哲学的ゾンビ

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哲学的ゾンビ - (2009/09/21 (月) 17:21:02) の編集履歴(バックアップ)



全般

哲学的ゾンビ(てつがくてきゾンビ、Philosophical Zombie) または単にゾンビとは、心の哲学で使われる言葉である。とりわけデイヴィッド・チャーマーズによって論じられた。

外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、内面的な経験(現象的意識、クオリア)を全く持っていない人間と定義される。

ホラー映画に出てくるゾンビと区別するために、現象ゾンビとも呼ばれる。おもに性質二元論(または中立一元論)の立場から物理主義(または唯物論)の立場を攻撃する際に用いられる。ゾンビの概念を用いて物理主義を批判するこの論証のことをゾンビ論法(Zombie Argument)、または想像可能性論法(Conceivability Argument)と呼ぶ。

2つの哲学的ゾンビ

議論の混乱を防ぐために、次のような2つの区分がある。

  • 行動的ゾンビ(Behavioral Zombie) 外面の行動だけ見ていては、普通の人間と区別できないゾンビ。解剖すれば人間との違いが分かる可能性がある、という含みを持つ。例として、SF映画に出てくる精巧なアンドロイドは、「機械は内面的な経験など持っていない」という前提で考えれば、行動的ゾンビに当たる。
  • 神経的ゾンビ(Neurological Zombie) 脳の神経細胞の状態まで含む、すべての観測可能な物理的状態に関して、普通の人間と区別する事が出来ないゾンビ。普通、哲学的ゾンビと言うと、こちらのことを指す。

哲学的ゾンビはどのように見えるか

哲学的ゾンビが仮に存在するとして、それはどのように見えるだろうか?
その定義から、普通の人間と全く区別がつかないとされる。哲学的ゾンビとどれだけ長年付き添っても、普通の人間と区別することは誰にも出来ない。特に神経的ゾンビの場合には、頭を解剖しても普通の人間と区別できない。哲学的ゾンビは外から見る限りでは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビには行動に伴う感覚が全くなく、クオリアという内面的経験を全く持たない。これが哲学的ゾンビである。

哲学的ゾンビが実際にいる、と信じている人は哲学者の中にもほとんどおらず「哲学的ゾンビは存在可能なのか」「なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか」などが心の哲学の他の諸問題と絡めて議論される。

意識の定義

ゾンビ問題を理解するためには、「意識」という言葉がいくつもの意味で使われる多義語であることに注意する必要がある。 ここではチャーマーズによって導入された、意識という語の持つ二つの大きな意味、機能的意識と現象的意識の違いをまず紹介する。

【機能的意識】
機能的意識とは、『人間が外部の状況に対して反応する能力』のことである。脳を物体として捉える観点から言えば、入力信号に対して出力信号を返す脳の特性としての意識である。これは機能的意識または心理学的意識と言われ、外面的に観測することができる客観的な特性である。

【現象的意識】
これに対し現象的意識とは、『主観的で個人的な体験』のことである。ある一人の人間だけが体験し、外部からは観測できない主観的な特性としての意識である。これは意識体験、現象、クオリアなどとも呼ばれるが、機能的意識と対比させるときは現象的意識という名前で呼ばれる。
ここで紹介した機能的意識、現象的意識という言葉を用いると、哲学的ゾンビをより厳密に再定義できる。すなわち

「哲学的ゾンビとは、意識の機能的な側面に関しては普通の人間と全く同じだが、一切の現象的意識を欠いた存在、のこと。」

ゾンビ論法

ゾンビ論法(zombi argument)または想像可能性論法(Conceivability Argument)とは物理主義を批判する以下の形式の論証を指す。

1、我々の世界には意識体験(現象的意識、クオリア、主観的経験)がある。
2、物理的には我々の世界と同一でありながら、我々の世界の意識に関する肯定的な事実が成り立たない、論理的に可能な世界が存在する。
※ゾンビ論法の核心はこの部分にある。チャーマーズは付随性の概念を「論理的付随性」と「自然的付随性」の二つに分け、意識体験は物理特性に自然的に付随しているが、論理的に付随しているわけではない、とする。それを踏まえた上で、意識体験を全く欠いた世界が想像可能であることを主張する。この哲学的ゾンビだけがいる意識体験を全く欠いた世界のことを、ゾンビワールドと言う(これは可能世界の一種である)。
3、したがって意識に関する事実は、物理的事実とはまた別の、われわれの世界に関する更なる事実である。 (ゾンビワールドに欠けているが、私達の現実世界には備わっているある事実がある。そしてそれは物理的事実には含まれていない、それは物理的事実だけからは出てこない、という点を強調する。)
4、ゆえに唯物論(物理主義)は偽である。

