意識の統一性

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概説

人間には五感がある。しかし同時に複数の感覚があった場合、それらは独立して存在しているのでなく統一された意識の内部にある。たとえば繁華街を歩いていると様々なものが見え、同時に様々な音が聞こえ、同時に様々な匂いがある。それらの感覚は統一的な意識の内部にあり、意識は全一的なものとして存在している。これが意識の統一性である。

ジョン・サールは次のように論じている。

いま私は、指先の感覚や首まわりのシャツの圧迫感、落葉の風景だけを経験しているわけではない。これらすべてを単一の統合された意識野の一部として経験している。病理的なところのない通常の意識は、統合された構造とともにある。カントはこの意識野の統合を「統覚の超越論的統一」と呼び、そこから多くのことを引き出した。そして彼は正しかった。これから見ていくように、それは非常に重要なことだからである。
私はかつて、質的であること、主観性、統合性という三つの特徴は、意識の個別の性質として説明できると考えていた。しかしいまやそう考えるのはまちがいであるよう思える。この三つはいずれも同一の意識の諸側面なのだ。意識はまさにその本性からして質的であり、主観的、統合的である。(ジョン・サール『MiND 心の哲学』pp.181-2)

このサールの洞察は正鵠を得たものだと思える。意識とは一つのものとして統一され、それこそが「私」であると考えてよいだろう。そして、その「私」が人格の同一性問題における主体となるはずである。

人格の同一性問題との関連

デレク・パーフィットは論文「divided minds and the nature of persons」で、人格の同一性問題にかんして単一理論(Ego Theory)を強く否定している。単一理論は通時的に人格の数的同一性を成立させる単一の実体(デカルト的なエゴ)を想定する。この理論によれば未来の或る人物は「私」であるか「私」でないかのいずれかだということになる。これを全か無(all or nothing)の要件と呼ぶ。これは素朴心理学的な理論である。

単一理論と反対の立場が複合理論(Bundle Theory)である。これはヒュームのように「私」を複数の性質の束と考えるものである。ヒュームはどんなに高度で複雑な観念(複合観念)でも、それは構成要素としての個々の観念に分解できると考えた。パーフィットはヒュームの考えを継承しているのである。彼らによれば「私」とは「国家」のようなものであり、エゴという単一の実体ではなく複数の意識要素の集合だということになるので、全か無の要件は否定される。

意識の統一性の観点からすると、パーフィットとヒュームの理論は誤謬であると思える。個別の感覚は単に束のように集まっているだけでなく、サールが言うように一つの意識内にあり、私秘性を持ち、一つの主観的なものとして存在しているからだ。

ただし複合理論でも意識の統一性が説明できないわけでもない。意識はその内部に多様な感覚を含む場合があるが、パーフィットは「多様な感覚を意識する」という一つのものがあれば意識の統一性は説明できると考えている。たとえば鐘が三回鳴った場合、個別の鐘の音は異なる感覚だが、「鐘が三回鳴った」という一つの記憶があれば、その一つの記憶こそが人が感じている意識の統一性の実態だということである(Reasons and Persons, pp.250-1)。

しかしその「多様な感覚を意識する」というもの、あるいは「一つの記憶」が、まさに人格の数的同一性を問われる対象となる「私」であると考えることができ、全か無の要件が成立するので、パーフィットの説明には不足があるように思える。

意識の時間的統一の問題

意識の統一性の観点からすると単一理論は妥当だと思える。ただしこの場合の単一のものは必ずしもデカルト的なエゴである必要はなく、全か無の要件を成立させる単一の意識であれば十分である。すると、そこから意識というものは単に同時的な感覚が統一されたものではなく、時間的に乖離した感覚も統一されたものであると考えたくなる。仮に時間的な統一性がないとすると、「私」は意識内容(クオリア)が少しでも変化したら消滅してしまうからだ。

ところが時間的に乖離した感覚の統合には、大きな困難が伴うことになる。時間とは意識を「断絶」するものであるからだ。

意識には持続感がある。ベルクソンはメロディーを例に挙げ意識の持続的性質を論じている。確かにメロディーの個別の音がそれぞれ独立した感覚ならば、人はそれぞれの音が繊細に融合した(たとえばショパンのエチュード 10-3のような)メロディーを感じることはできないはずであり、持続が意識の本質的性格であるとみなしたベルクソンは正しいように思える。そして意識の統一性とは同時的な感覚の統一だけでなく時間的に離れた感覚の統一のことでもあり、人が感じる持続感とは単一意識の持続に由来すると思いたくなる。

しかし時間変化とは意識を断絶するものであることは事実である。たとえば私が交差点で「青→黄→赤」という信号変化を観察した場合、赤になった時点で青は完全に消えている。赤と青には完全な断絶があるので、その断絶によって意識の時間的統一性は成立しないと考えられる。赤になった時点で青が完全に消えているということは、赤と青が同一の存在者であることはできないということである。

