観念論

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観念論 - (2011/03/28 (月) 23:52:21) の編集履歴(バックアップ)



(以下はS・プリースト『心と身体の哲学』とWikipdeiaを参考に記述)

概説

観念論(英:idealism、イデアリスム)という用語は多義的であるが、一般的には、 事物や世界の在り方は人間の観念(idea、イデア)によって規定されるという考え方である。唯物論と対極の思想であるが、形而上学的な立場として観念論を取ったとしても、それは必ずしも物理学の知見を否定するものではない。観念論とはメタレベルの視点で、諸科学によって見出された事実に意味と理由を与えるものである。

Idealismは、日本では訳語が一定せず、存在論については唯心論、認識論については観念論、倫理学説については理想主義と訳しわけられていた。

観念論は心の哲学において、しばしば唯心論と同じ意味で使われる。しかし観念論者の全てが唯心論者というわけではない。

観念論には多数の説があるが、意識から出発して物質世界を説明するのに、主に次のような理論戦略が用いられている。
  • 神を立てて宗教と結合させる。(スピノザなど)
  • ideaと事物とを同一視して、一元論化し、いわば裏返しの唯物論になる。(バークリーなど)
  • 外界の存在については沈黙する懐疑主義になる。
  • 物自体を想定し、物自体は不可知とする。(カントなど)
  • 人間に即して考えられていた精神を絶対的なものに仕立て上げる。(ヘーゲルなど)

観念論の極端な形が独我論である。

歴史

西欧の哲学では、紀元前のプラトンのイデア論にその起源がある。ただしプラトン自身は心身二元論者であるため観念論者とはいえない。三世紀に生きた新プラトン主義の哲学者プロティノスが唯心論的な形而上学を残している。プロティノスの理論は、思考と外界は相互に作用しあうが、そこでは思考が決定的な役割を持つという主張を含んでいる。プロティノスの思想には後のドイツ観念論の多くが先取りされている。

超越論的観念論

超越論的観念論(独:transzendentaler Idealismus 先験的観念論ともいう)はカントの哲学的な立場をいう。カントのいう超越論的とは、如何にして我々は先天的認識が可能であるのかその根拠について問う認識のことであり、超越論哲学はそうした根拠を問う哲学である。

カントは生得観念を認めるデカルトやライプニッツの大陸合理論と、生得観念を否定するロックやバークリーの英国経験論を総合した。カントによれば、人間の認識能力には感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリにそなわっている。感性には純粋直観である空間と時間が、悟性には量、質、関係、様相の純粋悟性概念(カテゴリー)が含まれる。

人間は先験的に与えられたその二種の形式(感性と悟性)にしたがってのみ物事を認識する。この認識作用が経験であるとした。

他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが、
少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念は神あるいは物自体にまで拡大された。

超越論的観念論はフィヒテ・シェリングにも見られるが、その場合には実在論的性格が払拭されている。

※カントのカテゴリー論については以下のページが詳しい。
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card2851.html

