ウィトゲンシュタイン

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#contents ---- **概説 ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein 1889年4月26日 - 1951年4月29日)はオーストリア・ウィーン出身の哲学者。言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。 「語りえぬものには沈黙しなければならない」という有名な言葉がある。ルドルフ・カルナップの解釈によれば、形而上学、倫理学、認識論に関するあらゆる言明は検証不可能であり、無意味である、という意味である。 ウィトゲンシュタインは検証可能なもののみ学究の対象としたことから、実証主義の創始者といわれる **語の意味とはその用法である 「語の意味とはその用法である」という考え――例えば子供が何かに足をぶつけて泣いている時に「痛み」という語が用いられるが、その用いられ方こそが「痛み」の定義であるとする。ゆえに心的状態と生物学的状態が適合するかどうかと問うのは間違いだと論じる。錯覚的な問題は、ある問題を別の語彙を使って記述したり、心的な語彙がまちがった文脈――脳の心的状態を探したりするときに生じる。脳というのは心的な語彙を用いる文脈としては単純に間違っているのである。したがって、脳の心的状態を探し求めるのはカテゴリーミステイク(範疇の錯誤)、つまり一種の推論の誤謬なのである。 ウィトゲンシュタインのこの考えは[[行動主義]]および[[機能主義]]に影響を与えた。 **私的言語 ウィトゲンシュタインは「私的言語」の可能性に反対していて"Beetle in the box"という哲学的論考を行っている。「人は誰しもカブトムシという名前を書いた箱を持っているが、その中身は自分しか見ることは出来ない。しかし他人の持っているカブトムシというラベルのついた箱は見ることが出来る」この事から、そのカブトムシの名前のついた箱の中身が各人によってまちまちであり、変化している可能性もあり、また何も入ってない可能性も考えられる為に、カブトムシという「何か」を考える事は不可能であると述べている。私的言語は心の哲学にとって重要である。デカルトにとっては心的なものとは当人にのみその状態を直接に認識できる手段があるという意味で私的であり、他人が心を持っているかは疑いうることであるからだ。 ウィトゲンシュタインはさらに私秘性といわれる経験について批判する。誰かが「私が本当に痛がっていることは私しか知ることができない」と、自分の感覚が私的であると主張したしても、ウィトゲンシュタインはそれは正しくないと考える。その言葉は「他人は私の痛みをもつことができない」という意味と同じであり、すなわち単に意味が無いということである。痛みが誰のものなのか疑いのある場合のみ、そのような主張は意味を持つのである。 #right(){(以下は[[このサイト>http://plaza.rakuten.co.jp/oniyannma9/diary/200704010002/]]から要約引用)} 自分だけに生じる特有の感覚を指し示そうとして独自の表現を使うのだが、その表現が他人には伝わらない」と想定されたものが「私的言語」である。ウィトゲンシュタインはそれは不可能であるとする。私的言語「E」は記憶と直感的判断によってでしか過去の「E」と統一のものか判断することはできず(自己正当化)、客観的な基準が欠如し、その結果、正誤の区別がないというものである。言い換えれば、これは私的言語が規範性を持たないことであり、言語とは呼べない(言語のまねごと)と言うことを意味する。 #right(){((スティーヴン・プリーストの意見))} ※いくつかの心の理論は私的言語を前提としていて、もし私的言語が不可能だとしたらそれら理論も間違っている可能性もある。例えば現象学は意識内容を、その内容が客観的に存在するかどうかを判断停止して記述する試みである。すなわち主体にとって私的な現われだけを記述する。 **心の哲学 心の哲学におけるウィトゲンシュタインの思想は、独我論から出発した行動主義および機能主義と考えられる。永井均はウィトゲンシュタインの独我論の特徴を表すものとして、以下のようなウィトゲンシュタインの文を挙げている。 >私は私の独我論を「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」と言うことで表現することができる。ここで私はこう言いたくなる。「私は『私』という語で L.ウィトゲンシュタインを意味してはいない。だが私がたまたま今、事実として L.ウィトゲンシュタインである以上、他人たちが『私』という語は L.ウィトゲンシュタインを意味すると理解しても、それで不都合はない」と。 >ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなくてはならない、ということだ。他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。 特に永井は、 >他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。 という最後の一文に着目し、ウィトゲンシュタインの哲学活動のほとんどがこの洞察に支えられて成り立っていると考える。そして、独我論めぐってはさまざまな議論がなされてきたが、ウィトゲンシュタイン以前と以降とでは問題性そのものが一変してしまった。意識の外にあるものが実在するか否かが独我論をめぐる最大の問題であり、そうしたものが存在すると言えれば独我論は否定されると考えられていた。しかし今ではそんなことが言えても独我論は否定されない。独我論を語ることのできる「私」とはいったい誰なのか、という点こそが問題であると永井は述べる。 #right(){(出典:永井均『ウィトゲンシュタイン入門』)} ----
