バートランド・ラッセル

心の哲学まとめWiki内検索 / 「バートランド・ラッセル」で検索した結果

検索 :
  • バートランド・ラッセル
    概説 心の哲学におけるラッセルの見解 自我論 概説 バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell,OM,FRS 1872年5月18日 - 1970年2月2日)はイギリス生まれの論理学者、数学者、哲学者。 哲学者としては新ヘーゲル主義から経験主義に転向し、初期の論理実証主義に大きな影響を与える。無神論者であった。 ラッセルはウィトゲンシュタインの才能を早くに見抜き、親交を結んで互いに影響を与え合った。しかし後期のウィトゲンシュタインを始めとする日常言語学派には批判的であり、言語の分析を哲学の終点とみなさず、あくまで言語が指示する対象に拘り、独自に形而上学を探究した。 ラッセルは分析哲学の創始者の一人でもあり、その哲学は生涯に渡って変化を続けたものの、哲学的手法は終始一貫して分析的・論理的であった。...
  • 独我論
    ...現される。 バートランド・ラッセルは、推理によって自分の直接的経験を超える存在を認めない限りは、「今・ここ・私」という、瞬時における自我だけが存在するという独我論の可能性を否定できないとした。 ※ウィトゲンシュタインとラッセルの見解は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を最も厳密に規定したものであり、「私が今見ているもの」以外は全て実在ではない、また「私」ではない可能性を示唆している。特にラッセルの場合はデイヴィッド・ヒュームと同様に人格はそれ自身で存在するのでなく、他の何かの集合であるとする人格の同一性における還元主義を含意しており、ヒュームの場合それは観念論的な立場の「知覚の束」であったが、ラッセルは中立一元論の立場から「出来事」と呼んでいる。 参考文献 永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年 バートランド・ラッセル『哲学入門』高村...
  • メニュー
    ... ├ヘーゲル ├バートランド・ラッセル ├ウィトゲンシュタイン ├ギルバート・ライル ├ドナルド・デイヴィッドソン ├ピーター・ストローソン ├ジョン・サール ├ダニエル・デネット └デイヴィッド・チャーマーズ □永井均 □渡辺恒夫 □大森荘蔵 □廣松渉 □Wikipediaの関連項目リンク ├究極の問い ├形而上学 ├存在論 ├科学哲学 ├自我 ├インド哲学 ├唯識 ├時空の哲学 ├可能世界 ├普遍論争 ├現象学 ├ホーリズム ├アフォーダンス ├量子脳理論 ├隙間の神 ├人工意識 ├操作主義 └自由意志 ■お勧めサイト ├WEBで読む西洋テツガク史 └対戦型哲学史 メニュー編集
  • 中立一元論
    ...の中間的位置を取る。バートランド・ラッセル、ウィリアム・ジェイムズ、ピーター・ストローソンがこの立場である。デイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論は中立一元論の一種である。スピノザは汎神論的な一元論者であるが、心身問題に関しては中立一元論といえる。 中立一元論は、心的なものについての説明が困難な物理主義の欠点と、物理的なものの実在性と対立している観念論の欠点を、それぞれ回避しているという点で支持する者が多い理論である。 しかし現代の物理主義者は物理領域の因果的閉包性を前提に、中立一元論者がいう「性質としての心」も、因果的に排除可能だと論じており、心的因果を擁護できるか、また因果的提灯や現象判断のパラドクスを回避できるかが課題となる。 中立一元論のバリエーションの一つであるトロープ説では、心的性質と物理的性質はコインの表裏のように不可分なものとして心的因果...
  • 汎心論
    ...論的な考え方であり、バートランド・ラッセルが1927年の『物質の解析』で主張した。ラッセルの考えは物理学者のアーサー・エディントンにも支持され、エディントンは1928年の『物理的世界』で「世界の素材は『心素材』である」と明言している。現代ではデイヴィッド・チャーマーズ、ガレン・ストローソン、ロジャー・ペンローズ、スチュワート・ハメロフらがこの立場である。 脳は物理的な粒子からなる。それら粒子によって特定の作用が生じた時に「痛い」や「甘い」といった主観的な現象的意識やクオリアといった性質が生じる。物理的な特性のみではその主観性を説明できない。クオリアが脳や神経細胞といったレベルの構成において唐突に生まれると考えるのは不合理である。従って心的な性質は宇宙の根本的レベル、つまりクォークやプランク長といったレベルにおいて原意識という形で存在していると考えるのが汎心論である。 ...
  • ドナルド・デイヴィッドソン
    ...役割を果たす。これはバートランド・ラッセルの哲学における「出来事」と類似の概念である。デイヴィッドソンにとって存在するのは「出来事」のみであり、その出来事が物理的側面に着目して記述されると物理的出来事となり、心的側面に着目して記述されると心的出来事になるのである。従ってある一つの出来事が同時に物理的出来事でもあり心的出来事であることも可能なのである。 「心的出来事」というものは単純に心的な性質のみから成立しているのではなく、脳の生理学過程という物理的な性質も併せ持っている。たとえば「痛み」という心的出来事は、痛みのクオリアと、それに対応した脳の状態を併せ持つ。その出来事が人の行動に因果的に作用できるのは、クオリアという心的出来事としてでなく、脳の状態という物理的出来事としてなのである。 心の全体論 デイヴィッドソンは論理的行動主義の研究を失敗とみなし、それに代わり心の...
