水槽の脳


概説

水槽の脳(すいそうののう、Brain in a vat)とは、自分が体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか、という懐疑主義的な思考実験で、1982年哲学者ヒラリー・パトナムによって定式化された。物事の実在性を哲学的に問う際に使用される。水槽脳仮説とも呼ばれる。デカルトが『省察』において、方法的懐疑として行った「夢の懐疑」と同型のものである。

ある科学者が人から脳を取り出し、脳が死なないような成分の培養液で満たした水槽に入れる。脳の神経細胞を電極を通して脳波を操作できる高性能なコンピュータにつなぐ。意識は脳の活動によって生じるから水槽の脳はコンピューターの操作で通常の人と同じような意識が生じる。われわれが現実に存在すると思っている世界は、実はこのような水槽の中の脳が見ている仮想現実かもしれない。世界が実は、映画『マトリックス』で描かれたようなバーチャルリアリティーであることは論理的に否定できないのである。

私はひょっとしたら仮想現実の世界にいるかもしれない。そして明日カプセルの中で目覚めてコンピューターと繋がった頭部の電極を抜くかもしれない。しかしそんなことがあったとしても「夢から醒めた」ことにはならない、というのがポイントである。目覚めて電極を抜いている自分の姿もまた仮想現実かもしれないからだ。結局、何が真の世界なのかを知る手段が人間には与えられていない、というのが思考実験の結論である。

パトナム自身の説明によれば、この思考実験の目的は懐疑主義ではなく、形而上学的実在論の否定である。形而上学的実在論は人間が世界を了解する仕方と世界が実際に存在する仕方の間に相違があることを前提にしている。水槽の脳の人物は本物の脳を見たことがない。彼が何かを見たといっても、それは実際には配線を通じて彼に与えられたイメージでしかない。同様に「水槽」についての彼のイメージも本当の水槽を指し示しているわけではない。従って彼が「私は水槽の中の脳だ」と言ったとしても、それは実際には「私は水槽のイメージの中の脳のイメージだ」と言っているにすぎず、脳の実在性について語れていない。かといって彼が実は水槽の中の脳でないとすれば、彼は反対のことを言っていることになる。パトナムによれば、これは認識論的な外在主義(「意味は頭の中だけにあるわけではない」という考え)が成り立つことの証明である。知識や正当化は心に外在する要因に依存しており、純粋に内的には決定されないということになる。

派生問題

(以下は管理者の見解)

パトナムの思考実験はイマヌエル・カントの認識論を基にしたものである。われわれは表象のみを認識しているのであり、知覚外部にある「物自体」は決して認識できないとするのがカントの哲学である。しかしカントが物自体を実在するものと措定していたことは、認識論的に不徹底であるといえる。物自体というものに必要とされている能力は、ただ「われわれの経験を成り立たせる力」がある、ということのみなのである。ならば物自体は非物質的な霊魂であってもよいし、時間と空間という形式をもたないような存在であってもよいことになる。したがってショーペンハウアーは「世界は私の表象にすぎない」とみなし、表象をもたらす物自体を「意志」と規定することによって、「意志としての世界」という世界観を構想した。しかし「意志」という概念もまだ超越論的かもしれない。現象主義と実証主義をより徹底すれば、前述した「われわれの経験を成り立たせる力」とは、究極的にはエルンスト・マッハが構想したように単なる「法則」になるだろう。

徹底した現象主義を前提にして水槽脳仮説を考究すれば、意味論的外在主義がナンセンスな主張であることがわかる。そもそも「内在的なもの」も「外在的なもの」も、われわれの意識に現れる表象の分類に過ぎないからだ。たとえば、今は私は確かに「パソコン」を操作しているが、その「パソコン」とは論理的に一個の表象(クオリア)なのであり、その表象を超えて、意識外部に「本物のパソコン」があるかもしれないと考えるのは、論理的でなく、根拠の欠如した単なる空想なのである。

もちろん、上のような現象主義的な主張に対しては、次のような批判がありうる。つまり、われわれが自分の表象しか認識できないなら、なぜ世界に多数の人々がいて、それぞれ自分の表象だけで生きているのに、人々は高度な水準でコミュニケーションを成しうるのか、というものである(この場合、他人の意識は不可知であるとするなら独我論になる)。

しかしそのような批判もまたナンセンスであると却下できるのが、水槽脳仮説の核心であると私は考える。映画『マトリックス』では、多数の人間がバーチャルリアリティーの世界で生きているという設定だった。仮想の世界である無しに関わらず、表象を経験させる「法則」が同一であるならばコミュニケーションは可能であるということであり、実在を云々する必要はないのだ。映画の設定に科学的、論理的な矛盾は無い。したがって水槽脳仮説が示しているのは、物自体という概念さえ必要なものではないということで、「われわれの経験を成り立たせる力」というものを極限にまで抽象化すれば、自然の斉一性原理によって普遍的にあるとみなせる「自然法則」ということになるだろう。


  • 参考サイト
  • 参考論文
神山 和好 「水槽の中の脳型懐疑論を論駁する」 科学基礎論研究 Vol.32, No.1(2004)


最終更新:2014年04月06日 20:07