物理主義

「物理主義」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

物理主義 - (2013/05/16 (木) 21:26:07) の1つ前との変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

#contents ---- **概説 物理主義(英:Physicalism)とは、この世界の全ての物事は物理的であり、また世界の全ての現象は物理的な性質に[[還元>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/56.html]]できるとする哲学上の立場である。心の哲学においては物理的なものだけが[[実在]]するとし、心的な[[現象]]は実在ではないと考え、心的な現象が物理的なものに因果的に作用することを否定する。[[一元論]]の一種。物質一元論とも呼ばれる。 「[[唯物論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96]](Materialism)」は同じ立場の思想である。唯物論という用語は17世紀のライプニッツによるものであるが、物理主義とは20世紀の[[オットー・ノイラート>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88]]の定義によるもので、[[論理実証主義>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AE%9F%E8%A8%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]から派生した概念であり、歴史的脈絡が異なっている。 「物理的」という言葉の定義は、時空間的であり運動できるもの、とされている。柴田正良によれば、人間の精神を素粒子群の運動や配置に還元するのが素朴な物理主義(folk physicalism)である。そして思考実験として同時に複数の「自分」を作れば、彼らは皆自分とみなすのが物理主義であり、逆に私とは私の「心」であるとするのが素朴なメンタリズムである。 物理主義は、心的な性質を含む世界の全ての出来事は、物理法則に従った物理的原因をもち、その物理的原因は出来事の「十分条件」であると考える。これは心的な性質が物理的なものに作用することや、一つの出来事に物理的原因と心的原因が独立して存在する「因果的過剰決定」を否定するものであり、物理領域の[[因果的閉包性]]といわれる。またデイヴィッド・パピノーやティム・クレインは「物理学の完全性」と呼んでいる。 物理主義の極端な形が「機械論的唯物論(mechanical materialism)」であり、人間の精神をも物質に還元し、全て力学的な法則によって説明しようとする。無神論でもある。古代ギリシャのレウキッポスの原子論に始まり、近代においてホッブス、ラ・メトリー、エルヴェシウス、ドルバック、ディドロ等フランスの唯物論者が機械論に基づく唯物論を徹底する。 物理主義には[[行動主義]]や[[心脳同一説]]など多様な立場があるが、どの立場も以下の主要な三つの原理を前提としている。 >(1)唯物性の原理、反デカルト主義の原理 >この世界に存在する全てのものは物理的であり、心的なものも実際は物理的なものであり、デカルトのいうような純粋に非物理的なものは存在しない。 >(2)付随性(スーパーヴィーニエンス)の原理 >心的なものは物理的なものに付随し、物理的なもののあり方が確定することによって心的なもののあり方も確定する。物理的性質を完全に同じくする二つの対象は心的性質をも完全に同じくする(しかしその逆は成り立たない)。 >(3)物理的領域の[[因果的閉包性]]の原理 >どの物理的対象も、他の対象の物理的性質だけに言及することによって適切な因果的説明を与えることができる。物理的なもの以外に説明を求める必要はない。 上記の三つの原理はどの立場の物理主義においても認められるような、物理主義の必要最小条件である。 現代の物理主義者は心と体とを別の存在として分けて扱うかどうかという点に応じて、還元的な物理主義(Reductive physicalism)と非還元的な物理主義(Non-reductive physicalism)に分かれる。還元的な物理主義では、心的な状態も結局は神経生物学的に、自然科学の言葉によって全て説明されると考える。[[心脳同一説]]は還元主義の一種とされる。これに対し非還元的な物理主義は、心に対応するものは脳だけしかないが、それでも心的な出来事に関しては、物理科学の言葉による説明へ置き換えることも還元することも出来ないと考える。[[非法則一元論]]を主張した[[ドナルド・デイヴィッドソン]]などがこの立場である。 **歴史 ・西欧の歴史では紀元前四世紀のデモクリトスが原子論を主張している。彼は、存在する全てのものは知覚できないほど小さな原子から構成されていると考えた。