パルメニデス

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#contents ---- **概説 パルメニデス( Parmenide-s 紀元前500年か紀元前475年-没年不明)はギリシアの哲学者で、[[エレア派>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A2%E6%B4%BE]]の祖。「ある」と「ない」の概念を考究し、西洋哲学において最初に[[一元論]]を主張した。形而上学の創始者といわれ、また感覚よりも理性による判断に重きを置いたため合理主義の祖であるともいわれる。アナクサゴラスの弟子クセノパネスに学んだとも、ピュタゴラス学派のアメイニアス(Ameinias)に師事したとも伝えられる。 「あるものはある」「ないものはない」という自明なことを論理的に限界まで考究したパルメニデスの哲学は、それまでの哲学の常識を逸脱した途方もないものであり、生成消滅、運動変化、多数性といった自然現象の根本原理を否定するものである。 プラトンによればソクラテスが青年時代(紀元前450年頃)にパルメニデスと会ったとき、彼はすでに老人であったという。ここからして、紀元前515年頃に生まれたのだろうと推測されている。名門の家柄であり、祖国エレアのために法律を制定したともいわれる。クセノパネスやエンペドクレスにならって、詩の形で哲学を説いている。その中でも叙事詩『自然について』が断片として現存する。 『自然について』は、第一部「真理の道(アレーテイア)」と、第二部「思惑(ドクサ)の道」に分かれている。「真理の道」では、「あるもの」の概念〈後述〉を考究している。「思惑の道」では、人間の感覚の前に現れるさまざまな現象を説明する原理であり、タレスなどイオニアの哲学者たちと似たような内容であった。 パルメニデスは、哲学を真理(アレーテイア)に関するものと、思惑(ドクサ)に関するものに分け、理性(ロゴス)が真理を探求する手段であり、感覚は人を惑わせるものだと考えた。しかし第一部と第二部とでは主張する内容に矛盾があると指摘する学者もいる。第一部での「あらぬものはあらぬ」という論理からすると、第二部はあらぬものについて説明しているとも考えられるからだ。 **思想とその影響 [[イオニア学派>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%AD%A6%E6%B4%BE]]の哲学者たちは万物の根源が何であるかを探究し、それぞれが「水である」「火である」「数である」というような答えを導き出した。その彼らに対し、そもそも「ある」、そして「ない」とは何かという問題を提起したのがパルメニデスであった。たとえば「水である」という場合の「水」のような主語となるものを想定せず、パルメニデスは「ある」、そして「ない」それら自体を思惟の対象とし、探究の道として二つだけを示す。 以下、井上忠『パルメニデス』青土社(1996)より引用。(原文より表記を簡潔にしてある) >一方の道は「ある」とし、「ない」ということはありえぬとする道である。 >他方の道は「ない」とし、断じて「ない」とすべきである、という道である。 >だがきみに指摘しておくが、この道は全くもって尋ね聞くべきすべもないけものみちなのである。 >なぜならきみは、無いものを織るわけにはゆかないし(なぜならそれは出来ないことだからである)、 >指摘するわけにもゆかないからである。(Fr.2.3,5-8) 「ない」があるとするのは「思い込み(ドクサ)」であり、言語表現上のみのことに過ぎない。この点についてパルメニデスは以下のようにいう。 >言葉で表現され、思われうるものは断じて「ある」とされるべきである。(Fr.6.1) この断片には、言語・思惟はそれ自体「ある」ものであり、すなわち「ない」という言葉も「ある」ものの一種である、という主張が含意されていると考えられる。つまり、ほんとうに「ない」ものは断じて「ない」のであるが、それは言葉では表現できないず、言語上の「ない」を、あたかも「ある」と対立して実在しているかのように考えるのが「想い込み」なのである。たとえば「死」とは、「ある」ものである自分が「ない」ものになることだと想い込んでいる者は多い。 >死すべきものどもの、さまざまな想いこみを、そこには真の証しなし。(Fr.1.30) このパルメニデスの言葉は、死の正体とは、「死ぬという想い込み」そのものに過ぎない、と解釈できる。 なお[[アンリ・ベルクソン]]は、著書『創造的進化』で「[[なぜ何もないのではなく、何かがあるのか>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%BD%95%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B]]」という、いわゆる「究極の問い」について、「絶対無」は擬似観念であるということを述べている。「絶対無」とは「全ての存在」の観念に「否定」の操作が加えられて作られたものであり、すなわち「ある」ものの一種にすぎない。人間知性は何かの不在によってしか無を理解できないのである。したがって「絶対無」や「究極の問い」は擬似観念であり、擬似問題であるというのがベルクソンの結論であり、これはパルメニデスの論理と近似している。 「ある(ギリシャ語の動詞 estin の現在形)」は「あった」や「あるだろう」と対比することができ、すなわち時間軸上に位置づけられる。しかし仮に、無からの生成を認めるとすると、なぜ「それ以前」に生じなかったのかという不合理が生じることになる。すなわち「ある」ものは「ある」という同一律による根本原則によって、それは「かつてなかったもの」になることはできない。 「ある」ものは「ない」ものから生じることはない。また変化とは「ある」ものが「ない」ものになることであり、これは論理的に不可能である〈後述〉。そして多数性とは、「ある」ものを分け隔てる空間や空虚、つまり「ない」ものがあることを想定するものである。しかし空間や空虚を認めた場合、それは後にパルメニデスの弟子であるゼノンが提起したように無限分割のアポリアが生じる。ゆえに「ない」ものはあることができない。(「ない」ものがあり得るかという問題は、現代では「[[形而上学的ニヒリズム>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%83%8B%E3%83%92%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0]]」として議論されている) このような論理からパルメニデスは生成と消滅、運動と変化、多数性と多様性を否定し、真に「ある」ものは時間と空間に規定されない唯一のものだとする「絶対[[一元論]]」を主張する。 >それはかつてあったのでも、いつかあるだろう、でもない。なぜなら「ある」は、いま、ここに一挙に、全体が、一つの、融合凝結体としてあるわけだからである。(Fr.8.5-6) 生成変化を否定し、全体が一つの存在としてあるとしたら、その存在内部にある人間は、その外部に立ってその存在を見たり感じたりすることはできないということになる。ただ論理的な正しさを理解できるだけであり、それゆえパルメニデスは自身の哲学を、存在外部の視点を有する真理の女神(アレーテイア)に語らせたと考えられる。 感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである。事物が別のものに変わるということ、たとえば青いつぼみが赤い花に変化する時などは、青いつぼみが「無いもの」になり、赤い花が「在るもの」になる。しかし「青いつぼみ」のどこを探しても「赤い花」は無い。すなわちゼロをいくら足しても乗じてもゼロであるゆえに、変化とは論理的に不可能だと主張することができる。また変化とは矛盾であるともいえる。もし丸いものと四角いものに同一性があるとするならば、どこかの時点で、これは丸いものでもあり、かつ別のものでもある、ということが許されていなければならない。