二元論

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#contents ---- #right(){(管理者がWikipediaの文を加筆修正)} **概説 心の哲学における二元論とは、何らかの意味で体と心を別のものとして考える立場のことである。 二元論の考えは非常に古くから見られ、例えばプラトン、アリストテレス、そしてサーンキヤ学派やヨーガ学派などのヒンドゥー教の考えにも見られる。歴史的に二元論を最も明確に形式化した人物として17世紀のフランスの哲学者ルネ・[[デカルト]]が知られている。デカルトは[[実体二元論]](Substance dualism)の立場から、心は物質とは独立して存在する[[実体]]だと主張した。 デカルトの実体二元論と対比させられるのが[[性質二元論]](Property dualism)である。性質二元論では、心的な性質は脳から創発する性質、または心的な性質と物理的な性質は同一の実体の相貌であると考える。つまり心的性質を脳の物理状態に還元することはできないものとみるが、かといって脳と独立して存在する別の実体であるとは考えない。性質二元論は存在論的には[[一元論]]の範疇に入る。 二元論は心と物質の関係について、一元論と対極の考え方である。二元論の出発点には、心的現象とは非物理的なものだという見解がある。心身二元論をもっとも早く定式化した現在知られている主張のひとつは東洋哲学にみられる。ヒンズー哲学のサーンキヤ学派やヨーガ学派(紀元前650年前後)では、世界をプルシャ(精神)とプラクルティ(物質的実体)の二つに分けている。具体的には、パタンジャリが編纂した『ヨーガ・スートラ』が心の本性について分析的に論及している。 西洋哲学で最も早い時期に二元論的な思想を展開したのはプラトンとアリストテレスの著作である。理屈は異なるが、両者とも人間の知性というものは物理的身体と同一ではありえないし、物理学的な用語で説明することもできないと主張している。とはいえ、二元論として最もよく知られているのはデカルトのもの(1641年)だろう。デカルトによれば心には延長がないので、物質的な実体ではない。デカルトは心が意識や自己認識と同一であると述べた最初のひとである。そして、心は脳とは異なるということも主張していた。従ってデカルトが史上初めて心身二元論を今日まで続いているような仕方で定式化したのである。 **二元論と宗教 二元論のいくつかは熱心なキリスト教徒によって主張されてきた。まずデカルトがそうである。またジョン・エクルズやリチャード・スウィバーンもそうである。二元論が唯物論に対抗して神の「居場所」を確保するために主張されてきたという側面は確かにある。 しかし、二元論とキリスト教は、論理的には互いに全く独立していることは認識すべきである。二元論は神が存在しないとしても成立しうるし、二元論は無神論としても成立しうる。なお、魂の不死の教義は聖パウロ以前のキリスト教には現れておらず、紀元後四世紀の聖アウグスティヌスによってキリスト教に導入されたものである。肉体の死後も非物質的な心が行き続けるという教義はキリストの教えではなかった。キリストは最後の審判の日における生身の身体の復活を説いたのである。 **二元論擁護論 二元論を擁護する論証のうち最も大きなものは、哲学的なトレーニングを受けていない人々の大多数の人々の持つ常識的な直感――素朴実在論的な世界観に受け入れやすい、というものである。心とは何かという問題には、眼に見えない精神現象や魂といったものを連想する者が大半であり、心とは脳のことであるといった機械論的な唯物論を受け入れられる者は少ない。 二元論を擁護する論証のうち主要な第二のものは、心の特性と物理的身体の特性はひどく異なっており、両立し難い部分が沢山あるように見える、ということである。心的出来事は客観化できず、私秘的である。また必ずしも時間と空間に還元できない。「愛」や「美」といった観念に面積や時間は含有されていない。それに対して物理的な身体はデカルトが「延長」と呼んだように時空間に還元可能な性質をもつ。 心の哲学は、心的出来事の主観的側面を[[現象的意識]]、または[[クオリア]]と呼ぶ。痛みを感じたときの「痛み」や、澄み渡った青空を見たときの「青い」や「澄んでいる」という感覚がそうであり、こうしたクオリアは物理学的に説明しがたい性質がある。 ----
