現象判断のパラドックス

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現象判断のパラドックス - (2011/08/26 (金) 23:29:13) の編集履歴(バックアップ)



概説

現象判断のパラドックス(英:Paradox of phenomenal judgement)とは、心の哲学において議論されるパラドックス。現象報告のパラドックスとも呼ばれる。「現象」とは意識の主観的側面である現象的意識クオリアのことである。意識のハードプロブレムについて議論する文脈で登場するパラドックスであり、
意識が物理状態に対して何の影響も及ぼさないなら、なぜ私達は意識やクオリアについて判断でき、また語れているのか?
という問題である。これは主に物理主義的な一元論の立場から、二元論における随伴現象説の立場を批判するのに使用される。

随伴現象説では、クオリアなどは物理的存在である脳の作用に随伴して生じるとされる。そうやって生じたクオリアは物理的存在である脳に何の作用も及ぼさない。このことからパラドックスが生じている。物理的存在としての脳細胞に意識やクオリアの情報が現実にあるわけであるが、クオリアからこういう情報は脳にインプットされるはずがない。こういう情報は脳細胞はいったいどこから仕入れてきたのか?

現象意識やクオリアと呼ばれる意識の主観的側面を物理状態と分けて考え(つまり二元論的な立場をとり)、かつ物理的なものが因果的に閉じている(物理領域の因果的閉包性)と仮定すると、現象意識やクオリアについてなされる判断や報告には現象意識やクオリアが因果的に全く関わっていないという事になる。クオリアの問題に関する物理主義的立場に対して、直感的に最も疑わしさを与える論証が哲学的ゾンビまたは逆転クオリアといった想像可能性にもとづいた議論であるのに対し、二元論的立場を最も疑わしくさせる論証は、因果と関わるこの現象判断のパラドックスの議論である。この二つの問題(哲学的ゾンビおよび逆転クオリアの問題と、現象判断に関する問題)は、一般に互いに対になって語られる。

クオリアについての判断や発言は、私たちの物理的同型体である哲学的ゾンビにおいてもまったく同様に行われる。
  • 普通の人間「この赤さこそ問題だ」
  • 哲学的ゾンビ「そうだ。この赤さこそ問題だ」
現象判断が意識とは無関係な理由で生じるとしたら、クオリアについて私たちが行う判断や発言には、一体どういう意味があるのか?

チャーマーズは例えば「赤」という心的体験をした時の現象判断を、以下のように三つに分けて考えている。
一次判断 = それは赤い。
二次判断 = 私は今、赤いという感じがしている。
三次判断 = 感じというのは不思議だ。
一次の現象判断で意識が関わらないというのは問題ではないが、二次、三次の判断に関わらないのはパラドックスであるとチャーマーズは考える。われわれが主観的に体験した意識やクオリアを「指示」できるという事実と矛盾するからだ。

パラドックスに対する回答

1、ゆえにクオリアに対して二元論を取ることはできない

主に物理主義(物的一元論)と呼ばれる立場からの応答。脳と物理的に相互作用しないものについては、そもそも語る事も気づく事もできない。それゆえクオリアに関して二元論的立場をとることは根本的な矛盾をはらんでおり、そうした立場を意味ある形で成立させることはできないと主張する。物理主義の中でも最も極端な立場の消去主義では、心理現象そのものを錯覚のようなものだとみなして消去すべきだと考える。

2、パラドックスは存在しない

随伴現象説を厳密に当てはめるならば、心身は相互作用せず、なおかつ全ての意識にはそれに対応する物理状態が必ず存在するということになる。これは中立一元論(二面説)の立場であり、実体をある面から見れば現象的、別の面から見れば物理的だとみなすもので、物理領域の因果的閉包性の原理とも相克せず、現象報告のパラドックスは存在しない。なおデイヴィッド・チャーマーズ自然主義的二元論の立場から、中立一元論的な「情報の二相理論」を主張している。脳は現象的意識と相互作用することでそれについて語っているのではなく、気づき(アウェアネス)をともなうある機能的状態に対しては現象意識が自然に伴う、そういう自然の構造があるのだと主張する(意識と認知のコヒーレンス)。

3、このジレンマを解決することはできない、つまり意識の問題は解けない

主に新神秘主義と呼ばれる立場からの応答。認知的閉鎖という概念と、物自体は認識できないとするイマヌエル・カントの認識論を前提にしている。

4、物理領域は因果的に閉じていない

主に相互作用二元論と呼ばれる立場からの応答。因果的な閉鎖性の破れを主張する。閉鎖性の破れる場所として、量子力学の確率過程を考えている場合が多い(量子脳理論)。エリツァー(1989)は、意識に関する主張が存在すること自体、物理法則が完全ではありえないことを示しているといい、熱力学の第二法則は間違っているかもしれないという。


  • 参考文献
デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 2001 白揚社
  • 参考サイト