寒具は何処へ?」
愛用していた黒いコートのことだ。
「そういえば何処かに仕舞ってあった筈ですけど。 でも洗い方わかりませんから、においが……」
確かにそれは不安ではあるけれども。
「まあでも、その分暖かいですし。 少し重ね着した上から羽織るだけで割と行動できるかと」
こちらの防寒具もなかなか暖かいけれども。
というか、冬の厳しさはこちらの方が上なのだろうが。
「じゃあ探してくださいよ。 私は動きませんから」
「本当に寒いの嫌なんですね貴女。 折角差し上げようかと思っていたのに」
そういう事ならば話は別です、と。
火鉢が温まった頃合を見計らって布団から抜け出た。
自分もその後に続いて抜け出して、手伝い始める。
コートはほどなくして見つかった。 気になっていたにおいもさほど問題はない。
むしろ甘くかぐわしい果実臭が漂っている。
「何かしましたか」
「まあ、ちょっと知り合いの妖怪から聞いた保存方法を」
どんな保存方法なのだろうか。 気になるがちょっと怖い気がしたので聞かないでおく。
「ともあれこれで阿求も外を駆け回れますね」
「駆け回ること前提で話を進めないで下さい」
部屋が暖まってきたことで、彼女も本来の調子に戻ったようだ。
こうでなくては面白くない、というもの。
「そもそもどうしてそんなに雪が好きなんです」
「冬の生まれでして。 だから無意識にテンションがアチョー入るのかもしれませんねえ」
もうギアが三段くらい一気に入ってる今の自分。 ステイ私ステイ。
ほら現に阿求が不思議そうな顔で小首をかしげて――たまらなく可愛いですねああもう!
「ごめん○○、言っている事が少しわからない」
「いやあすみません、自分テンション高くなると一部にしか通じない俗称とかだだ漏れでして」
簡単に言うと、嬉しくて楽しくてたまらないということです。
そう伝えると、納得した表情を浮かべて、
「なるほどそういう意味でしたか」
などと笑ってくれるのだからもう。 もう……。
「ああ、今すごく可愛いですよ阿求。 自分には勿体無いくらいに素敵だと、心からそう思いますよ」
柄にもなく本音を冬の空気にさらしてみれば、顔と身体は余計に熱く。
「さらっとそういう事を言わないでください。 その、嬉しいのと恥ずかしいのがいっぺんに来てしまって」
――勢いに任せたくなってしまいますから。
消え入りそうな、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどか細い声。
見れば顔は耳まで紅い。
「あ、熱いですよねこの部屋。 ちょっと外の風に当たりましょうか」
恥ずかしさをごまかすためか、そう言って彼女は庭へと出て行く。
朝日は姿を潜め、再び雪が降り始めていた。
「どこかの雪女がはしゃいでるのかもしれませんね」
阿求の表情は苦く、どこか暗い。
不思議に思っていれば、
「私、雪は嫌いなんですよ」
唐突に呟きが。
「触れればすぐに溶けて消えてしまうでしょう? なんだか、自分を見ているようで――」
温もりに触れれば水となって消える雪。
ああ、確かにそうかもしれない。
温もりに触れれば、その分涙が増えるから。
悲しくないように、辛くないように、寂しくないようにと。
触れるか触れないか、そのぎりぎりの線を手探りで探しながら。
薄氷の壁で己を律して。
「私は好きですよ。 自分よりも暖かい存在に触れればすぐ溶けてしまう、その儚さも」
それに、と言葉を続ける。
「消えはしませんよ。 土なら土に、人肌なら人肌に。 水として溶け合うのですから」
「それでも、風が吹けば乾きます」
「それでも、少しくらいは吸われます」
付け加えるならば、
「こうして固めてしまえば、そう易々と溶けて消えるものではありませんし。
日陰に積もったならば、尚更長く残りますよ」
そう言うと、
「敵いませんね、どうも」
力を抜いた笑みが咲く。
「私だって敵いませんとも」
同じように咲かせて。
「後悔しても知りませんよ? たくさん降らせて大雪にしてしまいますから」
「望むところですとも。 風や太陽では太刀打ちできないくらいに固めますから」
この雪と同じように――
ふれふれ、つもれ、おもいゆき――
