デイヴィッド・ヒューム

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  • デイヴィッド・ヒューム
    ...続性 概説 デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)は、スコットランド・エディンバラ出身の、英国経験論を代表する哲学者。スコットランド啓蒙の代表的存在とされる。ジョージ・バークリーの観念論と現象主義を継承して発展させ、自我さえも「感覚の束」であるとしてその実在性を否定した。この自我論は後に無主体論とも呼ばれ、現代の心の哲学では主流の立場になる。 ヒュームは懐疑主義を徹底し、それまでの哲学が自明としていた知の成立過程の源泉を問い、それまで無条件に信頼されていた因果律を、論理的なものでなく連想の産物であると見なし、数学を唯一確実な学問とした。また科学哲学においては自然の斉一性仮説を提唱した。 知覚――印象と観念 ヒュームは人間の「知覚(perception)」を、「印象(impression)」と「観念(idea)」に分ける。印象とは直...
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  • ドナルド・デイヴィッドソン
    概説 出来事 心の全体論 概説 ドナルド・ハーバート・デイヴィッドソン(Donald Davidson,1917年3月6日 -- 2003年8月30日)はアメリカの哲学者。意味論と行為論を中心に言語哲学を研究。主著に『行為と出来事』、『真理と解釈』がある。心の哲学においては行動主義を批判して、トークン同一説の一種である非法則一元論を主張した。人格の同一性問題に関してはスワンプマンの思考実験を考案している。 デイヴィッドソンは唯物論者であり、どんな心的出来事も物理的に正しく記述できるという立場であるが、実際には人間は自由意志で行動しており、従ってその自由意志を包括した唯物論が見出されなければならないと考えた。心的なものと物理的なものは事実として相互作用している。相互作用するならばその科学法則は決定論的――法則論的であるはずである。しかし心的出来事は非法則的である。これは一見矛...
  • 一元論
    ...える。ライプニッツやデイヴィッド・ヒュームがこの立場である。 2、「唯一」のものだけがあるとする考え 数的一元論(numerical monism)または絶対一元論とも呼ばれる。世界には多様なものが存在しているように見えるが、実はそれは唯一の存在者の属性であると考える。インド哲学における梵我一如がその立場である。西洋ではパルメニデスが最初に主張し、パルメニデスの思想はスピノザの汎神論や、ヘーゲルの形而上学に継承されている。 参考文献 三浦要『パルメニデスにおける真理の探究』京都大学出版会 2011年
  • 自己
    ...の実在を否定したのはデイヴィッド・ヒュームであり、彼は自己とは知覚の束であると考えた。この種の立場を進めると究極的には、昨日の「私」と今日の「私」は、タイプ的には同一であっても、異なったトークンであると考えることもできる。 一般的に物理主義や性質二元論の立場を取る哲学者は、さまざまに変化している精神現象・クオリアを担う主体としての魂のような「何か」を想定していない。しかしジョン・サールは「生物学的自然主義」を標榜するものの、「私が私である」と感じさせる形式的な原理を想定する必要がある、という主張を行っている。 参考文献 デレク・パーフィット『理由と人格 非人格性の倫理へ』森村進 訳 勁草書房 1998年 ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社 2006年 参考サイト 自己 http //ja.wikipedia.org/...
  • イマヌエル・カント
    ...イギリス経験論、特にデイヴィッド・ヒュームの懐疑主義に強い影響を受けた。そしてライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学を「独断論のまどろみ」と呼んでその影響を脱し、合理論と経験論、そして懐疑主義を綜合する哲学体系を構築する。そしてその認識論をもとに倫理学や美学などを発展させ、政治哲学においては『永遠平和のために』において、後の国際連盟の思想的基盤となる世界市民法と自由な国家の連合を構想した。 物自体と認識の形式 人間に経験可能な現象の世界と、経験不可能な物自体の世界を峻別し、現象を経験可能にさせる条件・形式を考察するのがカント哲学の基本である。 カントによれば、人間の認識能力には感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリ(先験的)にそなわっている。感性には純粋直観である空間と時間が、悟性には因果性などの 十二種類の純粋悟性概念(カテゴリー)が含まれる。意識はその感性と悟性にし...
  • 機会原因論
    ...な立場の哲学者であるデイヴィッド・ヒュームの懐疑主義的な因果関係論と通じるものがある。 参考文献 小林道夫『科学の世界と心の哲学』中公新書 2009年 参考サイト http //www.furugosho.com/precurseurs/malebranche/occasion.htm
  • 現象
    ...ョージ・バークリー、デイヴィッド・ヒューム、エルンスト・マッハ、A.J.エイヤー、大森荘蔵などに代表される。現代でも論理実証主義や操作主義(operationalism)でその方法論が用いられている。 哲学の歴史では、紀元前のパルメニデスが、変化する現象は矛盾だとして不変の実体を想定したことから、現象についての哲学的考究が始まる。パルメニデス以降の哲学者は、変化する現象と不変の実体とを調和させるため、イデア論や原子論など、さまざまなアイデアを考案することになる。 中世スコラ哲学においては、実在する対象に対応するかしないかによって「現象」か「仮象」に区別されることもあった。 ジョージ・バークリーは、客観世界の実在性を否定して現象のみが存在するとした。これが現象主義の始まりである。 イマヌエル・カントは、現象を物自体と対比した。人間には感性と悟性の二種の認...
