一元論

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#contents ---- **概説 一元論(英: monism)とは形而上学において、世界には「唯一」の、または「一種類」の[[実体]]、もしくはエネルギーだけが存在するという考えであり、世界には普遍的な一連の原理があると見なす考え方である。 心の哲学においては、心的なものだけが実在であるとする[[観念論]]と、物理的なものだけが実在であるとする[[物理主義]]と、そして心的なものと物理的なものはある種の実体の属性であるとする[[中立一元論]]の、三つの立場がある。 一元論は汎神論や万有在神論、 内在神論としばしば同一視される。また絶対論(絶対説)、モナドといった概念とも関係が深い。紀元前7世紀頃に成立したとみられる[[インド哲学]]のウパニシャッドでは、宇宙の究極的な存在としてブラフマンを想定している([[梵我一如]])。西洋哲学の歴史においてこの考えを最初に提唱したのは紀元前5世紀の哲学者[[パルメニデス]]であり、この考えは17世紀の合理主義哲学者スピノザによっても支持された。 心の哲学における一元論は、心と体が存在論的に異なるものだという主張を認めない考え方である。物理的なものと心的なものという2種類の実体があると説く[[二元論]]や、たくさんの実体があると説く[[多元論]](pluralism)と区別されるが、これらの入り混じった思想も存在している。 **一元論の種類 一元論には様々なタイプがあるが、それぞれの理論において究極とされている存在は、"Monad"(モナド)という言葉で呼び表される。モナドという言葉は「単一の、単独の」といった意味を持つギリシャ語「モノス」に由来し、古代ギリシアのエピクロスやピタゴラスによって最初に用いられた。 一元論は以下のように2つの基本的なタイプに区分される。 1、「一種類」のものだけがあるとする考え 属性一元論とも呼ばれる。一種類のカテゴリーの中にたくさんの個物があるとする。デモクリトスやレウキッボスの原子論では、一種類のアトムが無数に存在しているとされた。またある種の[[観念論]]([[唯心論]])では、精神的なものだけが実体として多数存在していると考える。 2、「唯一」のものだけがあるとする考え 絶対一元論とも呼ばれる。世界には多様なものが存在しているように見えるが、実はそれは唯一の存在者の属性であると考える。インド哲学における[[梵我一如]]がそうであり、西洋では[[パルメニデス]]が主張している。[[スピノザ]]などの[[汎神論]]もその立場である。絶対一元論は一元論の理念型といえる。 **未分類の一元論 #right(){(以下は[[Wikipedelia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%85%83%E8%AB%96]]より引用)} ・機能主義の場合、唯物論と同じく心が究極的に身体に還元されるとするが、 それだけではなく、心の全ての臨界的局面は神経基質(Neural substrate)のなんらかの「機能的」水準に還元できるとする。それ故ある精神状態になる時にニューロンから何かが出ていなくてはならないということはない。認知科学や人工知能研究でよく見られる立場。 ・消去主義の場合、精神という言葉は将来的に非科学的と証明されるはずであり、完全に放棄されると論じる。全ての者が地・空気・水・火の四元素から構成されているという古代ギリシャ人の説をわれわれがもはや信じることができないように、将来の人間ももはや「信念」「欲望」その他の精神状態を指す用語を用いなくなるというのである。 バラス・スキナーの徹底的行動主義は、消去主義の変形の一つである。 ・非法則的一元論は、ドナルド・デイヴィッドソンが1970年代に心身問題解決の一方法として提起した立場である。上述の区分からすれば、これは物理主義または中立的一元論と考えられる。デイヴィッドソンによれば、物理的出来事だけが実在する。全ての心的対象ないし心的出来事も完全に実在しているが、なんらかの物理的出来事と同一の出来事として記述可能である。ただし、(1)全ての心的出来事は物理的であるが、全ての物理的出来事が心的であるわけではない、(2)(ジョン・ホーグランドによれば)全ての原子を除けば何も残らない、という2つの理由から、物理主義がある程度優位を占める。