ウィトゲンシュタイン

「ウィトゲンシュタイン」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

ウィトゲンシュタイン - (2012/04/14 (土) 13:04:57) のソース

#contents
----
**概説
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein 1889年4月26日 - 1951年4月29日)はオーストリア・ウィーン出身の哲学者。言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。また彼の独我論にはさまざまな解釈がなされている。

「語りえぬものには沈黙しなければならない」という有名な言葉がある。ルドルフ・カルナップの解釈によれば、形而上学、倫理学、認識論に関するあらゆる言明は検証不可能であり、無意味である、という意味である。

ウィトゲンシュタインは検証可能なもののみ学究の対象としたことから、実証主義の創始者といわれる

**私的言語とカブトムシの箱
ウィトゲンシュタインは「私的言語」の可能性に反対していて「カブトムシの箱(Beetle in the box)」という哲学的論考を行っている。「人は誰しもカブトムシという名前を書いた箱を持っているが、その中身は自分しか見ることは出来ない。しかし他人の持っているカブトムシというラベルのついた箱は見ることが出来る」というものである。そのカブトムシの名前のついた箱の中身が各人によってまちまちであり、変化している可能性もあり、また何も入ってない可能性も考えられる為に、カブトムシという「箱の中身」を語る事は(比較対象が無いため)不可能であると述べている。

ウィトゲンシュタインはさらに私秘性といわれる経験について批判する。誰かが「私が本当に痛がっていることは私しか知ることができない」と、自分の感覚が私的であると主張したしても、ウィトゲンシュタインはそれは正しくないと考える。その言葉は「他人は私の痛みをもつことができない」という意味と同じであり、すなわち単に意味が無いということである。痛みが誰のものなのか疑いのある場合のみ、そのような主張は意味を持つのである。

#right(){(以下はスティーヴン・プリーストの見解)}
私的言語は心の哲学にとって重要である。いくつかの哲学は私的言語が可能なことを前提にしている。デカルトにとっては心的なものとは当人にのみその状態を直接に認識できる手段があるという意味で私的である。また独我論、および独我論を原理とした現象学では、自分の心の内容のみを指示する言語があり、他者はこの言語を知ることはできない(そもそも独我論では他者は実在ではない)ということを前提としている。一人称の心理的知識が不可能であるとするウィトゲンシュタインの主張が正しければ、それらの哲学は間違っている可能性がある。

#right(){(以下はこのサイト>http://plaza.rakuten.co.jp/oniyannma9/diary/200704010002/から引用)}
自分だけに生じる特有の感覚を指し示そうとして独自の表現を使うのだが、その表現が他人には伝わらない」と想定されたものが「私的言語」である。ウィトゲンシュタインはそれは不可能であるとする。私的言語「E」は記憶と直感的判断によってでしか過去の「E」と統一のものか判断することはできず(自己正当化)、客観的な基準が欠如し、その結果、正誤の区別がないというものである。言い換えれば、これは私的言語が規範性を持たないことであり、言語とは呼べない(言語のまねごと)と言うことを意味する。

**心の哲学
心の哲学におけるウィトゲンシュタインの思想は、独我論から出発した[[機能主義]](厳密にはブラックボックス機能主義)と考えられる。彼にとって心の私秘的な性質は「カブトムシの箱」の論考で見たように「語りえない」ものである。

「語の意味とはその用法である」という考え――例えば子供が何かに足をぶつけて泣いている時に「痛み」という語が用いられるが、その用いられ方こそが「痛み」の定義であるとする。ゆえに心的状態と生物学的状態が適合するかどうかと問うのは間違いだと論じる。錯覚的な問題は、ある問題を別の語彙を使って記述したり、心的な語彙がまちがった文脈――脳の心的状態を探したりするときに生じる。脳というのは心的な語彙を用いる文脈としては単純に間違っているのである。したがって、脳の心的状態を探し求めるのはカテゴリーミステイク(範疇の錯誤)、つまり一種の推論の誤謬なのである。ウィトゲンシュタインのこの考えは、心の哲学における[[行動主義]]および[[機能主義]]に影響を与えた。

自我について、ウィトゲンシュタインはデカルトの「我思う」を、「思うということが我なのである」と読み替える。つまり「我」とは考えることそれ自体であるとする。これは経験と、それを成り立たせる主体とは「不可分」というよりイコールであり、仏教的にいうならば「経験即主体」となる。したがって彼の独我論は「私とは私の世界である」、また「私には最も重要な意味で同類がいない」と表現される。

世界に存在して、世界のあらゆるものを記述可能な「私」も、自分自身だけは記述できない。「眼が視野に属さぬように、主体は世界に属さない」という言葉がある。永井均の解釈によれば、このウィトゲンシュタインの自我(主体)は、デカルト以来の近代的自我やカント以来の超越論的=先験的主体の意味ではない。超越論的哲学においては、主体としての自我が、素材としての世界に意味を付与することによって、初めて認識が成立すると考えるが、ウィトゲンシュタインにおいてはそうでない。自我は、既に形式によって満たされた世界の限界をなすことによって、それに実質を付与するのである。「私」とは世界に意味を付与する主体ではなく、「この世界」を存在させている世界の実質そのものなのである。またそれゆえ、「他者」とは「この世界」とは別の世界のことでなければならない、と永井はいう。