  • 独我論
    ...特にラッセルの場合はデイヴィッド・ヒュームと同様に人格はそれ自身で存在するのでなく、他の何かの集合であるとする人格の同一性における還元主義を含意しており、ヒュームの場合それは観念論的な立場の「知覚の束」であったが、ラッセルは中立一元論の立場から「出来事」と呼んでいる。 参考文献 永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年 バートランド・ラッセル『哲学入門』高村夏輝 訳 筑摩書房 2005年 ジョン・R・サール『MiND 心の哲学』山本貴光・吉川浩満 訳 朝日出版社 2006年 S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 勁草書房 1999年 参考サイト 独我論 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%88%91%E8%AB%96 フッサールの方法とその諸問題...
  • デイヴィッド・チャーマーズ
    概説 意味の一次内包と二次内包 構造的コヒーレンスの原則 構成不変の原則 情報の二相説 汎経験説 補足 概説 デイビッド・ジョン・チャーマーズ (David John Chalmers、1966年4月20日 - )はオーストラリアの哲学者。1982年、高校生のとき数学オリンピックで銅メダルを獲得する。インディアナ大学で哲学・認知科学のPh.Dを取得。2006年現在オーストラリア国立大学の哲学教授であり、同校の意識研究センターのディレクターを務めている。心の哲学において意識のハードプロブレムをはじめ多くの問題提起をし、この分野における指導的な人物の一人となっている。 チャーマーズはクオリアと呼ばれる内面的な心的体験を、実体(英 entity)的に捉え、質量やエネルギーなどと並ぶ基礎的な物理量のひとつとして扱い、その振る舞いを記述する新しい物理学を構築すべきだと主張する。そして...
  • 永井均
    ...の要素の集合」とするデイヴィッド・ヒュームやデレク・パーフィットとは対極の立場である。永井は端的に私であるという事実は、私が持っている個々の心理的事実とは何の関係もなしに成立しているとし、私であるためには心理的継続性を超える説明不可能な事実が必要であるという。またそのことから、〈私〉が「隣の席の人」であったことが可能であると考え、そしてまた「隣の席の人」に「なる」ことが不可能なことに、〈私〉の存在性格に関する最も本質的な問題があると考える。(『転校生とブラックジャック』p.4,p.72) 思考実験として、宇宙のどこかに地球と同じ星(双子地球)があり、地球の人物Aと物理的性質が同じ人間、人物A2がいるとする。その人物A2が人物Aと同じように物事を考えることが出来たとしても、即ち精神的性質が同一だったとしても、やはり人物A2は「人物Aにとっては〈自分〉ではない」ということは明白で...
  • 無主体論
    ...あり、同種の考え方はデイヴィッド・ヒューム、エルンスト・マッハ、バートランド・ラッセル、大森荘蔵、西田幾多郎にも見出すことができる。ただしシュリックやストローソンは言語哲学の立場から主張したものであり、直接経験の帰属先として暗に「肉体」が主体として想定されている。それに対しヒューム、マッハ、大森は現象主義という形而上学的な立場から心身二元論を否定しており、全く性質が異なる。彼らの立場は「形而上学的無主体論」というべきものである。 非人称表現 "It rains." の "It" は非人称表現であり、それは具体的な何かを指しているわけではない。「非人称」とは一人称でも二人称でも三人称でもなく、人称「以前」であり、「誰」とか「何」とか明確な主体(主語)が立ち上がってない状態である。デカルトの「我思う」も本当は非人称表現、すなわち「我」を消去...
  • 現象主義
    ...バークリーに始まり、デイヴィッド・ヒュームにおいてひとつの哲学的立場として完成した。実在論が意識から超越した実在を認めるのに対し、現象主義は意識内在主義の立場を取り、世界および自我を「知覚現象の束」として説明する。近代における代表的な論者はエルンスト・マッハであり、マッハの思想はアインシュタインなどの科学者や、フッサールやウィーン学団の哲学者、論理実証主義者たちに影響を与えた。日本では大森荘蔵が現象主義の方法論を透徹し、〈立ち現われ一元論〉を主張した。 現象主義は、論理実証主義に代表される還元主義的な現象主義と、大森荘蔵に代表される非還元主義的な現象主義に大別される。還元主義的な立場では「感覚与件」という現象の「原子」のような存在を措定し、それらの組み合わせで知覚・観念・思惟など、全ての現象が構成されていると考える。対して非還元主義的立場では、それぞれの現象は他の何ものにも還...
  • ルネ・デカルト
    ...体論も参照のこと) デイヴィッド・ヒュームはデカルト批判を透徹し、コギト=自我そのものの存在を解体した。ヒュームの方法はバークリーの経験論を継承して極限まで進めたものだ。バークリーによれば存在するものは全て、実在でなく自我の中における感覚・表象の束にすぎない。ヒュームは更に懐疑する。その自我なるものは存在するか? そう問うのは一体何なのか? 自我という感覚・表象は実際に無い。「自分」と呼ばれるものの中を詳しく見ればわかる。そこにあるのは個別的な感覚や観念だけである。その個別的な感覚や観念なしには決して「自分」と呼ばれるものを捉えることはできない。つまり自我というものはさまざまな感覚・観念の経験によって構成された、さまざまな観念の束にすぎないのだ。水面に現れては消える泡のような個別的な感覚・観念たちが、「私の感覚」「私の観念」とすり替えられ、個別的体験の結果に過ぎないものたちから原因、...