ゾンビ論法的思考実験の歴史

ゾンビ論法と類似したタイプの議論、つまり「意識体験」と「物質の形や動き」との間に合理的なつながりが見出せない、というタイプの議論は、歴史上様々な形で論じられている。歴史を下るにつれて議論は洗練されていく。

1、ライプニッツによる風車小屋の思考実験
思考できる機械があるとして、その機械を風車ほどまで大きくしたとする。このとき、そのなかに入って周りを見渡したら、いったい何が見えるだろうか。ライプニッツはそこを考えた。17世紀のドイツの哲学者ライプニッツが著書『モナドロジー』の中で、風車小屋(windmill)を引き合いに出して行った次のような論証がある。
  • ものを考えたり、感じたり、知覚したりできる仕掛けの機械があるとする。その機械全体をおなじ割合で拡大し、風車小屋のなかにでもはいるように、そのなかにはいってみたとする。だがその場合、機械の内部を探って、目に映るものといえば、部分部分がたがいに動かしあっている姿だけで、表象について説明するにたりるものは、けっして発見できはしない。『モナドロジー』
ここで使われている言葉は少々歴史じみているが、表象という言葉が、おおよそ意識という言葉と対応する。この風車の議論から、ライプニッツは、モナド(ライプニッツが存在すると仮定した、それ以上分割することができない、この世界の最小構成要素)の内的な性質、として表象を位置づけていく。

2、ラッセルによる世界の因果骨格の議論
20世紀前半、哲学者バートランド・ラッセルが『物質の分析(Analysis of Matter)』(1927年)を中心に様々な著作の中で展開した議論の中にも、同種の議論が見られる。ラッセルは物理学はどのようなものか、ということの分析を行う中で、物理学は対象と対象の間にどのような関係があるかを扱うが、そうした関係をもつ当の対象の内在的性質が扱えない、とし、物理学が行う世界の記述を外形的なもの、「世界の因果骨格(Causal Skelton of the World)」を扱ったものだとした。
  • 物理学は数学的である。しかしそれは私達が物理的な世界について非常によく知っているためではなく、むしろほんの少ししか知らないためである - 私達が発見しうるのは世界の持つ数学的な性質のみである。物理的世界は、その時空間な構造のある抽象的な特徴と関わってのみ知られうる - そうした特長は、心の世界に関して、その内在的な特徴に関して何か違いがあるのか、またはないのか、を示すのに十分ではない。
  • 私達が直接に経験する心的事象である場合を除いて、物理的な事象の内在的な性質について、私達は何も知らない。

3、クリプキによる世界創造の議論
20世紀中盤、哲学者ソール・クリプキが行った、神様の世界創造を喩えに用いた論証がある。この論証はクリプキの講義録『名指しと必然性』の最終章に収録されているもので、これはしばしば様相論法(modal argument)と呼ばれる。以下のようなものである。
  • 神様が世界を作ったとする。神様は、この世界にどういう種類の粒子が存在し、かつそれらが互いにどう相互作用するか、そうした事をすべて定め終わったとする。さて、これで神様の仕事は終わりだろうか?いや、そうではない。神様にはまだやるべき仕事が残されている。神様はある状態にある感覚が伴うよう定める仕事をしなければならない。

批判

1、物理主義の立場から寄せられるゾンビ論法への批判は、現時点の私たちにゾンビは一見論理的に可能(logicaly possible)に思えることは認めつつ-これはしばしばゾンビ直感(zombie hunch)と呼ばれる-、そうした直感は主に現在の私たちの神経系への無知、に起因する、という形で行われる。つまり神経系への理解がまだ中途半端な段階にあるから現象体験を完全に欠いた人間の機能的同型物などというものを想像できるのであり、もし神経科学の知識が深まっていけば、そうした存在は論理的に不可能であると理解できるだろう、と。これはア・ポステリオリな必然性からの議論と呼ばれる。

2、独我論者によれば、「われわれはなぜ哲学的ゾンビでないのか?」という問いは、「他者もまた意識を持っている」という信念ないしは推定を前提とした問いであり、外部からは観測できない内面を有するのは自分だけであって、自分を除くあらゆる他人が内面そのものを有しない神経的ゾンビである可能性を考慮していないと批判される。