  • 命題的態度
    ...的状態のことである。バートランド・ラッセルが案出した。 たとえば地球は丸いという信念は、「地球は丸い」という命題に対して「信じる」という態度をとる心的状態である。水を飲みたいという欲求は「水を飲む」という命題に対して「欲する」という態度をとる心的状態である。 命題的態度は以下のような形式を持つ(*1)。 x は p を信じる y は q を望む。 z は r かどうか疑っている。 「x、y、z」が志向的システムを指すもの。「信じる、望む、疑う」が志向的システムが持つ態度。「p、q、r」がその態度の内容、すなわち命題である。 命題とは、人々が信念を固定したり測定したりするのに用いられる理論上の対象である。二人の人間が一つの信念を共有するということは、その二人が同一の命題を信じているということである。 命題的態度は言語に類似しており、...
  • 無主体論
    ...エルンスト・マッハ、バートランド・ラッセル、大森荘蔵、西田幾多郎にも見出すことができる。ただしシュリックやストローソンは言語哲学の立場から主張したものであり、直接経験の帰属先として暗に「肉体」が主体として想定されている。それに対しヒューム、マッハ、大森は現象主義という形而上学的な立場から心身二元論を否定しており、全く性質が異なる。彼らの立場は「形而上学的無主体論」というべきものである。 非人称表現 "It rains." の "It" は非人称表現であり、それは具体的な何かを指しているわけではない。「非人称」とは一人称でも二人称でも三人称でもなく、人称「以前」であり、「誰」とか「何」とか明確な主体(主語)が立ち上がってない状態である。デカルトの「我思う」も本当は非人称表現、すなわち「我」を消去し、単に「思う」や、「思っているということが...
  • 哲学的ゾンビ
    ...20世紀前半、哲学者バートランド・ラッセルが『物質の分析(Analysis of Matter)』(1927年)を中心に様々な著作の中で展開した議論の中にも、同種の議論が見られる。ラッセルは物理学はどのようなものか、ということの分析を行う中で、物理学は対象と対象の間にどのような関係があるかを扱うが、そうした関係をもつ当の対象の内在的性質が扱えないとして、物理学が行う世界の記述を外形的なもの、「世界の因果骨格(Causal Skelton of the World)」を扱ったものだとした。 物理学は数学的である。しかしそれは私達が物理的な世界について非常によく知っているためではなく、むしろほんの少ししか知らないためである。私達が発見しうるのは世界の持つ数学的な性質のみである。物理的世界は、その時空間な構造のある抽象的な特徴と関わってのみ知られうる。そうした特長は心の世界に関して、...
  • ルネ・デカルト
    ...全く異なっている。 バートランド・ラッセルは、コギトを単なる意識内容(コギタティオ)の告知とみなし、「I think therefore I am.」を「It thinks within me」と言い換える。 ウィトゲンシュタインは、デカルトの「我思う」を、「思うということが我なのである」と言い換える。つまり「我」とは考えることそれ自体を指す(同時性)という解釈である。フッサールやヒュームと異なり、ウィトゲンシュタインにとって現れては消える感覚・表象は全て「私」なのである。これは経験と、それを成り立たせる主体とは不可分であるということだ。その独我論的解釈は「世界は私の世界である」、また「私には最も重要な意味で同類がいない」という言葉で表現される。ウィトゲンシュタインと同じ解釈の哲学者に永井均がいる。
  • 現象主義
    ...G. E. ムーア、バートランド・ラッセル、分析哲学の流れに属する哲学者たちがこの〈言語的現象主義〉の立場を代表する。 日本では大森荘蔵が分析哲学の影響を受け、論理実証主義の還元主義的な感覚与件論は否定したものの、〈立ち現れ一元論〉を主張して現象主義の一つの到達点を示した。大森の考えでは個別の心的現象はすべて〈立ち現れ〉であり、唯物論や二元論が心的現象をもたらす原因とする物質的実在の存在については、語ることは無意味であるとする。また〈立ち現れ〉は感覚与件論のように原子的な要素に還元できず、全一的な存在だとした。 現れる意識現象そのものが世界であるとする現象主義の立場では、認識主観や認識主体というものを否定する。つまり人格の同一性問題において、「自己」や「自我」が通時的に人格の同一性を成り立たせているという考えを否定する。現象主義では、デカルトのコギトを単なる〈意識内容...
  • デイヴィッド・ヒューム
    ...は考える。 バートランド・ラッセルは、因果関係の必然性を否定したヒュームの懐疑論を克服した哲学は、カントをはじめとしたドイツ観念論も含め、いまだに現れていないとの見解を示している(『西洋哲学史』)。また現代の科学哲学においても、ヒュームの因果関係論は重要な問題として議論されている。 なおヒュームの因果関係論に対しては、ジェイムズ、ホワイトヘッド、パースなどアメリカン・リアリズムに属する立場の哲学者から批判がある。ジェイムズは、「経験どうしの関係はそれ自体が経験される」として、実在的なものとして扱うべきだと主張している。 実体 ヒュームは現象主義の立場から、実体の概念について、個々の知覚をもたらす原因として客観的に在ると想定されたものにすぎないとしている。物体の客観性や同一性という概念は、経験によって得られた信念である。物体についての知覚はあくまで印象であり、そ...
  • 観念論
    ...に大きな影響を与えたバートランド・ラッセルやウィトゲンシュタインもマッハ思想の後継者である。 観念論に対する批判 心の哲学において、観念論はしばしば唯心論と同じ意味で使われるが、唯心論とはバークリーのタイプの観念論に限られる。また現象主義も観念論と同一視されることがあるが、現象主義とは経験主義的な方法論であって、形而上学的含意がないのが一般的である。 唯物論や物理主義の立場から二元論の立場を批判する際に、観念論は一種の蔑称のような意味で使われる。特にマルクス主義に影響を受けた学者にはその傾向が強い。これはマッハが現象主義の立場から「唯物論は非科学的で時代遅れの形而上学である」と批判し、それに対してレーニンがマルクスの弁証法的唯物論を擁護する立場から、マッハを「バークリーの焼き直しの主観的観念論者である」と批判したことに端を発する。マルクス主義哲学者であった森宏一などは...