  • 非法則一元論
    非法則一元論とは、心の哲学における物理主義的な立場のひとつ。ドナルド・デイヴィッドソンにより主張された。「非法則的」とは「法則論的」の逆の意味であり、心的出来事に法則が当てはまらないとすることで「非法則的」であるが、心的出来事が物理現象(脳の状態)と同一であるとすることで「一元論」である。 非法則一元論は、物理主義でありながら、心的なものを物質的なものに還元できないと考える。このようなタイプの物理主義を「非還元的物理主義」という。心的性質を物理的性質と同等のものとみなすため、非還元的物理主義は物理主義的一元論を自称していても性質二元論の一種とみなされることもある。 デイヴィッドソンは、心身の関係には以下の三つの原理があるとする。 (1)因果的相互作用の原理――心身の(限定的な)相互作用 (2)因果性の法則論的性格――出来事の原因と結果の厳密な法則性 (3)心的な...
  • 意識の二面性
    意識の二面性、または意識の多義性とは、「意識」というものには本人にしか知られない主観的側面と、第三者からも観測できる客観的な側面の二つがあるということ。またそのために「意識」という用語がさまざまな意味で使われているという状況を指す。 このような混乱した状況は心の哲学の研究にとって障害となるため、デイヴィッド・チャーマーズは意識という概念を以下のように「機能的意識」と「現象的意識」の二種類に分けた。 1、機能的意識 機能的意識とは、「人間が外部の状況に対して反応する能力」のことである。脳を物体として捉える観点から言えば、入力信号に対して出力信号を返す脳の特性としての意識であり、外面的に観測することができる客観的な特性である。心理学的意識とも言われる。 2、現象的意識 現象的意識とは、「主観的で個人的な体験」のことであり、他者からは観測できない個人の主観的な特性とし...
  • クオリア
    ...次性質」という概念、デイヴィッド・ヒュームの「印象」という概念などもクオリアとほぼ同義の言葉である。また東洋哲学においては仏教における「六境」という概念がクオリアに近い意味を持つ。 それら類義語に対し、クオリアとは自然科学的なスタンスから使われる用語である。 クオリアについての論争 20世紀後半になってトマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどのようなことか」や、フランク・ジャクソンの、マリーの部屋などの思考実験によって、クオリアの問題は現代の物理学では扱われていないという主張がなされた。そして1995年からデイヴィッド・チャーマーズが発表した一連の論文によってクオリア問題は大きな転換点を迎える。チャーマーズは哲学的ゾンビという「想像可能性論法」によって、クオリアは物理的性質に論理的に付随しないことを主張したのである。これは物理主義の否定であった。このことによってクオリ...
  • 動物の心
    ... このような解釈はデイヴィッド・ヒュームの哲学に前例を見ることができる。ヒュームはジョージ・バークリーを批判して、自我の存在を否定した。「自分」といわれる存在の中を見回しても、あるのは「感覚の束」だけだというのがヒュームの考えである。カタツムリやミミズにも何らかの感覚があると仮定したとしても、自我も備えていると考えることは神経構造の単純さから難しい。ならば、人間のような複雑な種が備えている自我なるものは何か。進化の過程で突然生まれたと考えることはできるが、それは進化の過程で突然神様から「魂」をもらったと考えるのに等しいのではないか。 バークリーは抽象概念の存在を否定していた。抽象観念ともいう。抽象観念とは、具体的な観念、机やパソコンから抽出された机一般の観念やパソコン一般の観念、つまり「普遍」である。自我の概念も、個別の感覚や観念から抽出された抽象観念にすぎないのかもしれな...
  • ジョージ・バークリー
    ...義という方法論は後のデイヴィッド・ヒューム、また近代の科学者エルンスト・マッハやウィーン学団の論理実証主義者たちに受け継がれている。 経験主義から観念論へ 経験主義は、全ての知識は五官を使って獲得される、または経験を通して得られるという説である。ほとんどの経験主義者は、感覚経験が不可能ならいかなる知識も不可能であると考える。経験主義は必ずしも観念論に至るというわけではなく、例えばトマス・ホッブズは唯物論者であり、ジョン・ロックは二元論者であった。しかしバークリーは、厳密な経験主義は必ず観念論に至るはずだと考えていた。彼は、存在すると確かに言えるのは経験だけだと考えていた。バークリーが物質的実体を拒否した理由には二つある。ひとつは経験から独立した実体の存在は決して知りえないというもので、もうひとつは「実体」という言葉が無意味だというものである。「感覚器官によって我々が知るのは、...
  • バートランド・ラッセル
    ...ングの分類を批判し、デイヴィッド・ヒュームと同型の無主体論を主張する。(以下は意訳して引用) 意識の作用(act)は不必要なものであり虚構のものである。思考内容の「出来事」が思考の出来事そのものである。作用に対応するものを私は経験的に見出すことが出来ない。また一方、それが論理的に必要だという理由も見出せない。 act は主語の幽霊である。 思考は取り集めて束にされることができ、その結果、ある束が私の思考、もう一つが君の思考、そして三番目がジョーンズ氏の思考となる、ということはもちろん正しい。しかし私は、人というものが単一の思考における構成要素ではないと考える。 it rains here というように it thinks in me と言うほうがいい。(pp.11-12) われわれはジョーンズが歩くと考え、そして歩行するジョーンズのような何者かが存在するのでなけ...