また永井はウィトゲンシュタインの独我論の特徴を表すものとして、以下のようなウィトゲンシュタインの文を挙げている。
>私は私の独我論を「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」と言うことで表現することができる。ここで私はこう言いたくなる。「私は『私』という語で L.ウィトゲンシュタインを意味してはいない。だが私がたまたま今、事実として L.ウィトゲンシュタインである以上、他人たちが『私』という語は L.ウィトゲンシュタインを意味すると理解しても、それで不都合はない」と。

>ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなくてはならない、ということだ。他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。
特に永井は、
>他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。
という最後の一文に着目し、ウィトゲンシュタインの哲学活動のほとんどがこの洞察に支えられて成り立っていると考える。そして、独我論めぐってはさまざまな議論がなされてきたが、ウィトゲンシュタイン以前と以降とでは問題性そのものが一変してしまった。意識の外にあるものが実在するか否かが独我論をめぐる最大の問題であり、そうしたものが存在すると言えれば独我論は否定されると考えられていた。しかし今ではそんなことが言えても独我論は否定されない。独我論を語ることのできる「私」とはいったい誰なのか、という点こそが問題であると永井は述べる。(参考:永井均『ウィトゲンシュタイン入門』)

**ウィトゲンシュタイン独我論の解釈
#right(){(以下は管理者の見解)}
ウィトゲンシュタインの独我論はカントの認識論を独自に発展させたものと思える。カントにおいては「全ての表象に『我思う』が伴いうるのでなければならない」と、表象とデカルトのコギトを結びつけるものとして、悟性の統覚の能力が想定されていた。これを簡単にいうと、デカルトはあらゆることを疑っても、それ以上は決して疑えないものとしての思惟するコギトを発見したが、しかしわれわれは常に自分の存在を疑っているわけでないし、「我○○○と思う」と自己の思考や感覚について常にコギトを意識しているわけでもない。ぼんやりとして眼にさまざまな光景(表象)が流れているような時、それらの表象は本当に「我」の表象なのかという素朴な疑問はありうるからだ。したがってカントは、たとえるなら全ての表象に「我思う」というラベルを貼るような能力(統覚)を想定したのである。つまりカントやドイツ観念論においては主体と表象が暗に分離されているのである。しかし、ならばその主体はどこにあるといえるのだろう、という疑問が必然的に生じる。

ウィトゲンシュタインは「眼が視野に属さぬように、主体は世界に属さない」という。これはカントが悟性の能力として全ての表象に「我思う」というラベルを貼る能力を想定したのに対し、ウィトゲンシュタインの場合は、全ての表象は「我思う」という透明なキャンバスの上に描かれた存在である、というようなものなのである。見えないキャンバスこそが「主体」であると考えてもいい。「我思う」というコギトである主体は、決して見えないし、またその存在は表象とイコールであるため、表象から独立した形で世界に規定することもできないのである。それが『論考』5・64の、
>ここにおいて独我論は徹底的に遂行されると、純粋な実在論と一致することを見て取ることができる。独我論の私というものは、広がりを持たない点へと縮退し、その私と対応する実在がそのまま残る。
という結論の意味なのである。そして、「私と対応する実在」が世界をかたち造っているのだから、私と世界もまたイコールの関係になる。ウィトゲンシュタインは直接経験を考究し、「私の個人的な経験というものがあって、それがきわめて重要な意味で隣人というものをもたない」という。これも他者が「別の世界」の住人(と言うより「別の世界」そのもの)であることを考えれば当然であり、それこそが、
>他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない
という、永井均が見抜いたウィトゲンシュタイン独我論の核心なのである。

このようなウィトゲンシュタインの独我論は、ある種の論拠と説得力があるよう思える。デカルトは「我思う」という決して疑えないコギトを発見した。そのコギトは決して「隣人」には理解できない独我論的な存在である。「隣人(他者)でないこと」がコギトであることの意味本質であり、「コギトでないこと」が隣人であるのことの意味本質だからである。コギトは「私」と言い換えることができる。たとえ百人の人物がいてみんなが「我思う」と考えていたとしても、その百の「我思う」の中で「私」はひとつだけである。しかし、百人の意識にそれぞれ「我思う」というものがあるのでなく、たとえば「私は疲れた」という想いがあるだけならどうだろう。それでも問題の本質は同じであり、やはり「私」は一つだけだといえるだろう。では、もう少し単純に「空が青いな」という思いが百人にあったとしたらどうだろう。これでもやはり問題の本質に変化はないだろう。では、さらに単純に、百人にそれぞれ「赤い」という知覚現象のみがあったとしたらどうだろう。やはり問題の本質は同じことではないだろうか。つまり問題を直接経験にまで還元すればウィトゲンシュタインのいう「主体」の意味と根拠は明らかになる。彼の主体は魂のようなものでもなく、逆に無でもなく、完全に独我論的体験である「表象」との一致として存在しているのである。