しかしこれは矛盾律(Aは非Aではない)に反する。どれほど似ていようと、どれかの時点についていう限り、そのものは丸いか、そうでないかのどちらかしかない。つまりどの時点においても特定の一つの形しかもっていない。そして一つの形だけでは変化は存在しえない。さらに変化のない形をすべて集めても変化は生じない。変化とは、ある時点での特定の形と、別の時点での特定の形に、人が因果関係を見出すことによって生じる「概念」としての存在であり、変化そのものが[[実在]]しているとはいえない。 確かに感覚的には生成変化が観測されていることをパルメニデスは認める。しかし生成変化するものは矛盾しているがゆえに実在ではない。経験される生成変化は感覚が欺かれた結果なのである。このような論理から要請された、「真に存在するもの」が「[[実体]]」である。すなわちパルメニデスは感覚よりも理性に信を置いて、真に存在するものは不変だと考えた。このことから感覚より理性を信じる合理主義の祖であると考えられている。 パルメニデス以降の哲学者の多くは「ある」もの、つまり「不滅の[[実体]]」という概念を継承し、生成変化する現象と不滅の実体とをどのように調和させるか腐心することになる。パルメニデスの実体概念を「無からは何も生じない」と、限定的に解釈して変化を認めたのがエンペドクレス、アナクサゴラス、また[[原子論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E8%AB%96]]を主張したレウキッボス、デモクリトス、そしてイデアや形相を想定したプラトンやアリストテレスなどである。彼らの主張は、絶対的な「ない」から「ある」に変化するというのでなく、見かけの変化の根底に不変の基体があるとするものである。 アナクサゴラスは、「あらゆるものの内にあらゆるものの部分がある」として、変化の矛盾を避けようとする。そして「生成」を「混合」と言い、「消滅」を「分離」と言い換えることで現象の生成消滅を説明する。またアナクサゴラスは科学的な実験で「空気」の存在を証明するにより「空虚」、つまりパルメニデスがいう「ない」ものの存在を否定している。これは「多」が空間に隙間なく存在して、全体としてはパルメニデスのいう「一」であることを保持しようとするものである。 プラトンはまず、パルメニデスが「ない」を定義する過程で、語れも考えもできないはずの「ない」について多くを語っていると矛盾を指摘する。また、「一あり」とする言説は「一」と「ある」という二つの語を用いることで、既に「ある」を単独で語ることに反していると考える。このような批判によってプラトンは変化を認め、しかし同時にパルメニデスの実体概念を継承することによって、イデア論を主張することになる。イデア論はパルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させようとした試みであるともいわれる。プラトンには『パルメニデス』という題名の対話篇がある。 アリストテレスはパルメニデスの「ある」を[[実体]]とし、その実体の述語となる属性としてのカテゴリーで生成変化を説明する。プラトンがイデアを事物から独立して存在する実体として考えたのに対し、アリストテレスは形相(エイドス)は質料(ヒュレー)に内在すると考えた(プラトンはイデアを意味するのにエイドスという言葉も使っていた)。イデアは個物から独立して離在するが、エイドスは個物において常に質料とセットになっている。エイドスが素材と結びついて現実化した個物が現実態(エネルゲイヤ)であり、現実態を生み出す潜在的な可能性が可能態(デュナミス)である。 紀元前二世紀頃の[[セクストス・エンペイリコス>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%82%B9]]が著した『ピュロン主義哲学の概要』には、以下のような記述があり、パルメニデスの哲学が古代懐疑主義に大きな影響を与えたことが伺える。 >なにかが変化するとすれば、それは存在するものが変化するか、存在しないものが変化するか、のどちらかである。ところが、存在しないものは存在せず、したがって変化を受け入れることがない。たほう存在するものが変化するとすれば、それは存在するものとはべつのもの、つまり存在しないものとなるだろう。したがって存在するものもまた変化することがない(『ピュロン主義哲学の概要』第三巻第一五章一〇四節)。 この『ピュロン主義哲学の概要』は1569年ラテン語に翻訳され、モンテーニュ、デカルト、ヒューム、カントらに影響を与えることになる。 また、相対主義者の[[プロタゴラス>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9]]は以下のように語っている。 >人間が万物の尺度である。すなわち、そうあるものどもについては、そうあるということの、そうあらぬものどもについては、そうあらぬということの(尺度である)。(断片1)(廣川洋『ソクラテス以前の哲学者』より引用) これは「ある」「ない」の基準は人間の判断に委ねられているとみなすものである。 不変の実体と運動変化する現象を調和させようとしたアナクサゴラスや原子論者、また[[ピタゴラス学派>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%95%99%E5%9B%A3]]に対して、パルメニデスの弟子である[[ゼノン>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3_%28%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A2%E6%B4%BE%29]]は「アキレウスと亀」をはじめとした数々の[[パラドクス>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9]]によって、変化と多数性が存在しないことを証明しようとした。 **「ある」の解釈 パルメニデスは存在について、「あるもの(eon)」と「ないもの」しか考えられず、そのうち「ないもの」については(概念しか存在しないため)語ることさえ出来ず、「あるもの」だけがあるという。しかし彼のいう「あるもの」については、さまざまな解釈がなされている。 以下のサイトから主要な三つの解釈を要約引用する >http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/vorsokratiker/parmenides.html パルメニデスの「ある」を英語に訳すとis(ギリシア語で「エスティン」)だが、英語でisが何の前触れもなく単独でisと出てきたら明らかに異様であり、このパルメニデスに独特の「ある」の使い方こそが、2500年以上経った今でも彼の学説に対する解釈が固定していないことの最大の原因と解説している。 ①「丸い真なるもの」が「ある」と読む解釈 >パルメニデスの「ある」を、「特定の何か」が存在することを述べているのだと解釈す>るやり方。このように解釈する人の代表格はバーネット(Burnet)という人。 > >そうなると、当然問題となるのはその「特定の何か」とは何であるかということだが、>パルメニデスはその存在について以下のように述べる。 >(岩波書店『ソクラテス以前哲学者断片集』より。) >性質1…非時間性(5行目「あったこともなくあるだろうこともない。今あるのである」) >性質2…一性(6行目「一挙にすべて、一つのもの、つながり合うものとして」) >性質3…不生不滅(6-21行目「この範囲で行われている一連の議論を参照」) >性質4…不可分割(22行目「あるものは分かつことができない」) >性質5…均一性(22-23行目「(不可分割であることの根拠として)すべてが一様である」「ここにより多くあったり、より少なくあったりすることによって互いがつながりあうのを妨げられることなく」) >性質6…充足性(24行目「全体があるもので満ちている」) >性質7…不動性(26行目「大いなる縛めに限られて動くことなく」) >性質8…不変性(39-41行目「名目にすぎぬであろう……明るい色をとりかえることも」) ②「あるもの」が「ある」と読む解釈 >「なぜならば思惟することとあることとは同じであるから(Fr.3)」 > >Owenはパルメニデスの上の言葉から、「ある」と人間が考えたり語ったりすることとを>結び付ける。