哲学的ゾンビ

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哲学的ゾンビ - (2011/06/15 (水) 22:40:08) のソース

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#right(){(以下は管理者がWikipediaの文を加筆修正)}

**概説
哲学的ゾンビ(英:Philosophical Zombie) とは、心の哲学で使われる言葉である。[[デイヴィッド・チャーマーズ]]によって論じられた。外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、内面的な経験([[現象的意識]]、[[クオリア]])を全く持っていない人間と定義される。

ホラー映画に出てくるゾンビと区別するために、現象ゾンビとも呼ばれる。おもに[[性質二元論]](または[[中立一元論]])の立場から[[物理主義]]とその範疇にある[[行動主義]]や[[機能主義]]の立場を批判する際に用いられる思考実験である。ゾンビの概念を用いて物理主義を批判するこの論証のことをゾンビ論法(Zombie Argument)、または想像可能性論法(Conceivability Argument)と呼ぶ。

**2つの哲学的ゾンビ 
哲学的ゾンビには次の2種類がある。

1、行動的ゾンビ(Behavioral Zombie) 外面の行動だけは普通の人間と区別できないゾンビ。解剖すれば人間との違いが分かる可能性がある、という含みを持つ。例えばSF映画に出てくる精巧なアンドロイドは、「機械は内面的な経験など持っていない」という前提で考えれば行動的ゾンビに当たる。 

2、神経的ゾンビ(Neurological Zombie)脳の神経細胞の状態まで含む全ての観測可能な物理的状態が普通の人間と区別する事が出来ないゾンビ。通常、哲学的ゾンビと言う場合こちらのことを指す。

**哲学的ゾンビはどのように見えるか
哲学的ゾンビはその定義から、普通の人間と全く区別がつかないとされる。特に神経的ゾンビの場合には頭を解剖しても普通の人間と区別できない。哲学的ゾンビは外から見る限りでは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。しかし普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビには行動に伴う感覚が全くなく、クオリアという内面的経験を全く持たない。

哲学的ゾンビが実際にいると信じている人は哲学者の中にもほとんどおらず、思考実験により[[クオリア]]の存在を浮き彫りにすることが目的である。また「なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか」という問題も心の哲学の他の諸問題と絡めて議論される。

**意識の定義 - 機能的意識と現象的意識
ゾンビ問題を理解するためには、「意識」という言葉がいくつもの意味で使われる多義語であることに注意する必要がある。 チャーマーズは意識の概念を二種類に分けた。

1、機能的意識 
機能的意識とは、『人間が外部の状況に対して反応する能力』のことである。脳を物体として捉える観点から言えば、入力信号に対して出力信号を返す脳の特性としての意識である。これは機能的意識または心理学的意識と言われ、外面的に観測することができる客観的な特性である。 

2、現象的意識
現象的意識とは、『主観的で個人的な体験』のことである。外部からは観測できない主観的な特性――意識体験、現象、クオリアを有した意識である。機能的意識と対比させるときは現象的意識という名前で呼ばれる。 

以上の二種類の言葉を用いて哲学的ゾンビをより厳密に再定義すると、「哲学的ゾンビとは、意識の機能的な側面に関しては普通の人間と全く同じだが、一切の現象的意識を欠いた存在のこと」となる。

**ゾンビ論法
ゾンビ論法(zombi argument)または想像可能性論法(Conceivability Argument)とは物理主義を批判する以下の形式の論証を指す。

1、我々の世界には意識体験(現象的意識、クオリア、主観的経験)がある。 

2、物理的には我々の世界と同一でありながら、意識体験が一切無い世界が論理的には存在可能である。 
・ゾンビ論法の核心はこの部分にある。チャーマーズは付随性の概念を「論理的付随性」と「自然的付随性」の二つに分け、意識体験は物理特性に自然的に付随しているが、論理的に付随しているわけではない、とする。それを踏まえた上で、意識体験を全く欠いた世界が想像可能であることを主張する。この哲学的ゾンビだけがいる意識体験を全く欠いた世界のことを、ゾンビワールドと言う(これは可能世界の一種である)。

3、したがって意識に関する事実は、物理的事実とはまた別の、われわれの世界に関する更なる事実である。 (ゾンビワールドに欠けているが、私達の現実世界には備わっているある事実がある。そしてそれは物理的事実には含まれていない、それは物理的事実だけからは出てこない、という点を強調する。)

