バートランド・ラッセル


概説

バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell,OM,FRS 1872年5月18日 - 1970年2月2日)はイギリス生まれの論理学者、数学者、哲学者。

哲学者としては新ヘーゲル主義から経験主義に転向し、初期の論理実証主義に大きな影響を与える。無神論者であった。

ラッセルはウィトゲンシュタインの才能を早くに見抜き、親交を結んで互いに影響を与え合った。しかし後期のウィトゲンシュタインを始めとする日常言語学派には批判的であり、言語の分析を哲学の終点とみなさず、あくまで言語が指示する対象に拘り、独自に形而上学を探究した。

ラッセルは分析哲学の創始者の一人でもあり、その哲学は生涯に渡って変化を続けたものの、哲学的手法は終始一貫して分析的・論理的であった。つまりラッセルは人間の本能と直感に信を置かなかった。このことは反戦運動に尽力していたことからも伺える。戦争とは人間の闘争本能の露呈だからである。そしてラッセルにとっては、戦争をもたらすような原始的な人間の本能や直感から構成されたものが日常言語であり、それゆえに日常言語学派の方法を否定し、数学と先端科学の知見を尊重し、分析と論理による認識を重んじたのである。このようなラッセルの立場は「人工言語学派」とも呼ばれる。

日常言語学派は、伝統的な哲学的問題の多くは日常言語の誤用から生じた擬似問題であるとして「消去」しようとする。しかし現代においては哲学的問題の多くは物理学の問題と重なっている。現代の物理学では日常言語では表現できない事柄を、数学という人工言語で記述しているので、人工言語学派は科学との相性が良いといえる。事実、ラッセルは当事最新の物理学だった相対性理論や量子力学についても一流の知識をもっており、相対性理論の解説書も書いている。ラッセルにとって哲学と科学は緊密に連結しているのである。

心の哲学におけるラッセルの見解

ラッセルは唯物論と観念論をともに斥け、宇宙は根本的には「出来事(events)」からなっていると考えた。出来事という概念は『プリンキピア』の共著者であったホワイトヘッドに由来する。

「events」という英語は相対性理論において重要な概念である「event(事象)」と同じ意味である。ホワイトヘッドとラッセルはともに最新の科学知識に通暁しており、出来事の概念には、相対性理論や量子力学による当事の劇的な科学的・存在論的なコペルニクス的転回が反映されていたと考えられる。

ホワイトヘッドは科学哲学において、「点」「瞬間」などの概念は「出来事」という基本概念から構成されるとする理論を展開していた。ラッセルはこのホワイトヘッドの思想に強く影響を受けたことを回想記『私の哲学の発展』で述べている。全ての「物」と見えるものは実際は単独で存在せず、周囲の環境と相互作用し、また素粒子のレベルでは他の物との明確な境界線を持っていない。従って、あらゆる「物」と見えるものは実は出来事なのである。その出来事は他の全ての出来事と連結し合っている。

自然は絶えず変化し続けているように見える。従って出来事と呼ぶものは全て「過程(process)」の部分であり、時間的に隣接している。これは事実であるが、しかしある出来事が必然的に次の出来事を生起させるというわけではない。量子力学の理論は連続性がみかけのものに過ぎないことを示している。つまり「過程」とは断続的である。これがアンリ・ベルクソンの「純粋持続」との違いである。連続性が見かけのものならば、「過程」ではない根源的な、実在としての「出来事」に到達する可能性がある。これが『論理哲学論考』以降のウィトゲンシュタインと異なり、ラッセルが「論理的原子論」の立場を生涯放棄しなかった理由である。

ラッセルは、物理学的世界像の基礎を成すのは出来事だとし、「物質(matter)」という概念は出来事から論理的に構成されたものであると考えた。これはハイゼンベルグやシュレーディンガーによって構築された量子力学の理論との整合性がある。素粒子とは粒子であると同時に波である「重ね合わせ状態」だと量子力学では説明される。その状態は波動関数で表現されるだけである。量子力学の世界観においては、伝統的な「物質」のイメージは崩壊している。物質は変化するエネルギー波自体の運動に他ならないとする。(言い換えれば物質とはエネルギーの一形態である)もしそれが事実であり、物質とは何かを説明するのに波動概念を使っているとすれば、波動とは何かを説明するのに物質の概念を使うのは循環論法である。したがってラッセルからすれば物質も波動も出来事ということになる。