  • ギルバート・ライル
    ギルバート・ライル(Gilbert Ryle、1900年8月19日 - 1976年10月6日)はイギリスの哲学者。ウィトゲンシュタインの言語観に想を得たイギリスの日常言語学派の代表的人物とされている。自身の思想の一部を「行動主義」と表現した。しかし唯物論者ではないことは強調している。1949年の著書『心の概念』におけるデカルト批判は、現代の英語圏の心の哲学の幕開けといわれる。 ライルは、心身二元論は日常言語の誤用によって生み出された幻想であり、カテゴリー錯誤であると断じた。心が独立した存在であるとか、心は身体の中にありながら身体を支配しているといった考え方は、生物学の発達以前の直写主義がそのまま持ち越されたものにすぎず、退けられるべきであるという。 たとえばスポーツでいう「チーム意識」とは、投げたり、打ったり、守ったりという技術的な概念とは全く異なるカテゴリーに属する概念で...
  • 人格の同一性
    ...いということである。バートランド・ラッセルの「世界五分前創造説」も同様の示唆を含んでおり、これは記憶と、その記憶の対象である過去は、論理的に別のものだということである。アームストロングやラッセルによれば、私が模索していた今の自分の心と過去の自分の心との「つながり」は、決して論理的なものとしては見出されないということになる。 現代においては、特に分析哲学において人格の同一性問題が活発に議論されている。これは二十世紀後半からの脳科学や分子生物学の劇的な発展に触発されたものである。以降は主に分析哲学での議論を紹介し検討することになる。 私の身体は何十年か前に生まれた時から時間・空間的に連続している。とはいえ、脳を含めた私の身体を構成している分子は絶えず入れ替わり、幼児の頃とはすっかり異なっている。法学的な観点からすれば、私が時間・空間的に身体が連続し、精神という機能も少しづ...
  • 時間と空間の哲学
    ...しかないと結論した。バートランド・ラッセルもまた科学の基礎的な原理に因果律が見当たらないことを理由に、ヒュームと同様の主張をしている(*72)。 しかしヒュームでさえも、自身の懐疑主義を世界観全てに敷衍した場合に帰結する途方もない不条理を理解していたようであり、人が生きるための方便としての「程々の懐疑(modest skepticism)」を提案することになった。 なおB論者であるメラーは、ブロック宇宙説を前提にしながらも、マクタガートの「A系列なしに変化はありえない」という理論を否定し(*73)、因果関係が客観世界に存在していることを前提にB系列の時間を肯定している(*74)。他の永久主義を前提としたB論者も同様であると思われる。客観世界に因果系列、つまり時間の矢が存在しているという前提でなければ、B系列を主張することはできないからだ。以下、サイダーの文を再掲する。...
  • デイヴィッド・チャーマーズ
    概説 意味の一次内包と二次内包 構造的コヒーレンスの原則 構成不変の原則 情報の二相説 汎経験説 補足 概説 デイビッド・ジョン・チャーマーズ (David John Chalmers、1966年4月20日 - )はオーストラリアの哲学者。1982年、高校生のとき数学オリンピックで銅メダルを獲得する。インディアナ大学で哲学・認知科学のPh.Dを取得。2006年現在オーストラリア国立大学の哲学教授であり、同校の意識研究センターのディレクターを務めている。心の哲学において意識のハードプロブレムをはじめ多くの問題提起をし、この分野における指導的な人物の一人となっている。 チャーマーズはクオリアと呼ばれる内面的な心的体験を、実体(英 entity)的に捉え、質量やエネルギーなどと並ぶ基礎的な物理量のひとつとして扱い、その振る舞いを記述する新しい物理学を構築すべきだと主張する。そして...
  • 大森荘蔵
    ...ヴィッド・ヒュームやバートランド・ラッセルの立場に近い。大森は立ち現われを提唱する前段階として、イマヌエル・カントのような主体による「統覚」を想定する思考形式を、「加工主義」と呼んで批判していた。たとえば「私が見る」という場合、「私」という主体が客観世界を、時空という感性の形式と因果のような悟性の形式によって加工されて認識が成立すると考える。しかし、加工するという場合、加工される前の素材が想定されなければならないが、そのような想定は無意味である。例えば「赤いボールがある」という場合の「赤」については、既に人間に知覚されたものであり、知覚されない「赤」はないといえる。加工される前の素材を人間は云々することはナンセンスである。人間には加工済みのものだけが与えられているのだから、「加工」というプロセスは不要のものであり、主観や主体の働きは必要でない。したがって赤いボールがある場合、それを端...
  • トロープ説
    概説 心の哲学におけるトロープ説 概説 トロープ(Trope)とは現代の分析形而上学における用語で、個物の個別的性質のことである。個別的属性とも呼ばれる。 たとえば赤い郵便ポストの前に赤い車が停まっているとする。その場合「赤」という普遍的性質が、郵便ポストと車に個別化して存在しているものが「赤」のトロープである。 個物とトロープの関係は「全体」と「部分」の関係の一種であり、トロープは全体の構成要素である。ただし個物なしでは存在できない「依存的存在者」である点が、通常の全体と部分の関係と異なる。丸いボールの「丸」のトロープの場合、個物であるボールが消えると同時に「丸」のトロープも消える。 普遍とトロープの関係は、「タイプ」と「トークン」の関係に似ている。しかしトークンとは普遍的な性質の実例であるのに対し、トロープとは普遍的な性質がある場所と時間において個別化し...