**派生問題
#right(){(以下は管理者の見解)}

ウィトゲンシュタインの独我論はある種の論拠と説得力があることは事実である。しかし、彼の独我論と全く逆の考え方もまた可能であることを留意しておく必要があるだろう。これは私が[[動物の心]]で論じたことであるが、動物といっても霊長類のように神経構造が複雑な種なら心があることを類推することは難しくない。猫やウサギもおそらくは心があるだろうと受け取れる行動を示し、またそのような神経構造をもっている。しかし、もっと単純な神経構造しかない種ならどうだろう。たとえばカタツムリやアリなら。さらにいえば微生物や細菌などはどうだろう。単純な生物にも直接経験(クオリア)はあるだろう。しかし細菌や単細胞生物に仮にクオリアがあったとして、それは「私」と呼べるようなもの、即ちウィトゲンシュタインが主体とイコールの表象としたものだと呼ぶに値するものかと、疑問が生じるのである。地球上の種の総数は500万を超えるという説もある。神経構造が複雑な種から比較的単純な種まで夥しい種類の種がいるが、神経構造、または身体の構造の複雑さの順に並べてみれば、霊長類を頂点として最下位の単細胞生物までなだらかに並んでおり、ある段階で構造に決定的断絶があるよう見えない。そのことから、ある種の段階で突然「私」と呼ぶに値する主体が生じるとは考えがたいという見方も出来るのだ。

ウィトゲンシュタインの「主体」はデカルト的コギトを直接経験にまで還元することによって示されうるものであった。だが最初からデカルト的コギトを想定するのが困難な単純な生物からは同様の還元ができない。もちろんまともな哲学者なら人間以外の、特に単純な神経構造の生物のクオリアなどについては不可知の立場を取るだろう。しかし、[[哲学的ゾンビ]]と同様の想像可能性論法を用いれば、単純な神経構造の生物にもクオリアがあると想定することは論理的に可能である(なおチャーマーズは[[汎心論]]的立場からサーモスタットやトースターにもクオリアがあるという)。夥しい数の微生物にもクオリアがあると想定した場合、やはりそれらは全て独我論的体験であると主張するのは難があり、デレク・パーフィットは[[人格の同一性]]について考究した際に、同一性を「性質的同一性(qualitatively identical)」と「個数的同一性(numericlly identical)」の二種類に分けたが、その考えに従って「それら無数のクオリアは性質的に同一であるのみだ」と、独我論的体験であることを否定した方が理解しやすいと思う。

したがって、ウィトゲンシュタインとは全く異なり、直接経験(クオリア)には所有者が想定できず、「私」とは反省的な自己意識であり、悟性の統覚の作用によってのみ生じるとする中島義道のようなカント解釈者も多い。これはカントの正統な解釈といえる。彼らの立場からすれば直接経験は独我論的体験ではないのである。歴史的にこの立場を最も明確な形で主張したのは[[デイヴィッド・ヒューム]]であり、彼は自我の存在を否定して、自我と思われているものは生成消滅を続ける知覚の束だという見方をした。[[ジョン・サール]]の見解によれば、現代の心の哲学者の多くはそのヒュームに同意し、[[クオリア]]とは別に魂のような主体は必要ないという立場であるという。また三浦俊彦の見解によれば、トーマス・ネーゲルのように、ウィトゲンシュタイン独我論と問題の本質を共有する[[意識の超難問]]を主張する論者は英米圏では僅かであるという。

私の考えでは、そのような現代の心の哲学の主流的考えも、またウィトゲンシュタインの独我論にも、既に述べたような堆積のパラドックスに似た問題が派生するゆえに難があると思う。ウィトゲンシュタインが観たように「私」の存在は独我論的であるように思える。しかし猫やウサギにも心はあるように思えるし、ならばバッタやゾウリムシはどうなのだと疑問は止まらない。

実は、以上のようなジレンマを一気に解決してしまうアクロバットな存在論がある。それは、すべてのものは「唯一の存在」の属性であるとする[[一元論]](絶対一元論)の立場である。この立場をわかりやすく説明するなら、百人の人物がいてみんなが「我思う」と考えていたとしても、その「我思う」は「唯一の存在」の属性として一つだけがあり、また微生物にもクオリアがあるように見えても、そのクオリアも微生物じたいも「唯一の存在」の属性である、と考えるのである。これは、[[パルメニデス]]や[[スピノザ]]の形而上学である。また現代の心の哲学者の中でも[[デイヴィッド・チャーマーズ]]は「情報の二相理論」で、時空さえその内部の属性として規定しうる一元論的な形而上学を展望している。

----
・参考文献
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹 訳 岩波文庫 2003年
入不二基義『ウィトゲンシュタイン「私」は消去できるか』NHK出版 2006年
永井均『ウィトゲンシュタイン入門』ちくま新書1995年
・参考サイト
http://plaza.rakuten.co.jp/oniyannma9/diary/200704010002/

----