意識の時間的統一の問題=人格の同一性問題において、単一理論と複合理論を図にすれば以下のようになる。

上図の単一理論の方では意識が持続的なものとして繋がり、時間を通じて数的に同一であることを表している。逆に複合理論の方ではヒュームやパーフィットが考えた通り、異なるクオリアは別の存在者だとして表している。

なお「変化」と書いている部分は、実際にクオリアが変化しているということではなく、「変化を感じている」というクオリアがあることを表している。たとえば「痛みが消えた」という変化の感覚があることと、実際に痛みが消えることは全く別のことである。前者の事実から後者が事実だと推論することは動的宇宙論という一種の形而上学になる。

人は自分の意識を持続的なものとして感じているので、一見単一理論の方が正しいように思える。しかし単一理論の図でも、赤の時点になれば青は完全に存在していないので、青と赤の間には断絶があることになる。断絶があるならば意識は時間を通じて単一であると考えることはできない。青を見る私と赤を見る私には数的同一性はないということである。

もちろんパーフィットが否定した単一の実体であるデカルト的エゴを認めるならば、それは身体からも精神からも離存するものなので、意識の断続にかかわりなく持続していると想定することはできる。

しかし時間の形而上学で静的宇宙論が妥当だとすると、各時点のエゴは永久的に、かつ対等に存在していることになるので、やはり青を見る私と赤を見る私には数的同一性はないということになる。

現在の物理学では宇宙を三次元の空間に時間を加えた四次元として扱っている。四次元時空は相対論を記述するための道具としかみなさない学者もいるが、四次元時空こそが実体であるみなす学者もいる。前者の世界観は変化の実在を肯定するので動的宇宙論と呼ばれ、後者の世界観は変化の実在を否定するので静的宇宙論と呼ばれる。静的宇宙論が実体とみなす四次元時空はブロック宇宙とも呼ばれる。時間は空間と融合して空間が消えないように時間も消えず、宇宙はコンクリートブロックのような塊として永久的に存在するとみなしているのである。

時間の形而上学と人格の同一性問題の組み合わせには以下の四つが考えられる。

①: 動的宇宙論+単一理論
②: 動的宇宙論+複合理論
③: 静的宇宙論+単一理論
④: 静的宇宙論+複合理論

ここでは時間の形而上学について詳述しないが、①を前提するならデカルトが信じた通り身体からも精神からも離存するエゴの存在によって、全人生を通じて同一の「私」が持続していると素朴心理学的に考えればよいことになる(「私」の死後にもそのエゴは存在するかという問題であるが、ここでは論じない)

人格の同一性が厄介な問題となるのは、②、③、④の三つのケースである。以降ではその三つのケースを前提に人格の同一性を論じることにする。

私は自らの意識を持続的なものとして感じているので、交差点で青を見る私が、次に黄や赤を見る私と数的同一性がない、つまり別人であるというのは信じ難いことである。

ここで「青が黄になり黄が赤になる」というものが単一のクオリアなのだと考える方法があるだろう。それならば静的宇宙論を前提にしても時間を通じた意識の数的同一性を説明できるように思える。だがよく考えるとこの考えにも欠点がある。赤の時点になればやはり青は完全に存在していないので、赤と青の間に断絶を認めるしかない。赤と青は単一のクオリアとして存在することはできないのだ。

ベルクソンの持続の哲学においては、現前する意識には過去の意識が浸透しているので完全な断絶はないと考えることもできる。これは魅力的な哲学であるが、過去の意識が現在に浸透するということを人は具体的にイメージすることはできない。潜在意識や無意識というものを想定することはできるが、それらによって上図で明らかにされた青と赤との断絶を回避できるだろうか? この断絶はあまりにも明白なので難しいように思える。ベルクソンの持続の哲学は未完成である。

複合理論では図解したように、青や、青が黄になるという変化の感覚や、赤をそれぞれ独立したクオリアとして考える。この考えでは「今この私」が仮に青のクオリアだとするならば、その他のクオリアは「他人」になる。これは反直観的な結論であるが、反直観的であることは不可能であることにはならない。私が感じている意識の持続感というのも特定の時点にある一つの独立したクオリアだと説明できるだろう。したがって複合理論は可能な理論であり、意識の時間的統一の問題において致命的な欠点がないのである。

要するに意識の統一性問題において、単一理論VS複合理論という枠組みで考えるなば、意識は確かに同時的感覚を統一しており単一理論が正しいように思えるのだが、意識は時間的に離れた感覚を統一できないので、時間的統一性の問題では複合理論が正しいように思えるのだ。即ち人格の同一性問題においては、現在の「私」から時間的に離れたクオリアは「他人」だと考えるのが妥当に思えるのである。

人は僅か1秒の間にも青→黄→赤という色の変化を認識することができるだろう。異なるクオリアは異なる存在者だとすると「今この私」は僅か1秒未満の存在だということになる。