  • 消去主義的唯物論
    心の哲学における消去主義(eliminativism)、または消去的唯物論(eliminative materialism)とは、心理学や哲学によって行われている心的活動の説明は、やがて科学に取り込まれ、「心の哲学」は「心の科学」へ、また「素朴心理学」は「科学的心理学(神経科学)」へと自然化されることによって、消去されるとする立場。ポール・ファイヤアーベント(1963)、リチャード・ローティ(1965)によって主張された。現代の代表的な論客はパトリシア・チャーチランド、ポール・チャーチランドである。バラス・スキナーの徹底的行動主義や、ダニエル・デネット、ケヴィン・オレーガンの行動主義は、消去主義と類似の立場である。 消去主義では、素朴心理学に頻繁に登場する精神、信念、欲求といった命題的態度は錯覚であると考え、その実在性を否定する。それらは科学史上のフロギストンやカロリック、エーテ...
  • ダニエル・デネット
    概説 クオリア批判 人工知能擁護 批判 概説 ダニエル・デネット(Daniel Clement Dennett, 1942年3月28日 - )はアメリカの哲学者。2005年2月現在、タフツ大学教授。同大学認知科学センター監督官。1963年ハーバード大学卒業後、1965年オックスフォード大学にてPh.D取得。ハーバードではW・V・O・クワインに、オックスフォードではギルバート・ライルに師事。心の哲学では物理主義の代表的な人物である。 他者の内省報告を観察データとして認める「ヘテロ現象学」(Heterophenomenology)を掲げ、行動主義に陥ることなく、観察可能なデータから主観的意識の問題を扱えると主張する。 デネットは意識と脳の神経的なプロセスを異なる次元のものとして考えてきた心身二元論というデカルト以来の哲学的伝統を批判する。意識をつかさどる中央処理装置カル...
  • ジョージ・バークリー
    概説 経験主義から観念論へ 神と魂 概説 ジョージ・バークリー(George Berkeley, 1685年3月12日 - 1753年1月14日)はアイルランドの哲学者、聖職者である。英国経験論の代表的人物であり、現象主義の方法により物質の実在性を否定し、「存在することは知覚されることである(ラテン語"Esse is percipi"、エッセ・イス・ペルキピ、英語“To be is to be perceived”)」という基本原則の観念論を提唱した。 バークリーの思考法はオッカムの剃刀に類似したものである。オッカムは、現象を説明するために真に必要な最小限の原因のみを認め、不要な原因は放棄すべきだとし、「存在は必要もなく増やしてはならない」という原則を主張した。バークリーはこの思考法によって、「物質」なるものは観念の存在と生成に「不要」とみなし、またニュ...
  • 説明のギャップ
    表象説 説明のギャップ(英:explanatory gap)とは、主に神経科学や心の哲学の分野で使われる言葉で、脳に関する客観的で物理的な記述と、意識の主観的な性質(現象的意識やクオリア)に関する記述との、つながりの欠如のこと。アメリカの哲学者ジョセフ・レヴァイン(Joseph Levine)が、1983年の論文 "Materialism and qualia The explanatory gap" の中で使用した言葉。 例えば「透明な青い海」を見ている時の神経状態を記述したする。しかしその記述には「透明な青い海」を見た時の心的現象が描かれていない。物理的記述と心的記述には大きなギャップがある。フランク・ジャクソンはマリーの部屋という思考実験で、このギャップを浮き彫りにすることにより、物理主義はクオリアの問題を取りこぼしていると主張した。逆にギルバー...
  • 無限論
    ...ように思われている。バートランド・ラッセルは哲学者でもあるが、数学者としての性向が強く、物理的世界が数学的無限と対応していることを前提に、ゼノンのパラドックスを収束や極限の概念で解決できると考える。ラッセルの解決法は多くの数学者と物理学者、そして一部の哲学者が採用する方法である。 数学の世界では、カントール以降は数学的対象を現実的無限とみなす立場が優勢である。しかし哲学と数学は大きく異なる。哲学における無限論とは、その無限に対応する「実在」を巡る議論でもある。その点が対応する実在を必要とせず、記号の操作と整合性の議論に終始する数学における無限論との決定的な相違である。 たとえば人は「2」の概念に対応した現実の存在を見ることができる。リンゴが 2個ある場合などがそうである。また「1/3」に対応した現実の存在も見ることができる。ピザを 3等分した場合などである。しかし「∞...
  • カテゴリー錯誤
    カテゴリー錯誤(カテゴリー・ミステイク,英:category mistake, category error)とは、ある対象に固有の属性を、その属性を持つことのできないものに帰すという誤りである。ギルバート・ライルが著書『心の概念』(1949年)で、心身問題解決の鍵として提起したものである。 例えばケンブリッジ市のハーバードを訪れ、さまざまな学部や実験室などの各施設、そして教員や生徒を見たある人物が、最後に「それで、肝心のハーバード大学はどこなんです?」と聞くとする。その人は自分が見てきたものの他に「大学」そのものがあると思い込んでいる。しかしその人は実感していないものの、既にハーバード大学を見知っていることになる。大学という用語はそれぞれの学部や各施設、構成員を指示する言葉だからである。その人の思い込みこそがカテゴリー錯誤である。大学という言葉は学部や教員という言葉とは同じカテゴ...