新ろだ195
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大晦日に自室の火燵に入りながら元日になるのを待っていると、どこからか鐘のなる音が聞こえてきた。
はてこのあたりに寺なんぞあったかいなと思いながら酒を呑んでいると、阿求が目をこすりながら火燵の中に入ってくる。
卓の上に置いた腕時計を見ると年が変わるまであと幾らも無いと言う時間になっていた。
阿求は自分の対面に陣取ると卓の上に出していた肴を奪い、眠気覚まし代わりにと噛み始める。
「こんな時間にどした。眠ったんじゃなかったんか」
酒の入った杯を隠しながら尋ねる。別段酒に弱いというわけでは無さそうだが、子供に飲ませるのは気が引ける為だ。
「ええ、ちょっと新年を一緒に迎えたかったもので」
半纏の袖で頬を隠しながら、嬉しい事を阿求が言ってくる。自分は笑いそうになるのを留めながら、杯の中の酒を呷った。
「それともう一つ用事がありまして」
「ほう、なんね?」
阿求が身を乗り出して来、それに釣られて一緒に火燵の上に身を乗り出す。
二人の額が引っ付きそうになる距離まで近づくと、阿求は言った。
「お年玉下さい」
「無いよ」
即座に返事をすると抗議の声を阿求が上げる。
「まだ早いし、そもそも食客に強請らんでおくれ」
「食客ならお酒なんて呑まないで下さい」
阿求はなおも抗議して来るが自分はそれを無視し、徳利から酒を杯に注ぐ。
その様を阿求は睨むような視線で見ているが気付いていない振りをし、杯を少し上に掲げて言う。
「何、こいつらは自分の稼ぎで買ったもんだよ」
阿求はまだ不満そうだったが、一瞬何かを思いついたような顔をすると、笑みを浮かべながら火燵を出、此方に近寄って来た。
その不可解な様に多少警戒を強めていると、阿求が自分のすぐ横に座りながら言う。
「無いなら別の玉でもいいんですよ」
「うん? ギョクの類なんざ持っちゃおらんぞ」
「いえいえ、そんなものじゃありません」
阿求はそう言うと自分に横から抱きつき、肩の上に顎を乗せながら言った。
「子供が欲しいですね。玉のような」
危うく咽そうになるのを押さえて阿求の顔を見るが、冗談を言っているような顔には見えない。
「そいつは十月十日待たにゃならんからお年玉にはならんだろう」
苦笑しながら言うと、阿求は少し怒ったような顔をして自分と火燵の間に滑り込み胡坐の上に陣取った。
空いた腕を腰に回してずり落ちないようにしてやると、阿求は自分に凭れかかり、肩に後ろ頭を乗せる。
幾らかの時間そのままの姿勢で過ごすと、不意に阿求がもうすぐと言う。
何がかと思って阿求の方を見ると、何時の間にやら頭を起こし、卓上の時計を見ていた。
「もうすぐ年が変わりますよ」
「そうやね。あと数分か」
言いながら酒を呑む。阿求は黙り込んでどうやら何かを考え込んでいるらしい。
頭でも撫でてみようかと腰に回した腕を解くと、股座の上に座った阿求はもぞもぞと動いて対面に座りなおした。
「あと二分です」
耳元で阿求が言う。どこで時間を見ているのかと思ったが、向き直る際に腕時計を奪っていたらしい。
杯を一旦卓に置きその手で阿求の頭を撫で付けると、阿求は此方の頬に擦り寄ってきた。
首筋に掛かる鼻息の多少のくすぐったさを堪えていると、後ろ向きに加重が掛かり阿求に押し倒される形になる。
阿求は始めはしてやったりといった表情で自分を見下ろしていたが、居場所を腹の上に伸し掛かるようなものにし、また顔を近づけてきた。
鼻先が触れ合うくらいの距離まで阿求は顔を近づけるとそこで止まり、またちらりと時計を見る。
横目に見たそれはあと凡そ三十秒ほどで針が一並びになるような時刻だった。
しばし、と言っても十秒程度のものだが、の間二人見詰め合った姿勢で固まる。
始めに動いたのは自分であった。このままで居ても意味が無いと思い、体を起こそうとしたのだ。
しかし阿求はそれを遮るように体重を掛けて、なおも寝かせたままにする。
体を起こす事を諦めると阿求は三度顔を近づけて来、二人の唇が触れ合った。
どの程度の時間経ったか、短くもないが長いとも言えない時間の後、阿求がゆっくりと顔を遠ざけて行く。