この一元論は以前の心身統一理論より優れた理論と考えられている。なぜなら、この立場を採っても、全ての心的実在を純物理的な用語で記述し直す方法を今すぐ提供できなくてもよいからである。実際にそのような方法はない。非還元的物理主義はそういう立場を採るし、創発的唯物論の場合もそうかもしれない。 ・反映一元論はマックス・ヴェルマンズが2000年に提起した立場である。意識に関する二元論と還元主義の見解双方につきまとう困難を解決する方法として提起されたもので、知覚された物理現象を意識内容の一部と見なす。 ----
#contents ---- **概説 一元論(英: monism)とは形而上学において、世界には「唯一」の、または「一種類」の[[実体]]、もしくはエネルギーだけが存在するという考えであり、世界には普遍的な一連の原理があると見なす考え方である。 心の哲学においては、心的なものだけが実在であるとする[[観念論]]と、物理的なものだけが実在であるとする[[物理主義]]と、そして心的なものと物理的なものはある種の実体の属性であるとする[[中立一元論]]の、三つの立場がある。 一元論は汎神論や万有在神論、 内在神論としばしば同一視される。また絶対論(絶対説)、モナドといった概念とも関係が深い。紀元前7世紀頃に成立したとみられる[[インド哲学]]のウパニシャッドでは、宇宙の究極的な存在としてブラフマンを想定している([[梵我一如]])。西洋哲学の歴史においてこの考えを最初に提唱したのは紀元前5世紀の哲学者[[パルメニデス]]であり、この考えは17世紀の合理主義哲学者スピノザによっても支持された。 心の哲学における一元論は、心と体が存在論的に異なるものだという主張を認めない考え方である。物理的なものと心的なものという2種類の実体があると説く[[二元論]]や、たくさんの実体があると説く[[多元論]](pluralism)と区別されるが、これらの入り混じった思想も存在している。 **一元論の種類 一元論には様々なタイプがあるが、それぞれの理論において究極とされている存在は、"Monad"(モナド)という言葉で呼び表される。モナドという言葉は「単一の、単独の」といった意味を持つギリシャ語「モノス」に由来し、古代ギリシアのエピクロスやピタゴラスによって最初に用いられた。 一元論は以下のように2つの基本的なタイプに区分される。 1、「一種類」のものだけがあるとする考え 属性一元論とも呼ばれる。一種類のカテゴリーの中にたくさんの個物があるとする。デモクリトスやレウキッボスの原子論では、一種類のアトムが無数に存在しているとされた。またある種の[[観念論]]([[唯心論]])では、精神的なものだけが実体として多数存在していると考える。 2、「唯一」のものだけがあるとする考え 絶対一元論とも呼ばれる。世界には多様なものが存在しているように見えるが、実はそれは唯一の存在者の属性であると考える。インド哲学における[[梵我一如]]がそうであり、西洋では[[パルメニデス]]が主張している。[[スピノザ]]などの[[汎神論]]もその立場である。絶対一元論は一元論の理念型といえる。 **未分類の一元論 #right(){(以下は[[Wikipedelia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%85%83%E8%AB%96]]より引用)} ・機能主義の場合、唯物論と同じく心が究極的に身体に還元されるとするが、 それだけではなく、心の全ての臨界的局面は神経基質(Neural substrate)のなんらかの「機能的」水準に還元できるとする。それ故ある精神状態になる時にニューロンから何かが出ていなくてはならないということはない。認知科学や人工知能研究でよく見られる立場。 ・消去主義の場合、精神という言葉は将来的に非科学的と証明されるはずであり、完全に放棄されると論じる。全ての者が地・空気・水・火の四元素から構成されているという古代ギリシャ人の説をわれわれがもはや信じることができないように、将来の人間ももはや「信念」「欲望」その他の精神状態を指す用語を用いなくなるというのである。 バラス・スキナーの徹底的行動主義は、消去主義の変形の一つである。 ・非法則的一元論は、ドナルド・デイヴィッドソンが1970年代に心身問題解決の一方法として提起した立場である。上述の区分からすれば、これは物理主義または中立的一元論と考えられる。デイヴィッドソンによれば、物理的出来事だけが実在する。全ての心的対象ないし心的出来事も完全に実在しているが、なんらかの物理的出来事と同一の出来事として記述可能である。ただし、(1)全ての心的出来事は物理的であるが、全ての物理的出来事が心的であるわけではない、(2)(ジョン・ホーグランドによれば)全ての原子を除けば何も残らない、という2つの理由から、物理主義がある程度優位を占める。この一元論は以前の心身統一理論より優れた理論と考えられている。なぜなら、この立場を採っても、全ての心的実在を純物理的な用語で記述し直す方法を今すぐ提供できなくてもよいからである。実際にそのような方法はない。非還元的物理主義はそういう立場を採るし、創発的唯物論の場合もそうかもしれない。 ・反映一元論はマックス・ヴェルマンズが2000年に提起した立場である。意識に関する二元論と還元主義の見解双方につきまとう困難を解決する方法として提起されたもので、知覚された物理現象を意識内容の一部と見なす。 **一元論の合理性 #right(){(以下は管理者の見解)} エレア派の絶対一元論の立場では、変化の矛盾やそれと直結する心の哲学の現象的意識・クオリアの生成の問題を回避できるよう思える。しかし論理的には変化を否定することが正しいとしても、「私には、今この意識が現在進行形で変化しているよう感じる」と主張することによって変化の存在を肯定することが可能であると思える。 変化を否定した[[パルメニデス]]も、感覚が変化を捉えることは認めており、それゆえ「感覚は間違っており、実体は不変である」という論理だった。またゼノンやアウグスティヌス、インドの[[ナーガールジュナ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9]]など、時間が非実在であることを主張した者は多いものの、彼らの論証は「現に今、変化している感覚」を説明できていないゆえに成功しているとはいえない。近代のマクダカートも巧妙な議論によって時間の実在性を否定するのだが、現に生成変化している知覚は認めざるをえず、結局「見かけの現在(specious present)」という概念を導入して、時間を経験する知覚体験は誤りではないと結論している。これはパルメニデスと同型の問題を孕んでいる。 私は、感覚の変化の問題については前述したカント哲学の解釈によって解消できると考える。カントが時空を感覚の「形式」としたのは妥当ではあったが、具体的にイメージしにくく、ゆえに私は「性質」と表現し直す。これはすなわち、時空とは感覚、クオリア、現象的意識の性質ということである。 たとえば「赤」のクオリアの性質とはどんなものかといえば、「血の色であるそれ」であり、「青」クオリアの性質とはどんなものかといえば、「澄んだ空の色であるそれ」という表現でしかクオリアの性質は表現できない。これは[[マリーの部屋]]の思考実験で示された通りである。 時間と空間の性質も、実は「青」の性質と同様であると思う。コンピューターを搭載したアシモのようなロボットは時間と空間を理解しているように動作するが、それは「機能的意識」を持っていることの証明でしかない。[[ジョン・サール]]はコンピューターに現象的意識が欠如していることを[[中国語の部屋]]の思考実験で示したが、アシモのコンピューターも原理的には中国語の部屋と同じであり、アシモは「赤」を感じることができないように、「流れる」「刹那」「広い」「遠い」といった時間と空間の性質も感じることはできないはずである。アシモは数字(bit)によって時空を理解しているよう行動するだけである。アシモのようなロボットに時間と空間の性質を説明するのは、「青」や「愛」の性質を説明するのと全く同じレベルの不可能性があり、すなわち時空についての機能主義的な説明からは抜け落ちている部分が、時空の「性質」である。 結論すれば、「赤」が赤であるように「時間」は時間である、ということである。両者の差異は、時間や空間というものがよりメタレベルのカテゴリーにあるというだけに過ぎない。 従って時空が「実在」しないとは、クオリアや現象的意識の「性質」としてしか時空は存在していないということである。