  • 行動主義
    概説 歴史 心の哲学における行動主義 行動主義への批判 概説 行動主義とは、心理状態は行動状態にほかならないとする理論である。心の哲学においては物理主義の一種である。元は心理学のアプローチの一つで、観察不可能な心の私秘的性質に依拠せず、観察可能な行動を研究することで人間の心理を科学の対象とする試みだった。従って行動主義においては、人に意識現象があるとみなせるのは、自分に知覚や意識があると報告可能な場合に限られる。 行動主義においては、意識において志向対象とならなかった表象やクオリアは、報告不可能なため研究の対象とならない。このため心の哲学における行動主義は1960年代には衰退し、心脳同一説にとって代わられていった。だが、行動主義の方法論のいくつかは機能主義に受け継がれている。 歴史 20世紀、精神分析学のムーブメントと同時期に、行動主義学派は心理学に浸透した。 行動...
  • 実在論論争
    概説 実在論の種類観念実在論 素朴実在論 形而上学的実在論と内在的実在論 科学的実在論 介入実在論 構造実在論 反実在論構成的経験主義 自然主義 非実在論現象主義・懐疑主義・実証主義 規約主義・道具主義・操作主義 社会構成主義・相対主義 心の哲学と実在論論争 概説 実在論(Realism)とは、われわれが認識する現象から独立して、現象を成り立たせている物質や普遍的概念(イデア)などが世界に実在しているという立場である。物質や外界が実在するという場合は、素朴実在論や科学的実在論になり、普遍が実在するという場合は観念実在論になる。実在論と対立する立場は現象主義や観念論である。 歴史的には紀元前のパルメニデスが、感覚で捉えられる現象世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは有るものが無いものになることであり、無いものが有るものになることであり、これは矛盾であるとし、感覚を超越...
  • 新神秘主義
    新神秘主義(英 New mysterianism)は、心身問題、つまり心的な意識現象と物質的な脳がどのように関わりあっているのか解明するのは不可能だとする立場のこと。代表的な論者にコリン・マッギンがいる。トマス・ネーゲルも新神秘主義者に分類されることがある。 マッギンは認知的閉鎖説を提唱し、人間が意識の謎、つまり意識のハードプロブレムが解明される可能性に懐疑的である。トマス・ハックスリーは1886年に、「神経組織の活動によって意識状態という驚くべきものが出現することは、物語のアラジンが魔法のランプをこすれば魔人が現れることのようだ」と心と脳の関係を表現した。このハックスリーの言葉は意識現象がいかに奇跡的であるかうまく捉えていたとマッギンはいう。そしてマッギンは心的特性を物理特性に還元する物理主義を批判し、また心的なものの排他性を強調する二元論は脳から心を切り離すようなものだと批判...
  • 機能主義
    概説 目的論的機能主義 ブラックボックス機能主義 コンピューター機能主義 機能主義に対する批判 概説 心の哲学における機能主義(英:Functionalism)とは、心的な状態とはその状態のもつ機能によって定義されるという立場。 心的状態をその因果的な役割によって説明し、「心とはどんな働きをしているのか」を考えることが「心とは何か」という問いの答えとなるという立場である。 たとえば腕を強く打ったりすることの結果として生じ、打った腕を押さえたり顔をしかめたりすることの原因となる心的状態が「痛み」であるとされる。またそのように因果作用をもたらす心的性質を機能的性質(functional property) という。つまり心的状態とは知覚入力の結果であり、行動出力の原因であり、また他の心理状態の原因や結果であると考える。 行動主義やタイプ同一説の問題点を踏まえた上で、それ...
  • 実体二元論
    実体二元論とは 実体二元論の利点と問題 エネルギー保存則の問題 概念上の批判 発展可能性 実体二元論とは 実体二元論(英:Substance dualism)とは心身問題に関する形而上学的な立場のひとつで、心的なものと物質的なものはそれぞれ独立した実体であるとし、またその心的な現象を担う主体として「魂」のようなものの存在を前提とする説である。代表的な論者はルネ・デカルトである。 実体二元論と対置される性質二元論では、精神と脳の状態を同一の実体の両面と見ている。この考えでは脳が作用を停止すれば精神現象は消滅する。しかし実体二元論の立場では、脳が作用を停止しても精神現象を担っていた主体である「魂」は存在し続けることになる。また性質二元論では、心的なものと物質的なものは相互作用しないと考えるが、実体二元論の一種の相互作用二元論では、心的なものと物質的なものは相互作用すると考える。...
  • シャンカラ
    概説 不二一元論 概説 初代シャンカラ(Adi Shankara)は、マラヤーリ人の8世紀に活躍した中世インドの思想家。梵我一如思想を背景とした不二一元論を提唱した。ヴェーダーンタ学派の代表的な哲学者である。 「神の御足の教師」として知られた彼は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化する最初の哲学者であった。彼の教えは、唯一にして真の実在であるブラフマン(梵)と、個々のアートマン(我)は同一であるという主張に基づく。スマートラの伝統において、インド神話ではシャンカラはシヴァ神の異名である。 全てが現存しているというサンスクリットで書かれた彼の著書は、アドヴァイタ(非二元性)の教義を確立することに関する。シャンカラは教えを説く際に、ウパニシャッドや他のヒンドゥー教の聖典の広範囲から引用を行った。更に、サーンキヤ学派や仏教に似た考え方を持つ一派の批判に対する反駁...