#contents ---- **概説 ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein 1889年4月26日 - 1951年4月29日)はオーストリア・ウィーン出身の哲学者。言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。 「語りえぬものには沈黙しなければならない」という有名な言葉がある。ルドルフ・カルナップの解釈によれば、形而上学、倫理学、認識論に関するあらゆる言明は検証不可能であり、無意味である、という意味である。 ウィトゲンシュタインは検証可能なもののみ学究の対象としたことから、実証主義の創始者といわれる **語の意味とはその用法である 「語の意味とはその用法である」という考え――例えば子供が何かに足をぶつけて泣いている時に「痛み」という語が用いられるが、その用いられ方こそが「痛み」の定義であるとする。ゆえに心的状態と生物学的状態が適合するかどうかと問うのは間違いだと論じる。錯覚的な問題は、ある問題を別の語彙を使って記述したり、心的な語彙がまちがった文脈――脳の心的状態を探したりするときに生じる。脳というのは心的な語彙を用いる文脈としては単純に間違っているのである。したがって、脳の心的状態を探し求めるのはカテゴリーミステイク(範疇の錯誤)、つまり一種の推論の誤謬なのである。 ウィトゲンシュタインのこの考えは[[行動主義]]および[[機能主義]]に影響を与えた。 **私的言語 ウィトゲンシュタインは「私的言語」の可能性に反対していて"Beetle in the box"という哲学的論考を行っている。「人は誰しもカブトムシという名前を書いた箱を持っているが、その中身は自分しか見ることは出来ない。しかし他人の持っているカブトムシというラベルのついた箱は見ることが出来る」この事から、そのカブトムシの名前のついた箱の中身が各人によってまちまちであり、変化している可能性もあり、また何も入ってない可能性も考えられる為に、カブトムシという「何か」を考える事は不可能であると述べている。私的言語は心の哲学にとって重要である。デカルトにとっては心的なものとは当人にのみその状態を直接に認識できる手段があるという意味で私的であり、他人が心を持っているかは疑いうることであるからだ。 ウィトゲンシュタインはさらに私秘性といわれる経験について批判する。誰かが「私が本当に痛がっていることは私しか知ることができない」と、自分の感覚が私的であると主張したしても、ウィトゲンシュタインはそれは正しくないと考える。その言葉は「他人は私の痛みをもつことができない」という意味と同じであり、すなわち単に意味が無いということである。痛みが誰のものなのか疑いのある場合のみ、そのような主張は意味を持つのである。 #right(){(以下は[[このサイト>http://plaza.rakuten.co.jp/oniyannma9/diary/200704010002/]]から要約引用)} 自分だけに生じる特有の感覚を指し示そうとして独自の表現を使うのだが、その表現が他人には伝わらない」と想定されたものが「私的言語」である。ウィトゲンシュタインはそれは不可能であるとする。私的言語「E」は記憶と直感的判断によってでしか過去の「E」と統一のものか判断することはできず(自己正当化)、客観的な基準が欠如し、その結果、正誤の区別がないというものである。言い換えれば、これは私的言語が規範性を持たないことであり、言語とは呼べない(言語のまねごと)と言うことを意味する。 #right(){((スティーヴン・プリーストの意見))} ※いくつかの心の理論は私的言語を前提としていて、もし私的言語が不可能だとしたらそれら理論も間違っている可能性もある。例えば現象学は意識内容を、その内容が客観的に存在するかどうかを判断停止して記述する試みである。すなわち主体にとって私的な現われだけを記述する。 **心の哲学 心の哲学におけるウィトゲンシュタインの思想は、独我論から出発した[[機能主義]](厳密にはブラックボックス機能主義)と考えられる。永井均はウィトゲンシュタインの独我論の特徴を表すものとして、以下のようなウィトゲンシュタインの文を挙げている。 >私は私の独我論を「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」と言うことで表現することができる。ここで私はこう言いたくなる。「私は『私』という語で L.ウィトゲンシュタインを意味してはいない。だが私がたまたま今、事実として L.ウィトゲンシュタインである以上、他人たちが『私』という語は L.ウィトゲンシュタインを意味すると理解しても、それで不都合はない」と。 >ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなくてはならない、ということだ。他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。 特に永井は、 >他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。 という最後の一文に着目し、ウィトゲンシュタインの哲学活動のほとんどがこの洞察に支えられて成り立っていると考える。そして、独我論めぐってはさまざまな議論がなされてきたが、ウィトゲンシュタイン以前と以降とでは問題性そのものが一変してしまった。意識の外にあるものが実在するか否かが独我論をめぐる最大の問題であり、そうしたものが存在すると言えれば独我論は否定されると考えられていた。しかし今ではそんなことが言えても独我論は否定されない。独我論を語ることのできる「私」とはいったい誰なのか、という点こそが問題であると永井は述べる。 #right(){(出典:永井均『ウィトゲンシュタイン入門』)} ----

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