原子という語は、語源的には「分けることができない」を意味する。原子はデモクリトスが「空虚」と呼ぶ純粋に何も無い空間の中に位置している。その空虚の中で無数に在る全ての原子は運動しているという。 ・エピクロスはデモクリトスの原子論を発展させ、しばしば原子と原子のあいだに衝突が生じ、この宇宙はそのような衝突を起源として生まれたという。また原子間の衝突により、人間の行為には予測不可能な非決定性が生じ、それが人間の自由意志の根拠とされた。また彼は神の存在を信じ、神は物質的な原子から構成されていると考えた。 ・十七世紀英国のトマス・ホッブスは、心的なものの実在性を否定しただけでなく、人間の思考や感覚そのものが物理的だと主張した。ホッブスにとっては神も魂も物理的な存在なのである。ただそれを構成する粒子が小さすぎて人間に知覚出来ないだけなのである。 ・十八世紀フランスの思想家、ラ・メトリは『人間機械論』において、人間の思考と行動を純粋に機械論的に説明しようとした。彼によれば思考や感覚は、物質の複雑な運動以外の何ものでもない。 ・フランス啓蒙時代の最も極端な唯物論者であるドルバックは、宇宙は物理対象からなる巨大な決定論システムであり、それ以外のものは存在しないと主張した。 ・十九世紀のカール・マルクスは、ヘーゲルの観念論における精神と物質の優先順位を逆転しようとした。マルクスの考えは「弁証法的唯物論」また「史的唯物論」と呼ばれる。マルクスは存在論について多くを述べなかったが、『経済哲学草稿』において、「自然主義(naturalizum)は観念論と唯物論の矛盾を解消する」と述べている。なお現代の[[マルクス主義>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]においては、「科学主義的唯物論」が公認されており、この立場では「心的現象は脳の物理的現象に随伴する」という物理主義の主張とニュアンスを異にし、より積極的な表現で「心的現象は脳の物理的現象の過程で産出される」といい、心身問題は原理的に解決済みであるとされる。 **自然主義と物理主義 近年の心の哲学は、英米の分析哲学の系統として発展してきたものであり、自然主義が大前提とされている。物理主義と対立する立場は[[二元論]]であるが、現代の二元論([[性質二元論]]または[[中立一元論]])は、その対立相手である物理主義と同様、自然主義の立場を取っている。つまり現在の心の哲学の文脈においては、物理主義は言葉に唯物論の意味しか持っていない。物理主義という名称が使われるようになったのは、主に便宜的な理由からである。物理学の中に物質(material)と呼びがたい対象が増えてきたため、そしてマルクス主義の弁証法的唯物論との混同を避けるためである。 しかし20世紀末ごろからは状況が少し複雑になる。心の哲学の分野の主要な争点が、「心」から「[[クオリア]]」の存在論的な位置づけに移り、この点に関して[[デイヴィッド・チャーマーズ]]の自然主義的二元論など、世界の全てが法則に従う自然的なものであると主張しながら、物理主義を攻撃するタイプの二元論が現われてきたからである。つまり世界の全てが法則に従う自然的なものであるという点で物理主義と軌を一つにしながら、現在の物理学の枠内では[[現象的意識]]や[[クオリア]]の問題は扱えないという形で、物理主義は批判されているのである。こうした対立図式の中では、旧来物理主義と呼ばれてきた立場は単に唯物論の意味しか持たない。そのため日本語圏の訳書では「physicalism」の立場が物的一元論と表現されることもあるし、ガレン・ストローソンのように現代の物理主義は物理主義というより物理学主義(physicSalism)と呼んだ方が適切だ、と主張する例も見られる。こうした現代の用法の上での物理主義者であるかを判定する目安は、現象的意識やクオリアについて、消去または現在の物理学の中への還元が可能だと考えるかどうかである。 **物理主義の問題 物理主義の主張の核心は、心は物質世界または物理世界の一部だ、というものである。こうした立場は、物質が持たないとされる性質を心が持っているという問題に直面する。それゆえ物理主義はこうした性質がどうやって物質的なものから生じるのかを説明しなければならない。こうした説明を与える行為は心の自然化(naturalization of the mental)と言われる。 心の自然化が直面する主要な問題は、クオリアや志向性を物理的に説明することである。 しかし近代・現代の科学とは、その創始者であるガリレオやデカルトによって規定されたように、人間が知覚できる個別的な[[現象]]世界全てを記述しようとするものでなく、それら現象のうち数量化、普遍化できるもののみ記述しようとするものである。つまり科学の基本的規範とは人間が知覚できる現象のうち、クオリアや志向性を捨象することによって成り立っているゆえに、科学にクオリアや志向性の説明を求めるのは筋違いという考え方もできる。 