表象主義


概説

表象主義(Representationalism)とは、人が何かを知覚した場合、その知覚は実在する対象を表すイメージだと考える哲学的立場である。たとえばテーブルを見た場合、光がテーブルという物体に反射して人の視覚で捉えられ、テーブルの知覚像が作られると考える。

近代では心身二元論の立場から、知覚像は物質からもたらされるという表象主義が主張されてきたが、この立場には知覚因果のメカニズムが解き難いという問題が指摘されてきた。

表象主義は近代哲学と現代の分析哲学では大きく異なっている。分析哲学では「表象理論」と呼ばれることが多い。近代哲学では物質的対象に属するのは質量や延長量(一時性質)のみとされていたが、分析哲学の表象理論では色や音や味(二次性質)も物質的対象に属すると考える。

以降は分析哲学での表象主義を解説する。

現代の認知科学や心の哲学における表象理論とは、クオリアとは志向性を持った表象であると解釈した上で、心とは表象の処理装置であると考える立場である。表象説とも呼ばれ、また表象が志向性をもつことを前提としているため、「志向説」とも呼ばれる。

人の感覚器官は外界からの情報を受け入れ、それに基づいて外界のあり方についての表象を形成する。そしてその表象に基づいてさらに行動の表象を形成し、それに従って人は行動すると考える。またクオリアはその表象に付随していると考える。これはクオリアを「記号」として取り扱おうとするアイデアである。

表象理論は物理主義的な立場から説明のギャップを埋めるほとんど唯一の試みである。

1990年代以降、クオリアを物理的なものに還元する試み、つまり説明のギャップを埋める試みが盛んになる。ギルバート・ハーマンらは、経験の現象的側面(クオリア)は、その経験の表象内容に付随すると考えた。例えば「緑の木」という知覚経験は緑の木を表象するが、緑のクオリアはその表象される緑に他ならない。つまり表象理論ではクオリアを志向的な表象として解釈する。

表象理論では一般的に「表象」という概念を、経験的な表象と通常の表象に区別する。経験的な表象は我々認知主体に現象的質(クオリア)として現前する。それに対し通常の表象は認知主体に対して直接現前することはない。現前していなくても志向的な表象内容は推論や予測などの認知的操作や、信念や欲求などの心理状態を可能し、表象はその対象とは独立に存在することができる。

機能主義に代わって(もしくはそれを補完する形で)意識を説明すると期待されているのが、表象理論である。表象理論では、機能主義が除外していたクオリアを表象という形で記号化して受け入れている。なお認知科学では、古典的計算主義とコネクショニズムという二つの有力な認知観があるが、それらはいずれも表象理論に立脚している。

表象理論によれば、現象主義が実在論批判として用いる「錯覚論法」も、知覚を表象とみなし、かつ認識作用を記号的表象の処理とみなすなら整合的に理解できる。錯覚は実在に対応しない表象ということである。

フランク・ジャクソンは当初マリーの部屋の思考実験で物理主義を批判していたが、後に表象主義に転向した。ジャクソンによれば、表象理論を認めるならば知覚や感覚、信念や欲求などの態度も物理学的に説明することが可能になる。たとえば信念の本性はその表象内容によって規定される。表象内容は志向的である。そして信念の表象内容は、機能主義的な分析に従い、物理的なものによって規定される。他の態度も同様の仕方で物理的なものによって規定される。

志向性と表象

経験は常に志向的であり、それゆえ志向的対象を持つ。 リンゴが見えるという視覚経験はリンゴについてのものであり、また小鳥の声を聞くという聴覚経験は小鳥の声についてのものである。

表象がもつ特徴には、表象それ自体に備わる「性質(内在的特徴)」と、表象によって表象される「内容(志向的特徴)」とが区別される。たとえば「緑の木がある」と黒インクの六文字で記述した場合、六文字から成ることや黒インクから成ることが性質であり、「緑の木」や「ある」ということが内容である。そして表象の性質と内容は一致する必要がない。

そして意識がある種の表象であるとするならば、表象と同じように意識経験もまた内在的な「経験の性質」と、志向的な「経験の内容」とに区別しなければならない。この区別が表象理論の重要な点である。

この区別に基づき表象理論は、二つの立場に分かれる*1
弱い表象理論: 心的経験の現象的性格は、その表象内容に付随(スーパーヴィーン)する。
強い表象理論: 心的経験の現象的性格は、その表象内容と同一である。

「弱い表象理論」では、意識の現象的特性(クオリア)は表象内容に付随するという主張であり、「強い表象理論」では、クオリアが経験の性質ではなく表象内容、つまり志向性であることを主張する。

