実在論

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#contents ---- *概説 実在論(Realism)とは、われわれが認識する知覚[[現象]]から独立して、現象を成り立たせている物質や普遍的概念([[イデア>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/61.html]])などが世界に[[実在]]しているという立場。 物質や外界が実在するという場合は、[[素朴実在論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96]]や[[科学的実在論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96]]になり、普遍が実在するという場合は観念実在論になる。実在論と対立する立場は[[現象主義]]である。 歴史的には紀元前の[[パルメニデス]]が、感覚で捉えられる現象世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることであり、これは矛盾であるとし、感覚を超越した[[実体]]概念を措定したことから始まる。パルメニデス以降の哲学者の多くはこの「不滅の[[実体]]」という概念を継承し、生成変化する[[現象]]と不滅の実体とをどのように調和させるか腐心することになる。彼らの主張は、絶対的な「無い」から「在る」に変化するというのでなく、見かけの変化の根底に不変の基体があるとするものであり、プラトンの場合それは[[イデア論]]として主張されて後の普遍論争の一方の立場になり、レウキッボスやデモクリトスの場合それは[[原子論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E8%AB%96]]として主張されて、これが近代・現代まで続く唯物論的な実在論の源流となる。 *実在論の種類 **観念実在論 中世哲学において、[[普遍論争>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E8%AB%96%E4%BA%89]]の一方の立場となった。この意味のときは実念論とも訳す。「人間」や「リンゴ」という普遍的概念が、それ自体で存在するという立場。個々の具体的なリンゴ、人間などとは別に、それ自体として実在するという。プラトンの[[イデア論]]がそうである。対立する立場は、個物を指示するための「名前」だけが実在するという『実名論(唯名論)』である。 **素朴実在論 [[素朴実在論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96]](Nai"ve realism , または common sense realism)とは、一般的に人間が生活する上で前提している立場で、この世界は自分の眼に見えたままに存在していると考える。[[ジェームズ・ギブソン>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%96%E3%82%BD%E3%83%B3]]が主張した「直接実在論(direct realism)」はほぼ同様の立場であり、人間は外界の在り方を直接的に知覚していると考える。この種の実在論は哲学的には未熟とされることが多く、[[デイヴィッド・ヒューム]]は『人性論』において、自分の片目を指で押したら知覚像がぼやけるが、素朴実在論ではそのぼやけた知覚像の対象が実在すると考えなくてはならない、と批判している。 **科学的実在論 [[科学的実在論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96]](Scientific realism)とは、科学哲学における立場のひとつで、科学理論によって記述されるものは、知覚経験が不可能な素粒子などであっても、われわれの知覚経験とは独立に実在していると考えるものである。 科学的実在論には、実在についての存在論的主張と認識論的主張がある。存在論的には、われわれの知覚とは独立して、世界には客観的存在や秩序があるとする。認識論的には、世界に存在するものやその秩序について、われわれは正しく知ることができるはずだとする。現代の科学哲学における実在論論争は、ほとんどがこの科学的実在論の存在論的主張と認識論的主張に関するものである。 科学的実在論は、科学理論が現象を十分に説明できていれば、知覚できない理論対象でもその実在を信じる理由があるとする。例えば原子が実在することを前提にした全ての理論は顕著な成功を収めている。それは原子の存在論的な実在を裏付ける証拠であるとされる。 科学的実在論は、20世紀に登場した最初の科学哲学である[[論理実証主義>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AE%9F%E8%A8%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]のさまざまな問題の解決策として登場し、その後の科学哲学を発展させてきた。 [[パトナム>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0]]やボイドといった初期の実在論者たちは、科学が現に成功しているのは科学理論が真だからだと考えなければ、科学の成功は一種の奇跡になってしまうという「奇跡論法」を主張した。それに対し、実在論に反対するラリー・ラウダンは、科学理論にはエーテルやフロギストンなど、後になって破棄された理論が多く、科学理論が必ずしも真とはいえないとする「悲観主義的帰納(pessimistic induction)」を主張した。 しかし悲観主義的帰納の例として挙げられるエーテルやフロギストンなどは、いずれも直接操作できないものであり、直接操作できるようになった原子や光子などについては、存在自体は否定されていない。つまり悲観的帰納法から導けるのは、操作・介入できないものの存在や本性についての理論は真とはいえないということであり、原子のように実体として措定した上で、直接操作介入できるものについては実在を認めてよいと考える立場が「実体実在論」または「対象実在論」である。 **形而上学的実在論と内在的実在論 [[ヒラリー・パトナム>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0]]は科学的実在論の代表的な論者であったが、1981年の著書『理性・真理・歴史・ 内在的実在論の展開』で一転、科学的実在論の批判者となる。パトナムは実在論を以下の二つに分ける。 (1)形而上学的実在論――世界は心から独立した固定的な物事から成っている。世界の在り方についての真で完全な記述がただひとつ存在する。その真理は、いわば「神の視点」から描かれている。 (2)内在的実在論――世界はいかなる対象から成るか、という問題は、理論や記述の内側でのみ意味を持つ。真理とは理論の合理的受容可能性であり、心から独立した[[実体]]との対応ではない。そして「神の視点」から描かれたものは不可知である。 パトナムが科学的実在論を拒否した理由のひとつは、彼自身による思考実験「[[水槽の脳]]」の懐疑論を反駁できないことである。神の視点を持たない限り、人は自分が水槽の脳でないことを証明できない。ただし彼は、内在的実在論が相対主義や経験主義と異なることを強調する。彼によれば内在的実在論は、真理とは言明と事実との対応ではなく、合理的受容可能性なのだが、その合理的受容可能性は客観的なものでなくてはならない。その点が私的な経験を基準にする相対主義や経験主義との違いであるという。 しかし内在的実在論の真理基準は私的ではないものの、その基準は科学者などの集団によって作られるものであるゆえに、後述の「社会構成主義」に近い認識論的含意を持つ。実際カーティス・ブラウンは、パトナムの内的実在論を一種の擬装された主観的観念論にすぎないと批判している。 なお1990年代以降、パトナムの思想はプラグマティズムに傾き、心身問題については「直接的実在論」を採用するようになった。 **反実在論 反実在論(anti-realism)とは[[マイケル・ダメット>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%A1%E3%83%83%E3%83%88]]が主張したもので、実在についての完全な認識はありえないとする立場である。ただし実在そのものを否定しているわけではないのが重要な点である。 ダメットは科学的実在論をめぐる議論において、われわれの認識する[[現象]]外部に独立してあるとされる「実在」と、われわれが現象に対して構築する「科学理論」という二分法を設定し、実在論は実在の独立性を前提にして現象についての科学理論は正当であるとするのに対し、反実在論は実在の独立性は認めるものの、それが科学理論によって認識論的には正当化できないとした。つまりダメットのいう反実在論とは、存在論的には実在論ということであり、科学的実在論とは認識論において相違があるということなのである。 ダメットは[[マクタガート>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88]]の時間論を研究し、時間のなかに存在するものは「今、ここ、私」というような、状況依存的(token reflexive)表現なしに観察対象の完全な描写をすることはできない、という結論を導き出している。たとえば、地球の全歴史が完全に描かれた([[ミンコフスキー空間>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E7%A9%BA%E9%96%93]]ような)ものを観察できる人物がいたとする。しかしその人物は、時間の流れや運動変化を観察できないはずである。全歴史を鳥瞰的に一望するとは静的なことだからであり、もし歴史の特定の時点の出来事に焦点を合わせて運動変化を観察したなら、それはその時点の観察者の立場に立つことになるからだ。しかし歴史内部にいるものたちは、それぞれが「現在」の動的な時間と変化を観察している。これが、時間の中にいるものは状況依存的表現なしに観察対象を描写することができないということである。つまり、たとえ地球の全歴史が描かれたものを見ても、歴史に生じた全てのことを見たことにはならないのだ。これは明白な矛盾である。 科学的実在論とは、実在について、観測者から独立した完全な描写が原理的にありうるとする立場だとダメットは考える。しかし時間については観測者の状況依存的表現なしに描写することはできないのだから、科学的実在論は間違いだということになる(ただしダメットはマクタガートと異なり、時間の実在性は肯定している)。 なおイーアン・ハッキングは、反実在論という用語を、「理論に関する反実在論」と「存在に関する反実在論」に分けている。前者は前述のダメットのような立場であり、後者は後述の非実在論の立場である。 *非実在論 非実在論(non-realism)とは、知覚から独立して存在するとされる[[実在]]を否定する、または不可知であるとする立場。[[現象主義]]や[[観念論]]はその極端な例であるが、現代の科学的実在論を巡る論争においても、経験主義的な哲学者は実在への言及を避けようとする傾向があり、この非実在論の立場に近い主張を行っている。 歴史的には[[ジョージ・バークリー]]の[[現象主義]]から実在論批判が始まる。われわれは客観的にあるとされる事物を感覚によってしか認識できない。言い換えるとわれわれが認識しているのは常に変化を続ける[[現象]]だけである。[[実体]]の存在は理論的に知りえないというのみでなく、実体概念自体が不要だと彼はみなした。夢や幻覚では外的な物体を知覚しているように思えるが、実際には感覚器官には何も与えられてはいない。従って、外的物体なるものを仮定したところで、そんなものは観念発生を説明するのに不必要なことは明らかであるという。 [[デイヴィッド・ヒューム]]はバークリーの現象主義をさらに推し進める。そして彼は因果関係や自我でさえその実在性を懐疑できるとした。自我なるものはそれ自体は決して経験できない。経験されるものは個別的な知覚と観念だけである。また因果関係なるものもそれ自体は決して経験できない。ある出来事と他の出来事の間にはいかなる結びつきも決して見出すことはできず、それらは連接しているように見えるが、結合しているようには決して見えないからだ。 ヒュームの懐疑主義の洗礼を受けた[[イマヌエル・カント]]の認識論によれば、自然科学が普遍的妥当性をもつのは、物理対象が人間に備わっている知覚の形式(時空)と思考の形式(カテゴリー)という、普遍的な原理に従ってのみ認識されるからだとした。これは知覚経験と科学法則が同質であるとみなすものでもあり、科学法則が知覚から独立して実在するという科学的実在論を否定する立場に近い。 19世紀、オーギュスト・コントは[[実証主義>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E8%A8%BC%E4%B8%BB%E7%BE%A9]]の立場を主張し、哲学や科学に大きな影響を与えることになった。コントはその実証主義の立場から、ニュートン力学における慣性の法則などの理論力学について、「観察事実(知覚経験)」と「理論法則」の厳密な一致を認めなかった。近代科学の理論法則とは、知覚経験から直接的に帰納的、実証主義的に引き出されるものではなく、理論仮説によって引き出されるものなのである。このコントの考えは後のエルンスト・マッハに影響を与え、マッハは経験主義と実証主義を透徹した[[現象主義]]の方法論によって、科学理論については道具主義という立場を取ることになる。 **規約主義と道具主義 規約主義(conventionalism)とは、哲学、数学、法学など、あらゆる原理原則は人間が便宜的に規約として定めた人為的なものであるとし、真理の客観性や絶対性を否定する立場である。アンリ・ポワンカレが主張した。約束説ともいう。 道具主義(instrumentalism)とは規約主義と類似の考えで、科学理論とは観察可能な[[現象]]を組織化・予測するための形式的な道具、または装置であると見なし、現象の背後にあるかもしれない[[実在]]は知りえないとする立場である。論理実証主義者のルドルフ・カルナップによって主張された。 道具主義や規約主義は科学的実在論に対し、人間が直接経験できない素粒子などは理論を介してのみ指示されるものであり、経験的意味を持たないので、実在と対応しているとはみなさず、ただ科学の体系を機能させるために必要な「道具」または「規約」とみなすものである。しかし素粒子などはそれ自体は経験的意味を持たなくても、人間が経験できる世界と体系的に連携している。つまり世界の物理的事象はホーリスティック(全体論)的な性格があり、したがって素粒子などを実在と措定することによって、人間が経験可能な世界の構造を精密に描写できるなら、素粒子などは認識論的には実在とすることの方が生産的であると考えられる。このような立場を明確に主張したのが[[プラグマティズム>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%A0]](実用主義)である。現在の物理学者の大半は意識的ではないにせよこの立場をとっており、形而上学的な主張を含意した規約主義や道具主義は顧みられなくなっている。 しかし現代物理学が立脚する実用主義的な実在論は、素粒子などの存在論的身分を棚上げすることによって成り立っていることに留意する必要がある。また現代の科学哲学において、科学的実在論に関する論争の大半は、人間が経験できる現象外部の世界に関する存在論的な問題ではなく、科学理論が正当化できるかという認識論的な問題が主題として議論されているのである。 **構成的経験論 構成的経験論、または構成主義的経験論とは、[[ファン・フラーセン>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3]]が科学的実在論を批判して主張する立場。科学の目標は経験的に十全な科学理論を構成することであり、理論が措定する観察不可能な[[実体]]が世界に実在するか否かという形而上学的判断は、理論に含まれていないとする。ひとつの理論の承認に信念として含まれるのは、それが経験的に十全だという信念だけである。ただし、ある科学理論が経験的に十全であるということは、その理論がこの世界における観察可能な事象について言うことが真ということを意味している。 フラーセンは経験主義者であり、彼の科学哲学は論理実証主義の改良番といえる。彼は実在論者とは違って、世界を存在する事物の総体とはみなさない。人は神の視点を持って事物の総体を理解することはできないし、生じうる全ての現象を実際に経験することもできないからである。したがって世界について語ることは、世界の「[[部分集合>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E5%88%86%E9%9B%86%E5%90%88]]」を問題にすることなのである。 **社会構成主義 社会構成主義(Social Constructivism)とは、科学的実在論なるものは科学者たちの社会的合意で作り出されたものであるとする立場で、規約主義や道具主義に近い考え方。 哲学における構成主義(Constructivism)とは、一般的に概念の実在性を否定する立場であり、[[実念論>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/91.html#id_81133a83]]と対立する。数理哲学においては、有限回の操作で構成できる数学的対象のみを認めるのが構成主義的立場であり、それに対立するのが、数学的対象が構成手続きとは独立に、普遍的に実在しているとする実念論的立場である。 [[バートランド・ラッセル]]は、一時期は懐疑的実在論(実在の認識は不可能と認めながら、実在を措定した方が現象変化の説明には合理的だとする立場)だったが、晩年には構成主義へ転向している。 ハリー・コリンズは著作『秩序を変える』において、因果関係というものは実在性がなく、社会制度や慣習によって成り立っているものにすぎないと主張している。これはヒュームの因果関係論と同型である。 **構造実在論 構造実在論(Structural Realism)とは、科学的実在論と非実在論を調停するような試みである。科学的実在論の論争において James Ladyman と Steven French は、われわれの認識する[[現象]]外部に独立してあるとされる「実在」と、われわれが現象に対して構築する「科学理論」とを峻別し、「実在」はわれわれにとって不可知であり、数学的に記述できる世界の構造としての科学理論のみが真であるという「存在的構造実在論(Ontic Structural Realism)」を主張した。彼らの主張の背景には量子力学の決定不全性がある。たとえば光子は「粒子」であると同時に「波」であるとされる。これは古典的な論理学における排中律に反しているよう思われる。しかし光子を実在とみなさず、光子を記述する科学理論のみが実在であるとすれば、論理学的にも問題はないというわけである。この立場は[[現象主義]]に近い。 なお存在論的には光子のような理論対象の実在を認めながらも、John Worrall は科学的実在論に反対し、理論対象の認識論的な正当化は行なえないとする「認識的構造実在論(Epistemic Structural Realism)」を主張した。これは実在論の一種である。 ---- ・参考文献・論文 金子洋之『ダメットにたどりつくまで』勁草書房 2006年 小林道夫『科学の世界と心の哲学』中公新書 2009年 戸田山和久『科学哲学の冒険』NHKブックス 2005年 神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史1』講談社 2011年 中山康雄『科学哲学』人文書院 2010年 三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』岩波新書 2005年 森田邦久『量子力学の哲学』講談社現代新書 2011年 マイケル・ダメット『真理という謎』藤田晋吾 訳 勁草書房 1986年 野内玲「[[存在的構造実在論の妥当性>http://ci.nii.ac.jp/naid/110008608555]]」科学基礎論研究Vol.37 2009年 伊勢田哲治「[[科学的実在論はどこへ向かうのか>http://tiseda.sakura.ne.jp/works/realism.html]]」Nagoya Journal of Philosophy vol. 4 2005年 ・参考サイト 科学的実在論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96 素朴実在論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96 道具主義 http://en.wikipedia.org/wiki/Instrumentalism 反実在論 http://en.wikipedia.org/wiki/Anti-realism バス・ファン・フラーセン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%83%B3 ヒラリー・パトナム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 ----
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