機能主義

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機能主義 - (2011/08/16 (火) 00:25:01) の1つ前との変更点

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#contents ---- **概説 心の哲学における機能主義(英:Functionalism)とは、心的な状態とはその状態のもつ機能によって定義されるという立場。 心的状態をその因果的な役割によって説明し、「心とはどんな働きをしているのか」を考えることが「心とは何か」という問いの答えとなるという立場である。 たとえば腕を強く打ったりすることの結果として生じ、打った腕を押さえたり顔をしかめたりすることの原因となる心的機能が「痛み」であると説明される。つまり心的状態とは知覚入力の結果であり、行動出力の原因であり、また他の心理状態の原因や結果であると考える。 行動主義や同一説の問題点を踏まえた上で、それらのあとに続く考え方として、1960年代にオーストラリアの哲学者、デイヴィッド・アームストロングによって始められた。[[ウィトゲンシュタイン]]の「(語の)意味とはその用法である」というアイデアに由来する。行動主義との違いは、心的な状態を行動としてでなく、行動の原因として定義する点である。 機能主義は[[多重実現可能性]]を認め、心的状態はさまざまなタイプの物理状態によって実現できるとする。心的状態を機能とみなすならば、必然的にその心的状態は多型的に実現可能であり、たとえば痛みの経験は脳のC繊維の活動だけではなく、人造繊維の活動でも可能である。また脳から取り出されて容器に隔離されたC繊維が仮に活動しても、痛みの経験に関する機能を実現していないから、そこに痛みの経験は現れないと考える。こうして機能主義は[[心脳同一説]]の難点を克服する。 **目的論的機能主義 目的論的機能主義とは、還元主義的な方法で[[志向性]]を自然化する試みの一つである。志向的な心的状態は心臓や肺などと同じく生物学的な器官の一種であり、「心臓は血液を循環させることが目的である」というように、生物学的な器官のはたらきがその特定の生物学的機能の観点から説明されるように、志向的な心的状態のもつ表象能力も、それがどうのような生物学的機能に由来するのかを明らかにすることによって説明される、とする。ルース・ミリカンらがこの立場である。 固有の機能は、その機能をもつ事物が実際に「行うこと」でなく「行うべきこと」によって説明される。たとえば多数の精子は実際に卵子と受精することはないが、それでも卵子と受精することが精子の機能である。また心臓は血液を循環させるだけでなく、その持ち主の健康状態を鼓動によって医師に知らせることができるが、それは心臓の本来の機能ではない。 目的論的機能主義のメリットの一つに、心臓などの存在や志向性が神によるデザインであるというような仮説を持ち出さずに、自然選択による進化であるというように、合理的な説明が可能であるということがある。 **ブラックボックス機能主義 機能主義者の多くは唯物論者であるが、機能主義は必ずしも唯物論を前提にしなくても成立する理論である。心的状態そのものを「存在記号」に置き換えることによって検証可能な文にするラムジー文(フランク・ラムジーの発案による)と呼ばれる方法がある。この方法によると、「ラムジーは知覚 a を得て、信念 g をもち、それが欲求 y を生じさせた」というように、心的状態を因果関係のみで定義する。つまり心的状態そのものは「ブラックボックス」であり、ならばそのブラックボックス内部にあるのが本質的に非物質的な精神や霊魂であってもかまわないことになる。このような立場はブラックボックス機能主義と呼ばれる。 **コンピューター機能主義 近年における急速なコンピューター技術の発展の過程で、脳とコンピューターを類似のものとみなす考えが生まれてきた。すなわち脳はコンピューターのように作動し、「心」と呼ばれるものはコンピューターのプログラムに相当するものだという考えである。物質的な脳にとって心とは、コンピューターのハードにとってのソフトであるとする。このような立場をコンピューター機能主義と呼ぶ。心の計算理論、計算主義ともいう。 アラン・チューリングはチューリングテストを考案した。コンピューターが十分知性的であるか否かを判定するテストである。具体的には人間の判定者が、離れた場所にいる別の人間と一機の機械に対しキーボードとディスプレイにより対話を行う。判定者が、機械と人間との確実な区別ができなかった場合、この機械は「知性」を備えていると考えた。 [[ジョン・サール]]はチューリングテストを批判し、人工知能を「弱い人工知能」と「強い人工知能」に分類した。弱い人工知能は人間の心理現象をシミュレーションする機能しかない。しかし強い人工知能は人間のように「心」を持つものである。チューリングが想定するコンピューターの知性とは弱い人工知能であり、[[行動主義]]に過ぎないとサールはいう。 **機能主義に対する批判 機能主義は[[現象的意識]]や[[クオリア]]を取りこぼしており、人間の意識を説明するには不十分だという批判がある。そして多くの哲学者が思考実験によって機能主義に反論している。代表的なものに[[ジョン・サール]]の[[中国語の部屋]]、トマス・ネーゲルの[[コウモリであるとはどのようなことか>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/40.html]]、[[デイヴィッド・チャーマーズ]]の[[逆転クオリア]]、ネッド・ブロックの[[中国人民]]などがある。 ジョン・サールは、主観的なクオリアを避けて説明する機能主義は、心的現象の説明に十分条件を与えていないという。そして[[逆転クオリア]]の思考実験を例に挙げ、機能主義では「私は赤を見ている」という自分の経験と、「私は赤を見ている」という(クオリアの反転した)他者の経験を全く同じものと考えるが、二人の内的経験は異なっているのだから機能主義は間違っていることになる、という。 ・参考文献 信原幸弘――編『シリーズ心の哲学Ⅰ人間篇』2004 S・プリースト『心と身体の哲学』1999 ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』2006 ----