「二年越しですね」
その言で先程のは時間を計っていたものと悟る。
よくやるものだと思いながら後頭をぽんぽんと叩いてやると、それを合図にしたように阿求は体を横に移し、一緒に自分も体を起こす。
阿求は自分が体を起こしきったのを確認すると、またまたの間に座り込み胸に凭れ掛った。
「明けまして、今年もよろしくお願いするよ」
頭を撫でながら阿求に言うと、阿求も自分の頬に手をやりながら応えた。
「はい。それではお世話しますので、よろしくお願いします」
言って二人顔を近づけ、また口付けをした。
新ろだ248
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「はぁ……」
茶を啜り吐息を一つ。
阿求は、掘り炬燵でまったりしていた。とにかくまったりしていた。目の前には玉露と温州。これ以上の贅沢はない。
対面に座る青年はさっきからもくもくと蜜柑を胃に収めている。元来無口無表情な彼であるが、よく見るといつもより眉根が緩んでいる。
「ん~」
まるで時間がゆっくり流れているかのよう。この上なく幸福だと、阿求は思う。
はふぅ、と息を吐いて、炬燵の上に頭を寝かせる。そのまま首を回し、最近一緒に住むようになった青年をもう一度見た。
すると、視線に気づいてちらりと阿求を見たものの、すぐにまた蜜柑を食べ始める。
む、と短く唸る。その反応は気に入らない。
そう思ったので、阿求は炬燵から身体を引く抜くと、いそいそと彼の側に回りこんで、
「よっこいせ」
「────」
強引に、彼の脚の間を空けさせ、そこにちょこんと収まった。
青年は何も言わなかったが、蜜柑を食べる手は止まっていた。
それをいいことに、阿求は青年の手を取り、自分の腹を抱くように持ってくる。
青年の胸に体重を預け、眠たい猫のように、彼の肩に頬を擦り付ける。そのまましばらく、背中から伝わってくる熱を感じていた。
「ん……」
ぐ、と不意に青年の腕に力が篭もる。肉の薄い腹にかかる圧迫を、心地よいと阿求は感じた。
腕は腹だけでなく、阿求を囲うように、閉じ込めるように、強く抱き締めてくる。
両腕の上から抱かれているので、もう阿求は自分の意思では身動き一つとることはできない。
逃げられない。
押し付けられた青年の鼻先が、阿求の髪を掻き分けて赤い柔肉を見つける。既に、阿求の身体は熱に浮かされたように震え、耳は真赤に染まっていた。
青年の乾いた唇が、それを食んだ。
「は、ん……」
がっつくような真似はせず、じわじわと、湿り気が耳を浸食していく。
つ、と舌先が耳の外縁をなぞっていく。常人より少し高い温度の水が触れるたびに、阿求は熱い吐息を洩らした。
水の音が、皮膚を通して直接鼓膜を震えさせる。
「あ、ん、ふぁ……」
自由を奪われた阿求は、つたない声でしかその感覚の表現を赦されない。
抱き締める腕の力はますます強まり、痛みさえ伴うのに、しかしその全てが阿求の中で熱に変換されていく。
密着した全身から伝わってくる鼓動は、青年もまたこの行いに昂ぶっていることを教えてくれる。
固い感触。青年の歯が、何度も何度も確かめるように、耳の肉を噛む。電信のようにリズム良く跳ねる柔らかな痛みに、阿求の喉から細い声が洩れた。
愛撫は止まらない。彼の口は阿求の右耳のほとんどをその内に収め、甘噛みを繰り返しながら、舌で容赦なく、執拗にねぶっていく。
耳朶をなぞる舌先は、とうとう敏感な内側にまで辿り着き、ぐりぐりと無理にその充血した先端を捻じ込もうとする。
その度に圧縮された空気と唾液の触れ合いが淫靡に歌い、阿求の幼い肢体から、力を奪い去っていく。
「ひゃ、ぁ、やぁ……!」
直接、脳を陵辱されているかのよう。漏れ出る喘ぎは悲鳴じみていて、けれど目尻に浮かぶ涙は、悲哀からでは決してない。
抱き締められ、耳を弄ばれているという、それだけの行為なのに、何か途轍もなく悪いことをしているような背徳感に身を焦がし。
そしてそれから逃れられない、逃れようともしない自分を受け入れる。
されるがままに身を預けるという快楽に、彼女は浸っていた。
