ヘーゲル


概説

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770年8月27日 - 1831年11月14日)は、ドイツの哲学者。ドイツ観念論哲学の完成者といわれる思想家である。

デカルト的二元論を克服するためにシェリングから「世界精神」の概念を受け継ぎ、心的なものと物理的なものが精神という新たな綜合において存在しているという独自の「絶対的観念論」を提唱した。

ヘーゲル哲学を批判的に継承・発展させた人物としては、セーレン・キェルケゴール、カール・マルクスなどがいる。ポストモダン思想においては、マルクス主義国家における全体主義的傾向は、理性によって人間を含む世界の全体を把握できるとするヘーゲル思想に由来している、という見方がされている。

心の哲学についてのヘーゲルの思想

ヘーゲルは心身問題について、『精神現象学』『精神の哲学』『エンツュクロペディー』において述べている。

我々は子供の頃のには心身二元論者ではなく、自然との統一を直感的に、当然のこととして感じている。しかし、我々は成長するに従い、自分の経験を合理的に反省するようになる。この反省作用こそが、主観的で心的実体としての自己と、客観的で物理的実体としての自然、という見かけの分裂を生じさせるのである。また反省作用によって主観と客観という二つのものが存在するよう思えるのである。

ヘーゲルにとって反省作用は自己意識の構造のひとつである。「ほとんどの場合、自己や主観、観察している自分は意識に現れない」と彼はいう。自己意識という作用が働いている間だけ「自己」は現れるのである。それを前提に、二元論は自己意識に依存していると考える。また反省から生まれた心身二元論は、幻想とであるという。

ヘーゲルは心的なものと物理的なものがいかにして相互作用するかを説明するのは誤りだと考える。ひとたび心身二元論を認めてしまえば、相互作用の説明は不可能なのである。よって二つの実体が存在するのを否定する。二元論の誤りは心を一種の「物」として考えたことにある。こうした考えに至らせた作用が反省である。ヘーゲルによれば反省は「悟性」に属する。悟性の役割は経験世界、つまり時空にあるものごとを理解することである。その悟性を心的なものを理解するため、つまり「物」「不可分性」「統一」といった概念を心に用いるからデカルト主義の誤りに陥るのである。

ヘーゲルは観念論と唯物論をそれぞれ批判していた。それらは非弁証法的で一方向的だからであり、また観念論は物理的実在の意味を最小にして、それを心に還元する試みであり、唯物論は心的実在の意味を最小にして、それを物質に還元する試みなのである。実はそれらはお互いに依存した理論である。観念論は唯物論の否定として定義され、その逆も真だからである。

「物質的なものと非物質的なものとの区別は、根本的な両者の統一をもとにしてはじめて説明しうる(『精神の哲学』)」という。これはヘーゲルの方法論である弁証法的な主張である。二つの要素が対立状態にあるよう見えるのは、実は心身が一つの根本的実体の二側面だという考えである。これは中立一元論的な考え方のようにも思えるが、ヘーゲル自身は自分を「絶対的観念論者」であると言っている。ヘーゲルにとってその根本的実体とは精神的なものである。バークリーの唯心論との違いは、心的なものと物理的なものが「精神」という新たな綜合において存在しているという見方であり、これがヘーゲルの「絶対的観念論」の特徴である。

ヘーゲルは普遍と個物について独自の主張をしており、これは心身問題に関わってくる。物理的な世界はある意味で心の具体例だと考え、『精神の哲学』において以下のように述べている。
非物質的なものは、物質的なものに対し、個別対個別として関係しているのではない。個別を橋かけ、個別を抱く真の普遍として、個別に関係しているのである。

人間的表現という名目のもとには、たとえば、直立した姿勢一般、手足とくに究極の道具としての手の仕組み、全身に注がれた精神的音調が属している。この精神的音調は、身体がより気高い本性の表れであることを告げているのである。
これらの考えはバークリーの、「存在するとは知覚されることである」という観念論とは明らかに異なっている。

