ライプニッツ

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ライプニッツ - (2009/10/08 (木) 16:34:58) のソース

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**全般
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年7月1日(グレゴリオ暦)/6月21日(ユリウス暦) - 1716年11月14日)はドイツ・ライプツィヒ生まれの哲学者・数学者。

**哲学における業績
「モナドロジー(単子論)」「予定調和説」を提唱した。その思想は、単なる哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、記号学、心理学、数学、自然科学などの極めて広い領域に広がる。また同時に、それらを個々の学問として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。学の傾向としては、通常、デカルトにはじまる大陸合理論の流れのなかに位置づけられるが、ジョン・ロックの経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の対立を回収しようとしたといえる。

モナドロジーの立場に立つライプニッツからすれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」を執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなったため公刊しなかった。ライプニッツの認識論には、無意識思想の先取りもみられる。

**[[心身並行説 ]]
ライプニッツはこの宇宙には唯一の種類の実体、すなわち[[モナド]]だけが存在すると考える形而上学的一元論者であり、すべてはモナドに還元できると考えていたけれども、それにもかかわらず彼は「心的なもの」と「物的なもの」の間には因果に関して重要な区別が存在すると考えていた。彼によると、心と体はお互いと調和するように神が事前に調整してくれているのである。これは予定調和 (pre-established harmony)の原理として知られている。

**オプティミズム(最善観)

可能性と現実性
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card8055.html
ライプニッツが、我々のこの世界を最善の世界であるとした(楽天主義、最善観=オプティミスム)のは、神がそうなるように選択したからという根拠に基づくものだった。この点だけを取り上げると、それはまさしく楽天的な考えである。しかし、神の「選択」という点を取り上げてみるなら、ライプニッツの思想の組み立てには興味深いものがある。なぜなら、「現実」に神が創造したのは我々のこの現在の世界ではあったが、「可能性」においてなら、神は別な世界、今のこの世界とは違った世界を作ることもできたはずだということが前提されているからである。実際、ライプニッツと言えば可能的世界というのは、哲学史にあって一つのセットになっている。こうした神による選択という考えは、直接的には、スピノザの考えに反論するものであった。なぜなら、スピノザはそうした可能性を認めず、この世界は神の必然的な決定によって出てきたのであり、これ以外の仕方は考えられないとするからである(『エチカ』第一部定理28)。

http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card27340.html
スピノザの考えでは、神にあって、知性と意志とは区別されないのだが、これは伝統的な立場への批判を含んでいる。伝統的な立場では、神のレベルでの知性とは、世界の計画のことである。逆に、神の意志とは、世界の具体的な創造の力である。しかし、神の知性と意志とを区別する伝統的な立場からすれば、神の知性によって認識された世界の計画すべてが、意志によって実現されるのではない。

スピノザが神における知性と意志とを区別しないということは、こうした差額(=超越性)を認めないということなのである(したがって、スピノザは汎神論であることになる)。こうした差額は、「世界の現実性よりも神の能力が大きい→神は世界よりも完全である」と展開されるのだが、スピノザの場合、この差額を逆に解釈する、つまり、差額がある(とするなら、その分)だけ、神の能力は不完全だというわけである。なぜなら、それは世界の実現に至えない部分でもあるからである。スピノザは、神に知性があるなら、その知性が認識したもの(計画)はすべて現実化(実行)されるはずだと考える。しかし、こうなれば既に神の知性と意志とを区別する必要もなくなるわけで、スピノザはそうした二元的な装置代わりに、「神の本性的な必然性」一本槍でいくことになる。

伝統的な立場を踏まえたライプニッツがスピノザを批判するのは、この意味で当然である。ライプニッツは、スピノザとは逆に、上のような差額こそ神の完全性を基礎付けるものだと考える。ただ、それでは(その差額の分だけ神が完全だということは)、逆に、同じ分だけ世界は不完全だということになりかねない。しかし、ライプニッツの考えではそうではない。なぜなら、世界は、神が計画した無数のもの(可能性)の中で、最善のものを創造したのだから、この世界は最善なのだ、と考えるからである。つまり、この意味では世界は必然的なのである。しかし、それはスピノザのように神の本性の必然性一本槍の必然性ではなく、道徳的な意味での必然性である。ライプニッツが真理に二種類(思惟の真理と事実の真理)を区別し、矛盾律の他に根拠律を持ち出すのは、こうした必然性の二重化(形而上学的必然性と道徳的必然性)に対応している(ライプニッツの理論を詳しく言えば、上の説明で述べた知性に相当する「先行意志」と、意志に相当する「帰結意志」との区別もあるのだが、基本的な原理は上の通りでよろしい)。
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