つまり、何らかの対象に対する我々の思考や言明が、意味を持ち判断可能な>ものとして成り立つためには、そこに「ある」という「存在」の要素が不可欠であるから。 > >我々が普段何がしかのことについて語っているその全ての前提は、対象にせよ思考にせ>よ「ある」ものだといえる。 > >この「前提」という着想をOwenはラッセルの「記述の理論」から獲得して、それをパル>メニデスに読み込んだ。 > ③結論を述べるときに用いる、何々で「ある」という使い方で読む解釈 >「ある」という言葉には、「何かが存在している」という意味の「ある」の他にも、あ>るものに対して「それが何かである」という使い方で用いられることもある。この「であ>る」というときに使われる用法は、「存在用法」に対して「述定用法」と呼ばれる。 > >パルメニデスの「ある」をこちらの「述定用法」として解釈したのはMourelatosである。 > **パルメニデスのアポリア #right(){(以下は管理者の見解)} パルメニデスの提起したアポリアは、「変化とは在るものが無いものになり、無いものが在るものになることで、これは矛盾している」というものである。このアポリアに明快な解を出した哲学者はいまだにいない。 パルメニデスの弟子であるゼノンは、パルメニデスの「唯一にして不変の実体」を証明するため、いくつかの[[パラドックス>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9]]を考案した。ただパラドックスとしてあまりに面白くできているため問題が矮小化されて考えられているケースも多い。ゼノンが示そうとしたのは、存在が「多」であるなら無限分割が可能であり、したがって「運動」が不可能なこと、かつ「変化」は矛盾しているということである。 パルメニデスのアポリアと不変の実体の概念は、既述したように西洋哲学の歴史に大きな影響を与えている。 アウグスティヌスは時間の実在性を否定し、時間は人の心(魂)の作用においてのみ見出せるとした。そして実在(神)は永遠であり、過ぎ去ることもなく、全体が同時に存在することを主張する。全体性・同時性・一挙性がアウグスティヌスの実体概念である。これもパルメニデスの実体概念を受け継ぎ、また「変化」の矛盾を避けようとする思想であると考えられる。 スピノザが神のみを実体として、生成消滅する物質世界と人間の精神を、唯一である神の属性として還元したのも同様の試みであると考えられる。これは汎神論的な一元論である。 デカルトは変化の矛盾に対し、神による「連続創造説」を主張した。どんなものも、それが持続するところの各瞬間において保存されるためには、そのものがまだ存在しなかった場合に新しく創造するに要したのとまったく同じだけの力とはたらきを要するとし、それゆえ神が世界を持続的に保存しているはたらきは、神が世界をはじめに創造したはたらきとまったく同じものであると考える。つまり、存在の維持はその時々の創造にほかならない、とする。これはパルメニデスが提起した変化の矛盾を認めざるを得なかったゆえに、神というメタレベルの存在を措定することによってその矛盾を解消しようとしたと考えられる。 ヘーゲルはゼノンのパラドックスに対し、そこから帰結するのは、運動が存在しないということでなく、運動は定有する矛盾であるということだとしている。もちろんヘーゲルの場合は、独自の弁証法によってその矛盾が解消されることを展望していると考えられる。 近代ではマクタガートが時間の実在性を否定する主張を展開している。そのマクタガートに対し入不二基義が論駁を試みてるいるが、結局「変化」を認めるとどうしても矛盾が生じるので、「時間とは現実性の推移である」と曖昧な結論になっている。 現実性が「推移」するとは、「在る」ものであった現実性が「無い」ものになるということであり、パルメニデスが提起したアポリアの解消になってはいない。 大森荘蔵はゼノンのパラドックスを解いた者は未だにいないという。そしてゼノンのパラドックスに反しない形での、独自の時間論を展開した。そして純粋持続を提唱したベルグソンに対し、時間を空間化することだといって捨ててしまうのは間違いだという。時間を一本の直線で表現できるというのは、時間が過去、現在、未来という順序をもっているからこそであるという。 結局、パルメニデスが提起した変化の矛盾を論理的に否定できた者は歴史上いないよう思える。つまり時間(そして空間)の実在を証明できた者は皆無である。時間や空間は所詮、ヒュームやフィヒテがいうように感覚によって理解されるものなのだから、デカルトが見出したコギトのような、いくら疑ってもそれ以上は疑えないものとしての存在と、同じレベルの確かな存在とはいえないのである。 パルメニデスのアポリアに対し、過去の哲学者たちとは異なった見地から解答を見出したのは[[イマヌエル・カント]]だった。カントはヒュームの徹底した懐疑主義的観念論を受け、時間と空間は直感に与えられた形式だと考えた。つまり時空とは人間が世界を理解するための「認識装置」なのである。カントは時間・空間(という形式)によって直感される一切のものはわれわれに経験される「現象」であって、それ自体存在するもの(物自体)ではないという。 現象としての世界を実在するものと見立て、無限大や無限小を想定することから[[アンチノミー>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%BE%8B%E8%83%8C%E5%8F%8D]]の難問に陥るとしたカントの認識論を拡張すれば、ジョン・ロックが物自体に属するとした一次性質――個性、延長、形状、運動、静止、数も、実は彼のいう二次性質、つまり我々の知覚の性質だということができる。短い、長い、広い、という抽象観念があり、人間はそこからさらに空間という抽象観念を導き出す。空間が実体としてあるのでなく、あるのは人間の個別の観念と概念だけかもしれない。時間についても同じことである。なお、カント哲学を引き継いだJ・G・フィヒテの観念論的形而上学では、「自我:非我」「自己:世界」の区別をするのは主観的意識である。我々がいる世界とは諸事物が時空間に連続している世界であるが、こうした世界は自我の経験から構成されてくるものであり、客観的世界とみなされているものは、実は主観によって知的に構成された世界であるとフィヒテはいう。 カントの認識論が示す重要なことは、時空という知覚の形式によって捉えられる対象が、物理主義=科学的実在論によって記述される状態として実在するいう主張を合理的に否定できるということである。これは[[現象主義]]によって[[素朴実在論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96]]を否定したヒューム哲学を発展させたものと考えることができる。とはいえ、カントの認識論は必ずしも自然科学と相克するものではない。自然科学が証明したのは時間と空間が数学的に精密に描写できるということであり、それ以上のものではない。時間の「流れ」や「過去」や「現在」があるという事実は、時間というものには数学的な秩序があるということを証明しているに過ぎない。また、空間が「広がり」をもち、東京とニューヨークが遠く「離れている」という事実も、空間というものには数学的な比例関係があるということを証明しているに過ぎない。カントのいう通り「流れる時間」や「広がる空間」というものは我々の精神現象であって、「物自体」が実際そうであるとはいえない。 そのような可能性を含意したのが、科学によって記述される世界は「仮説」であるとする「仮説的実在論」である。