クオリアや現象的意識が時空の中を流れているというわけではないのである。 言い換えると、素朴実在論や科学的実在論のように、最初に時空の存在を前提して、その内部に知覚やクオリアがあると考えるのでなく、逆に知覚やクオリアというものがあって、それらの「性質」として時間が空間があるのである。これはカント認識論についての観念論的、規約主義的解釈である。 時空をそのように解釈すると、一元論的な存在論に必然的にたどり着くはずである。 多数の意識トークンがあって、それらの「流れ」が「私」という意識タイプを構成しているとするのが素朴心理学的な見方である。しかし、意識の「流れ」を感じるような反省的意識も実は個別の意識トークンに過ぎず、その存在だけで過去に別個の意識トークンがあったことの証明にはならないのである。 たとえば、私に以下のような一連の意識現象があったとする。 ①:車が地点Aにあると知覚する。 ②:車が地点Bにあると知覚する。 ③:車は移動しているのだと理解する。 ④:①から③までの心理を反省し、意識は連続し、時間は流れているのだと実感する。 ヒュームからすれば①から④はそれぞれ別個の知覚であるが、「変化」の実在性を 否定する一元論の立場からは、①から④までは纏まった「ひとつらなりの」意識トークンに過ぎないだろうと考えることできる。 つまりアシモには理解できないような時間の「流れ」の「感じ」こそが、時間の性質であるように、「①から④までがあった」という「感じ」こそが「ひとつらなりの意識トークン」の性質だと考える。ヒューム的な捉え方をすれば「①から④までがあった」というものを「一個の観念」とみなすことができるのである。 これは①から④までのような数秒の出来事でなく、数十年の出来事、あるいは人の一生そのものであっても論理的には同じことである。これをたとえるなら、擬似科学でいう所の「パノラマ視現象」のようなものである。中国では「邯鄲の夢」の故事があり、信長、秀吉なども人生を儚い夢にたとえた。人生が夢にたとえられるのは、人生の「多数の体験」が、実は「一個の観念」であることを論理的に否定できないからなのだと考えることができる。 (この問題については[[現象的意識の非論理性>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/125.html#id_6d1e4a8c]]として考究しているので参照されたし) 以上のように時間というものは感覚の性質、あるいは一種のクオリアであると考えることができるし、それは論理的に否定できないことでもある。実はそのことが、時間が非実在的であることの論拠のひとつとすることができるのである。時間が実在することを主張する者は、感覚が時間を経験することのみを根拠としている。科学理論によって既述される時空がそれじたいで実在すると考える科学的実在論も、その「科学理論」と「実在」とは論理的に結びついておらず、結局のところ時間を捉える感覚が論拠となっている。しかし前述のように、時間そのものを「一個の観念」の性質とすることができるならば、時間の実在を主張する者は唯一の確実な論拠を失うことになる。 とはいえ、自分の人生体験そのものが一個の観念である可能性を認めたとしても、それは時間の実在性を否定しうる論拠のひとつでありえても、空間の実在性を否定しうる論拠にはならない。空間を隔てて他者なるものが実在し、そこに自分とは別個の自我と人生体験がある可能性はあるだろう。 つまりエレア派的な一元論に対する最大の疑問は、「ひとつのもの」だけがあるとした場合、現に今ある「私」である意識現象と、「他者」である意識現象をどうやって調和させるか、また存在論的に同一のものとできるか、という点であろう。なお現象学的な見方をすれば、「自他」の区別はメタレベルの自我によってなされるので、他者も私の意識への現れとみなすことができるかもしれないが、それだけでは存在論的に空間の実在性を否定する論拠にはならないだろう。 この問題については、デカルトが心と肉体は別の実体だと分離せざるをえなかった心身の性質を改めて考究することで、新たな存在論の可能性が開かれると考える。 まず、空間上に記述できる物理状態と、空間上に記述できない心的状態を存在論的に調和させるのは根本的に無理なのである。 