ヘーゲルは現象学的態度を実行して絶対的観念論に至ったという。『精神現象学』の「現象学」とは、意識に現れたものをその原因や本性について立ち入らず、予断に頼らず記述することである。また「精神(Spirit)」は、ドイツ語の「ガイスト(Geist)」の訳語であり、ガイストには「心」「知力」「創造力」「魂」「幽霊」「精神」といった意味をもっている。つまり『精神現象学』とは、ヘーゲルが可能と考えた意識の諸段階や諸状態の全てを記述するものとなっている。ヘーゲルは精神(ガイスト)がもっとも素朴な感覚による意識から、「自己意識」「理性」「精神」「宗教」などを経て、「絶対知」と呼ばれる実在の完全な自己知識に至るまでの、意識の諸段階――自己実現を遂げていく様の記述を試みる。それを換言すれば、精神がいかに精神に対して現れるかの記述だといえる。

現象を目にしているこの者は何者か、私は何者かという疑問は必然的に生じてくる。これが、悟性が開く自己意識への道である。「悟性は己自身を経験する」とヘーゲルは言う。自己意識とは、意識についての意識の意識という。これは、意識は意識している部分とそれによって意識されている部分に分離されていることを意味するが、しかし別の見方をすれば、その分離は人工的であるとも考えられる。なぜなら、自己意識においては、自己は意識すると同時に意識されているからである。ゆえに「自己意識が自分から区別したものは、自分自身に過ぎないのである」という。

自己意識は自己と他者との区別も生み出す。もちろん自分を他者と同種のものと考えることもできるし、違うものと考えることも出来る。そして他者の自己意識が私を承認することによって、自分は自律的な個体とみなせるようになる。もし他者による承認がなければ、自分でも自己意識という概念を生み出せなくなる。それゆえ、自己意識は互いに承認し合う必要がある。承認し合うことでお互いが結びつき、己が何者であるか決まるのである。自己意識は他者との葛藤を経て相互承認へと至る。すなわち自己意識とは私的で個人的なものであるかのように思えるが、実は本質的に公的で社会的なものなのである。

カントが『純粋理性批判』において理性の限界を示したのに対し、ヘーゲルは理性に絶対的な信頼を置き、理性によって世界の全体を捉えうると考えた。思考は無限運動をし、視野は確実に広く深くなっていくのだ。その事実が弁証法の根拠になっている。思考は世界の隅々まで理性の光を当てるものだと考える。「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という。ヘーゲルのいう「理性」とは、意識と自己意識の綜合である。「理性とは、自分があらゆる存在なのだという意識の確信のことである」と言う。これは汎心論的な観念論の主張である。個人的で有限な人間の心は「精神」という普遍的で神的なものの一観点とみなしている。ここでヘーゲルがいう「精神」には特別な意味が与えられている。「精神、この絶対の実体は、異なった別個の自己意識の統合なのである」と言う。宗教(キリスト教)において人は、実在の本性についての真の理解に近づく。すなわち精神が自己理解に近づくことである。ただし宗教による理解はあくまで比喩的な理解であり、ヘーゲルは「父と子と精霊」を弁証法的に解釈し、全体としての神、「精神」として綜合される。「精神は……己自身を精神と知る」と言う。精神とは、それ自体で現実に存在するものの全体としての、実在のことである。「絶対知においては、思考と存在の統一がなされる」と言う。ヘーゲルにおいては、実在が己自身が何者か知ることと、実在が現実に何者であるかは、究極的には違いがないということである。実在とは自己意識である。己を知るにつれて現にそうなっていくのである。十分に理解が進んだときには、意識と存在者は絶対知に同一のものと分かるのである。これがヘーゲルの絶対的観念論である。


  • 参考文献
S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 1999 勁草書房
長谷川宏『新しいヘーゲル』1997 講談社現代新書


最終更新:2011年10月09日 00:04