  • 付随性
    付随性(ふずいせい、英 Supervenience)とは、ある現象が、それと異なる現象に依存している性質であり、現象同士の非対称的な依存関係を指す。現象Aが現象Bに付随しているということは、Aのどんな変化も、Bの特定の変化に対応しているということであり、Aが完全にBに依存しているということである。逆にBはAに依存せずに変化できる。これが非対称的な依存関係である。 心の哲学における付随性とは、クオリアや現象的意識など心的な性質(高次の存在者)は、ニューロンの活動など脳の物理的な状態(低次の存在者)に付随(supervene)しているという仮説である。心的な存在を「高次」、物理的存在を「低次」とするのは、物理的存在を基礎にして、その上に心的な存在が成り立つという物理主義的前提を含意している。この仮説からは心的因果の問題が派生することになり、さまざまな議論がなされている。 近年...
  • 自然主義的二元論
    概説 自然主義的二元論(英 Naturalistic dualism)とは、デイヴィッド・チャーマーズが意識のハードプロブレム、すなわち物質としての脳からどのようにして現象的意識やクオリアなどが生まれるのか、という問題に対して取る自分の立場を呼ぶ名称であり、その問題の解決のためには物理学の理論の存在論的拡張が必要だという主張のことである。 自然主義とは、自然が存在するものの全てであり、心的現象を含む一切は自然科学の方法で説明できるとする哲学的立場のことである。 チャーマーズは意識が物理理論に論理的に付随しないことを哲学的ゾンビの思考実験などで論じ、それを理由に、物理特性以外にさらにこの世界を形作っているものがあるとして、以下のように唯物論を批判する。 1、我々の世界には意識体験がある。 2、物理的には我々の世界と同一でありながら、意識体験が無い世界が論理的に存在...
  • 時間と空間の哲学
    ...イマヌエル・カントはデイヴィッド・ヒュームの徹底した懐疑主義を受け、時間と空間は直感に与えられた形式だと考えた。つまり時空によって直感される一切のものはわれわれに経験される「現象」であって、実在としての「物自体」ではないということである。現象としての世界を実在するものと見立て、無限大や無限小を想定することからアンチノミーの難問に陥るとしたカントの認識論を拡張すれば、ジョン・ロックが物質に属するとした一次性質――延長・形状・運動・数なども、実は彼のいう二次性質――我々の知覚の性質だと考えることもできる。短い、長い、広い、という抽象観念があり、人間はそこからさらに空間という抽象観念を導き出す。空間が実体としてあるのでなく、あるのは人間の個別の観念と概念だけかもしれない。時間についても同じことである。 このカントの時間・空間論の核心は、時空が実在する世界に属するものでなく、人間の主...
  • アウェアネス
    概説 意識とアウェアネスの違い 概説 アウェアネス(英 awareness)とは、認知科学や心の哲学の用語で、人が自分の精神や知覚の情報にアクセスできて、その情報を直接的に行動のコントロールに利用できる状態(direct availability for global control)」のことを言い、日本語で「気づき」とも訳される。自覚状態を指すため「覚醒」という意味もある。 茂木健一郎は以下のように説明している。 部屋で本を読んでいる時など、突然、換気扇の音や、冷蔵庫の音に注意が向けられることがある。これらの音は、アウェアネスの中ではクオリアとして成り立っていたのであるが、注意が向けられていなかったので、それと把握されたり、言語化されたり、記憶に残ったりすることがなかったのである。(茂木 2004 50) 電車でぼんやり窓外を見ていると、さまざまな光景が...
  • スワンプマン
    スワンプマン(英 Swampman、「沼男」の意味)とは、1987年にアメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンが考案した、人格の同一性問題を考えるための思考実験。 ある男が沼にハイキングに出かける。この男は不運にも沼の傍で突然雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷がすぐ傍に落ち、沼の汚泥に不思議な化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一形状の人物を生み出してしまう。 この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルまで死んだ瞬間の男と同一の構造をしており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一である。沼を後にしたスワンプマンは死んだ男が住んでいた家に帰り、死んだ男の家族と話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みながら眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通ってい...
  • 物理主義
    概説 歴史 物理主義の問題 概説 物理主義(英 Physicalism)とは、この世界の全ての物事は物理的であり、また世界の全ての現象は物理的な性質に還元できるとする哲学上の立場である。心の哲学においては心的なものの実在性を否定して、物理的なものだけが実在するとし、心的因果を否定する。一元論の一種。物質一元論とも呼ばれる。 「唯物論(Materialism)」は同じ立場の思想であり、物理主義という語と互換的に用いられている。唯物論という用語は17世紀のライプニッツによるものであるが、物理主義とは20世紀のオットー・ノイラートの定義によるもので、論理実証主義から派生した概念であり、歴史的脈絡が異なるというだけである。 「物理的」という言葉の定義は、時空間的であり運動できるもの、とされている。 柴田正良によれば、人間の精神を素粒子群の運動や配置に還元するのが素朴...