ドイツ観念論

ドイツ観念論者と総称されている思想家は多いが、その内容は思想家によって様々に異なる。しかしイマヌエル・カントの批判哲学を出発点として「自我」や「精神」などの心的なもの、その根底として神または絶対者と呼ばれる観念的原理を置き、その原理の自己展開として世界および人間を捉え、説明しようとする立場の哲学であるという点では一致しているといえる。
  • J・G・フィヒテの著作『知識学』は形而上学と認識論の綜合である。フィヒテは観念論的形而上学を作り出すことによって知識の限界も定めようとした。認識するものであると同時にもっとも十全に実在している者とは、主観的意識である。自我は根本的に自発性をもち、その活動をとおして己を意識していく。自我が経験世界に「位置を占める」ことで、「自我:非我」「自己:世界」の区別が生じる。我々が日々相対している世界とは諸事物が時空間に連続している世界である。しかしこうした世界は自我の経験から構成されてくるのである。客観的世界とみなされているものは、実は主観によって知的に構成された世界であると彼はいう。このことからフィフィテの観念論は「主観的観念論」と呼ばれる。そう名づけたのはヘーゲルである。
  • シェリングは、デカルト的二元論ないし分離論は、人工的・非現実的な考えであり、自分の「絶対的観念論」ははこれを統合・克服する思想であるという。「対象:知覚」「自己:世界」といった明確な二分法があるわけではなく、それらの区別はみな意識の反省によって生み出されるのであり、精神的で統一的な全体の視点から眺めてこそ、それらを本当に理解できる。人は反省によって二元論の幻想を生み出しているという。ゆえにシェリングは反省を精神の病ととみなし、そして自分の「同一哲学」によって、対立物が相互依存していることを明かし、日常的思考から生じるさまざまな対立を取り除こうとした。こうした、特に二元論を克服するのは世界精神であるというシェリングの考えは、ヘーゲルの思想の多くを先取りしている。
  • ヘーゲルは、デカルト的な二元論を批判した。ひとたび心身二元論を認めてしまえば、心身の相互作用の説明が困難だからである。よって二つの実体が存在するのを否定する。「物質的なものと非物質的なものとの区別は、根本的な両者の統一をもとにしてはじめて説明しうる(『精神の哲学』)」という。これは異なった性質の心身が実は一つの実体の二側面だという中立一元論的な考えである。ヘーゲルにとってその根本的な実在は精神的なものである。バークリーの唯心論との違いは、心的なものと物理的なものが精神という新たな綜合において存在しているという見方であり、これがヘーゲルの「絶対的観念論」である。

イギリスの観念論

  • ジョン・ロックは、対象を知り理解するという我々の認識作用の一切を、経験によって得られた観念の結合によって説明する。たとえば、「この水は冷たい」という認識は、経験から得られた「この水」という単純観念と「冷たい」という単純観念とが結合したもの(複合観念)である。認識と単純観念や複合観念との関係は、文章と文字や単語との関係のようなものである。ここから、我々の認識は経験の範囲を越えないという帰結が出てくる。しかしロックは、我々に経験をもたらす物理的な対象が存在すると仮定していたため、「実体二元論」の立場であった。そして物理対象は一定の時空を占め、運動可能である性質を「一次性質」と呼び、物質が我々に色・味・音・匂いなどを経験させる性質を「二次性質」と呼んだ。このロックの分類を批判して、バークリーは観念論を徹底させることになる。
  • ジョージ・バークリーは物質の実在性を否定し、「存在することは知覚されることである」("Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ)という基本原則の主観的観念論を提唱した。この世界に実在するのは心的なものだけであり、物質的なものはそこから派生した見せ掛けの存在にすぎない。バークリにおいては世界は観念であり、たとえば私が机を叩いてその硬さを認識したとしても、「机の固さ」としてではなく、「知覚として」認識しているわけであり、「机自体」を認識していることにはならない。その原因は神であるという。ここに神を置いたのは彼が聖職者だからだといわれる。彼は物質を否定し、知覚する精神と、神のみを実体と認めた。さすがにこのような説は受け入れられ難いと考えた彼は『知覚新論』をまず発表して人々をある程度彼の考えに慣らし、続いて彼が本当に言いたかった『人知原理論』を発表するという手順をとった。しかし、それでもその考えはあまり認められず、主観的観念論、独我論などと言われ批判された。
19世紀の終わりごろにはドイツ観念論、とくにヘーゲルに影響を受けた思想家たちによってイギリス哲学は席巻されることになる。このグループにはF・H・ブラッドリ、バーナード・ボサンケット、トーマス・ヒル・グリーン、ジョン・MT・E・マクタガートが含まれる。
  • ブラッドリは『現象と実在』のなかで、自我という概念についてはフィフィテと同様に、非自己との対比がなければ意味を成さないと考えた。彼はすべての関係がひとつに統一されている全体を「絶対者」と呼ぶ。絶対者とは精神的全体者のことである。その部分のいくつかは我々の意識に現れているが、絶対者はその諸部分の総和を超えているのである。それは物理世界以上に実在的である。ブラッドリは、物理世界は自然科学によって定式化された観念的な構築物、仮想物にすぎないと考えていた。
  • バーナード・ボサンケットもブラッドリと同じく、もろもろの二元性や対立は実在全体のうちで統合されると考えていた。彼もまた全体としての実在を絶対者と呼んだ。克服されるべき特に根深い哲学的二元論は、個別と普遍、個体と種のあいだのそれである。有限の人間精神は、絶対者つまり唯一の無限精神の一部分・一局面にすぎない。また物理世界は、有限の精神による経験から独立には存在しないのである。ボサンケットはこのヘーゲル的な形而上学を『個体の原理と価値』という著作で提唱している。
  • トマス・ヒル・グリーンは、心的出来事が物理的原因をもつことを認めていた。しかし物理的なものは何であれ、経験世界から構成されたものでしかないと論じた。経験を可能にしているのは物理的なものでありず、経験とその内容は精神諸原理によって決定されているという。
  • ジョン・MT・E・マクタガートは著書『存在の本性』(1927)において、意識的・精神的自我は宇宙の基本的な構成要素であると論じる。我々個人はそうした自我のひとつである。そして経験世界の方は知覚によって存在している。彼によれば物質としての実体などは存在せず、一方、我々の精神的自我は永遠である。彼は無神論を前提に自我の不滅を主張した。
現代のイギリスの観念論者としてはジョン・フォスターとティモシー・スプリッジの二人が挙げられる。
  • ジョン・フォスターは『観念論の言い分』で、観念論的現象学を提唱した。彼は、物理世界は感覚内容からの論理的構成物であり、究極の実在は物理的でなく、おそらく心的であるという。
  • ティモシー・スプリッジは『絶対的観念論の擁護』で汎心論的ヘーゲル主義を提唱した。彼は汎心論こそが意識的主観の存在を認めることが出来る唯一の形而上学だという。意識は宇宙の究極的構成要素なのである。意識が存在しなければ何ものも存在しない。