また科学理論や法則とは、そのように約束すれば世界を正確に記述できるので導入されたものにすぎないとみなす[[規約主義>http://kotobank.jp/word/%E8%A6%8F%E7%B4%84%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]や、科学理論は観察可能な現象を予測するための形式的な道具であり、現象の背後にあって観察不可能な実在は知りえないとする[[道具主義>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%B7%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]も類似の立場である。道具主義の立場を取った代表的な人物が[[エルンスト・マッハ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%8F]]であり、彼の[[現象主義]]的な方法論はアインシュタインの相対性理論への道を開いた。 カントの物自体の「能力」を分析し解体していけば、やがて時間や延長さえ必要のないものになり、最終的には単に[[表象]]をもたらす能力にまで還元できる。そのことを見抜いたショーペンハウアーは物自体を「意志」と置き換え、ニーチェはそれを「力」と読み替える。物自体――実体は「流れる時間」や「広がる空間」の中には無いものかもしれないのだ。そのような可能性は、パルメニデスの絶対一元論が論理的に成り立ち得ることを示している。また同時に、デカルトが心身を異なる実体として分離したため生じた心の哲学の難問は、全て錯覚かもしれない可能性を示唆している。 **心の哲学におけるパルメニデスのアポリア #right(){(以下は管理者の見解)} 現代の心の哲学の核心部分においても、パルメニデスのアポリアは障壁として存在する。心の哲学の最大の焦点は現象的意識とクオリアの由来をどう説明するかだが、クオリアとはまさに「在るものが無いものになる」ものである。 先ほどまでなかった心的現象がいきなり生まれ、そして消えていく。 これを物理主義的な立場では「[[創発>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/108.html]]」という概念で説明しようとするが、心的現象はデカルトが二元論を主張せざるを得なかったように、空間を占める物質的なものと全く性質が異なる。物質的なものは生成消滅しているように見えても、実は他の元素や素粒子が組み合わさったり、分解されているだけであり、因果性(または[[充足理由律>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%85%E8%B6%B3%E7%90%86%E7%94%B1%E5%BE%8B]])は保たれている。しかし心的現象はそのような因果性が発見できないことが最大の問題なのである。物質が「脳」を構成したときはじめて心的現象が生じるというのは、因果的な説明が全くなされておらず、これは無から何かが生じていると考えるに等しいナンセンスである。創発という主張をたとえるならこういうことである。ある子供がバケツを見ると、そのバケツからカエルが飛び出したとする。バケツを見る度何十回と同じことが起これば、その子供は「カエルはバケツから生まれる」と主張するかもしれない。創発説は同じような因果性を無視した主張をしているのである。また[[ソール・クリプキ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%97%E3%82%AD]]は[[固定指示子]]の概念によって心的現象が物理的現象と相互排他的であることを主張している。 それに対して[[性質二元論]]の立場は「[[汎経験説>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/108.html]]」を主張し、「[[原意識>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/113.html]]」の組み合わせによってクオリアが生成されると考えるが、これは意識に対する原子論的な還元主義であり、創発説と同様に因果的な説明をしていない。原意識の組み合わせとは、例えていえば「赤」が37個集まれば「痛み」になるというようなものであり、これは単純にナンセンスである。 また汎経験説には[[自己]]についての独我論的問題が生じるだろう。たとえばトマス・ネーゲルは、単一の自我が数多くの自我から構成されることはありえないという主張をしている。この点は[[意識の境界問題]]とも関係してくる。 結局「変化は矛盾である」というパルメニデスのアポリアは、心の哲学の核心問題においても最大の障壁となっているのである。 しかし、もしパルメニデスとエレア派の一元論の立場を取るならば、クオリアの生成についての問題は解決するはずである。前述のようなカント哲学の観念論的解釈によって、時間と空間が実在しないと仮定すれば、デカルトが生んだ解決不能な心身の二元性の問題は最初から存在しなくなるのだ。 もっともエレア派の一元論は日常感覚からあまりに乖離しているので具体的にイメージできないという難点がある。この点、[[一元論の合理性>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/14.html#id_e9f8d93e]]として考究しているので、よろしければ参照されたし。 ---- ・参考文献 井上忠『パルメニデス』青土社 1996年 入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書 2002年 内山勝利『ここにも神々はいます』岩波書店 2008年 大森荘蔵『時間と存在』青土社 1994年 大森荘蔵『時は流れず』青土社 1996年 神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史1』講談社 2011年 神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史4』講談社 2012年 デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 白揚社 2001年 ジョン・R・サール『ディスカバー・マインド!』宮原勇 訳 筑摩書房 2008年 ・参考サイト WEBで読む西洋テツガク史 パルメニデス http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/vorsokratiker/parmenides.html 無からは何も生じない http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%82%E7%94%9F%E3%81%98%E3%81%AA%E3%81%84 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%BD%95%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B 充足理由律 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%85%E8%B6%B3%E7%90%86%E7%94%B1%E5%BE%8B 時空の哲学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6 形相 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E7%9B%B8 ----