  • スピノザ
    ...あり方については後のデイヴィッド・ヒュームの無主体論の類型である。スピノザは、全ての観念は神が思考属性で様態化したものであるとする。個人の自我は存在せず、ただ観念の連鎖があるのみである。事物は他の事物を原因として生じ、かつ別の事物の原因となる。その連鎖が無限にある。それと同じ原理で観念の無限の連鎖がある。たとえば「観念Aを思考Bが理解している」とは、神が観念Aという様態になり、それを対象化する思考Bに神がなるということである。このような観念の無限の連鎖が「無限知性」であり、われわれ人間個人の知覚は、その無限知性のごく一部ということである。その人間個人の限られた観念の連鎖を、スピノザは「魂」とみなす。もちろん神のみが唯一の実体とするスピノザにおいて、それはキリスト教でいう魂の概念とは全く異なっている。また限られた個別的な知覚の連鎖は、人間だけでなく動物にもあるだろう。従ってスピノザは「...
  • 還元・創発・汎経験説
    概説 還元説 創発説デイヴィッド・チャーマーズによる解説 汎経験説 諸説への批判 概説 クオリアというものが一体どこから、どのようにして生じているのかは全くの謎である。現代の科学においても、脳の神経細胞の作用に対応して存在していることだけが事実として認められている。言い換えると脳科学が明らかにしたのは、心的現象と脳の作用に因果的な隣接関係が見出せるということのみであり、脳の作用は心的現象を生じさせる十分条件であると論証できないどころか、必要条件の一つであるとも論証できないのである。多数の哲学者や科学者たちを取材したスーザン・ブラックモアは、学者たちの間では旧来の「脳が意識を生み出す」という表現から、「脳と意識は相関する」という表現に変えるのが流行しているという。 歴史的には心的現象は「魂」の作用であるとする二元論的な立場と、心的現象は物質の運動に還元されるとする原子論的な立...
  • 随伴現象説
    概説 利点と問題点 概説 随伴現象説(ずいはんげんしょうせつ、英:Epiphenomenalism)とは、物質的な脳と現象的意識やクオリアといった心的なものとの因果関係(心的因果)についての仮説で、心的なものは物質的な脳の作用に還元できないが、脳の作用に付随して生じるだけの現象にすぎず、物質的な脳に対して何の作用ももたらさない、とするものである。物理領域の因果的閉包性を前提にして主張される。 T.H.ハクスリーは随伴現象説のセオリーを「警笛と機関車」の例えで説明している。機関車は警笛を鳴らすことができるが、警笛は機関車を動かすことはできない。「警笛と機関車」を「物質と意識」に置き換えればわかりやすい。 心的なものの状態は脳の物理的な状態によって決まるが、心的なものは脳の物理的な状態に対して何の影響も及ぼさない。 これが随伴現象説の主張である。 随伴現...
  • 現象判断のパラドックス
    現象判断のパラドックス(英:Paradox of phenomenal judgement)とは、心の哲学において議論される意識についてのパラドックスである。現象報告のパラドックスとも呼ばれる。「現象」とは意識の主観的側面である現象的意識やクオリアのことである。デイヴィッド・チャーマーズが意識のハードプロブレムについて論じた文脈で言及したパラドックスであり、「現象的意識が脳の物理状態に対して何の影響も及ぼさないなら、なぜ私達は現象的意識やクオリアについて判断でき、また語れているのか?」という問題である。 このパラドックスは意識というものを、機能的意識と現象的意識という二つの概念(意識の二面性)に分離することから生じるものである。二元論の立場では、現象的意識は物理的性質には還元できないものとするが、同時に物理的なものが因果的に閉じていること(物理領域の因果的閉包性)を認めるならば、現...
  • 中立一元論
    中立一元論(英:Neutral monism)とは、心身問題についての考え方のひとつで、心的だとか物理的だとかいうものは、ある一つの実体、または出来事の、二つの性質のことだとする理論である。性質二元論はほぼ同じ立場である。 中立一元論は物質的なものと心的なものが実在するとする実体二元論と対立する。また存在論的には一元論であるが、物理的なものだけが存在するとする物理主義や、心的なものだけが存在するという唯心論と対立しつつ、その両者の中間的位置を取る。バートランド・ラッセル、ウィリアム・ジェイムズ、ピーター・ストローソンがこの立場である。デイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論は中立一元論の一種である。スピノザは汎神論的な一元論者であるが、心身問題に関しては中立一元論といえる。 中立一元論は、心的なものについての説明が困難な物理主義の欠点と、物理的なものの実在性と対立してい...
  • 観念論
    ...バークリーの観念論はデイヴィッド・ヒュームに継承され、そのヒュームにおいては人間が直接経験できない「自我」の存在も否定された(自我は感覚を対象化する作用であり、自らは対象化されないからである)。英国経験論の方法論は、オーギュスト・コントの実証主義に影響を受けたエルンスト・マッハの「新実証主義」に継承される。マッハの思想は「現代経験主義」とも呼ばれ、またマッハ以降は形而上学的含意のある「観念論」とは呼ばず「現象主義」と呼ぶのが一般的である。なおマッハの影響を強く受けて発足したウィーン学団の、ルドルフ・カルナップたちから始まる「論理実証主義(Logical positivism)」という思想運動は「論理経験主義(Logical Empiricism)」とも呼ばれ、その思想運動に大きな影響を与えたバートランド・ラッセルやウィトゲンシュタインもマッハ思想の後継者である。 観念論に対する...
