心の哲学全般

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心の哲学全般 - (2013/03/16 (土) 21:54:32) のソース

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**概説
心の哲学(英: Philosophy of mind)とは哲学の一分科で、[[現象的意識]]や[[クオリア]]など心的なものの性質、またそれらと物理的な身体との関係を研究する学問である。 

心の哲学では様々なテーマが話し合われるが、最も基本的なテーマは[[心身問題]]と[[心的因果]]、すなわち心と体の関係についての問題である。 心身問題は科学の領域では心脳問題として研究の対象となっている。歴史的には心身問題は心脳問題の前史としてあったということになる。

哲学における心身問題の議論は紀元前に遡り、[[ルネ・デカルト]]の[[実体二元論]]が近代の転換点となる。その後、科学技術と神経生理学の発展によって心と身体の関係は科学によって解明されるという[[物理主義]]の立場が支配的となり、心身問題についての哲学的議論は停滞することになる。しかし二〇世紀後半から英語圏諸国の分析哲学において、さまざまな概念や思考実験が登場したことによって心の哲学は劇的に変貌することになる。現代における心の哲学は、その英語圏の哲学を中心に議論されている。

心身問題についての立場を大別すると[[一元論]]と[[二元論]]に分けられる。さらに一元論を大別すると[[物理主義]]と[[観念論]]に分けられ、二元論を大別すると[[実体二元論]]と[[性質二元論]]に分けられる。それらの説はさらに多数の説によって細かく分類される。

心の哲学の主要な説を分類すると以下のようになる。
>■[[二元論]]
>├[[実体二元論]]
>| ├[[相互作用二元論]]
>| ├[[予定調和説]]
>| └[[機会原因論]]
>├[[性質二元論]]
>|└[[自然主義的二元論]]
>├[[随伴現象説]]
>| └[[付随性]]
>└[[新神秘主義]]
> └[[認知的閉鎖]]
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>■[[一元論]]
>├[[物理主義]]
>| ├[[行動主義]]
>| ├[[心脳同一説]]
>| ├[[機能主義]]
>| ├[[非法則一元論]]
>| └[[消去主義的唯物論]]
>├[[観念論]]
>|└[[唯心論]]
>├[[現象主義]]
>├[[中立一元論]]
>| └[[心身並行説]]
>└[[汎神論]]

[[デイヴィッド・チャーマーズ]]は、心的現象を生じさせているとされる脳の作用の問題を「イージー・プロブレム」と呼び、その脳内活動の過程でなぜ心が伴うかという問題を「ハード・プロブレム」と呼んでいる。昨今の心の哲学の議論はその意識のハード・プロブレムに集中している。

**心の哲学の用語
心の哲学においては用語が多少混乱しているので注意が必要である。現在、最も活発に議論されているのは[[クオリア]]の存在論的な位置づけてあるが、歴史的にはクオリアと同様の意味で「表象」という言葉がよく使われてきた。「知覚」や「感覚与件(センスデータ)」や「直接経験」も類似の意味であり、心の哲学においてそれらは厳密に区別されている訳ではなく、文脈によって使い分けられ、しばしば互換的に用いられている。なお「[[現象的意識]]」という場合は瞬間的な感覚でなく、思考する際の持続的な意識現象を指すことが多い。

「唯物論」と「[[物理主義]]」はほぼ同じ立場の思想を指す。「[[性質二元論]]」と「特性二元論」は同じ意味である。

クオリアを物理現象に還元できるという立場の「[[還元主義]]」と、自己や自我というものは個別の意識現象に還元できるという[[人格の同一性]]問題における「還元主義」は全く意味が異なるので注意が必要である。

心的性質と物理的性質は一つの実体の両面であると考える立場の「中立一元論」は、「二面説」や「二相理論」、時に「同一本体相貌説」とも呼ばれるが、ほとんど同じ意味である。なお「[[性質二元論]]」とは、世界には物理的性質と心的性質の二つがあるという立場であるが、その二つはあくまで「実体」ではなく「性質」としているのであり、存在論的には中立一元論を前提としており、同じ二元論であっても「[[実体二元論]]」とは全く異なるので注意が必要である。

**根本問題
#right(){(以下は管理者の見解)}

心の哲学には、本来「哲学」そのものの歴史的課題でもある二つの重要な根本的問題が潜在しており、それらの問題に対してどのような立場を取るかによって、心身問題へのアプローチは全く異なってくる。

ひとつは[[実在]]についての問題であり、この問題に対しては[[実在論]]と非実在論の立場に分かれる。現代の心の哲学において最も活発に議論されているのは[[クオリア]]の存在論的な位置づけと心的因果の問題であるが、それらは自然主義の立場から、[[科学的実在論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96]]を前提に行われているものである。しかし[[現象主義]]や[[観念論]]などのように実在論に反対する立場もある。なお非実在論の中には、時間や空間の実在性を懐疑するラディカルな立場もある。時間の実在性を懐疑する思想は古今東西にあり、これは[[独今論]]ともいわれる。もし科学的実在論という前提を否定するなら、現在心の哲学で議論されている問題の多くは錯覚問題であるということになる。

もうひとつは[[自己]]や自我についての問題である。デレク・パーフィットはこの問題に対する立場を、[[人格の同一性]]についての還元主義と、非還元主義に分ける。還元主義の立場では自己は[[実体]]ではなく、そのつど生起し消滅するクオリアなど個別的現象に過ぎないとするが、非還元主義では魂のような絶対的な主体を想定し、それが通時的に「私」の同一性を成り立たせている根拠とする。

ちなみに一般の人が抱いている素朴な世界観は、[[素朴実在論>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96]]、および素朴心理学と呼ばれる。この素朴な立場では「私」という主体がいて、それが空間的に広がる世界に実在しているさまざまな物事――客体を時間的、つまり持続的に認識していると考える。しかしもし実在論、そして時間や空間の実在性も否定し、なおかつ「私」という主体の存在も否定する立場の思想を取るならば、そのような素朴な世界観は完全に崩壊するだろう。そのような立場をとった著名な学者は、[[デイヴィッド・ヒューム]]と[[大森荘蔵]]である。しかし[[イマヌエル・カント]]が、人間は時間と空間という形式によってしか物事を認識できないと論じたように、ヒュームらの哲学における世界像は、人間には具体的に理解もイメージもできないことになる。

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