#contents ---- **概説 パルメニデス( Parmenide-s 紀元前500年か紀元前475年-没年不明)はギリシアの哲学者で、[[エレア派>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A2%E6%B4%BE]]の祖。「ある」と「ない」の概念を考究し、西洋哲学において最初に[[一元論]]を主張した。形而上学の創始者といわれ、また感覚よりも理性による判断に重きを置いたため合理主義の祖であるともいわれる。アナクサゴラスの弟子クセノパネスに学んだとも、ピュタゴラス学派のアメイニアス(Ameinias)に師事したとも伝えられる。 「あるものはある」「ないものはない」という自明なことを論理的に限界まで考究したパルメニデスの哲学は、それまでの哲学の常識を逸脱した途方もないものであり、生成消滅、運動変化、多数性といった自然現象の根本原理を否定するものである。 プラトンによればソクラテスが青年時代(紀元前450年頃)にパルメニデスと会ったとき、彼はすでに老人であったという。ここからして、紀元前515年頃に生まれたのだろうと推測されている。名門の家柄であり、祖国エレアのために法律を制定したともいわれる。クセノパネスやエンペドクレスにならって、詩の形で哲学を説いている。その中でも叙事詩『自然について』が断片として現存する。 『自然について』は、第一部「真理の道(アレーテイア)」と、第二部「思惑(ドクサ)の道」に分かれている。「真理の道」では、「あるもの」の概念〈後述〉を考究している。「思惑の道」では、人間の感覚の前に現れるさまざまな現象を説明する原理であり、タレスなどイオニアの哲学者たちと似たような内容であった。 パルメニデスは、哲学を真理(アレーテイア)に関するものと、思惑(ドクサ)に関するものに分け、理性(ロゴス)が真理を探求する手段であり、感覚は人を惑わせるものだと考えた。しかし第一部と第二部とでは主張する内容に矛盾があると指摘する学者もいる。第一部での「あらぬものはあらぬ」という論理からすると、第二部はあらぬものについて説明しているとも考えられるからだ。 **思想とその影響 [[イオニア学派>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%AD%A6%E6%B4%BE]]の哲学者たちは万物の根源が何であるかを探究し、それぞれが「水である」「火である」「数である」というような答えを導き出した。その彼らに対し、そもそも「ある」、そして「ない」とは何かという問題を提起したのがパルメニデスであった。たとえば「水である」という場合の「水」のような主語となるものを想定せず、パルメニデスは「ある」、そして「ない」それら自体を思惟の対象とし、探究の道として二つだけを示す。 以下、井上忠『パルメニデス』青土社(1996)より引用。(原文より表記を簡潔にしてある) >一方の道は「ある」とし、「ない」ということはありえぬとする道である。 >他方の道は「ない」とし、断じて「ない」とすべきである、という道である。 >だがきみに指摘しておくが、この道は全くもって尋ね聞くべきすべもないけものみちなのである。 >なぜならきみは、無いものを織るわけにはゆかないし(なぜならそれは出来ないことだからである)、 >指摘するわけにもゆかないからである。(Fr.2.3,5-8) 「ない」があるとするのは「思い込み(ドクサ)」であり、言語表現上のみのことに過ぎない。この点についてパルメニデスは以下のようにいう。 >言葉で表現され、思われうるものは断じて「ある」とされるべきである。(Fr.6.1) この断片には、言語・思惟はそれ自体「ある」ものであり、すなわち「ない」という言葉も「ある」ものの一種である、という主張が含意されていると考えられる。つまり、ほんとうに「ない」ものは断じて「ない」のであるが、それは言葉では表現できないず、言語上の「ない」を、あたかも「ある」と対立して実在しているかのように考えるのが「想い込み」なのである。たとえば「死」とは、「ある」ものである自分が「ない」ものになることだと想い込んでいる者は多い。 >死すべきものどもの、さまざまな想いこみを、そこには真の証しなし。(Fr.1.30) このパルメニデスの言葉は、死の正体とは、「死ぬという想い込み」そのものに過ぎない、と解釈できる。 なお[[アンリ・ベルクソン]]は、著書『創造的進化』で「[[なぜ何もないのではなく、何かがあるのか>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%BD%95%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B]]」という、いわゆる「究極の問い」について、「絶対無」は擬似観念であるということを述べている。「絶対無」とは「全ての存在」の観念に「否定」の操作が加えられて作られたものであり、すなわち「ある」ものの一種にすぎない。人間知性は何かの不在によってしか無を理解できないのである。したがって「絶対無」や「究極の問い」は擬似観念であり、擬似問題であるというのがベルクソンの結論であり、これはパルメニデスの論理と近似している。 「ある(ギリシャ語の動詞 estin の現在形)」は「あった」や「あるだろう」と対比することができ、すなわち時間軸上に位置づけられる。しかし仮に、無からの生成を認めるとすると、なぜ「それ以前」に生じなかったのかという不合理が生じることになる。すなわち「ある」ものは「ある」という同一律による根本原則によって、それは「かつてなかったもの」になることはできない。 「ある」ものは「ない」ものから生じることはない。また変化とは「ある」ものが「ない」ものになることであり、これは論理的に不可能である〈後述〉。そして多数性とは、「ある」ものを分け隔てる空間や空虚、つまり「ない」ものがあることを想定するものである。しかし空間や空虚を認めた場合、それは後にパルメニデスの弟子であるゼノンが提起したように無限分割のアポリアが生じる。ゆえに「ない」ものはあることができない。(「ない」ものがあり得るかという問題は、現代では「[[形而上学的ニヒリズム>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%83%8B%E3%83%92%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0]]」として議論されている) このような論理からパルメニデスは生成と消滅、運動と変化、多数性と多様性を否定し、真に「ある」ものは時間と空間に規定されない唯一のものだとする「絶対[[一元論]]」を主張する。 >それはかつてあったのでも、いつかあるだろう、でもない。なぜなら「ある」は、いま、ここに一挙に、全体が、一つの、融合凝結体としてあるわけだからである。(Fr.8.5-6) 生成変化を否定し、全体が一つの存在としてあるとしたら、その存在内部にある人間は、その外部に立ってその存在を見たり感じたりすることはできないということになる。ただ論理的な正しさを理解できるだけであり、それゆえパルメニデスは自身の哲学を、存在外部の視点を有する真理の女神(アレーテイア)に語らせたと考えられる。 感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである。事物が別のものに変わるということ、たとえば青いつぼみが赤い花に変化する時などは、青いつぼみが「無いもの」になり、赤い花が「在るもの」になる。しかし「青いつぼみ」のどこを探しても「赤い花」は無い。すなわちゼロをいくら足しても乗じてもゼロであるゆえに、変化とは論理的に不可能だと主張することができる。また変化とは矛盾であるともいえる。もし丸いものと四角いものに同一性があるとするならば、どこかの時点で、これは丸いものでもあり、かつ別のものでもある、ということが許されていなければならない。しかしこれは矛盾律(Aは非Aではない)に反する。どれほど似ていようと、どれかの時点についていう限り、そのものは丸いか、そうでないかのどちらかしかない。つまりどの時点においても特定の一つの形しかもっていない。そして一つの形だけでは変化は存在しえない。