だから、彼の唇が耳から離れたとき、喉から切なげな呻きが漏れた。
「は……」
彼の腕の拘束が緩み、茫とした頭のまま振り返ると、彼と視線がかち合った。
どちらからともなく顔を寄せ合う。青年の唇が阿求のそれと触れ合った。
横抱きにするように位置を変え、右手は阿求の身体を、左手は頭を支える。唇の啄ばみは、細かくお互いの頭の位置を動かしながら、余すところなく行われた。
けれども決してそれ以上は、青年は踏み込もうとしなかった。阿求の呼気を奪い、言葉を封じ、唾液の混交を赦さなかった。
それが阿求にはじれったい。まるで襦袢の上から受ける愛撫のようなもどかしさに、我知らず、瞳が潤みを帯びていく。
もっと、と、堪らず視線で催促しようとして、──それより一瞬早く、彼の舌が唇の裏側に滑り込んだ。
「ふむ、ぅん……!」
不意打ち。
ぬち、という音。青年の舌が、歯と歯茎の段差をぞろりとなぞった。
舌先で歯をこじ開けると、容赦なく青年は阿求の口腔に侵入する。反射的に反らした首は、けれど大きな手に押さえ込まれ、逆により強く接合した。
一瞬、息が詰まる。だがそれだけに青年の動きを感じられた。
「んんっ、ちゅ、はぷっ、ちゅ……」
唇の端から、言葉にならない息がこぼれる。
口の中にじわじわと唾液が滲み出てくる。異物感に反応してか、それとも、極上の味を思い出したからか。
青年はそれすら味わおうとするように、遠慮なく、阿求の唇を、歯を、舌を犯していく。
代わりに流れ込んでくる彼の味に、阿求の意識が蒸発していく。もう何度繰り返したか分からないこの行いは、その度に、劣化しえぬ焦熱をもたらし続ける。
「ぷ、は、んん……ちゅ、ちゅる、んん……」
ともすれば力が抜けてしまいそうな身体を、彼の服を握り締めて必死に支えようとし、けどそれも、結局長くは続かない。
「はちゅっ、じゅっ、ぁっ、んちゅ、ん──!」
じゅるるるるるるるるぅ……!
正気を喪わせるような、卑猥な音色をわざとらしく立てながら、青年が阿求の口を吸い上げる。
たっぷり十秒間は続く音の中、阿求の身体はびくびくと痙攣し続けていた。
「は、ぁ……」
泡立ち、白濁した唾液の橋が引かれ、そして自身の重みで落ちた。
服が乱れ、露になった阿求の鎖骨を唾液が汚す。口の端からは溢れた液体が零れ、頬に線を引き、首筋にまで伝っていた。
瞳はどこか茫っとしていて焦点を結びきれておらず、浅く長い息が半開きの口から漏れ出している。
それでも、青年の腕は阿求を解放していない。
「……、ぁ……」
差し出される赤い肉。彼が何を求めているか分かったので、阿求は何も考えることなくそれに応える。
瞼を閉じ、小さな口を大きく開き、ぬらぬらと光る舌を精一杯に差し伸べた。
「ン……」
先端が触れ合い、そして徐々に貼り合わされていく感覚。
かと思えばずるりと彼の舌が蠢き、刺激に慣れていない裏側の柔らかな肉をつついてくる。
「ァ、んぷちゅ……」
躊躇いなく、再び侵入する舌。先程と違うのは阿求のそれも、彼を求めて蠢いていることだ。
まるで潤滑液のように唾液はとめどなく溢れ、顎を伝い二人の間に落ちていく。混ざり合って、どちらのものかなど分かりはしない。
阿求はやや顎を上に持ち上げ、懸命に舌先の彼を感じようとし、彼もまたそれに応え、より苛烈に、直接的に絡んでいく。
舌尖が味蕾をなぞるたび、電気の味が阿求の脳裏に弾ける。口だけの触れ合いだというのに、指先まで痺れが伝播して、身体から力が抜けていく。
「ンンッ、っふ、あ、んじゅうぅ……!」
双方の舌は別の生き物のように、まだ足りぬと蠢動しつづける。
口の端から泡立った粘液が吐き出されてなお、自分を満たしてくれる何かを求めて這いまわる。
「お、ぼォ……!」
ずぶりと、これまでより一際深く青年の舌が阿求の口腔に突っ込まれた。
反射運動として喉がえずき、胃の腑から苦い物が込み上げてくるが、その味すら楽しむが如く、彼は存分に少女の口を犯していく。
奥歯の歯茎や、舌の付け根、上顎に至るまで満遍なく彼の長い舌にねぶられていく。
通常ならありえない場所への接触に、満足に呼吸することすら許されず、胃から肺からじわじわと吐き気が込み上げてくる。
(ああ、ああ……!)
