パルメニデス


概説

パルメニデス( Parmenide-s 紀元前500年か紀元前475年-没年不明)はギリシアの哲学者で、エレア派の祖。「ある」と「ない」の概念を考究し、西洋哲学において最初に一元論を主張した。形而上学の創始者といわれ、また感覚よりも理性による判断に重きを置いたため合理主義の祖であるともいわれる。アナクサゴラスの弟子クセノパネスに学んだとも、ピュタゴラス学派のアメイニアス(Ameinias)に師事したとも伝えられる。

「あるものはある」「ないものはない」という自明な前提から、存在を論理的に限界まで考究したパルメニデスの哲学は、それまでの哲学の常識を覆す途方もない試みであり、生成消滅、運動変化、多数性といった自然現象の根本原理を否定するものだった。

プラトンによればソクラテスが青年時代(紀元前450年頃)にパルメニデスと会ったとき、彼はすでに老人であったという。ここからして、紀元前515年頃に生まれたのだろうと推測されている。名門の家柄であり、祖国エレアのために法律を制定したともいわれる。クセノパネスやエンペドクレスにならって、詩の形で哲学を説いている。その中でも叙事詩『自然について』が断片として現存する。

『自然について』は、第一部「真理の道(アレーテイア)」と、第二部「思惑(ドクサ)の道」に分かれている。「真理の道」では、「あるもの」の概念〈後述〉を考究している。「思惑の道」では、人間の感覚の前に現れるさまざまな現象を説明する原理であり、タレスなどイオニアの哲学者たちと似たような内容であった。

パルメニデスは、哲学を真理(アレーテイア)に関するものと、思惑(ドクサ)に関するものに分け、理性(ロゴス)が真理を探求する手段であり、感覚は人を惑わせるものだと考えた。しかし第一部と第二部とでは主張する内容に矛盾があると指摘する学者もいる。第一部での「あらぬものはあらぬ」という論理からすると、第二部はあらぬものについて説明しているとも考えられるからだ。

思想とその影響

イオニア学派の哲学者たちは万物の根源が何であるかを探究し、それぞれが「水である」「火である」「数である」というような答えを導き出した。その彼らに対し、そもそも「ある」、そして「ない」とは何かという問題を提起したのがパルメニデスであった。たとえば「水である」という場合の「水」のような主語となるものを想定せず、パルメニデスは「ある」、そして「ない」それら自体を思惟の対象とし、探究の道として二つだけを示す。

パルメニデスは以下のようにいう(断片8より抜粋、平易な表現にしてある)。
あるものは不生にして不滅であること。
なぜならば、それは(ひとつの)総体としてあり、不動で終わりなきものであるから。
それはあったことなく、あるだろうこともない。それは全体としてあるもの、一つのもの、連続するものとして今あるのだから。
それのいかなる生まれを汝は求めるのか。またどこからそれは成長したのか。あらぬものからと言うことも、考えることも、私は汝に許さぬであろう。あらぬということは言うことも考えることもできないからだ。
いったい、いかなる必要がそれを、始原のあらぬものから――以前よりもむしろより後に無から出て生じるように促したのか。
かくしてそれは全くあるか、全くあらぬかのどちらかでなければならぬ。
それにまたあるものの他に、なお何かが無から生じて来るなどとは確証の力がけっしてこれを許さぬであろう。
あるものが後になって滅ぶなどということがどうして可能であろうか。また生じるということがどうして可能であろうか。
かくて「生成」は消し去られ、「消滅」はその声が聞けないことになった。
さらにまた、あるものは分割されない。すべてが一様であるから。
すべてはあるもので充ちているのだ。それゆえすべては連続的である。あるものが、あるものに密着しているのだから。
それは大いなる縛めの制限のなかで動くことなく、始めも終わりももたない。
この断片では「ある」は「ない」から生じないこと、その背面の論理として「ある」は「ない」に転化しないことが主張されている。

なおアンリ・ベルクソンは、著書『創造的進化』で「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という、いわゆる「究極の問い」について、「絶対無」は擬似観念であるということを述べている。「絶対無」とは「全ての存在」の観念に「否定」の操作が加えられて作られたものであり、すなわち「ある」ものの一種にすぎない。人間知性は何かの不在によってしか無を理解できないのである。したがって「絶対無」や「究極の問い」は擬似観念であり、擬似問題であるというのがベルクソンの結論であり、これはパルメニデスの論理と近似している(ただし、このように近代形而上学の先駆としてパルメニデスを解釈するのは、「原初的にギリシャ的な文」の曲解であるとハイデガーは批判している)。

「ある(ギリシャ語の動詞 estin の現在形)」は「あった」や「あるだろう」と対比することができ、すなわち時間軸上に位置づけられる。しかし仮に、無からの生成を認めるとすると、なぜ「それ以前」に生じなかったのかという不合理が生じることになる。すなわち「ある」ものは「ある」という同一律による根本原則によって、それは「かつてなかったもの」になることはできない。

