物理主義

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物理主義 - (2011/03/08 (火) 23:06:44) の編集履歴(バックアップ)



概説

物理主義(英:Physicalism)または唯物論とは、この世界の全ての物事は物理的であり、世界の全ての物事は物理的である、または物理的なものに付随する、とする哲学上の立場である。心の哲学においては物理的なものだけが実在するとし、心的な現象は実在ではないと考える。一元論の一種。

「物理的」という言葉の定義は、時空間的であり運動できるもの、とされている。

物理主義の極端な形が「機械論的唯物論(mechanical materialism)」であり、人間の精神をも物質に還元し、全て力学的な法則によって説明しようとする。無神論でもある。ホッブスに始まり、ラ・メトリー、エルヴェシウス、ドルバック、ディドロ等フランスの唯物論者がこの機械論に基づく唯物論を徹底する。

一般に行動主義、同一説、機能主義などは物理主義の一種とされる。心の哲学においては二元論一般、そして観念論や唯心論と対立する文脈で語られる。

現代の物理主義者は心を体と別の何かとして分けて扱うかどうかという点に応じて、還元的な物理主義(Reductive physicalism)と非還元的な物理主義(Non-reductive physicalism)に分かれる。還元的な物理主義では、心的な状態も結局は神経生物学的に、自然科学の言葉によって全て説明されると考える。これに対し非還元的な物理主義は、心に対応するものは脳だけしかないが、それでも心的な出来事に関しては、物理科学の言葉による説明へ置き換えることも還元することも出来ないと考える。

(以下は『ロボットの心・7つの哲学物語』より引用)
人間の精神を素粒子群の運動や配置に還元するのが素朴な物理主義(folk physicalism)である。また思考実験として、同時に複数の「自分を」作れば、彼らは皆自分とみなすのが物理主義である。逆に、私とは私の「心」であるとするのが素朴なメンタリズムである。

歴史

(以下はS・プリースト『心と身体の哲学』とWikipdeiaから要約引用し加筆修正)
  • 西欧の歴史では紀元前四世紀のデモクリトスが原子論を主張している。彼は、存在する全てのものは知覚できないほど小さな原子から構成されていると考えた。原子という語は、語源的には「分けることができない」を意味する。原子はデモクリトスが「空虚」と呼ぶ純粋に何も無い空間の中に位置している。その空虚の中で無数に在る全ての原子は運動しているという。
  • エピクロスはデモクリトスの原子論を発展させ、しばしば原子と原子のあいだに衝突が生じ、この宇宙はそのような衝突を起源として生まれたという。また原子間の衝突により、人間の行為には予測不可能な非決定性が生じ、それが人間の自由意志の根拠とされた。また彼は神の存在を信じ、神は物質的な原子から構成されていると考えた。
  • 十七世紀英国のトマス・ホッブスは、心的なものの実在性を否定しただけでなく、人間の思考や感覚そのものが物理的だと主張した。ホッブスにとっては神も魂も物理的な存在なのである。ただそれを構成する粒子が小さすぎて人間に知覚出来ないだけなのである。
  • 十八世紀フランスの思想家、ラ・メトリは『人間機械論』において、人間の思考と行動を純粋に機械論的に説明しようとした。彼によれば思考や感覚は、物質の複雑な運動以外の何ものでもない。
  • フランス啓蒙時代の最も極端な唯物論者であるドルバックは、宇宙は物理対象からなる巨大な決定論システムであり、それ以外のものは存在しないと主張した。
  • 十九世紀のカール・マルクスは、ヘーゲルの観念論における精神と物質の優先順位を逆転しようとした。マルクスの考えは「弁証法的唯物論」また「史的唯物論」と呼ばれる。彼によれば社会の諸特徴は、社会においての物理的諸事実、とりわけ経済的諸事実によって決定されており、ある社会においていかなる法律、宗教、思考パターンが生まれるかは、その社会が経済的にどのように組織されているかによって決定される。すなわち、心的なものは物理的なものによって決定されるという見解である。マルクスは存在論について多くを述べなかったが、『経済哲学草稿』において、「自然主義(naturalizum)は観念論と唯物論の矛盾を解消する」と述べている。
  • 現代における著名な唯物論者としては、心脳同一説を主張するJ・J・C・スマート、デイヴィッド・アームストロング、U・T・プレイス、ドナルド・デイヴィッドソン、非同一説を主張するテッド・ホンダリッチなどがいる。

自然主義と物理主義

(以下はWikipediaより要約引用)
心や世界の説明に、神や霊魂といった超自然的なものの導入が不要だと考える立場なのであれば、その立場を物理主義と呼ぶのは適切ではない。そうした考え方は現代の心の哲学の文脈を考えると自然主義(Naturalism)と表現するのが適切である。なぜなら21世紀初頭の現在、物理主義の最も基本的な対立相手はもっぱら二元論なのだが、現代の二元論(性質二元論または中立一元論と呼ばれる)は、その対立相手である物理主義と同様、自然主義の立場を取っているからである。 つまり現在の心の哲学の文脈においては、物理主義は言葉に唯物論の意味しか持っていない。物理主義といいう名称が使われるようになったのは、主に便宜的な理由からだが(物理学の中に物質 material と呼びがたい対象が増えてきたため、そしてマルクス主義との混同を避けるため)、こうした名称の変更は20世紀半ばの心の哲学の世界の対立図式のなかでは特に問題とならなかった。なぜなら20世紀半ばの心の哲学の主要な争点が「心」であり、その点に関して物理主義が実体二元論と対立していたからである。

しかし20世紀末ごろからは状況が少し複雑になる。心の哲学の分野の主要な争点が、「心」から「意識」に移り、この点に関して、コリン・マッギンの新神秘主義やデイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論など、世界の全てが法則に従う自然的なものであると主張しながら物理主義を攻撃するタイプの二元論が現われてきたからである。つまり世界の全てが法則に従う自然的なものであるという点で物理主義と軌を一つにしながら、現在の物理学の枠内では現象的意識クオリアの問題は扱えないという形で、物理主義と対立する二元論が現われてきたのである。こうした対立図式の中では、旧来物理主義と呼ばれてきた立場は単に唯物論の意味しか持たない。そのため日本語圏の訳書ではphysicalismの立場が物的一元論と表現されることもあるし、ガレン・ストローソンのように現代の物理主義は物理主義というより物理学主義(physicSalism)と呼んだほうが適切だ、と主張する例も見られる。

こうした現代の用法の上での物理主義者であるかを判定する目安は、意識の主観的・質的側面(クオリア)について、消去または現在の物理学の中への還元が可能だと考えるかどうか、である。

物理主義の問題

物理主義の主張は心は物質世界または物理世界の一部だ、というものである。こうした立場は、物質が持たないとされる性質を心が持っているという問題に直面する。それゆえ物理主義はこうした性質がどうやって物質的なものから生じるのかを説明しなければならない。こうした説明を与える行為は心の自然化(naturalization of the mental)と言われる。 心の自然化が直面する主要な問題は、クオリアを説明すること、そして志向性を説明することである。