意識の超難問

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#contents ---- **概説 意識の超難問(harder problem of consciousness)とは、オーストラリアの人工知能学者[[ティム・ロバーツ>http://content.cqu.edu.au/FCWViewer/staff.do?site=534&sid=ROBERTST]]が提起した問題で、「なぜ私は他の誰かではないのか?」というような、高度な[[自己]]意識(自我体験)に関するものである。 第一回と第二回の[[ツーソン会議>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E4%BC%9A%E8%AD%B0]]で[[デイヴィッド・チャーマーズ]]が、意識のイージープロブレム( easy problem of consciousness )と[[意識のハードプロブレム]](hard problem of consciousness)の問題提起をして大きな影響を及ぼした。ティム・ロバーツは1998年の第三回ツーソン会議で、意識のハードプロブレムよりも、さらに難しい問題として「意識の超難問」を以下のように提起した。 >たとえいわゆる意識の「難問」――すなわち、いったい全体なぜ主観的経験というものが脳から生じるのか――を解くことができたとしても、より巨大で根本的な問題が残ってしまう。「いったいなぜ私はある特定の個人の脳に生じる主観的経験のみ経験できるのか?」言い換えれば「なぜ特定の意識する個人がたまたま私なのか?」という問題である。 神経生理学者[[ジョン・エックルス>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B9]]は『脳と実在』において超難問的な体験を以下のように語っている。 >この意識的に経験している自己の本質は何か。しかもその自己が、特定の脳にこの独特な仕方で関わってるのはどうしてか(中略)私はこの考えを18歳のとき以来、抱き続けている。その年、この問題を、いわばハッと思いつき、その興味と衝動に駆られて、それ以来私は生涯を神経系の研究に費やすことになったのである。 [[トマス・ネーゲル>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB]]は、超難問を、 >私がそもそもある特定の人物(たまたまトーマス・ネーゲルなのであるが)であることはいかにして可能なのか? と表現する。 日本では[[永井均>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/49.html]]が、この問題を「独在性」という言葉で表現し、独自に探求している。 **心理学的分析 自己意識の心理学的研究の出発点になった[[ウィリアム・ジェイムズ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA]]は、個人の自己意識を描写して「二重構造」であるとした。目的とする自己と、主体たる自己である。彼は、知っている自己、すなわち、私(I)と、知られている自分、すなわち、私(me)を区別した。主格の私(I)は純粋な自我(ego)である。それにひきかえ、目的格の私(me)は私が意識しているかも知れぬたくさんのもののうちの一つであって、三つの要素からなっている。ひとつは物理的な、あるいは物質的なそれ、ひとつは社会的なそれ、さらにひとつは精神的なそれ、である。ジェイムズは注意深く指摘する。これら二つの自己は「異なっている二つのもの」ではなくて「自己が差別された結果の二つ」である、と。 [[渡辺恒夫>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/97.html]]の解釈では、自我体験は、「私」自身を具体的経験的個人としての自己とはぴったり重なり合わないものとして体験することである。内省的自己意識の水準では自己は、意識される自分(私1)と意識する自分(私2)へと分裂して体験される。ただし私2は私1のように明確に把握されることは無い。対象として意識されればただちに、私1へと組み入れられてしまう。だからこの分裂は、自分でも意味のはっきりつかめない問いかけや違和感として、体験される他ないのである。ここから「私はなぜ私なのか」「私はなぜ他の誰かではないのか」という独我論的問題意識が生じる。私2に私1のような実体的自己同一性を与えることによって違和感を解消しようとするのが「超越的解決」で、これには「魂」の概念が相当する。 **批判 意識の超難問は[[擬似問題>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E4%BC%BC%E5%95%8F%E9%A1%8C]]であるという批判がある。「私」という指示詞と固有名詞を存在論的に異なるものと捉えることから生じる錯覚問題であるというものだ。 [[三浦俊彦>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E4%BF%8A%E5%BD%A6_%28%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%80%81%E4%BD%9C%E5%AE%B6%29]]は、超難問はチャーマーズの[[意識のハードプロブレム]]に論理的に還元可能であるとし、また超難問は問いのタイプとトークンを重ねた多義性の誤謬か、真理値をもたない命題関数を「なぜ」の対象とした文法違反に過ぎない、とする。 ---- ・参考文献、論文 渡辺恒夫『〈私の死〉の謎 世界観の心理学で独我を超える』2002 ナカニシヤ出版 三浦俊彦 「意識の超難問」の論理分析」2002 『科学哲学 35-2』 http://www.journalarchive.jst.go.jp/jnlpdf.php?cdjournal=jpssj1968&cdvol=35&noissue=2&startpage=69&chr=ja ・参考サイト http://www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site46/religeous8.html ----

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