動物の心

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動物の心 - (2011/04/06 (水) 22:07:01) の編集履歴(バックアップ)



(以下は管理者の見解)

動物にも何がしか「心」のようなものがあるというのは大半の動物学者が認めていることである。根拠のひとつは因果的な振る舞いが人間と似ているということである。動物には自分の心の状態を報告する人間的な言語を持たないが、猫でも石が当たって怪我をすれば人間のように痛みを感じているような振る舞いをする。もうひとつの根拠は身体構造が人間と似ているということである。哺乳類の場合は人間と似た構造の脳――意識活動に十分な神経構造、そして感覚器官を持っているからだ。特に霊長類の場合は人間と極似している。それらから類推論法で動物にも心のようなものがあると考えるのはたやすい。

成長したチンパンジーの知能は明らかに人間の1歳児を上回っており、人間の1歳児に心があると認めるならチンパンジーに心がないと考えることの方が難しいだろう。

しかし動物にも心があると仮定した場合、二つの大きな問題が生じてくる。

ひとつはトマス・ネーゲルが『コウモリであるとはどのようなことか』で提起した問題である。コウモリは口から超音波を発し、その反響音を元に周囲の状態を把握しているが、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違った風に感じるのか、という問題である。クオリアは主観的な現象であるため、人間はその答えを知る術は持ってはいない。

もうひとつは自我についての問題である。動物といっても霊長類のように神経構造が複雑な種なら心があることを類推することは難しくない。猫やウサギもおそらくは心があるだろうと受け取れる行動を示し、またそのような神経構造をもっている。しかし、もっと単純な神経構造しかない種ならどうだろう。たとえばカタツムリやアリなら。さらにいえば微生物や細菌などはどうだろう。

地球上の生物の種の数は約175万種といわれ、まだ知られていない生物も含めた地球上の種の総数は500万を超えるという説もある。ここで重要なのは、神経構造が複雑な種から比較的単純な種まで夥しい種類の種がいるが、神経構造、または身体の構造の複雑さの順に並べてみれば、霊長類を頂点として最下位の単細胞生物までなだらかに並んでおり、ある段階で構造に決定的断絶があるよう見えないということなのだ。このことから、精神や感覚といった心的現象は、単純な種には存在せず、ある種の段階から突然に生まれるという可能性と、あるいは単純な種にも何らかの僅かな感覚があり、複雑な種にはより複雑な感覚および精神現象があるという可能性の、二つの可能性が浮上する。

もし後者の立場を選択すると「自我」の概念は深刻な問題に直面する。例えば独我論は、全ては「私」に現れる現象であると考える。永井均は、「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と述べ、またなぜ永井均が〈私〉であり、徳川家康や犬のポチが〈私〉ではなかったのかという問題を主張して、彼独自の独我論を展開する。ここで問題となるのは、独我論者たちはいずれも自我の存在を前提にしていることである。永井均も〈私〉の入れ替わり可能性を犬までに限定している。これはミミズやバッタでは〈私〉と呼べるような自我を想定し得ないため無意識に避けたのだと思われる。

もちろん、まっとうな哲学者であれば、動物の心についてはわからないとする懐疑論的立場を取るだろう。独我論者なら「他人」と同様に動物の心の存在もわからないとするだろう。しかしこの場合重要なのは、上に述べた二つの可能性が「想定し得る」ということなのである。もし仮にネコやネズミに感覚を認める立場なら、ミミズやバッタにも感覚を認めるしかない。しかし自我という高等なものをミミズやバッタ、さらに単細胞生物に認めるのは難しいだろう。このことから自我なるものが、メタレベルにあって認識を成り立たせている存在・原理ではなく、高等な神経活動によって抽出された抽象概念に過ぎない可能性が浮上してくる。

デイヴィッド・ヒュームジョージ・バークリーを批判して、自我の存在を否定した。「自分」といわれる存在の中を見回しても、あるのは「感覚の束」だけだというのがヒュームの考えである。カタツムリやミミズにも何らかの感覚があると認めたとしても、自我も備えていると考えることは神経構造の単純さから難しい。ならば、人間のような複雑な種が備えている自我なるものは何か? 進化の過程で突然生まれたと考えることはできるが、それは進化の過程で突然神様から「魂」をもらったと考えるのに等しいのではないか。

バークリーは抽象概念の存在を否定していた。抽象観念ともいう。抽象観念とは、具体的な観念、机やパソコンから抽出された机一般の観念やパソコン一般の観念である。自我の概念も、個別の感覚や観念から抽出された抽象概念にすぎないのかもしれないのだ。その可能性こそが、ヒュームが自我の存在を否定した理由なのである。
  • なお、形而上学的無主体論においても自我の非実在性を考究しているので、参照されたし。
  • 参考までに、デカルトは動物には心が無いと考えた。それには動物が思考や感情を表現する言語を持たないことが証拠のひとつにされた。動物も怪我をすれば痛そうに鳴くこともあるが、デカルトからすれば、そこから心を類推するのは錯覚である。彼にとって意識を持つのは身体と魂が結びついた人間だけだ。なおこの場合、人間の身体に意識があるわけではないことが含意されていることが重要である。猫などの動物は魂と結びつかない身体しか無いから痛みも心も無いのである。