これは私が[[人格の同一性の派生問題で詳述>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/128.html#id_6d771e16]]したことであるが、思考実験として「私」を人物Aとし、スワンプマンのような複製体がいて彼を人物Bとし、Aには心的現象A-mindがあり、Bには心的現象B-mindがあるする。A-mindと B-mindが同質であり、例えば「私こそが本物の私である」という心的現象だとするならば、「A-mind = B-mind」の等式が成り立つのか、と問うことができるはずであり、これには以下のような三つの解答がありうるはずである。 ①単に同じ心的現象が二つあると解釈する。 ②全ての性質は同じだとしても、両者の唯一性によって両者は異なる存在だと解釈する。 ③心的現象が二つあるようにみえても、実は一つである。 私は、①の解答では独我論的問題が抜け落ちており、②ではパーフィットのスペクトラムの思考実験に答えられないと考えた。従って消去法的に③となるはずである。 しかし論理的に③が正しいとしても、その一元論的存在の具体的イメージを描くのは困難であろう。だがこの点についても、既述のようなカント哲学の解釈からイメージの断片を得ることができるかもしれない。 まず他人が怪我をしても、この私は痛くないという単純な事実がある。それこそが「一つの肉体には一つの心が宿っている」という素朴実在論的な思い込みを生じさせる。しかし実のところ、その場合の「私は痛くない」というのは実証された事実とはいえない。その場合ほんとうに確かなのは、「私と思える肉体に痛みを感じた記憶が無い」ということのみである。 自我と他我には明確な「境界」があるとみなすのが素朴心理学的な見方であるが、[[無主体論]]的な立場ではその境界は曖昧なものとみなす。またデレク・パーフィットなど、[[人格の同一性]]についての還元主義的な立場でも同様である。それらの立場における「自我」のイメージは、カントの統覚の概念とヒュームの観念論によって把握できるだろう。カントの研究者である中島義道は、たとえば「私の痛み」などは独立した感覚としてあるのでなく、反省的に理解されたものであるという見方をしている。カントのいう統覚である。統覚される以前の状態はXという独特の刺激がそこに生じているだけであり、それを後で記述すれば「痛い」となる(Xは大森荘蔵のいう「立ち現れ」になる)。ヒュームのいうように「印象」から「観念」への移行とは、世界から刺激を消し去り、そのかわりに世界全体を刺激とは全く異なる観念によって埋め尽くすこと――そうした操作をするものこそ「私」であり、「私」が痛みを感じているのではない。痛みは世界の側にあるが、「われにかえって」「痛かった」と過去形で表すとき、過去と現在という両立しない時間をつなぐものとして「私」が登場する、と中島はいう。 このような正統なカント――ヒューム解釈には、「他者」イメージについての新たな展望を開く可能性があるはずである。知覚というものが反省的に理解されて初めて「私」になるならば、理解される以前のXは「他者」だと考えることもできる。すなわち、統覚作用のみが「私」を出現させるとすれば、「私」と私以外の人物Bや人物Cなどの関係、つまり自我と他我の関係は、明確な「境界」をもつ絶対的なものでなく、境界の曖昧な相対的なものであると考えられるはずである。 つまり「自分の忘却した過去」と「他者」との関係の類比である。永井均や西田幾多郎は、「私」と「他者」との関係について、過去を想起できるということを理由に絶対的な相違があるとみなしたが、これを逆に考えれば、「私はあの時のことを覚えている」というように、現在形で想起されたその過去のみが「私の過去」である権利を持つことができるということであり、想起されなかった自分の体験については「他者」と同じ領域にあるとみなすことができるのである。 以上のような自我論・他我論に加え、既述したように素朴実在論的世界観を否定し、時間と空間が知覚の「性質」としてのみあるとするカント認識論についての観念論的・規約主義的解釈の立場を取るならば、一元論的世界観のイメージの断片は掴めるはずである。すなわち、この世界には多数の知覚、クオリア、観念、現象的意識があるのだが、それは「唯一の存在」の性質としてあり、そして、個別の知覚や観念は、他の知覚や観念と因果関係をもちあい、ひとつらなりの「全体」を構成しているということである。 