  • マリーの部屋
    概説 知識論法 三種類の応答タイプA タイプB タイプC 派生問題 概説 マリーの部屋(英:Mary s Room)、またはスーパー科学者マリー(英:Mary the super-scientist)とは、1982年にフランク・ジャクソンが提示した物理主義、特に機能主義を批判する内容の思考実験である。 マリーは聡明な科学者であるが、なんらかの事情により、白黒の部屋に閉じこもり、白黒のテレビ画面を通してのみ世界を調査している。彼女の専門は視覚に関する神経生理学であり、我々が熟したトマトや晴れた空を見るときに感じる「色彩」についての全ての物理学的、神経生理学的情報を知っている。また「赤い」や「青い」という言葉が我々の日常生活でどのように用いられ、機能しているかも知っている。さて、彼女が白黒の部屋から解放されたり、テレビがカラーになったとき、何が起こるだろう。彼女は何か新しいこと...
  • 二元論
    概説 二元論と宗教 二元論擁護論 概説 心の哲学における二元論(dualism)とは、心と身体を別の存在として考える立場のことである。心身二元論ともいう。多元論(pluralism)の一種といえる。対立する立場は一元論である。 二元論の考えは紀元前から見られ、例えばプラトンは人間の精神というものは身体と同一ではありえないと主張している(霊肉二元論)。そして古代インドのサーンキヤ学派やヨーガ学派などにも同様の考えが見られる。 歴史上初めて心身二元論を今日まで続いているような形で定式化した人物は17世紀の哲学者ルネ・デカルトである。彼は空間を占める身体は物質的なものであり、精神は非空間的であるゆえ異なる実体だとした。これが実体二元論(Substance dualism)である。そして機械論的な存在である物質的肉体と、自由意志をもつ精神(魂)を対置し、両者は相互作用すると...
  • 実践理性の方向
    ...になる。この時代にはバートランド・ラッセルやアーサー・エディントンも構造実在論と類似の主張をしている。 科学の歴史では、現象を説明するため作られた仮説が後になって廃棄されるということが少なくない。エーテル、絶対時間、絶対空間、熱素、フロギストンなどがそうである。したがって現在成功しているかのように見える科学理論も将来的には破棄されるかもしれない、と考えるのがラリー・ラウダンが主張した「悲観的帰納法」である。 それに対しウォーラルは次のように反論する。確かにフレネルの光学理論は経験的に成功したがエーテルを措定していた点で間違っていた。ニュートン力学は経験的に成功したが絶対時間や絶対空間を措定していた点が間違っていた。しかしフレネルの方程式自体は後のマックスウェルの理論に受け継がれており、ニュートン力学の数学的構造は後の相対性理論に限定的に受け継がれている。この事実から科...
  • カルテジアン劇場
    概説 オーウェル主義的モデルとスターリン主義的モデル 概説 カルテジアン劇場 (Cartesian Theater) とは、アメリカの哲学者・認知科学者のダニエル・デネットが、古典的な意識についての考え方である意識のホムンクルス・モデルを批判するために提唱した思考実験。人間の脳の中には小人(ホムンクルス)が住んでいる劇場があり、そのスクリーン上に人間の身体が経験した感覚的データが上映される。それが人間の精神現象であるとする。では、その小人の脳の中はどうなっているのか、さらに小さな小人がいるのか――デカルトのいうような、精神は身体に還元できない実体であるとする実体二元論は、意識の説明について無限後退に陥るという批判である。 カルテジアンとは「デカルトの」という意味の英語で、他にデカルト劇場、デカルトの劇場とも呼ばれる。デネットの1991年の著作『解明される意識』(Consci...
  • 逆転クオリア
    概説 逆転地球 思考実験のアレンジ 概説 逆転クオリア(Inverted qualia)とは、自分と同じ物理現象を体験している他者が、自分とは異なるクオリアを体験している論理的可能性を指摘するもので、哲学的ゾンビ同様の想像可能性論法である。思考実験では同じ波長の光を受け取っている異なる人間が、異なる「色」を経験するパターンがよく用いられる。逆転スペクトル(Inverted spectrum)やスペクトルの反転とも呼ばれる。 例えば自分と他者が同じリンゴを見ていても、自分には赤く見えるが他者には青く見えている可能性があると考える。この場合、その他者には「赤」という言葉がそのリンゴの「青い色」を指しているのだから言葉ではクオリアの逆転を知ることはできない。リンゴの青と他の色とを区別できるのだから色盲テストもパスできるし、信号が赤に変わればその他者は自分と同じように停まる。自分と...
  • 言語的批判
    概説 拡張解釈 ウィトゲンシュタインの誤用 概説 心身問題を解決しようとする試みは、物理主義であっても性質二元論であっても、大きな難問を抱え込むことになる。ウィトゲンシュタインの言語的哲学の影響を受けたギルバート・ライルなどの人々は、そうなってしまうのは概念的な混乱――カテゴリー錯誤が背後にあるからだとして、心身問題を消去しようとする。 ライルによれば、心的状態を記述する言語のカテゴリーは、物理的な脳を記述する言語のカテゴリーとは異なっている。従って心的状態と生物学的状態が適合するかどうかと問うのは間違いである。脳の心的状態を探し求めるのはカテゴリー錯誤、つまり推論の誤謬なのである。 ウィトゲンシュタインは「私的言語」や、意識の「私秘性」について語ることに反対している。彼にとって言葉の意味とは使用法であり、心の中にあるものではない。心的状態は公的な言語では表せない。...