我々は経験の志向的対象にアクセスできるが、 経験の性質にアクセスすることはできない。つまり私がリンゴを見るとき、 私はそのリンゴの赤さや丸さを感じる。しかしその経験をいくら内観しても、「リンゴを見ているという経験」そのものを見ることはできない(反省的意識によって「自分がリンゴを見ている」という状態にあることを意識することは出来るが、それは「リンゴを見ているという経験」そのものとは区別される)。我々は経験内容として現れる志向的対象にアクセスすることしかできない。したがってリンゴの赤さといったクオリアは、経験そのものの性質ではなく、経験の表象内容(志向的特徴)である。意識経験を表象として理解するとき、クオリアは経験そのものの性質ではなく、経験という表象の内容と同一視される、これが表象理論の基本的な考え方である。

機能主義と表象主義の関係

機能主義に従って考えると、例えば痛みのクオリアを伴わない心的状態に基づく人の行動ですら、それが痛みのクオリアを伴う心的状態と機能的に同じであれば、痛みの状態であるとしなければならない。つまり機能主義は意識の現象的特徴(クオリア)の差異を識別することができないのである。

ギルバート・ハーマンは、クオリアが機能主義によって説明できないという批判に応えて、クオリアは意識経験の内在的性質ではないとし、表象の観点からクオリアを説明しようとする。もしクオリアが意識経験の内在的性質なのであれば、確かにそのような特徴は、心的状態を一連の状態間の関係の観点から特徴付ける機能主義の理論によって説明することができない。内在的性質とはそのような関係から独立である特徴のことだからだ。しかしハーマンによれば、クオリアを意識経験の内在的性質と考えない。経験とは常に志向性をもち、何らかの対象を表象するものである。意識経験の現象的特徴(クオリア)は、経験における表象の対象の性質であって、その経験の内在的性質などではないのだ。

リンゴを見るときに赤い特徴が(クオリアとして)現象的に意識されているとすると、その赤さはリンゴの表面特性(光学的な反射特性)に他ならないと考える。これと同様に、色覚以外の感覚における現象的特徴もまた、表象対象の特徴であるとする。このように、意識の現象的特徴を表象の観点から説明しようとする理論が、「意識の表象理論」(Representational Theory of Consciousness)である。この表象理論は外在主義の一種である。

機能主義理論がクオリアを説明するうえで不十分であった理由は、意識の現象的側面であるクオリアと、意識の機能的側面が論理的に付随しないように思われるためである(意識の二面性説明のギャップ)。これに対して表象理論は、意識の現象的特徴を端的に表象対象の特徴であると見なすことで、この困難を克服しようとするのである。表象理論を提案するマイケル・タイは、現象的特徴が表象内容であるとし、現象的特徴とは認知的利用のために準備された志向的表象内容であるとしている。

表象主義者によれば、クオリアはとは、信念と欲求の形成という高次認知処理にとって利用可能であるように準備された表象内容であると考える。また微細物理レベルまで同じ双子がいた場合、彼らの表象的な内容の違いとは、双子それぞれの環境での主体と対象との関連である。表象理論では、クオリアは「主体が直接的に意識している観念の内在的特質」ではなく、むしろ「個人とその環境との間の外的な関係によって決定付けられる外在的特質」である。クオリアは表象的特質と同一である。ゆえに表象的内容が同一である双子は必然的に現象的特性も同一であることとなる。

批判

物理主義の立場からは、表象理論を前提とする限り、「世界」とは個々の人々の主観的表象の構成物ということになり、人の数だけ世界があるとする相対主義が帰結し、全ての主観に共通の客観世界の説明が困難になることが指摘されている。

J.J.ギブソンは、表象理論を前提とした伝統的な知覚理論は知覚経験を正しく捉えていないと批判し、我々に直接与えられるのは世界そのものの知覚であり、純粋な感覚印象のようなものではないとし、「アフォーダンス(直接知覚論)」を提唱した。

性質二元論の立場からは、経験の表象的内容は同一であるが現象的特性は異なる可能性(逆転クオリア)、また経験が別の表象的内容を持っているが現象的に同一である可能性(逆転地球)を示す思考実験によって、表象理論が機能主義と同様にクオリアを説明できないと批判している。


  • 参考書籍・論文
信原幸弘――編『シリーズ心の哲学Ⅰ人間篇』勁草書房 2004年
太田紘史「意識の表象理論」『哲学論叢』 34 2007年
太田紘史・山口尚「反機能主義者であるとはどのようなことか」2010年
佐藤英明「直接知覚の認識論と生態学的環境の存在論」中央学院大学人間・自然論叢 (21) 2005年
鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう: 意識のハード・プロブレムに挑む』勁草書房2015年
信原幸弘「知覚と表象」『理想』No.672, pp.83-96 2004年
山口尚 「知識論証――その歴史と展望」2009年
太田紘史, 佐金武「意識経験の現象的統一:表象主義的アプローチとその問題」『Contemporary and Applied Philosophy』, vol.3, pp.1-27, 2011年
前田高弘「表象としての経験」『科学哲学』38-2 2005年


最終更新:2015年09月08日 15:48

*1 太田紘史・山口尚「反機能主義者であるとはどのようなことか」