そこから進んでラッセルは、「心」の概念も同様に出来事から構成されたものだと考えた。つまり心と物質はともにその基盤にあるより根本的な出来事の側面である。この理論をラッセルは「中立一元論(中性一元論)」と呼んだ。「中立一元論」という概念はエルンスト・マッハウィリアム・ジェームズの思想に原型があったものである。

『哲学入門』から『知識の理論』の頃(1910~1920年代)のラッセルは、「心的なもの」や「物質的なもの」はいずれも実体ではなく、両者はともに根源的な要素である「センシビリア」からなると考えていた。これは中立一元論というより汎心論に近い説である。センシビリアが主観によって感覚されたものが「センスデータ(感覚与件)」であり、「机」や「猫」など個物として認識されるあらゆるもの、またその個物を認識しているとする「私」という自我さえも、このセンスデータから論理的に構成されたものだと考えた。この「感覚与件論」と呼ばれる立場は後の論理実証主義に採用されることになる。

そして『外界の知識』(1926年)でラッセルは、センスデータという概念には「主観に対する客観」の意味があるため、これを放棄する。しかし論理的原子論の立場は維持し、センスデータに代わってラッセルが採用したのが、ホワイトヘッドの「出来事」の概念というわけである。この時期、ラッセルは中立一元論の立場を明確にする。

出来事は持続し広がりをもっている時空的な事柄である。物理学的にいうなら、出来事は時空連続体の一部を占めている。そして出来事には心的と物理的の二つの記述の仕方があり、どちらか一方の仕方で描写される。物理的記述のものとでは、出来事は物理学の研究対象であり、心的記述のもとでは、出来事は心理学の研究対象である。

ラッセルの理論はスピノザと共通しているところがある。スピノザとの相違は、スピノザが神という唯一の実体を想定したのに対し、ラッセルは実体そのものの存在を否定したことである。心的なものも物理的なものも実体ではなく出来事に還元される。

出来事は存在する。だが出来事は何かに生じるのでは無い。ものごとは生起し、出来事は存在するが、それはいかなる種類の実体から作られるものではない――これがラッセルの見解である。

ラッセルは、脳内の出来事を物体の運動とみなすべきではないと言う。脳は出来事によって理解すべきであり、そして出来事が心的なのか物理的なのかは問題にすべきではない。出来事はその因果関係に依存して、心的かつ物理的になることもあれば、そのいずれかになることもあると言う。ここでのラッセルの見解には知覚が脳の一部だという主張が含まれているのに留意すべきである。このようなラッセルの中立一元論を、S・プリーストは、神学を物理学に置き換えたスピノザ主義だと言っても、それほど見当違いではない、と評している。

ラッセルの中立一元論は主観と客観の対立図式を乗り越えようとする試みでもある。ラッセルは客観化できないといわれる「内観(introspection)」の私秘性を著書『心の分析』で以下のように批判する。
1、感覚に関していうと、私的と公共的の区別は程度の問題であって、種類の問題ではない。
2、心の内部と外部世界の区別は確定したものではない。
3、内観は誤りえない、という見解は疑わしい。
4、私的であることは、科学の対象と矛盾しない。それゆえ内面的心を科学の対象から外す行動主義は間違っている。
ラッセルは内観を全く否定するわけではないが、それのみを道具として心的現象にアプローチする方法は否定するということである。

ラッセルは物理学と心理学双方を含んだ基礎的な科学を想定し、それを「真の形而上学」と呼んでいた。そして真の形而上学においては、心の哲学において多数の困難を引き起こしていた誤った唯物論が否定されると考えた。

物と心の二元性を解体して中性的なものを想定し、真の形而上学を構想したラッセルの哲学は現代のデイヴィッド・チャーマーズにも影響を与え、チャーマーズは中立一元論の立場を取り、またラッセルのいう「出来事」を「情報」と置き換え、情報の二相理論という独自の形而上学を構想している。