主観的観念論と客観的観念論

観念論の分類の仕方のひとつとして主観的観念論と客観的観念論に分ける考え方がある。この分類はヘーゲルによる。主観的観念論とは、物理的なものの実在性を否定し、それらを個人の意識の所産と考える立場である。バークリーやフィヒテなどに代表される。対して客観的観念論とは、精神的・観念的なものを主観的意識から独立した客観的原理として立て、世界をその現れとする立場である。プラトンやヘーゲルらに代表される。

観念論と類似の思想

観念論とは、観念的もしくは精神的なものが外界とは独立した地位を持っているという確信を表すものである。この主張はしばしば観念的なものが自存し、実在性をもつという主張に結びつく。例えば、プラトンは、我々が考えることができるすべての性質や物(物質とイデア)は、それぞれ独立した実在であると考えた。まぎらわしいことに、この種の観念論は、かつて実在論(観念実在論)と呼ばれた。

またある思想が観念論に属すかどうかにも、議論が分かれる場合がある。イマヌエル・カントは『純粋理性批判』において、我々が世界を空間や時間という形で把握するのは、人間の認識能力のアプリオリな形式であるとした。カント自身は(物自体の存在を要請したが故に)これを観念論とは考えなかったが、多くの読者はこれをきわめて観念論的な主張であると考えた。

観念論と対比される思想に、唯物論がある。 厳密に言うと、超自然的な存在に対するすべての信仰や信念が、唯物論に反対しているわけではない。多くの宗教的信念は、特に観念論的である。例えば、ブラフマンを世界の本質とするヒンドゥー教の信仰に対して、一般的なキリスト教徒の教義では、キリストの人間としての肉体の実在性と物質的な世界における人間の善性の重要性についてはっきりと述べている。禅宗は、観念論と唯物論の弁証法的な過程の中間に位置している。