だがそれすらも、今の阿求にとっては快感を助長するものでしかない。
食べるための器官が、逆に内側から貪られている――その異常な悦楽に酔い痴れている。
(わたし、この人に、食べられてる――)
いっそのこと、と思う。唇と舌だけでなく、全てを。
指先から爪先から、自分のおとめの全てに至るまで、この人に食べてもらえたら、それはどれほどの幸せなことだろう。
阿求はそれをいつも渇望しているし、恐らくは青年も同じ心であっただろうが――それでも、今は駄目なのだ。
「あ……ン、っは、だ、めぇ……!」
だから、必死に身をよじって快楽の束縛から逃れ、声を上げた。
着物の襟から滑り込もうとしていた彼の手を、そっと押し留める。
「それ以上は、まだ、駄目ですよ……?」
告げる声は、けれど阿求自身辛そうだ。本当ならこんなことしたくはないと。全てを為すがままに任せてしまいたいのだ――と。
しかしそうはできない事情が、阿求にはあった。
仮にも、屋敷持ちの旧家の娘である。御阿礼の子としての役目は幻想郷縁起の完成を以て終わってるとはいえ、まだ嫁入り前の少女であることに変わりはない。
後々、この青年と一緒になることは既に認められているとはいえ、守らなければならない節度というものは存在した。
「…………」
潤み、熱を孕んだ瞳で阿求は青年を見上げる。そこにどのような意志が含まれるのか、阿求自身にも分からない。
これまでと同じように堪えて欲しいのか、しきたりなど無視して犯して欲しいのか。
だがそのどちらであるにしろ、阿求が答えを見出す前に――彼は阿求を押し倒していた。
あ、という声を上げる暇もあらばこそ、彼は三度唇を重ね合わせる。
「ァ、んん、っぶ、は」
そのまま赤い穂先を強引に捻じ込み、乱暴な抽送を繰り返した。
性交の代わりとするように、その動きは乱暴で執拗で、ただ強く阿求を求めていた。
「おッ、ぼ、ぉ、じゅ、んんっ!」
じゅぷじゅぷと、水と空気が混ざり弾ける音が、狭い室内に響いている。
二人の身体は既に炬燵から出てしまっていた。転がり落ちた食べかけの蜜柑の行方を気にするものは誰もいな。
彼は右腕を阿求の腋下をくぐらせて頭を抱き、左手は阿求の右手に絡めた。
「はっ、ばぁ、ぷぢゅ、ん、んぶぅ……!」
阿求もまた、空いた手で彼の服をしっかと握り、着物の裾からはしたなく伸びた脚で彼の身体にしがみついている。
傍目から見れば少女が男に犯されているようにしか見えない。だが二人の行為は、あくまで首から上だけに限定されていた。
小さな身体は押し潰されるように抱かれながら、それでも、間に存在する布地の数だけもどかしさと情欲を募らせた。
(ああ、好き、好きです、好きぃ……!!)
「んぁっ、ァ、っぷぁ、はぢゅ、ぅぅンっ!」
言葉として発することのできない想いを、行為に全て込めるように、二人は首から上だけの交わりに没頭した。
衣服の下で蠢いている熱も淫欲も、今許されていることだけで、全て伝えてしまいたいと。
「ぢゅ、は、んじゅぅ、ぅぁ、っああ、はぶッ、ン、ちゅく、んん、っぱぁ、んん――――ッ!!」
二人の行為は、これより十分後、訪れた上白沢慧音が黄色い悲鳴を上げながら成年の尻を全力で蹴り上げるまで続いた。
新ろだ251
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その日はとても寒い朝だった。
不用意に彼女が布団から出した手先はすぐに凝り、瞼を開ければ涙も凍るのではないかというほどだ。
部屋には火鉢があったが火は無く、隣に敷かれた布団には誰も居らずで、つまりは暖を取れるものは布団しかない。
彼は、隣の布団を使っていた人間は起きたかを見に来るかしらん、と阿求は期待するが一向に来る気配は無く、仕方無しに彼女は枕元の半纏を布団の中に引き摺りこんだ。
火鉢に火ぐらい入れて行ってくれてもいいのに、と八つ当たり気味に考えながら阿求は暖めた半纏に袖を通すと、障子を顔一つ分開けて庭の様子を窺い、寒い訳を思い知った。
なにせ眼前の庭には雪が高く積もり、誰が造ったのかは知らないが二三人は入れそうなかまくらまであったのだ。
寝る前には降っていなかったし、深夜から明け方辺りまで降っていたのか、しかし見逃したのは残念だ、と阿求は思う。