私はそのような理論がどうしても信じ難い。

人の意識が脳の活動と相関していることは明らかである。その人の意識をripples of light in brain(脳内の光の波紋)と表現した人がいる。これは神経細胞の連続的・協働的な発火活動を上手くたとえたものだが、波紋とは空間的広がりを持つだけでなく時間的広がりを持つということが重要だ。人間の意識とは四次元時空に広がる複雑な光の波紋なのである。ところが波紋とは時間的に持続する滑らかな広がりなのに、複合理論によれば人の意識は僅か1秒弱で完全な断絶が生じることになる。ここに不整合があるように思える。

ただ個別のクオリアたちには数的同一性がなく全て異なる存在者だとし、それらクオリアが持続的な脳の活動と相関して断続(コンマ数秒間隔)的に存在すると考えることに厳密な不整合があるか否かは難しい問題である。これは心脳問題の難しさそのものでもあるからだ。おそらく二元論の立場ならば不整合はないだろう。

少なくとも脳内の光の波紋は純粋に持続的なものなのに、それと相関しているクオリアたちは完全に断絶してると言うならば、二つの事柄には認識上の大きなギャップがあると言うことができる。

そのギャップは以下のような図で表現できる。

脳波(あるいは神経細胞の複雑な光の波紋)は滑らかに持続し、人が感じる意識の持続感と一致している。しかし複合理論が正しければ脳の活動と相関する意識には瞬間ごとの完全な断絶がる。仮に青が「今この私」なら別の時点に存在する黄や赤には青の要素が全くないので「他人」である。脳の持続的な活動と意識の瞬間ごとの断絶に不自然なギャップがあるのは明らかだと思える。

先に論じたように静的宇宙論+単一理論には問題がある。しかし複合理論にも問題があるのだ。確かに複合理論は論理的にも形而上学的にも物理学的にも可能であり、それらの観点からは問題がない。しかしあまりに反直観すぎて信じられないので、問題がないということが問題なのだ。

あるいはどちらの理論も間違っているのかもしれない。しかし単一理論でも複合理論でもない別の理論があり得るのだろうか?

意識の時間的統一性問題の図を見直してみよう。意識の滑らかな持続を表している単一理論の図は直観的に正しいように思われるが、実際の意識経験は図のようにはなっていない。図では過去と現在の経験を一挙に表しているが、人はあくまで現在しか経験できない。図は過去の経験を想起によって再構成し、現在経験に加えたものだ。

人の意識の正体は図のようになっていないのかもしれない。

ベルクソンが観たように意識と時間は不可分である。しかし時間の正体はわからない。私は図で意識を空間的に描いたが、静的宇宙論が妥当なら実体的な四次元時空は空間的なものではない。

人は空間と時間が融合した四次元のブロック宇宙というものをイメージすることはできないのだ。人が認識できるのは空間的な三次元の対象と、それが変化することによって認識できる時間だけである。空間と時間が融合した永久的なブロック宇宙とは人の認識の枠組を超えた存在であり、イメージ不可能である。カントが言う通り人の認識はアプリオリな形式によって制限されている。その形式は「超越論的」なものである。ブロック宇宙とは「超越的」なものかも知れないということである。

ここで重要なのは、人の意識もまたブロック宇宙に含まれていることである。時空の正体がわからないならば意識の正体もわからない。人は自分の意識の正体をイメージすることも語ることもできないということになる。

だが「意識の正体がわからない」という言葉の意味がわからない人は多いだろう。一般に人は自分の意識ほど確実に理解できるものはないと信じているからだ。

経験主義という哲学は自分が経験できないものの確実性を否定する方法である。一見合理的なこの方法が、やがて原理的に経験不可能な物質的実在を否定する観念論へと到達したのは必然的だった。しかし経験主義者たちが見落としたのは「経験」そのものの確実性だった。

人は物事を合理的に考えて判断するが、感覚は判断とともに現れてしまうので、感覚による判断は合理的判断ではない。痛みは「痛い」という判断そのものなのであり、人は感覚それ自体を合理的思考で分析することができない。感覚は合理性の外部にある。カントも感覚の形式を抽出するに留まった。

静的宇宙論が正しければ意識そのものも合理性の外部にあるということになる。

私には、「今この私」を僅か1秒未満の存在だとみなす複合理論が信じ難い。しかし単一理論は不可能に思える。この解決不可能に思えるジレンマは、意識の正体を理解していないことに由来するのかもしれない。人間知性が到達し得ない時空の正体にこそ意識の真理はあり、その真理のみがジレンマを解決できるのかもしれない。




  • 参考文献
ジョン・サール 著 山本貴光・吉川浩満 訳(2006)『MiND 心の哲学』朝日出版社
Derek Parfit(1986), 'Reasons and Persons', OXFORD UNIVERSITY PRESS
Derek Parfit(1987), 'divided minds and the nature of persons'


最終更新:2020年11月30日 17:06