4、ゆえに唯物論([[物理主義]])は間違っている。 

**ゾンビ論法的思考実験の歴史
ゾンビ論法と類似したタイプの議論、つまり「意識体験」と「物質の形や動き」との間に論理的なつながりが見出せない、というタイプの議論は、歴史上様々な形で論じられている。歴史を下るにつれて議論は洗練されていく。

1、[[ライプニッツ]]による風車小屋の思考実験 
思考できる機械があるとして、その機械を風車ほどまで大きくしたとする。このとき、そのなかに入って周りを見渡したら、いったい何が見えるだろうか。ライプニッツはそこを考えた。17世紀のドイツの哲学者ライプニッツが著書『モナドロジー』の中で、風車小屋(windmill)を引き合いに出して行った次のような論証がある。
・ものを考えたり、感じたり、知覚したりできる仕掛けの機械があるとする。その機械全体を同じ割合で拡大し、風車小屋の中にでも入るように、その中に入ってみたとする。だがその場合、機械の内部を探って、目に映るものといえば、部分部分が互いに動かし合っている姿だけで、表象について説明するに足りるものは決して発見できはしない。『モナドロジー』
ここでいう「表象」という言葉は「意識」という言葉と対応する。この風車の議論から、ライプニッツは、[[モナド]](ライプニッツが存在すると仮定した、この世界の基本的構成要素)の内的な性質、として表象を位置づけていく。

2、ラッセルによる世界の因果骨格の議論
20世紀前半、哲学者バートランド・ラッセルが『物質の分析(Analysis of Matter)』(1927年)を中心に様々な著作の中で展開した議論の中にも、同種の議論が見られる。ラッセルは物理学はどのようなものか、ということの分析を行う中で、物理学は対象と対象の間にどのような関係があるかを扱うが、そうした関係をもつ当の対象の内在的性質が扱えないとして、物理学が行う世界の記述を外形的なもの、「世界の因果骨格(Causal Skelton of the World)」を扱ったものだとした。
・物理学は数学的である。しかしそれは私達が物理的な世界について非常によく知っているためではなく、むしろほんの少ししか知らないためである。私達が発見しうるのは世界の持つ数学的な性質のみである。物理的世界は、その時空間な構造のある抽象的な特徴と関わってのみ知られうる。そうした特長は心の世界に関して、その内在的な特徴に関して何か違いがあるのか、またはないのかを示すのに十分ではない。
・私達が直接に経験する心的事象である場合を除いて、物理的な事象の内在的な性質について、私達は何も知らない。

3、クリプキによる世界創造の議論
20世紀中盤、哲学者ソール・クリプキが行った、神様の世界創造を喩えに用いた論証がある。この論証はクリプキの講義録『名指しと必然性』の最終章に収録されているもので、これはしばしば様相論法(modal argument)と呼ばれる。以下のようなものである。
・神様が世界を作ったとする。神様は、この世界にどういう種類の粒子が存在し、かつそれらが互いにどう相互作用するか、そうした事をすべて定め終わったとする。さて、これで神様の仕事は終わりだろうか? いや、そうではない。神様にはまだやるべき仕事が残されている。神様はある状態にある感覚が伴うよう定める仕事をしなければならない。

**物理主義からの批判
物理主義の立場から寄せられるゾンビ論法への批判は、現時点の私たちにゾンビは一見論理的に可能(logicaly possible)に思えることは認めつつ――これはしばしばゾンビ直感(zombie hunch)と呼ばれる――そうした直感は主に現在の私たちの神経系への無知に起因する、という形で行われる。つまり神経系への理解がまだ中途半端な段階にあるから現象体験を完全に欠いた人間の機能的同型物などというものを想像できるのであり、もし神経科学の知識が深まっていけばそうした存在は論理的に不可能であると理解できるだろう、と。これはア・ポステリオリな必然性からの議論と呼ばれる。

**独我論からの批判
独我論者によれば、「われわれはなぜ哲学的ゾンビでないのか?」という問いは、「他者もまた意識を持っている」という信念ないしは推定を前提とした問いであり、外部からは観測できない内面を有するのは自分だけであって、自分を除くあらゆる他人が内面そのものを有しない神経的ゾンビである可能性を考慮していないと批判される。

(以下は管理者の意見)
上のような独我論の批判は当を得ていない。「自分の脳」が「自分の意識」を生んでいるという、素朴実在論を前提とした批判だからだ。厳密な独我論では、全ては「意識」への現れと考える。すなわち「自分の脳」も「他者」も意識への現れということでは同じであり、鏡に映った「自分」、そして自分の頭部にあるであろう「自分の脳」が「この意識」であるとは証明できないはずである。つまり論証を棚上げして素朴実在論を前提しているのだ。逆に言えば「自分の脳」が「この意識」を生んでいると仮定が許されるなら、あらゆる他者が意識を持っているという仮定も許されるはずなのである。ゾンビ論法はその素朴実在論的な仮定を前提することにより、[[性質二元論]]の可能性を模索するものなのである。

**その他の批判
もし現象的意識をもたないゾンビが人と同じ行動をとれるなら、現象的意識は何の役割も果たしていないことになる。ゾンビ論法は[[随伴現象説]]を含意しているとの批判がある。
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