阿求も大量の記憶を抱え、本の編集まで出来るとは言え、流石にまだまだ子供な性質もあり、雪ともなれば喜色満面であるのだ。
この分なら池にも川にも氷が張っているでしょうと、阿求は半纏に続き着物も布団の中で暖め、着替えると朝食を食べに居間に向かった。
居間には座布団が二つと火鉢が一つ、それと男が一人いた。
男は阿求が障子を開けた音に気付いたのか、そちらに顔を向けると挨拶をし、少し火鉢の前から移動する。
阿求もそれに返事をすると、背中からその男に抱きつき一緒に火鉢に当たった。
こんなところに居るのなら布団の中に居ればいいのに、と阿求は男の肩に顎を乗せながら思うが、そうもいかないかと内心溜息を吐く。
何せ彼はただの居候なのだから、いつまでも眠りこけていると言う訳にはいくるまい。
まあ寝ているのと火鉢に当っているだけなのとでは大した違いが無いとも言えるのだが、それは体面の問題だ。
やがて食事が運ばれてきたので阿求は背中から離れ、一人で膳の前に正座した。
朝食を食べ終え、熱い茶を飲みながら阿求は新聞を読んでいる。
その内新聞も読み終えると、阿求は男に今日は何か予定はあるかと訊いた。
男は何も無いと首を横に振ると、それはいいと阿求は手を叩き、なら後で一緒に善哉を食べに行こうと男を誘った。
美味しいお店が通りに出来たらしいですよと阿求は言う。男はそういう情報は何処で仕入れるのかと苦笑しながら承諾した。
ざぐりざぐりと里の大通りを転ばないように二人は小股で歩いて行く。
男は外から流れてきた登山靴を、阿求は革の靴を履き、両者とも黒色の外套を羽織っている。
懐には鷹の爪数個と火鉢で温めた小石を懐炉代わりに入れ、暖を取っていた。
昼も過ぎて大分雪も緩んでいるとは言え、日陰では踏み固められた部分が氷になっていて滑らないとは言えない。
阿求は転ばないようにと男の腕に掴まり、男はその所為でよろけそうになりながら、しかし阿求を突き放すことなく慎重に動く。
腕を離して歩いた方が安全じゃなかろうかと男は思っていたが、必死の形相でしがみつく阿求にそのようなことを言えるわけも無く、言う気に成る訳も無い。
結局二人して二度三度と転びながら目的の甘味屋に着いたのだった。
甘味屋はお八つには少し早い時間にも関わらず存外に盛況で、店の椅子は八割方埋まっていた。
そのうちに奥まった所の二人掛けの卓に案内されると、阿求は善哉を、男は阿求の勧めで大汁粉を頼む。
届くまで少し時間が掛かりそうだったので、熱いほうじ茶で手先を温めつつ、無駄話に花を咲かせた。
曰く、少し背が伸びただの庭の冬牡丹に花がついただの、或いは寺小屋の試験問題を難しく作ったら怒られただのだ。
もっぱら阿求が話し、男はそれを笑いながら聞いていたが、時折、例えば、全体何故こんな天気の日に外出なんざしたのか、というような問いをした。
その随分適当な問いに、阿求はこんな天気だからしたんですと言うような、やはり適当そうな意味の深そうな返事をする。
男はその答えに多少考え込むような表情を作るが、やがてどうでもいいかと言うように阿求に向き直り、阿求とのお喋りを再開した。
さて品物が来ると男は顔に疑問符を浮かべ、それを疑問に思った阿求が何故渋面を作るのかと問い質した。
すると汁粉なのに何故に漉し餡なのだろうか、と割と切実そうな声で男は言う。
阿求は漉し餡は嫌いですか、と問いかけると、男はそんな事は無いと答えた。
ならいいじゃないですかと阿求はそこで切り上げようとするが、しかし男は渋面を崩さない。
このときの渋面の意味は未知との遭遇のそれであったが、当然だろう、丼一杯の汁粉など普通ありはしないのだから。
蓮華と箸を両手に持ち、男は意を決して食べ始める。阿求はそれを笑いながら見ていた。
六割程度を食べた所で男は嫌になって汁粉を食べるのを止め、大分先に普通の大きさの善哉を食べ切っていた阿求は、その残りを貰うと嬉々として食べ始めた。
男は些か謀られた感もしたが、阿求は善哉とお汁粉の両方が食べられると喜んでいたのでとりあえずは良しとする。
だけれどもまあ、頼むなら善哉ではなく豆かんなり葛きりなりの汁粉とは似ていないものにすれば良かったのに、と男は溜息を吐く。
しかしまあどうでもいいことか、と餡蜜を追加注文する阿求に茶を喉に詰まらせながら男は思った。
予断だが、大汁粉はその店の人気商品らしい。