#contents ---- **概説 心の哲学における機能主義(英:Functionalism)とは、心的な状態とはその状態のもつ機能によって定義されるという立場。 心的状態をその因果的な役割によって説明し、「心とはどんな働きをしているのか」を考えることが「心とは何か」という問いの答えとなるという立場である。 たとえば腕を強く打ったりすることの結果として生じ、打った腕を押さえたり顔をしかめたりすることの原因となる心的機能が「痛み」であると説明される。つまり心的状態とは知覚入力の結果であり、行動出力の原因であり、また他の心理状態の原因や結果であると考える。 行動主義や同一説の問題点を踏まえた上で、それらのあとに続く考え方として、1960年代にオーストラリアの哲学者、デイヴィッド・アームストロングによって始められた。[[ウィトゲンシュタイン]]の「(語の)意味とはその用法である」というアイデアに由来する。行動主義との違いは、心的な状態を行動としてでなく、行動の原因として定義する点である。 機能主義は[[多重実現可能性]]を認め、心的状態はさまざまなタイプの物理状態によって実現できるとする。心的状態を機能とみなすならば、必然的にその心的状態は多型的に実現可能であり、たとえば痛みの経験は脳のC繊維の活動だけではなく、人造繊維の活動でも可能である。また脳から取り出されて容器に隔離されたC繊維が仮に活動しても、痛みの経験に関する機能を実現していないから、そこに痛みの経験は現れないと考える。こうして機能主義は[[心脳同一説]]の難点を克服する。 **目的論的機能主義 目的論的機能主義とは、還元主義的な方法で[[志向性]]を自然化する試みの一つである。志向的な心的状態は心臓や肺などと同じく生物学的な器官の一種であり、「心臓は血液を循環させることが目的である」というように、生物学的な器官のはたらきがその特定の生物学的機能の観点から説明されるように、志向的な心的状態のもつ表象能力も、それがどうのような生物学的機能に由来するのかを明らかにすることによって説明される、とする。ルース・ミリカンらがこの立場である。 固有の機能は、その機能をもつ事物が実際に「行うこと」でなく「行うべきこと」によって説明される。たとえば多数の精子は実際に卵子と受精することはないが、それでも卵子と受精することが精子の機能である。また心臓は血液を循環させるだけでなく、その持ち主の健康状態を鼓動によって医師に知らせることができるが、それは心臓の本来の機能ではない。 目的論的機能主義のメリットの一つに、心臓などの存在や志向性が神によるデザインであるというような仮説を持ち出さずに、自然選択による進化であるというように、合理的な説明が可能であるということがある。 ※目的論的機能主義は、必ずしも機能主義の一種として考えられているわけではなく、心の哲学において機能主義と別のカテゴリーとして位置づけられることもある。 **ブラックボックス機能主義 機能主義者の多くは唯物論者であるが、機能主義は必ずしも唯物論を前提にしなくても成立する理論である。心的状態そのものを「存在記号」に置き換えることによって検証可能な文にするラムジー文(フランク・ラムジーの発案による)と呼ばれる方法がある。この方法によると、「ラムジーは知覚 a を得て、信念 g をもち、それが欲求 y を生じさせた」というように、心的状態を因果関係のみで定義する。つまり心的状態そのものは「ブラックボックス」であり、ならばそのブラックボックス内部にあるのが本質的に非物質的な精神や霊魂であってもかまわないことになる。このような立場はブラックボックス機能主義と呼ばれる。 **コンピューター機能主義 近年における急速なコンピューター技術の発展の過程で、脳とコンピューターを類似のものとみなす考えが生まれてきた。すなわち脳はコンピューターのように作動し、「心」と呼ばれるものはコンピューターのプログラムに相当するものだという考えである。物質的な脳にとって心とは、コンピューターのハードにとってのソフトであるとする。このような立場をコンピューター機能主義と呼ぶ。心の計算理論、計算主義ともいう。 アラン・チューリングはチューリングテストを考案した。コンピューターが十分知性的であるか否かを判定するテストである。具体的には人間の判定者が、離れた場所にいる別の人間と一機の機械に対しキーボードとディスプレイにより対話を行う。判定者が、機械と人間との確実な区別ができなかった場合、この機械は「知性」を備えていると考えた。 [[ジョン・サール]]はチューリングテストを批判し、人工知能を「弱い人工知能」と「強い人工知能」に分類した。弱い人工知能は人間の心理現象をシミュレーションする機能しかない。しかし強い人工知能は人間のように「心」を持つものである。チューリングが想定するコンピューターの知性とは弱い人工知能であり、[[行動主義]]に過ぎないとサールはいう。 **機能主義に対する批判 機能主義は[[現象的意識]]や[[クオリア]]を取りこぼしており、人間の意識を説明するには不十分だという批判がある。そして多くの哲学者が思考実験によって機能主義に反論している。代表的なものに[[ジョン・サール]]の[[中国語の部屋]]、トマス・ネーゲルの[[コウモリであるとはどのようなことか>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/40.html]]、[[デイヴィッド・チャーマーズ]]の[[逆転クオリア]]、ネッド・ブロックの[[中国人民]]などがある。 ジョン・サールは、主観的なクオリアを避けて説明する機能主義は、心的現象の説明に十分条件を与えていないという。そして[[逆転クオリア]]の思考実験を例に挙げ、機能主義では「私は赤を見ている」という自分の経験と、「私は赤を見ている」という(クオリアの反転した)他者の経験を全く同じものと考えるが、二人の内的経験は異なっているのだから機能主義は間違っていることになる、という。 ---- ・参考文献 信原幸弘――編『シリーズ心の哲学Ⅰ人間篇』2004 S・プリースト『心と身体の哲学』1999 ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』2006 ----

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