さらに変化のない形をすべて集めても変化は生じない。変化とは、ある時点での特定の形と、別の時点での特定の形に、人が因果関係を見出すことによって生じる「概念」としての存在であり、変化そのものが[[実在]]しているとはいえない。 確かに感覚的には生成変化が観測されていることをパルメニデスは認める。しかし生成変化するものは矛盾しているがゆえに実在ではない。経験される生成変化は感覚が欺かれた結果なのである。このような論理から要請された、「真に存在するもの」が「[[実体]]」である。すなわちパルメニデスは感覚よりも理性に信を置いて、真に存在するものは不変だと考えた。このことから感覚より理性を信じる合理主義の祖であると考えられている。 パルメニデス以降の哲学者は「ある」もの、つまり「不滅の[[実体]]」という概念を継承し、生成変化する現象と不滅の実体とをどのように調和させるか腐心することになる。パルメニデスの実体概念を「無からは何も生じない」と、限定的に解釈して変化を認めたのがエンペドクレス、アナクサゴラス、また[[原子論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E8%AB%96]]を主張したレウキッボス、デモクリトス、そしてイデアや形相を想定したプラトンやアリストテレスなどである。彼らの主張は、絶対的な「ない」から「ある」に変化するというのでなく、見かけの変化の根底に不変の実体があるとするものである。これが今日まで議論が続くことになる[[実在論]]の源流である。 アナクサゴラスは、「あらゆるものの内にあらゆるものの部分がある」として、変化の矛盾を避けようとする。そして「生成」を「混合」と言い、「消滅」を「分離」と言い換えることで現象の生成消滅を説明する。またアナクサゴラスは科学的な実験で「空気」の存在を証明するにより「空虚」、つまりパルメニデスがいう「ない」ものの存在を否定している。これは「多」が空間に隙間なく存在して、全体としてはパルメニデスのいう「一」であることを保持しようとするものである。 プラトンは、まずパルメニデスが「ない」を定義する過程で、語れも考えもできないはずの「ない」について多くを語っていると矛盾を指摘する。また「一あり」とする言説は、「一」と「ある」という二つの語を用いることで、既に「ある」を単独で語ることに反していると考える。このような批判によってプラトンは変化を認め、しかし同時にパルメニデスの実体概念を継承することによって、イデア論を主張することになる。イデア論はパルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させようとした試みであるともいわれる。なおプラトンには『パルメニデス』という題名の対話篇があり、パルメニデスの影響の強さを伺わせる。 アリストテレスは、パルメニデスの「ある」を[[実体]]とし、その実体の述語となる属性としてのカテゴリーで生成変化を説明する。プラトンがイデアを事物から独立して存在する実体として考えたのに対し、アリストテレスは形相(エイドス)は質料(ヒュレー)に内在すると考えた(プラトンはイデアを意味するのにエイドスという言葉も使っていた)。イデアは個物から独立して離在するが、エイドスは個物において常に質料とセットになっている。エイドスが素材と結びついて現実化した個物が現実態(エネルゲイヤ)であり、現実態を生み出す潜在的な可能性が可能態(デュナミス)である。 紀元前二世紀頃の[[セクストス・エンペイリコス>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%82%B9]]が著した『ピュロン主義哲学の概要』には、以下のような記述があり、パルメニデスの哲学が古代懐疑主義に大きな影響を与えたことが伺える。 >なにかが変化するとすれば、それは存在するものが変化するか、存在しないものが変化するか、のどちらかである。ところが、存在しないものは存在せず、したがって変化を受け入れることがない。たほう存在するものが変化するとすれば、それは存在するものとはべつのもの、つまり存在しないものとなるだろう。したがって存在するものもまた変化することがない(『ピュロン主義哲学の概要』第三巻第一五章一〇四節)。 この『ピュロン主義哲学の概要』は1569年ラテン語に翻訳され、モンテーニュ、デカルト、ヒューム、カントらに影響を与えることになる。 また、相対主義者の[[プロタゴラス>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9]]は以下のように語っている。 >人間が万物の尺度である。すなわち、そうあるものどもについては、そうあるということの、そうあらぬものどもについては、そうあらぬということの(尺度である)。(断片1)(廣川洋『ソクラテス以前の哲学者』より引用) これは「ある」「ない」の基準は人間の判断に委ねられているとみなすものである。 不変の実体と運動変化する現象を調和させようとしたアナクサゴラスや原子論者、また[[ピタゴラス学派>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%95%99%E5%9B%A3]]に対して、パルメニデスの弟子である[[ゼノン>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3_%28%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A2%E6%B4%BE%29]]は「アキレウスと亀」をはじめとした数々の[[パラドクス>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9]]によって、変化と多数性が存在しないことを証明しようとした。 **「ある」の解釈 パルメニデスは存在について、「あるもの(eon)」と「ないもの」しか考えられず、そのうち「ないもの」については語ることさえ出来ず、ただ「あるもの」だけがあるという。しかし彼のいう「あるもの」については、さまざまな解釈がなされている。 以下のサイトから主要な三つの解釈を要約引用する >http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/vorsokratiker/parmenides.html パルメニデスの「ある」を英語に訳すとis(ギリシア語で「エスティン」)だが、英語でisが何の前触れもなく単独でisと出てきたら明らかに異様であり、このパルメニデスに独特の「ある」の使い方こそが、2500年以上経った今でも彼の学説に対する解釈が固定していないことの最大の原因と解説している。 (1)「丸い真なるもの」が「ある」と読む解釈 >パルメニデスの「ある」を、「特定の何か」が存在することを述べているのだと解釈す>るやり方。このように解釈する人の代表格はバーネット(Burnet)という人。 > >そうなると、当然問題となるのはその「特定の何か」とは何であるかということだが、>パルメニデスはその存在について以下のように述べる。 >(岩波書店『ソクラテス以前哲学者断片集』より。) >性質1…非時間性(5行目「あったこともなくあるだろうこともない。今あるのである」) >性質2…一性(6行目「一挙にすべて、一つのもの、つながり合うものとして」) >性質3…不生不滅(6-21行目「この範囲で行われている一連の議論を参照」) >性質4…不可分割(22行目「あるものは分かつことができない」) >性質5…均一性(22-23行目「(不可分割であることの根拠として)すべてが一様である」「ここにより多くあったり、より少なくあったりすることによって互いがつながりあうのを妨げられることなく」) >性質6…充足性(24行目「全体があるもので満ちている」) >性質7…不動性(26行目「大いなる縛めに限られて動くことなく」) >性質8…不変性(39-41行目「名目にすぎぬであろう……明るい色をとりかえることも」) (2)「あるもの」が「ある」と読む解釈 >「なぜならば思惟することとあることとは同じであるから(Fr.3)」 > >Owenはパルメニデスの上の言葉から、「ある」と人間が考えたり語ったりすることとを>結び付ける。つまり、何らかの対象に対する我々の思考や言明が、意味を持ち判断可能な>ものとして成り立つためには、そこに「ある」という「存在」の要素が不可欠であるから。 > >我々が普段何がしかのことについて語っているその全ての前提は、対象にせよ思考にせ>よ「ある」ものだといえる。 > >この「前提」という着想をOwenはラッセルの「記述の理論」から獲得して、それをパル>メニデスに読み込んだ。 > (3)結論を述べるときに用いる、何々で「ある」という使い方で読む解釈 >「ある」という言葉には、「何かが存在している」という意味の「ある」の他にも、あ>るものに対して「それが何かである」という使い方で用いられることもある。この「であ>る」というときに使われる用法は、「存在用法」に対して「述定用法」と呼ばれる。 > >パルメニデスの「ある」をこちらの「述定用法」として解釈したのはMourelatosである。 > **パルメニデスのアポリア #right(){(以下は管理者の見解)} パルメニデスの提起したアポリアは、「変化とは在るものが無いものになり、無いものが在るものになることで、これは矛盾している」というものである。このアポリアに明快な解を出した哲学者はいまだにいない。 パルメニデスの弟子であるゼノンは、パルメニデスの「唯一にして不変の実体」を証明するため、いくつかの[[パラドックス>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9]]を考案した。ただパラドックスとしてあまりに面白くできているため問題が矮小化されて考えられているケースも多い。ゼノンが示そうとしたのは、存在が「多」であるなら無限分割が可能であり、したがって「運動」が不可能なこと、かつ「変化」は矛盾しているということである。 パルメニデスのアポリアと不変の実体の概念は、既述したように西洋哲学の歴史に大きな影響を与えている。 アウグスティヌスは時間の実在性を否定し、時間は人の心(魂)の作用においてのみ見出せるとした。そして実在(神)は永遠であり、過ぎ去ることもなく、全体が同時に存在することを主張する。全体性・同時性・一挙性がアウグスティヌスの実体概念である。これもパルメニデスの実体概念を受け継ぎ、また「変化」の矛盾を避けようとする思想であると考えられる。 スピノザが神のみを実体として、生成消滅する物質世界と人間の精神を、唯一である神の属性として還元したのも同様の試みであると考えられる。これは汎神論的な一元論である。 デカルトは変化の矛盾に対し、神による「連続創造説」を主張した。どんなものも、それが持続するところの各瞬間において保存されるためには、そのものがまだ存在しなかった場合に新しく創造するに要したのとまったく同じだけの力とはたらきを要するとし、それゆえ神が世界を持続的に保存しているはたらきは、神が世界をはじめに創造したはたらきとまったく同じものであると考える。つまり存在の維持(変化)はその時々の創造にほかならない、とする。これはパルメニデスが提起した変化の矛盾を認めざるを得なかったゆえに、神というメタレベルの存在を措定することによってその矛盾を解消しようとしたと考えられる。 ヘーゲルはゼノンのパラドックスに対し、そこから帰結するのは、運動が存在しないということでなく、運動は定有する矛盾であるということだとしている。もちろんヘーゲルの場合は、独自の弁証法によってその矛盾が解消されることを展望していると考えられる。 近代ではマクタガートが時間の実在性を否定する主張を展開している。そのマクタガートに対し入不二基義が論駁を試みてるいるが、結局「変化」を認めるとどうしても矛盾が生じるので、「時間とは現実性の推移である」と曖昧な結論になっている。 現実性が「推移」するとは、「在る」ものであった現実性が「無い」ものになるということであり、パルメニデスが提起したアポリアの解消になってはいない。 [[大森荘蔵]]はゼノンのパラドックスを解いた者は未だにいないという。そして純粋持続を提唱したベルグソンに対し、時間を空間化することだといって捨ててしまうのは間違いであり、時間を一本の直線で表現できるというのは、時間が過去、現在、未来という順序をもっているからこそであるという。 そして大森は最晩年の著作『時は流れず』で、時間の実在性を否定する[[独今論]]の立場に接近する。 [[廣松渉]]は、「変化」とは本質的に矛盾した存在様態であるという。別々のものの状態をいくら並べても変化とはいわない。変化とは或る一定のものの変化であって、或る同じものが一貫して存在しなければ変化という概念がそもそも成立しない。しかし同じものがあり続けるのなら無変化である。したがって同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けること、こういう矛盾構造を変化というものは孕んでいると指摘し、変化というものは不思議であると述べる。 結局、パルメニデスが提起した変化の矛盾を論理的に否定できた者は歴史上いないよう思える。つまり時間(そして空間)の実在を証明できた者は皆無である。時間や空間は所詮、ヒュームやフィヒテがいうように感覚によって理解されるものなのだから、デカルトが見出したコギトのような、いくら疑ってもそれ以上は疑えないものとしての存在と、同じレベルの確かな存在とはいえないのである。 パルメニデスのアポリアに対し、過去の哲学者たちとは異なった見地から解答を見出したのは[[イマヌエル・カント]]だった。カントは[[デイヴィッド・ヒューム]]の徹底した懐疑主義的観念論を受け、時間と空間は直感に与えられた形式だと考えた。つまり時空とは人間が世界を理解するための「認識装置」なのである。カントは時間・空間(という形式)によって直感される一切のものはわれわれに経験される「現象」であって、それ自体存在するもの(物自体)ではないという。 現象としての世界を実在するものと見立て、無限大や無限小を想定することから[[アンチノミー>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%BE%8B%E8%83%8C%E5%8F%8D]]の難問に陥るとしたカントの認識論を拡張すれば、ジョン・ロックが物自体に属するとした一次性質――個性、延長、形状、運動、静止、数も、実は彼のいう二次性質、つまり我々の知覚の性質だということができる。短い、長い、広い、という抽象観念があり、人間はそこからさらに空間という抽象観念を導き出す。空間が実体としてあるのでなく、あるのは人間の個別の観念と概念だけかもしれない。時間についても同じことである。なお、カント哲学を引き継いだJ・G・フィヒテの観念論的形而上学では、「自我:非我」「自己:世界」の区別をするのは主観的意識である。我々がいる世界とは諸事物が時空間に連続している世界であるが、こうした世界は自我の経験から構成されてくるものであり、客観的世界とみなされているものは、実は主観によって知的に構成された世界であるとフィヒテはいう。 カントの認識論が示す重要なことは、時空という知覚の形式によって捉えられる対象が、物理主義=科学的実在論によって記述される状態として実在するいう主張を合理的に否定できるということである。これは[[現象主義]]によって[[素朴実在論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96]]を否定したヒューム哲学を同型である。とはいえ、カントの認識論は必ずしも自然科学と相克するものではない。自然科学が証明したのは時間と空間が数学的に精密に描写できるということであり、それ以上のものではない。時間の「流れ」や「過去」や「現在」があるという事実は、時間というものには数学的な秩序があるということを証明しているに過ぎない。また、空間が「広がり」をもち、東京とニューヨークが遠く「離れている」という事実も、空間というものには数学的な比例関係があるということを証明しているに過ぎない。