無主体論

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#contents ---- #right(){(参考:入不二基義『ウィトゲンシュタイン「私」は消去できるか』)} 無主体論とは、[[ルネ・デカルト]]が懐疑主義的方法の果てに見出した「我思うゆえに我あり」に対する批判として、思考する際の主体となる「我」の存在を必要としないとする立場。 **非人称表現 "It rains." の "It" は非人称表現であり、それは具体的な何かを指しているわけではない。「非人称」とは一人称でも二人称でも三人称でもなく、人称「以前」であり、「誰」とか「何」とか明確な主体(主語)が立ち上がってない状態である。デカルトの「我思う」も本当は非人称表現、すなわち「思う」や、「思っているということがある」と、主語を省く方が正確な表現であるとする。懐疑の果てにそれでも残っている思考は「誰が」という人称を与えられないものであり、それは「思考が生じている("It thinks.")」という非人称表現がふさわしいと、無主体論は考える。 **直接経験 例えば「三本の煙突が立っている」という判断は誤っている可能性があるが、その判断のもとである、「三本の煙突が立っているように見える」という視覚経験それ自体は誤りようがない。実際の煙突の数が二本であっても、感覚自体はすでに起こっていて打ち消しようがない。そのような「見える、聞こえる、感じられる」といった感覚経験こそが、様々な知識や判断の土台にある。それ以上は遡れない最も基礎的な現れが「直接経験」である。 直接経験を「私的」なものとして、経験を「……のように私には思われる」と記述するのが独我論である。しかし無主体論は独我論と反対のベクトルをもち、直接経験は一人称の経験でなくニュートラルなものなので、所有者など存在しないと考える。例えば「三本の煙突が立っているように見える」という心的経験があっても、その経験を所有する「私」はない。「私」という主体などは事後的に、反省的に見出された概念であって、直接経験自体は特に「誰」のものでもないのである。また直接経験は非人称的なものだから、それを基礎にする考え方は必ずしも独我論にはならないとする。 **デカルト的自我との対比 デカルトにおいては心的現象は自我の所有物である。しかし無主体論は「私」という主体が意識状態を所有するという考えは無意味であるとし、主体など存在しないとする。その理由は、「主体による何かの所有」ということが意味を持つのは、その「何か」を別の主体へと譲り渡すことが論理的に可能な場合だけだからである。たとえば私がカバンを「所有する」ということが成り立つのは、そのカバンが他の誰かに所有されることが可能だからであり、私とカバンの所有関係は壊れる可能性があるからである。 しかしデカルト的な自我と意識状態の関係はそうなっていない。意識状態を他の誰か(主体)に譲り渡してしまうことは論理的に不可能である。意識状態は最初から分離不可能なものとして現れ、現れたときには既に所有関係を問うことはできないからである。 意識状態に所有主体や帰属先があると考えるのは「言語的な幻想」にすぎないと、無主体論は考える。このように無主体論は直接経験・意識状態・心的経験等を非人称的で無主体のものと考えることによって、特権的、デカルト的な「私」という主体を立てることに反対する。 **ウィトゲンシュタインの無主体論 哲学者のM・シュリックやP・F・ストローソンは一時期の[[ウィトゲンシュタイン]]の考えを無主体論だとみなした。しかし入不二基義によると、ウィトゲンシュタインの考察では、直接経験が無主体であるのは、それが「誰の」ものでもなくニュートラルだからでもない。直接経験には「隣り合う対照項」など存在せず、「それが全てでありそれしかない」という独我論的な経験だからである。だからこそ「私の直接経験」と言っても「私の」には示唆的な機能はない。それゆえ「私の」と記す必要もない。もはや「私」とは「言語によって正当に際立たせることが不可能なあるもの」なのだから、独我論的な「私」は、言語において無主体であることと等しくなる。ウィトゲンシュタインの場合は「無主体論」と異なり、直接経験は「非人称的」だから無主体なのでなく、むしろ「超人称的」「一人称以上に私的」であるからこそ無主体なのである。「私」は強力で特異であるとみる点でウィトゲンシュタインは独我論とベクトルを共有し、一般的な無主体論とは決定的に異なっているのである。 ----

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