なんでも一つの杯を恋人同士で分け合うのが流行っているとか言う話だ。
新ろだ295
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目の前で繰り広げられるどんちゃん騒ぎ。
そこには人妖の区別はこれといってなく、皆思い思いに楽しんでいる。
「ほんと、あいつらはいつも元気だなー」
「○○さんだっていつもならあの中に飛び込んでるじゃないですか」
そう言ってくすくすと笑う阿求。
確かに普段ならあの輪に入って腹踊りやら一気やらをやったりしている。
祭り好きの人間として、どんちゃん騒ぎが嫌いなんてことは
まったくもってないのである。
「いいんですか?行かなくて」
「いいよ。たまにはこうしてのんびりと酒を飲むのも」
杯をくいっと一杯。
「……オツなもんだ」
置いた杯に、とくとくと澄んだ液体が注がれる。
徳利を持つ細い手の先には、愛しい妻の姿があった。
「そういうものですか」
「そういうもんだよ」
僅かばかりの間の後、ほぼ同時に相好を崩す。
「それに」
注がれた一杯をぐいと飲み干し、ごろんと横になる。
頭は彼女の膝の上。ここ最近の定位置である。
「こうしてお前と二人で過ごせる時間もまた、いいもんだ」
まあ、と少し驚いている阿求の顔ごしに天井を眺める。
「あらあら……嬉しい事をいってくれるじゃありませんか」
そろりと手が伸び、俺の顔を優しく抱く。
針金のようだ、と揶揄された髪に、細い指が絡みつく。
一向に静まる気配のない外の騒ぎを見ていると、
不意に彼女が口を開いた。
「ねぇ、あなた」
「なんだ」
「そろそろ子供が欲しいとは思いません?」
「っ……ごほっ、ごほごほっ!」
あまりにもな内容に、飲み込みかけた唾が気管へと入ってしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
膝枕の状態から起き上がり、地面を見つめながらしばし咳き込む。
いつか母親にされたように背中をさすられ、落ち着くまで数分。
再び先の膝枕体勢に落ち着き、話を再開する。
「"子供が欲しい"とかお前な……そういう事はもっとこう」
「?」
「……いや、何でもない。気にしないでくれ」
「はい」
終始ニコニコとしてはいるものの、どこか真剣味を帯びた目。
茶化して流そうと思ったが、そうもいかないらしい。
真面目な話なのだから起き上がって話を、と思ったのだが、
"どうかそのままで"とやんわりと押さえられてしまった。
後頭部に感じる、枕とはまた違った柔らかさを堪能しつつ、話をすることにした。
「で、子供の話だったか」
「はい」
ニコニコしていた顔からはいつの間にか笑みが抜け、真剣さだけが残っていた。
「どうしてまた突然……まだ俺たちには先があるじゃないか」
形式上俺こと○○と阿求は夫婦である。これには間違いも相違も何一つないのだが、
いかんせん二人してまだ成人には遠かったりする。
というのも、親同士が勝手に、宴会の席で取り決めてしまいやがった縁談だからなのだが、
俺たち二人はというと割とすんなりと受け入れていた。
小さい頃からちょこちょこと交友があったからというのもあるのだが、
実のところはとてもシンプル、俺は阿求に、阿求は俺に惚れていただけのことであった。
ただ一つ不満があるとすれば、告白しようと思ったその日に縁談を決めてしまったおかげで、
やり場のない決意と勇気と恥ずかしさの塊を発散するのに、少々日数を要しただけである。
失礼、話が逸れた。
夫婦である以上はいつかは子を為すのが自然、いや、必然。
かといって若いのだから、まだまだ楽しみたいお年頃なのである。
"阿求は違うのか?"という意味合いの視線を送ってみると、
無事に通じたようで、彼女は真面目な顔をしたまま、それでいて僅かに頬を朱に染めつつ、口を開いた。
「その、あなたの仰りたいことも重々承知で――私も思わないでも――こほん、分かっているつもりです。
ただ、私たちの一族、とりわけ御阿礼の子として生まれた者は、一般的に短命と言われています」
そういえば婚姻の儀をする際に、色々言われた事を思い出した。
それが何だ、と阿求の親族相手に啖呵を切ったのは、ついぞ先月のこと。
先程のびっくり発言も、背景を鑑みればすぐに分かりそうなことだった。
「だからこそ、か」
「ええ」
「でもなー……お前、それでいいのか?」