デカルトは心的なものと物質的なものとは、カテゴリーとして論理的に異なるものとして分離した。それゆえ心的なものを物理的という異なるカテゴリーの概念で説明するのは論理的な不可能性があり、それを論証したのが[[ソール・クリプキ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%97%E3%82%AD]]による[[固定指示子]]である。 また[[大森荘蔵]]は「重ね描き」の概念で物理主義を批判した。たとえば「青い」という知覚現象が生じる過程を科学用語で説明しても、そこに「青い」という感覚は描けていない(これは[[マリーの部屋]]の思考実験と同じ洞察である)。科学用語と重ねて「青い」という日常言語を描かなければ、本当に「青い」という知覚現象を描いたことにはならない。科学描写とは、日常言語で描写されたものを特有の言葉で改めて語り直すものなのである。換言すれば、われわれの体験には日常言語と科学描写という、二通りの説明方法があるということである。この大森の思想からすれば、科学描写という説明方法が原因で、「青い」というような知覚が生じると主張する物理主義は本末転倒のナンセンスだということになる。 ---- ・参考文献 大森荘蔵『知の構築とその呪縛』ちくま学芸文庫 1994年 小林道夫『科学の世界と心の哲学』中公新書 2009年 信原幸弘――編『シリーズ心の哲学Ⅰ人間篇』 勁草書房 2004年 柴田正良『ロボットの心・7つの哲学物語』講談社 2001年 廣松渉『心身問題』青土社 1988年 ティム・クレイン『心の哲学』植原亮 訳 勁草書房 2010年 ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社 2006年 ジョン・R・サール『ディスカバー・マインド!』宮原勇 訳 朝日出版社 2008年 S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 勁草書房 1999年 ・参考サイト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96 ----
#contents ---- **概説 物理主義(英:Physicalism)とは、この世界の全ての物事は物理的であり、また世界の全ての現象は物理的な性質に[[還元>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/56.html]]できるとする哲学上の立場である。心の哲学においては心的なものの[[実在]]性を否定して、物理的なものだけが実在するとし、[[心的因果]]を否定する。[[一元論]]の一種。物質一元論とも呼ばれる。 「[[唯物論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96]](Materialism)」は同じ立場の思想であり、物理主義という語と互換的に用いられている。唯物論という用語は17世紀のライプニッツによるものであるが、物理主義とは20世紀の[[オットー・ノイラート>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88]]の定義によるもので、[[論理実証主義>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AE%9F%E8%A8%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]から派生した概念であり、歴史的脈絡が異なるというだけである。 「物理的」という言葉の定義は、時空間的であり運動できるもの、とされている。 柴田正良によれば、人間の精神を素粒子群の運動や配置に還元するのが素朴な物理主義(folk physicalism)である。そして思考実験として同時に複数の自分を作れば、彼らは皆自分とみなすのが物理主義であり、逆に私とは私の「心」であるとするのが素朴なメンタリズムである。 物理主義は、心的な性質を含む世界の全ての出来事は、物理法則に従った物理的原因をもち、その物理的原因は出来事の「十分条件」であると考える。これは心的な性質が物理的なものに作用することや、一つの出来事に物理的原因と心的原因が独立して存在する「因果的過剰決定」を否定するものであり、物理領域の[[因果的閉包性]]といわれる。またデイヴィッド・パピノーやティム・クレインは「物理学の完全性」と呼んでいる。 物理主義の極端な形が「機械論的唯物論(mechanical materialism)」であり、人間の精神をも物質に還元し、全て力学的な法則によって説明しようとする。無神論でもある。古代ギリシャのレウキッポスの原子論に始まり、近代においてホッブス、ラ・メトリー、エルヴェシウス、ドルバック、ディドロ等フランスの唯物論者が機械論に基づく唯物論を徹底する。 