  • 実在論論争
    ...のバークリーの哲学はデイヴィッド・ヒュームに受け継がれ、ヒュームにおいては「因果関係」さえ実在性が否定された。イマヌエル・カントはバークリーの現象主義やヒュームの懐疑主義を受けて、物自体と現象界を区別し、基本的に観念論の立場を取りながらも、時間と空間はアプリオリ(経験に先立つ)なものだとして、現象主義と実在論を調和させようとした。このようなデカルト以来の「世界」の実在に関する論争を伊勢田哲治は「古典的実在論論争」と呼んでいる。 19世紀に入って、全ての物は目に見えない原子や分子から構成されているという原子論が台頭し、実在論論争は原子というものが科学理論とは独立に存在するのか、それとも原子というのは理論上の道具に過ぎないのか、という問題が焦点になる。これが今日まで続くことになる科学的実在論論争の原型であり、要するに「目に見えないものの実在」に関する論争である。 古典的実...
  • 現象的意識
    現象的意識とは、意識の性質のうち、客観化できない主観的な内容のことである。心の哲学においては、客観化できる意識の機能的な側面と対比させて、現象的な側面を指す場合によく使われる。 クオリアという用語は現象的意識とほぼ同じ意味で用いられることがある。たとえば表象主義では、意識の「現象的側面(phenomenal aspect of consciousness)」がクオリアと呼ばれる。 現象的意識という用語はネド・ブロックが案出した。ブロックは「現象的意識(phenomenal consciousness)」と「アクセス意識(access consciousness)」を区別した(Block 1995)。 ブロックは現象的意識の本質を、トマス・ネーゲルが「コウモリであるとはどういうことか」という論文で述べた語句を引用して説明する。つまり「生物が意識的な心的状態をもつのは、...
  • 意識のハードプロブレム
    意識のハードプロブレム(英:Hard problem of consciousness.) とは、物理的な脳からどのようにしてクオリアなどの心的現象が生まれるのか、またその心的なものは物理的な脳とどのような因果関係(心的因果)があるのかという問題である。1994年、オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズによって、これからの科学・哲学の課題として提起された。対置されるのは意識のイージープロブレム(Easy Problem of Consciousness)である。 意識のハードプロブレムは20世紀後半の神経科学の発展によって、意識に関する大きな問題はもう残されていないと考えていた神経科学者や認知科学者に対する批判として提示された。当時の研究者が解決したと考えていたのは意識のイージープロブレム――脳の神経細胞がどのように情報を処理するかという問題であり、その1.5kgの灰色の...
  • 機能主義
    概説 目的論的機能主義 ブラックボックス機能主義 コンピューター機能主義 機能主義に対する批判 概説 心の哲学における機能主義(英:Functionalism)とは、心的な状態とはその状態のもつ機能によって定義されるという立場。 心的状態をその因果的な役割によって説明し、「心とはどんな働きをしているのか」を考えることが「心とは何か」という問いの答えとなるという立場である。 たとえば腕を強く打ったりすることの結果として生じ、打った腕を押さえたり顔をしかめたりすることの原因となる心的状態が「痛み」であるとされる。またそのように因果作用をもたらす心的性質を機能的性質(functional property) という。つまり心的状態とは知覚入力の結果であり、行動出力の原因であり、また他の心理状態の原因や結果であると考える。 行動主義やタイプ同一説の問題点を踏まえた上で、それ...
  • トロープ説
    概説 心の哲学におけるトロープ説 概説 トロープ(Trope)とは現代の分析形而上学における用語で、個物の個別的性質のことである。個別的属性とも呼ばれる。 たとえば赤い郵便ポストの前に赤い車が停まっているとする。その場合「赤」という普遍的性質が、郵便ポストと車に個別化して存在しているものが「赤」のトロープである。 個物とトロープの関係は「全体」と「部分」の関係の一種であり、トロープは全体の構成要素である。ただし個物なしでは存在できない「依存的存在者」である点が、通常の全体と部分の関係と異なる。丸いボールの「丸」のトロープの場合、個物であるボールが消えると同時に「丸」のトロープも消える。 普遍とトロープの関係は、「タイプ」と「トークン」の関係に似ている。しかしトークンとは普遍的な性質の実例であるのに対し、トロープとは普遍的な性質がある場所と時間において個別化し...
  • マリーの部屋
    概説 知識論法 三種類の応答タイプA タイプB タイプC 派生問題 概説 マリーの部屋(英:Mary s Room)、またはスーパー科学者マリー(英:Mary the super-scientist)とは、1982年にフランク・ジャクソンが提示した物理主義、特に機能主義を批判する内容の思考実験である。 マリーは聡明な科学者であるが、なんらかの事情により、白黒の部屋に閉じこもり、白黒のテレビ画面を通してのみ世界を調査している。彼女の専門は視覚に関する神経生理学であり、我々が熟したトマトや晴れた空を見るときに感じる「色彩」についての全ての物理学的、神経生理学的情報を知っている。また「赤い」や「青い」という言葉が我々の日常生活でどのように用いられ、機能しているかも知っている。さて、彼女が白黒の部屋から解放されたり、テレビがカラーになったとき、何が起こるだろう。彼女は何か新しいこと...