  • パルメニデス
    概説 思想とその影響 「ある」の解釈 パルメニデスのアポリア 心の哲学におけるパルメニデスのアポリア 概説 パルメニデス( Parmenide-s 紀元前500年か紀元前475年-没年不明)はギリシアの哲学者で、エレア派の祖。「ある」と「ない」の概念を考究し、西洋哲学において最初に一元論を主張した。形而上学の創始者といわれ、また感覚よりも理性による判断に重きを置いたため合理主義の祖であるともいわれる。アナクサゴラスの弟子クセノパネスに学んだとも、ピュタゴラス学派のアメイニアス(Ameinias)に師事したとも伝えられる。 「あるものはある」「ないものはない」という自明な前提から、存在を論理的に限界まで考究したパルメニデスの哲学は、それまでの哲学の常識を覆す途方もない試みであり、生成消滅、運動変化、多数性といった自然現象の根本原理を否定するものだった。 プラトンによれ...
  • プラグイン/ニュース
    ニュース @wikiのwikiモードでは #news(興味のある単語) と入力することで、あるキーワードに関連するニュース一覧を表示することができます 詳しくはこちらをご覧ください。 =>http //atwiki.jp/guide/17_174_ja.html たとえば、#news(wiki)と入力すると以下のように表示されます。 マニュアル作成に便利な「画像編集」機能を提供開始! - ナレッジ共有・社内wikiツール「NotePM」 - 川崎経済新聞 【グランサガ】リセマラ当たりランキング - グランサガ攻略wiki - Gamerch(ゲーマチ) 「Wiki」創設者のPC 競売に - auone.jp 篠原悠希×田中芳樹が明かす「歴史ファンタジー小説ならではの悩み」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 【Ape...
  • 現象的意識の非論理性
    ...主張される。一時期のバートランド・ラッセルやチャーマーズがこの立場であり、心の哲学では唯一クオリアの変化という「不思議」を構成的に説明しようとする試みである。汎経験説では石や金属にも原意識があることを認める。チャーマーズによれば人が経験するようなクオリアは物質が特定の「機能」を持つときに発生する。したがってサーモスタットやトースターにも意識があると認めることになる。ちなみにチャーマーズ同様に還元主義に反対するジョン・サールは、「中国語の部屋」という思考実験によってコンピューターがクオリアを持つことはできないと主張したが、チャーマーズによればコンピューターは意識の「機能」を持つのでクオリアも持つことになる。 しかし原意識の組み合わせとは、結局のところクオリアを原子論的な方法で説明しようとするものである。つまり物事をよりミクロな根源的原理に還元して説明する物理学的な方法論を心的な...
  • 物理主義
    概説 歴史 物理主義の問題 概説 物理主義(英 Physicalism)とは、この世界の全ての物事は物理的であり、また世界の全ての現象は物理的な性質に還元できるとする哲学上の立場である。心の哲学においては心的なものの実在性を否定して、物理的なものだけが実在するとし、心的因果を否定する。一元論の一種。物質一元論とも呼ばれる。 「唯物論(Materialism)」は同じ立場の思想であり、物理主義という語と互換的に用いられている。唯物論という用語は17世紀のライプニッツによるものであるが、物理主義とは20世紀のオットー・ノイラートの定義によるもので、論理実証主義から派生した概念であり、歴史的脈絡が異なるというだけである。 「物理的」という言葉の定義は、時空間的であり運動できるもの、とされている。 柴田正良によれば、人間の精神を素粒子群の運動や配置に還元するのが素朴...
  • 表象主義
    概説 志向性と表象 機能主義と表象主義の関係 批判 概説 表象主義(Representationalism)とは、人が何かを知覚した場合、その知覚は実在する対象を表すイメージだと考える哲学的立場である。たとえばテーブルを見た場合、光がテーブルという物体に反射して人の視覚で捉えられ、テーブルの知覚像が作られると考える。 近代では心身二元論の立場から、知覚像は物質からもたらされるという表象主義が主張されてきたが、この立場には知覚因果のメカニズムが解き難いという問題が指摘されてきた。 表象主義は近代哲学と現代の分析哲学では大きく異なっている。分析哲学では「表象理論」と呼ばれることが多い。近代哲学では物質的対象に属するのは質量や延長量(一時性質)のみとされていたが、分析哲学の表象理論では色や音や味(二次性質)も物質的対象に属すると考える。 以降は分析哲学での表象主義...
  • 梵我一如
    概説 ブラフマン アートマン 参考 概説 梵我一如とは、宇宙全体としての「梵(ブラフマン)」と、個体としての「我(アートマン)」が本質的には同一であるとする思想。また、同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダ哲学の究極の悟りとされる。代表的な思想家は、シャーンディリヤ、ウッダーラカ・アールニ、ヤージュニャヴァルキヤなどである。 ブラフマンとは普遍的に存在する万物の原理・生命の源と考えられている。宇宙全体、宇宙精神ともいうべきニュアンスがある。アートマンとは単なる自我というより、真の自己(真我)、といったニュアンスがある。この世に多数の人間として存在しているように見える多数の自我はマーヤー(幻)であり、真我はひとつとされる。 人間が梵を吸収することにより生命力が増すという思想もある。 ヴェーダにおける解脱とは...
  • テセウスの船
    概説 ジョン・サールの解答 概説 テセウスの船(英 Ship of Theseus)とは「同一性」についての思考実験。テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体を構成する部分が徐々に置き換えられ、やがて全てが置き換わったとき、以前の物体と同じであると言えるのか、という問題である。 同じ川に2度入ることはできないというヘラクレイトスの主張も類似の問題である。またデレク・パーフィットは人格の同一性の問題において、人間の脳細胞を他者の脳細胞と徐々に置き換えていくという同型の思考実験を行っている。(この場合はテセウスの船と異なり自己について重大な問題が派生する) プルタルコスは以下のようなギリシャの伝説を挙げている。 テセウスがアテネの若者と共にクレタ島から帰還した船がある。アテネの人々はこれを後々の時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置...