物理主義には[[行動主義]]、[[心脳同一説]]、[[機能主義]]、[[非法則一元論]]、[[表象主義]]など多様な立場があるが、どの立場も以下の主要な三つの原理を前提としている。 >(1)唯物性の原理、反デカルト主義の原理 >この世界に存在する全てのものは物理的であり、心的なものも実際は物理的なものであり、デカルトのいうような純粋に非物理的なものは存在しない。 >(2)付随性(スーパーヴィーニエンス)の原理 >心的なものは物理的なものに付随し、物理的なもののあり方が確定することによって心的なもののあり方も確定する。物理的性質を完全に同じくする二つの対象は心的性質をも完全に同じくする(しかしその逆は成り立たない)。 >(3)物理的領域の[[因果的閉包性]]の原理 >どの物理的対象も、他の対象の物理的性質だけに言及することによって適切な因果的説明を与えることができる。物理的なもの以外に説明を求める必要はない。 上記の三つの原理はどの立場の物理主義においても認められるような、物理主義の必要最小条件である。 **歴史 物理主義の歴史とは唯物論の歴史とイコールである。詳細はWikipedia[[唯物論の歴史>http://ja.wikipedia.org/wiki/唯物論#.E5.94.AF.E7.89.A9.E8.AB.96.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2]]を参照のこと。 現在の心の哲学においては、物理主義は言葉に唯物論の意味しか持っていない。物理主義という名称が使われるようになったのは、主に便宜的な理由からである。物理学の中に物質(material)と呼びがたい対象が増えてきたため、そしてマルクス主義の弁証法的唯物論との混同を避けるためである。 **物理主義の問題 物理主義の主張の核心は、心は物質世界または物理世界の一部だ、というものである。こうした立場は、物質が持たないとされる性質を心が持っているという問題に直面する。それゆえ物理主義はこうした性質がどうやって物質的なものから生じるのかを説明しなければならない。こうした説明を与える行為は心の自然化(naturalization of the mental)と言われる。 心の自然化が直面する主要な問題は、クオリアや志向性を物理的に説明することである。 しかし近代・現代の科学とは、その創始者であるガリレオやデカルトによって規定されたように、人間が知覚できる個別的な[[現象]]世界全てを記述しようとするものでなく、それら現象のうち数量化、普遍化できるもののみ記述しようとするものである。つまり科学の基本的規範とは人間が知覚できる現象のうち、クオリアや志向性を捨象することによって成り立っているゆえに、科学にクオリアや志向性の説明を求めるのは筋違いという考え方もできる。 心的なものを物理的なものという異なるカテゴリーの概念で説明することの不可能性を、[[ソール・クリプキ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%97%E3%82%AD]]は[[固定指示子]]の概念で論じた。このクリプキの議論は[[デイヴィッド・チャーマーズ]]など、物理主義に反対する立場の哲学者たちの理論的支柱の一つとなっている。 [[大森荘蔵]]の洞察もクリプキと類似している。大森は物理主義、特に知覚因果説を「脳産教理」と呼んで批判し、心身問題を「重ね描き」の概念で解消しようとした。たとえば「青い」という知覚現象が生じる過程を科学用語で説明しても、そこに「青い」という感覚は描けていない(これは[[マリーの部屋]]の思考実験と同じ洞察である)。科学用語と重ねて「青い」という日常言語を描かなければ、本当に「青い」という知覚現象を描いたことにはならない。科学描写とは、日常言語で描写されたものを特有の言葉で改めて語り直すものなのである。換言すれば、われわれの体験には日常言語と科学用語という、二種類の言葉での説明方法があるということである。 ---- ・参考文献 大森荘蔵『知の構築とその呪縛』ちくま学芸文庫 1994年 小林道夫『科学の世界と心の哲学』中公新書 2009年 信原幸弘――編『シリーズ心の哲学Ⅰ人間篇』 勁草書房 2004年 柴田正良『ロボットの心・7つの哲学物語』講談社 2001年 廣松渉『心身問題』青土社 1988年 ティム・クレイン『心の哲学』植原亮 訳 勁草書房 2010年 ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社 2006年 ジョン・R・サール『ディスカバー・マインド!』宮原勇 訳 朝日出版社 2008年 S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 勁草書房 1999年 ・参考サイト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96 ----

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: