バートランド・ラッセル

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バートランド・ラッセル - (2013/02/20 (水) 16:18:49) の編集履歴(バックアップ)



概説

バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell,OM,FRS 1872年5月18日 - 1970年2月2日)はイギリス生まれの論理学者、数学者、哲学者。哲学者としては新ヘーゲル主義から経験論者に転向し、初期の論理実証主義に大きな影響を与える。思弁的形而上学を否定し、無神論者であった。

心の哲学におけるラッセルの見解

宇宙は根本的には「出来事(events)」からなっているというのがラッセルの見解である。ラッセルはアインシュタインらに代表される当時最新の物理学の影響を受けており、物理学的世界像の基礎を成すのは出来事であり、「物質(matter)」概念はそれから論理的に構成されたものであると考えた。

「心」の概念も同様に出来事から構成されたものである。つまり心と物質はともにその基盤にあるより根本的な出来事の一面だと考え、ラッセルは自分の説を著書『哲学概説』において中立一元論と呼んでいる。

出来事は持続し広がりをもっている時空的な事柄である。物理学的にいうなら、出来事は時空連続体の一部を占めている。そして出来事には心的と物理的の二つの記述の仕方があり、どちらか一方の仕方で描写される。物理的記述のものとでは、出来事は物理学の研究対象であり、心的記述のもとでは、出来事は心理学の研究対象である。

ラッセルの理論はスピノザと共通しているところがある。スピノザとの相違は、スピノザが神という唯一の実体を想定したのに対し、ラッセルは実体そのものの存在を否定したことである。心的なものも物理的なものも実体ではなく出来事に還元される。例えば最新の物理学では、物質は変化するエネルギー波自体の運動に他ならないとする。(言い換えれば物質とはエネルギーの一形態である)もしそれが事実であり、物質とは何かを説明するのに波動概念を使っているとすれば、波動とは何かを説明するのに物質の概念を使うのは循環論法である。したがってラッセルからすれば物質も波動も出来事ということになる。そして心についての概念は物質概念に対する批判と同じ論法で批判される。心の定義とされる特徴は、知覚、内観、記憶、知識などの概念であるが、ラッセルによれば、われわれが本当に直接知覚しているのは音、色、形、大きさであり、ラッセルはそれらを「感覚与件(sense data)」という。人間は感覚与件を対象に帰属させている。ただし感覚与件じたいが心的ではなく、それらを内観する(ラッセルは知識反応と呼ぶ)という出来事が心的だと結論する。

ラッセルは感覚与件を物理学と心理学との合流点だと言う。感覚与件は本来心的でも物理的でもない。それは他の出来事との関係に依存して心的になったり物理的になったりするのだ。

出来事は存在する。だが出来事は何かに生じるのでは無い。ものごとは生起し、出来事は存在するが、それはいかなる種類の実体から作られるものではない――これがラッセルの見解である。

ラッセルは、脳内の出来事を物体の運動とみなすべきではないと言う。脳は出来事によって理解すべきであり、そして出来事が心的なのか物理的なのかは問題にすべきではない。出来事はその因果関係に依存して、心的かつ物理的になることもあれば、そのいずれかになることもあると言う。ここでのラッセルの見解には知覚が脳の一部だという主張が含まれているのに留意すべきである。このようなラッセルの中立一元論を、S・プリーストは、神学を物理学に置き換えたスピノザ主義だと言っても、それほど見当違いではない、と評している。

ラッセルの中立一元論は主観と客観の対立図式を乗り越えようとする試みでもある。ラッセルは客観化できないといわれる「内観(introspection)」の私秘性を著書『心の分析』で以下のように批判する。
1、感覚に関していうと、私的と公共的の区別は程度の問題であって、種類の問題ではない。
2、心の内部と外部世界の区別は確定したものではない。
3、内観は誤りえない、という見解は疑わしい。
4、私的であることは、科学の対象と矛盾しない。それゆえ内面的心を科学の対象から外す行動主義は間違っている。
ラッセルは内観を全く否定するわけではないが、それのみを道具として心的現象にアプローチする方法は否定するということである。

ラッセルは物理学と心理学双方を含んだ基礎的な科学を想定し、それを「真の形而上学」と呼んでいた。そして真の形而上学においては、心の哲学において多数の困難を引き起こしていた誤った唯物論が否定されると考えた。

物と心の二元性を解体して中性なものを想定し、真の形而上学を構想したラッセルの哲学は現代のデイヴィッド・チャーマーズにも影響を与え、チャーマーズはラッセルのいう「出来事」を「情報」と置き換え、情報の二相理論という独自の形而上学を構想している。

自我について

ラッセルは初期には感覚与件論を主張し、感覚与件と、それを意識的に対象化した知覚を区分していた。たとえば色を見るとき、与えられた色そのものは感覚与件であり、感覚そのものではない。感覚与件を対象化する意識作用があってこそ、感覚になるのである(これはブレンターノやフッサールと同じ立場である)。しかしラッセルは後年考えを改め、デイヴィッド・ヒュームと同型の無主体論を主張する。
意識の作用(act)は不必要なものであり虚構のものである。思考内容の「出来事」が思考の出来事そのものである。作用に対応するものを私は経験的に見出すことが出来ない。また一方、それが論理的に必要だという理由も見出せない。
act は主観の幽霊である。
it rains here というように it thinks in me と言うほうがいい。(Russell 1921 )

独我論についての見解

ラッセルはルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を批判的に検証し、瞬時における自我だけが存在するとする「瞬間の独我論(刹那的独我論)」の可能性は否定できないとして、以下のように述べている。
テーブルを見つめて茶色が見えているまさにその時、きわめて確実であるのは、「私が茶色を見ている」ではなく「茶色が見られている」である。もちろんこれは、茶色を見ている何か(あるいは誰か)を含んでいる。しかし「私」と呼ばれている、多少なりとも存在し続けている人物を含んでいるわけではない。直接の [経験が持っている] 確実性が示す限りでは、茶色を見ているものがきわめて刹那的で、次の瞬間に別の経験をする何かと同一ではない可能性が残る。(『哲学入門』p.25)


  • 参考文献
大森荘蔵『言語・知覚・世界』岩波書店 1971年
河村次郎『自我と生命』萌書房 2007年
S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 1999年
バートランド・ラッセル『哲学入門』高村夏輝 訳 筑摩書房 2005年