  • 書評1
    中島義道『生き生きとした過去――大森荘蔵の時間論、その批判的解読』 戸田山和久『哲学入門』 鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう 意識のハード・プロブレムに挑む』 入不二基義『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』 中島義道『生き生きとした過去――大森荘蔵の時間論、その批判的解読』 強引、というより無理過ぎる大森哲学解釈、という印象を受けた。中島は大森の弟子であり、大森と幾度も対話を重ねている。大森に会ったこともない私が異論を挟むのはおこがましい感もあるのだが、大森と同様の現象一元論者として、あえて本書を批評したい。 概説すると、中島が大森哲学批判を通じて主張したのは、「過去時間」と「意識作用」の実在性を認めるしかないということである。穿った見方をするならば、それらの実在性を前提にし、意図的に偏った大森哲学解釈をしたと思える。なに...
  • 還元主義
    概説 還元の種類 概説 心の哲学における還元主義(Reductionism)とは、心的なものの存在は物理的なものの存在に還元できるという唯物論的な考え方であり、心脳同一説及びトークン同一説を前提とした機能主義や表象主義がその立場である。 還元主義な方法では現象的意識やクオリアは説明できず、心身問題は解決できないとする立場が二元論や中立一元論である。なお唯物論であっても消去主義はクオリアを消去しようとする立場なので還元主義とはいえない(ただし後述する「定義的還元」に該当する可能性がある)。また心理学的な行動主義やブラックボックス機能主義は、クオリアの存在論的身分を棚上げするので還元主義には該当しない。 スティーブン・ホーストは自然科学における還元の限界が心の哲学の議論にも適用できるのではないかと主張している。デイヴィッド・チャーマーズは『意識する心』で、意識が物理的な...
  • クオリア
    概説 意識とクオリアの違い 歴史と類義語 クオリアについての論争 還元主義的物理主義と二元論 外在主義と内在主義 クオリアに関する思考実験 クオリアの全一性 概説 クオリア(英:複数形 Qualia、単数形 Quale クワーレ、またはクアリ)とは、客観的には観察できない意識の主観的な性質のこと。日本語では感覚質と訳されることもある。もとはラテン語で「質感」を表す単語であるが、1990年代の半ばから意識の不思議さを象徴する言葉として科学者や哲学者の間で広く使われるようになった。「現象」「表象」「感覚与件」は類似の概念である。 クオリアという用語は厳密に定義されておらず、論者によって用いられ方が異なる。ブレンターノやフッサールは志向性が意識の本質だとし、心的状態は全て志向的だと考えた。この"ブレンターノ・テーゼ"に従ってクオリアも志向的であるとする論者がい...
  • 自己
    概説 還元主義と非還元主義 概説 自己(英:Self)とは、意識される自分自身を言う。「私」に近い概念である。その自己を起点とする意識作用が自我である。自己と自我は混同されて用いられることも多いが、自己と違い自我とは物事を対象化する機能である。 自己は、時間を経ても持続的に存在しているように感じられる。しかし、昨日の自分と今日の自分は同一であるのかと懐疑することができる。この問題は人格の同一性というテーマで考究されている。 還元主義と非還元主義 哲学においては、自己について対極的な二つの考え方があり、デレク・パーフィットは双方の立場を以下のように「還元主義」と「非還元主義」と呼び分けた。(ただし、パーフィットがいう還元主義は、心的な現象は物理現象に還元できるという還元主義とは意味が異なるので注意が必要である) 1、非還元主義 自己がそれ自体で存在するという...
  • ウィトゲンシュタイン
    心の哲学との関係 独我論 独我論と言語 補足 ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein 1889年4月26日 - 1951年4月29日)はオーストリア・ウィーン出身の哲学者。言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。 ウィトゲンシュタインの哲学は難解で多様な解釈が可能であり、研究者たちの間で甚だしい見解の隔たりがあることが多い。 前期の著書『論理哲学論考』(以下『論考』と略す)には、「語りえぬものには沈黙しなければならない」という有名な言葉がある。ウィトゲンシュタインは「語りうるもの」と「語りえぬもの」を峻別していた。「語りうるもの」とは思考の表現としての「言語」を指しており、その言語の射程が及ばない領域について語ることは無意味であるということである。『哲学的考察』には、「世界の本質に属する...
  • 夢と現実と真実と
    1 夢の懐疑 2 現象主義と可能世界論 3 マクタガートに見る「変化」の難問 4 変化のパラドックス――四次元主義の破綻 5 独今論 6 無世界論 7 真実の行方 8 私の死と世界の死 9 夢と現実と真実の狭間で 1 夢の懐疑 幼い頃に恐ろしい体験をした。或る真夏の夜、私は両親と二人の兄弟と共に、家族五人で一つの部屋で寝ていた。家の一階北側の部屋で、中庭に面した窓を網戸にして涼を取っていた。エアコンがまだ高価だった昭和の時代のことである。 深夜、どさっと何かが落ちるような音がして目が覚めた。見ると畳の上でどす黒い異形のものが蠢いていた。蛇だった。一匹の大きな蛇が長い総身を奇怪に絡めて波打っているのだった。誰かが悲鳴を上げた。父が大急ぎで網戸を外して手に持ち、その網戸で蛇をつついたり掬ったりして、なんとか掃き出し窓から庭へ払い出した。そしてガラス戸を厳重に閉めた。どこから蛇が...
  • @wiki全体から「バートランド・ラッセル」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索