頭の上に「?」が見えんばかりの顔をする阿求。
「子供が二人に増えてしまうぞー?」
膝に頭を置いたまま体を反転――うつ伏せに――させ、彼女の細い体を抱き締めた。
「ちょ、ちょっとあなた!?」
「うはは、よいではないか」
もぞもぞ、となんとか引き剥がそうと服の裾を捕まれたり、頭をぽかぽかと叩かれたりしたが、
ここは男と女である。しばらくして彼女も諦めたのか、同じように横になる。
「もう一度聞く。お前は本当にそれで"良い"のか?」
しばらく間が空く。ほんの十数m先で繰り広げられる宴会の音が、えらく遠くに感じた。
「……さっきの短命云々、というのは実は、本音半分の建前で、その……」
ごにょごにょ、と肝心の部分が小さくて聞き取れない。
「聞こえないぞー」
「……との……を、……しょに……」
「もう一度頼む」
ずるずる、と床を僅かに這い、阿求の口元まで頭を寄せる。
「貴方との子を、一緒に育ててみたくて」
阿求の顔は、炬燵で燃え上がる炭火よりも赤くなっていた。
胸にこみ上げてきた愛おしさそのままに、妻を抱き寄せる。
「なあ、阿求」
「……はい」
「俺は幸せもんだよ」
「はい。でも、私も負けないくらい幸せですよ」
ふふ、と僅かに笑う声。吐息が前髪にかかる。
「それじゃあ、俺達の子供はもっと幸せにしてやらないとな」
「そうですね」
二人して、くすくすと笑いあった。
後日、いつのまにか撮られていた写真を新聞にされ、
酒の肴として色々囃されることになるのだが、それはまた別の話。
新ろだ308
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自分が彼女の私室に入ったとき、彼女はこちらに背を向けて書き物をしていた。
「阿求」
呼びかけると、阿求は筆を止めてこちらを向きなおる。
何の用かと小首を傾げる彼女の横に座ると、懐から小さな箱を取り出し言った。
「結婚しよう」
箱の中には前から、本当に前から用意していた小さな指輪がひとつ。
阿求はそれを見ると数瞬固まり、そして首を振って言った。
「だめですよ……」
自分の言に、悲しげに阿求は顔を俯かせる。
「前に言ったじゃないですか。私は先が短いって」
泣いているのかもしれない、阿求は肩を震わせながら言った。
「それでも……!」
しかし自分の話す前に、阿求はそれを遮る様にして顔を上げ言った。
「エイプリルフールと言う奴でしょう。あなただって納得してくれたじゃありませんか」
真っ赤な目で精一杯に睨み付け、阿求はこちらを威嚇している。
自分は、膝の上で血の出そうなくらいに強く握り締められた彼女の手を取り上げ、自分の膝に置いた。
「それでも構いやしないだろう。俺がお前を欲しいだけなんだ」
両の手で尚震える阿求の手を包みながら言う。
「それともお前は俺と一緒になるのは嫌なのかい」
また俯いてしまった阿求の頭を見ながらそう尋ねると、阿求の動きは全く固まってしまった。
どうしたことかと思っていると、少しして段々と阿求の体が自分に向かって落ちてくる。
それを抱きとめると、阿求は自分の胸の内で肩を震わせ、声を殺して泣き始めた。
そのまま抱き締めていると、泣き声に混じって何事かを小さな声で呟いているのに気づく。
しかし耳を澄ませて聞き取ろうとしても聞き取れず、やがて多少は落ち着いたのか、阿求は顔を上げると泣き声交じりに言ってきた。
「そん…なことを言われっ……たら、私だって我慢が……」
ぐずぐず泣く阿求の頭を撫で擦りながら、ただ落ち着くのを待つ。
返事を貰うのはまた後ででもいいだろう。机に置かれた箱を見てそう思った。
「そういえば、ひとつ話しておくことがあるんでした」
阿求は自分の膝の上に頭を置くと、頬をぺちぺちと叩きながら言ってくる。
自分がなんだ、と促すと、阿求は咳払いをひとつして続けた。
「私、赤ちゃんが出来たみたいです」
満面の笑みで腹を擦りながら阿求は言う。
それを信じられない、といったような面持ちで自分は見ていた。
「嘘…だろ…」
ついつい口を出てしまった言葉に阿求は笑いながら返した。
「エイプリルフールって言うのは、悪い嘘は吐いちゃいけないんですよ」
>>新ろだ432
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