  • 固定指示子
    固定指示子(rigid designators)とは、ソール・クリプキが主張する概念。全ての可能世界において、つねに同一の対象を指し示す表現と定義される。人物の名前などがこれにあたる。心の哲学では心脳同一説に対する批判として用いられる。 サマータイムの発案者であるベンジャミン・フランクリンは固定指示子である。しかし「サマータイムの発案者」という表現はベンジャミン・フランクリンを指し示すものであっても固定指示子ではない。ベンジャミン・フランクリンがサマータイムの発案者でない可能世界は容易に想像できるからだ。なおこの場合、固有名の用い方は現実世界に準拠しているという点が重要である。ベンジャミン・フランクリンという名の猫がいる可能世界が仮にあったとしても、その猫は何の関係もない。 固定指示子の概念からクリプキは同一性文「AはBである(AとBが同一であることを示す文)」の考察を進め...
  • 大森荘蔵
    ...考形式であり、むしろデイヴィッド・ヒュームやバートランド・ラッセルの立場に近い。大森は立ち現われを提唱する前段階として、イマヌエル・カントのような主体による「統覚」を想定する思考形式を、「加工主義」と呼んで批判していた。たとえば「私が見る」という場合、「私」という主体が客観世界を、時空という感性の形式と因果のような悟性の形式によって加工されて認識が成立すると考える。しかし、加工するという場合、加工される前の素材が想定されなければならないが、そのような想定は無意味である。例えば「赤いボールがある」という場合の「赤」については、既に人間に知覚されたものであり、知覚されない「赤」はないといえる。加工される前の素材を人間は云々することはナンセンスである。人間には加工済みのものだけが与えられているのだから、「加工」というプロセスは不要のものであり、主観や主体の働きは必要でない。したがって赤いボ...
  • 性質二元論
    概説 類似の概念 概説 性質二元論(英:Property Dualism)とは、心身問題に関する形而上学的な理論のひとつで、この世界に存在する実体(physical substance)は一種類だが、それは心的な性質(mental property)と物理的な性質(physical property)という二つの性質を持っているという考え。中立一元論と類似の概念である。なお Property Dualism は特性二元論、、特徴二元論、属性二元論などとも訳される。 同じ二元論に分類される実体二元論は、物理的実体とは別に、心的実体を置く。それに対し性質二元論は、クオリアなどの心的現象と脳の物理的現象はある一つの実体の二側面であると考える。したがって性質二元論は、存在論的には一元論を前提にしている。歴史的に初めてこの考えを主張したのはスピノザである。 性質二元論の構図 ...
  • 還元主義
    概説 還元の種類 概説 心の哲学における還元主義(Reductionism)とは、心的なものの存在は物理的なものの存在に還元できるという唯物論的な考え方であり、心脳同一説及びトークン同一説を前提とした機能主義や表象主義がその立場である。 還元主義な方法では現象的意識やクオリアは説明できず、心身問題は解決できないとする立場が二元論や中立一元論である。なお唯物論であっても消去主義はクオリアを消去しようとする立場なので還元主義とはいえない(ただし後述する「定義的還元」に該当する可能性がある)。また心理学的な行動主義やブラックボックス機能主義は、クオリアの存在論的身分を棚上げするので還元主義には該当しない。 スティーブン・ホーストは自然科学における還元の限界が心の哲学の議論にも適用できるのではないかと主張している。デイヴィッド・チャーマーズは『意識する心』で、意識が物理的な...
  • 逆転クオリア
    概説 逆転地球 思考実験のアレンジ 概説 逆転クオリア(Inverted qualia)とは、自分と同じ物理現象を体験している他者が、自分とは異なるクオリアを体験している論理的可能性を指摘するもので、哲学的ゾンビ同様の想像可能性論法である。思考実験では同じ波長の光を受け取っている異なる人間が、異なる「色」を経験するパターンがよく用いられる。逆転スペクトル(Inverted spectrum)やスペクトルの反転とも呼ばれる。 例えば自分と他者が同じリンゴを見ていても、自分には赤く見えるが他者には青く見えている可能性があると考える。この場合、その他者には「赤」という言葉がそのリンゴの「青い色」を指しているのだから言葉ではクオリアの逆転を知ることはできない。リンゴの青と他の色とを区別できるのだから色盲テストもパスできるし、信号が赤に変わればその他者は自分と同じように停まる。自分と...
  • コウモリの視点
    アメリカの哲学者トマス・ネーゲル(Thomas Nagel, 1937年7月4日 - )は、論文「コウモリであるとはどのようなことか?」(1974年)で、機能主義的な物理主義に対する反論として、意識・クオリアの主観性をコウモリを例にして主張した。 コウモリはどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音を元に周囲の状態を把握している(反響定位)。コウモリはこの反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違った風に感じるのか……。コウモリの感じ方を問うことは出来るが、しかし人間はその答えを知る術を持ってはいない。 この問いで注意すべきなのは、人間がコウモリのような生活をしたらどのように感じるかということではない。それは人間である私にとってどのようなことか、という「私の視点」にすぎない。ネーゲルが...