カントのいう通り「流れる時間」や「広がる空間」というものは我々の精神現象であって、「物自体」が実際そうであるとはいえない。 そのような可能性を含意したのが、科学によって記述される世界は「仮説」であるとする「仮説的実在論」である。また科学理論や法則とは、そのように約束すれば世界を正確に記述できるので導入されたものにすぎないとみなす[[規約主義>http://kotobank.jp/word/%E8%A6%8F%E7%B4%84%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]や、科学理論は観察可能な現象を予測するための形式的な道具であり、現象の背後にあって観察不可能な実在は知りえないとする[[道具主義>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%B7%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]も類似の立場である。道具主義の立場を取った代表的な人物が[[エルンスト・マッハ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%8F]]であり、彼の[[現象主義]]的な方法論はアインシュタインの相対性理論への道を開いた。 カントの物自体の「能力」を分析し解体していけば、やがて時間や延長さえ必要のないものになり、最終的には単に[[表象]]をもたらす能力にまで還元できる。そのことを見抜いたショーペンハウアーは物自体を「意志」と置き換え、ニーチェはそれを「力」と読み替える。物自体――実体は「流れる時間」や「広がる空間」の中には無いものかもしれないのだ。そのような可能性は、パルメニデスの絶対一元論が論理的に成り立ち得ることを示している。また同時に、デカルトが心身を異なる実体として分離したため生じた心の哲学の難問は、全て錯覚かもしれない可能性を示唆している。 **心の哲学におけるパルメニデスのアポリア #right(){(以下は管理者の見解)} 現代の心の哲学の核心部分においても、パルメニデスのアポリアは障壁として存在する。心の哲学の最大の焦点は現象的意識とクオリアの由来をどう説明するかだが、クオリアとはまさに「在るものが無いものになる」ものである。 先ほどまでなかった心的現象がいきなり生まれ、そして消えていく。 これを物理主義的な立場では「[[創発>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/108.html]]」という概念で説明しようとするが、心的現象はデカルトが二元論を主張せざるを得なかったように、空間を占める物質的なものと全く性質が異なる。物質的なものは生成消滅しているように見えても、実は他の元素や素粒子が組み合わさったり、分解されているだけであり、因果性(または[[充足理由律>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%85%E8%B6%B3%E7%90%86%E7%94%B1%E5%BE%8B]])は保たれている。しかし心的現象はそのような因果性が発見できないことが最大の問題なのである。物質が「脳」を構成したときはじめて心的現象が生じるというのは、因果的な説明が全くなされておらず、これは無から何かが生じていると考えるに等しいナンセンスである。創発という主張をたとえるならこういうことである。ある子供がバケツを見ると、そのバケツからカエルが飛び出したとする。バケツを見る度何十回と同じことが起これば、その子供は「カエルはバケツから生まれる」と主張するかもしれない。創発説は同じような因果性を無視した主張をしているのである。 それに対して[[性質二元論]]の立場は「[[汎経験説>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/108.html]]」を主張し、「[[原意識>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/113.html]]」の組み合わせによってクオリアが生成されると考えるが、これは意識に対する原子論的な還元主義であり、創発説と同様に因果的な説明をしていない。原意識の組み合わせとは、例えていえば「赤」が37個集まれば「痛み」になるというようなものであり、これは単純にナンセンスである。 また汎経験説には[[自己]]についての独我論的問題が生じるだろう。たとえばトマス・ネーゲルは、単一の自我が数多くの自我から構成されることはありえないという主張をしている。自我の問題は[[意識超難問]]とも関係してくる。 結局「変化は矛盾である」というパルメニデスのアポリアは、心の哲学の核心問題においても最大の障壁となっているのである。 しかし、もしパルメニデスとエレア派の一元論の立場を取るならば、クオリアの生成についての問題は存在しないはずである。前述のようなカント哲学の観念論的解釈によって、時間と空間は実在しないと仮定すれば、デカルトが生んだ解決不能な心身の二元性の問題は最初から存在しなくなるのだ。 もっとも、エレア派の一元論は日常感覚からあまりに乖離しているので具体的にイメージできないという難点がある。この点、[[一元論の合理性>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/14.html#id_e9f8d93e]]として考究しているので、よろしければ参照されたし。 ---- ・参考文献 井上忠『パルメニデス』青土社 1996年 入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書 2002年 内山勝利『ここにも神々はいます』岩波書店 2008年 大森荘蔵『時間と存在』青土社 1994年 大森荘蔵『時は流れず』青土社 1996年 神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史1』講談社 2011年 神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史4』講談社 2012年 廣松渉『心身問題』青土社 1988年 デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 白揚社 2001年 ジョン・R・サール『ディスカバー・マインド!』宮原勇 訳 筑摩書房 2008年 ・参考サイト WEBで読む西洋テツガク史 パルメニデス http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/vorsokratiker/parmenides.html 無からは何も生じない http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%82%E7%94%9F%E3%81%98%E3%81%AA%E3%81%84 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%BD%95%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B 充足理由律 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%85%E8%B6%B3%E7%90%86%E7%94%B1%E5%BE%8B 時空の哲学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6 形相 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E7%9B%B8 ----

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