しかし以上の説明でエレア派の展望する一元論の世界を理解できた者はほとんどいないと思われるが、いかんせんカントがいうように時空は知覚の形式として常に伴っているものであるから、われわれは「時空の無い世界」を「感じる」ことはできない。ただ論理的に可能性が示され、イメージの断片を想うことができるだけなのである。 ところで、その結論から引き継がれる重要な哲学的問題がある。人なら誰しもが問わざるをえない「死んだらどうなるのか?」という問題であり、その問いと解答の核心部分がそこにあるのだと私は考える。 われわれは「自分」が「在る」と素朴心理学的に思っていて、その「在る」ものが「無い」ものになるのが「死」だと素朴に思っている。しかし、パルメニデスがいうように、そのような「在る」ものが「無い」ものになるという死のイメージは論理的に間違っている。 しかし、人間は今「在る」状態のまま永遠に在り続けるのかといえば、そうでもないはずである。上述したように時空の実在性を否定して、それを観念の「性質」とするような一元論の立場からは、そもそも人間の「在り方」のイメージ自体が根本的に変わってくるのである。 つまり、デカルトが述べたように、確かに「想う我」は在るのだが、われわれはその「我」の「在り方」について大きな勘違いをしているのだと思われる。われわれは自分が存在していて、常に変化しているように感じているけれど、その「変化の感じ」は論理的には変化できない存在の性質の一部であり、ほんとうの「我」の「在り方」はわれわれには「感じる」ことはできないもののはずである。ほんとうの「在り方」はエレア派の哲学者が論理的に示唆したように不生不滅で、変化もしないもののはずであるはずだが、われわれは時間と変化のない状態を「感じる」ことはできないのである。 参考までに、[[デイヴィッド・チャーマーズ]]は「情報の二相理論」において、世界の究極的な実在として「情報」を想定しており、その情報は時間と空間の枠外にあり、ただ情報と他の情報を結ぶ因果関係のみがあるのではないかと、独自の形而上学を構想している。 >純粋に情報の流れだけで、それ以外何の実質もない世界像。(この見方には、情報空間が埋め込まれる根源的な枠組みとして「時空」も認めるバージョンもあるかもしれない。それに対し他のバージョンは時空そのものを、情報空間の間にある関係でできていると見ているのである。)要するに世界は、基本的な差異の世界、それらの差異の因果的かつダイナミックな関係の世界でしかない。この見方に立てば、それ以上世界について何か言おうとするのは間違いなのである。 #right(){(『意識する心』p372)} この「情報一元論」とでもいうべきチャーマーズの形而上学は、エレア派との共通点が多い。実在の「在り方」を論理的に考究していけば、どうしても単純な実体に辿り着くと同時に、時間と空間の実在性を疑わざるを得ないということの証左なのだろうと思う。チャーマーズの「情報」を、唯一の存在の「性質」と置き換えれば、私の解釈したエレア派の一元論とほぼ同じ哲学になるだろう。 ---- ・参考文献 入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書 2002年 神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史1』講談社 2011年 デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 白揚社 2001年 ・参考サイト 無からは何も生じない http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%82%E7%94%9F%E3%81%98%E3%81%AA%E3%81%84 充足理由律 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%85%E8%B6%B3%E7%90%86%E7%94%B1%E5%BE%8B 時空の哲学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6 ----

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