自我論

ブレンターノの継承者であるマイノングは意識の性質を、「作用」「内容」「対象」の三つに分類していた。ラッセルは1921年の『心の分析』で、このマイノングの分類を批判し、デイヴィッド・ヒュームと同型の無主体論を主張する。(以下は意訳して引用)
意識の作用(act)は不必要なものであり虚構のものである。思考内容の「出来事」が思考の出来事そのものである。作用に対応するものを私は経験的に見出すことが出来ない。また一方、それが論理的に必要だという理由も見出せない。
act は主語の幽霊である。
思考は取り集めて束にされることができ、その結果、ある束が私の思考、もう一つが君の思考、そして三番目がジョーンズ氏の思考となる、ということはもちろん正しい。しかし私は、人というものが単一の思考における構成要素ではないと考える。
it rains here というように it thinks in me と言うほうがいい。(pp.11-12)

われわれはジョーンズが歩くと考え、そして歩行するジョーンズのような何者かが存在するのでなければ、いかなる歩行もありえないと考える。しかし、ジョーンズがする歩行のような何事かが存在するのでなければ、いかなるジョーンズもありえない、ということも同じように真である。行為は行為者によって行われるという考えは、思考には主体あるいは自我が必要である、という考えに対してなされたものと、同じ種類の批判を免れることが出来ない。(p.233)

このラッセルの無主体論はカント哲学を転倒させたものである。カントにおいては、世界は主体(主観)から構成される。しかしラッセルにおいては、世界から主体が構成されるのである。これはウィトゲンシュタインの独我論との相違も際立っている。ウィトゲンシュタインにおいては主体と実在(世界)は一致していた。しかしラッセルにおいては、主体はあくまで概念的な構成物に過ぎないのである。

論理的原子論によれば、特定の視点で椅子を見ている場合、それは一つのセンスデータである。しかし視点を変えれば異なる椅子の像が見える。それも一つのセンスデータである。それら個別のセンスデータの集合が「椅子」という個物である。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」も、ラッセルによれば「これ思う、ゆえにこれあり」となる。「これ」とは瞬間における一つのセンスデータである。「我」とはセンスデータの集合によって構成されたものなのである。

このことは瞬時における自我だけが存在するとする「瞬間の独我論(刹那的独我論)」の可能性は否定できないことになる。ラッセルは以下のように述べている。
テーブルを見つめて茶色が見えているまさにその時、きわめて確実であるのは、「私が茶色を見ている」ではなく「茶色が見られている」である。もちろんこれは、茶色を見ている何か(あるいは誰か)を含んでいる。しかし「私」と呼ばれている、多少なりとも存在し続けている人物を含んでいるわけではない。直接の [経験が持っている] 確実性が示す限りでは、茶色を見ているものがきわめて刹那的で、次の瞬間に別の経験をする何かと同一ではない可能性が残る。(『哲学入門』p.25)

実体とは、アリストテレスによれば、主語であり、述語によって記述され、自らは述語にはならないものである。たとえば「この椅子は茶色である」という場合、「この椅子」が主語・実体であり、「茶色である」が述語・属性である。しかし、ラッセルはアリストテレスの理論を転倒させる。直接に経験されるセンスデータは、常に一定の空間を占める色であったり、時間的持続のある音であったり匂いであったりするだけである。椅子にしても飛行機にしても、個物はそのセンスデータの集合として論理的に構成されたものである。つまり存在しているといえるのは個物ではなく、普遍的な「属性」や「関係」だけである。従ってラッセルは経験論者でありながら、1940年の『意味と真理の探究』の頃には、「世界の構成要素は〈普遍〉のみ」という唯名論と逆の立場に到達することになった。


  • 参考文献
大森荘蔵『言語・知覚・世界』岩波書店 1971年
河村次郎『自我と生命』萌書房 2007年
中村昇『ホワイトヘッドの哲学』講談社選書メチエ 2007年
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』岩波新書 2005年
S.プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 1999年
B.ラッセル『心の分析』竹尾治一郎 訳 勁草書房 1993年
B.ラッセル『哲学入門』高村夏輝 訳 筑摩書房 2005年
  • 参考サイト


最終更新:2013年06月08日 13:26