#contents ---- #right(){(管理者がWikipediaの文を加筆修正)} **概説 心の哲学における二元論とは、何らかの意味で体と心を別のものとして考える立場のことである。心身二元論ともいう。 二元論の考えは非常に古くから見られ、例えばプラトン、アリストテレス、そしてサーンキヤ学派やヨーガ学派などのヒンドゥー教の考えにも見られる。歴史的に二元論を最も明確に形式化した人物として17世紀のフランスの哲学者[[ルネ・デカルト]]が知られている。デカルトは[[実体二元論]](Substance dualism)の立場から、心は物質とは独立して存在する[[実体]]だと主張した。 デカルトの実体二元論と対比させられるのが[[性質二元論]](Property dualism)である。性質二元論では、心的な性質は脳から創発する性質、または心的な性質と物理的な性質は同一の実体の相貌であると考える。つまり心的性質を脳の物理状態に還元することはできないものとみるが、かといって脳と独立して存在する別の実体であるとは考えない。性質二元論は存在論的には[[一元論]]の範疇に入る。 二元論は心と物質の関係について、一元論と対極の考え方である。二元論の出発点には、心的現象とは非物理的なものだという見解がある。心身二元論をもっとも早く定式化した現在知られている主張のひとつは東洋哲学にみられる。ヒンズー哲学のサーンキヤ学派やヨーガ学派(紀元前650年前後)では、世界をプルシャ(精神)とプラクルティ(物質的実体)の二つに分けている。具体的には、パタンジャリが編纂した『ヨーガ・スートラ』が心の本性について分析的に論及している。 西洋哲学で最も早い時期に二元論的な思想を展開したのはプラトンとアリストテレスの著作である。理屈は異なるが、両者とも人間の知性というものは物理的身体と同一ではありえないし、物理学的な用語で説明することもできないと主張している。とはいえ、二元論として最もよく知られているのはデカルトのもの(1641年)だろう。デカルトによれば心には延長がないので、物質的な実体ではない。デカルトは心が意識や自己認識と同一であると述べた最初のひとである。そして、心は脳とは異なるということも主張していた。従ってデカルトが史上初めて心身二元論を今日まで続いているような仕方で定式化したのである。 **二元論と宗教 二元論のいくつかは熱心なキリスト教徒によって主張されてきた。まずデカルトがそうである。またジョン・エクルズやリチャード・スウィバーンもそうである。二元論が唯物論に対抗して神の「居場所」を確保するために主張されてきたという側面は確かにある。 しかし、二元論とキリスト教は、論理的には互いに全く独立していることは認識すべきである。二元論は神が存在しないとしても成立しうるし、二元論は無神論としても成立しうる。なお、魂の不死の教義は聖パウロ以前のキリスト教には現れておらず、紀元後四世紀の聖アウグスティヌスによってキリスト教に導入されたものである。肉体の死後も非物質的な心が行き続けるという教義はキリストの教えではなかった。キリストは最後の審判の日における生身の身体の復活を説いたのである。 **二元論擁護論 二元論を擁護する論証のうち最も大きなものは、哲学的なトレーニングを受けていない人々の大多数の人々の持つ常識的な直感――素朴実在論的な世界観に受け入れやすい、というものである。心とは何かという問題には、眼に見えない精神現象や魂といったものを連想する者が大半であり、心とは脳のことであるといった機械論的な唯物論を受け入れられる者は少ない。 二元論を擁護する論証のうち主要な第二のものは、心の特性と物理的身体の特性はひどく異なっており、両立し難い部分が沢山あるように見える、ということである。心的出来事は客観化できず、私秘的である。また必ずしも時間と空間に還元できない。「愛」や「美」といった観念に面積や時間は含有されていない。それに対して物理的な身体はデカルトが「延長」と呼んだように時空間に還元可能な性質をもつ。 心の哲学は、心的出来事の主観的側面を[[現象的意識]]、または[[クオリア]]と呼ぶ。痛みを感じたときの「痛み」や、澄み渡った青空を見たときの「青い」や「澄んでいる」という感覚がそうであり、こうしたクオリアは物理学的に説明しがたい性質がある。 ----

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