  • 人格の同一性
    ...が現れる。 デイヴィッド・ヒュームは魂のような精神的実体を否定し、人格の同一性問題に対してニヒリズムの立場を取った。ヒュームは個別の知覚(クオリア)たちは全て別個の存在であり、知覚たちに結合はないと考えた。つまり人は持続的に世界を知覚しているが、知覚は常に微妙に変化しており、僅かでも変化した知覚は以前とは別の存在だということである。従って知覚たちに通時的な同一性を見出そうとするのは無意味だということである。 ヒュームからすれば、過去の私の心と今の私の心に「つながり」などないということになる。人格の同一性とは虚構(a fictitious one)であり、人が見出すのは虚構の知覚の結合であり、ただ諸々の知覚が「私のもの」として統一されているように「感じる(feel)」だけである。ヒュームにとって人格の同一性とは、知覚の結合ではなく、観念の類似性と因果性によって想像された...
  • ダニエル・デネット
    概説 クオリア批判 人工知能擁護 批判 概説 ダニエル・デネット(Daniel Clement Dennett, 1942年3月28日 - )はアメリカの哲学者。2005年2月現在、タフツ大学教授。同大学認知科学センター監督官。1963年ハーバード大学卒業後、1965年オックスフォード大学にてPh.D取得。ハーバードではW・V・O・クワインに、オックスフォードではギルバート・ライルに師事。心の哲学では物理主義の代表的な人物である。 他者の内省報告を観察データとして認める「ヘテロ現象学」(Heterophenomenology)を掲げ、行動主義に陥ることなく、観察可能なデータから主観的意識の問題を扱えると主張する。 デネットは意識と脳の神経的なプロセスを異なる次元のものとして考えてきた心身二元論というデカルト以来の哲学的伝統を批判する。意識をつかさどる中央処理装置カル...
  • 哲学的ゾンビ
    概説 想像可能性論法 2つの哲学的ゾンビ 意識の定義――機能的意識と現象的意識 ゾンビ論法的思考実験の歴史 物理主義からの批判 補足 概説 哲学的ゾンビ(英:Philosophical Zombie) とは、デイヴィッド・チャーマーズによって提起された心の哲学における思考実験である。外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、内面的な経験(現象的意識、クオリア)を全く持っていない人間と定義される。ホラー映画に出てくるゾンビと区別するために、哲学的ゾンビ(または現象ゾンビ)と呼ばれる。おもに性質二元論(または中立一元論)の立場から物理主義とその範疇にある行動主義や機能主義の立場を批判する際に用いられる。 哲学的ゾンビは、フランク・ジャクソンによるマリーの部屋の思考実験の発展型である。チャーマーズ自身も、マリーの部屋の「知識論証」は「ゾンビ論証」とペアになったときに最も力を...
  • 汎心論
    概説 原意識 組み合わせ問題 概説 汎心論(英:Panpsychism)とは、哲学・宗教において、世界のあらゆるものが心的な性質を持つとする考え方。 汎心論と呼ばれる思想は多様であるが、大きく分けて次の三種類のものがある。 1、原始信仰としてのアニミズム的世界観。およびそれに類するもの。 2、世界にあるものは心だけであると考える唯心論。 3、心の哲学の分野において、創発説や還元主義に対立するものとして語られる汎経験説(Panexperientialism)。 心の哲学における汎経験説とは、あらゆる物質に意識、あるいは意識の元となる性質(原意識)があるとする中立一元論的な考え方であり、バートランド・ラッセルが1927年の『物質の解析』で主張した。ラッセルの考えは物理学者のアーサー・エディントンにも支持され、エディントンは1928年の『物理的世界』で「...
  • パルメニデス
    ...している。 デイヴィッド・ヒュームは因果関係というものを考究し、原因と結果の結びつきを我々の心の習慣にすぎないものと考えた。すべての出来事は完全にばらばらに分離している。一つの出来事は別の出来事に続いて起こるが、しかし私たちはそれらの出来事の間にいかなる結びつきも決して見出すことはできない。それらは連接(conjoined)しているように見えるが、結合(connected)しているようには決して見えないと彼はいう。これは「変化」というものが人間の知覚から独立してあるのではない、という論述だとも受け取れる。事実、ヒュームは時間や空間の実在については懐疑的であった。 ヘーゲルはゼノンのパラドックスに対し、そこから帰結するのは、運動が存在しないということでなく、運動は定有する矛盾であるということだと結論している。もちろんヘーゲルの場合は、独自の弁証法によってその矛盾が解消さ...
  • 心の哲学全般
    概説 心の哲学の用語 自然主義 根本問題 概説 心の哲学(英 Philosophy of mind)とは哲学の一分科で、現象的意識やクオリアなど心的なものと、物質的な脳や身体との関係、そしてそれらの存在論的な位置づけを研究する学問である。 心の哲学の基本的なテーマは心身問題と心的因果であるが、心身問題は科学の領域では心脳問題として研究の対象となっている。歴史的には心身問題は心脳問題の前史としてあったということになる。 デイヴィッド・チャーマーズは、心的現象と脳の活動の対応関係を研究する神経科学の問題を「イージー・プロブレム」と呼び、その脳の活動からどのようにしてクオリアなどの心的現象が生まれるのか、またその心的なものは物理的な脳とどのような因果関係(心的因果)があるのかという問題を「ハード・プロブレム」と呼んでいる。近年の心の哲学ではその意識のハード・プロブレム...
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