「ある」ものは「ない」ものから生じることはない。また変化とは「ある」ものが「ない」ものになることであり、これは論理的に不可能である〈後述〉。そして多数性とは、「ある」ものを分け隔てる空間や空虚、つまり「ない」ものがあることを想定するものである。しかし空間や空虚を認めた場合、それは後にパルメニデスの弟子であるゼノンが提起したように無限分割のアポリアが生じる。ゆえに「ない」ものはあることができない。(「ない」ものがあり得るかという問題は、現代では「形而上学的ニヒリズム」として議論されている)

このような論理からパルメニデスは
それは全体としてあるもの、一つのもの、連続するものとして今あるのだから。
と、生成と消滅、運動と変化、多数性と多様性を否定し、真に「ある」ものは時間と空間に規定されない唯一のものだとする「絶対一元論」を主張している。参考までに、井上忠は該当の断片を以下のように訳している。
それはかつてあったのでも、いつかあるだろう、でもない。なぜなら「ある」は、いま、ここに一挙に、全体が、一つの、融合凝結体としてあるわけだからである。(Fr.8.5-6)

生成変化を否定し、全体が一つの存在としてあるとしたら、その存在内部にある人間は、その外部に立ってその存在を見たり感じたりすることはできないということになる。ただ論理的な正しさを理解できるだけであり、それゆえパルメニデスは自身の哲学を、存在外部の視点を有する真理の女神(アレーテイア)に語らせたと考えられる。

感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである。事物が別のものに変わるということ、たとえば青いつぼみが赤い花に変化する時などは、青いつぼみが「ないもの」になり、赤い花が「あるもの」になる。しかし「青いつぼみ」のどこを探しても「赤い花」は無い。すなわちゼロをいくら足しても乗じてもゼロであるゆえに、変化とは論理的に不可能だと主張することができる。また変化とは矛盾であるともいえる。丸いものが四角いものに変化したという場合、両者に同一性があるとするならば、どこかの時点で、これは丸いものでもあり、かつ別のものでもある、ということが許されていなければならない。しかしこれは矛盾律(Aは非Aではない)に反する。どれほど似ていようと、どれかの時点についていう限り、そのものは丸いか、そうでないかのどちらかしかない。つまりどの時点においても特定の一つの形しかもっていない。そして一つの形だけでは変化とはいわない。さらに変化のない形をすべて集めても変化とはいわない。結局変化とは、ある時点での特定の形と、別の時点での特定の形に、人が因果関係を見出すことによって生じる「概念」としての存在であり、変化そのものが実在しているとはいえない。

確かに感覚的には生成変化が観測されていることをパルメニデスは認める。しかし生成変化するものは矛盾しているがゆえに実在ではない。経験される生成変化は感覚が欺かれた結果なのである。このような論理から要請された、「真に存在するもの」が「実体」である。すなわちパルメニデスは感覚よりも理性に信を置いて、真に存在するものは不変だと考えた。このことから感覚より理性を信じる合理主義の祖であると考えられている。

パルメニデス以降の哲学者は「ある」もの、つまり「不滅の実体」という概念を継承し、生成変化する現象と不滅の実体とをどのように調和させるか腐心することになる。

パルメニデスの実体概念を「無からは何も生じない」と、限定的に解釈して変化を認めたのがエンペドクレス、アナクサゴラス、また原子論を主張したレウキッボス、デモクリトス、そしてイデアや形相を想定したプラトンやアリストテレスなどである。彼らの主張は、絶対的な「ない」から「ある」に変化するというのでなく、見かけの変化の根底に不変の実体があるとするものである。これが今日まで議論が続くことになる実在論の源流である。

アナクサゴラスは、「あらゆるものの内にあらゆるものの部分がある」として、変化の矛盾を避けようとする。そして「生成」を「混合」と言い、「消滅」を「分離」と言い換えることで現象の生成消滅を説明する。またアナクサゴラスは科学的な実験で「空気」の存在を証明するにより「空虚」、つまりパルメニデスがいう「ない」ものの存在を否定している。これは「多」が空間に隙間なく存在して、全体としてはパルメニデスのいう「一」であることを保持しようとするものである。

プラトンは、まずパルメニデスが「ない」を定義する過程で、語れも考えもできないはずの「ない」について多くを語っていると矛盾を指摘する。また「一あり」とする言説は、「一」と「ある」という二つの語を用いることで、既に「ある」を単独で語ることに反していると考える。このような批判によってプラトンは変化を認め、しかし同時にパルメニデスの実体概念を継承することによって、イデア論を主張することになる。イデア論はパルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させようとした試みであるともいわれる。なおプラトンには『パルメニデス』という題名の対話篇があり、パルメニデスの影響の強さを伺わせる。

アリストテレスは、パルメニデスの「ある」を実体とし、その実体の述語となる属性としてのカテゴリーで生成変化を説明する。プラトンがイデアを事物から独立して存在する実体として考えたのに対し、アリストテレスは形相(エイドス)は質料(ヒュレー)に内在すると考えた(プラトンはイデアを意味するのにエイドスという言葉も使っていた)。イデアは個物から独立して離在するが、エイドスは個物において常に質料とセットになっている。エイドスが素材と結びついて現実化した個物が現実態(エネルゲイヤ)であり、現実態を生み出す潜在的な可能性が可能態(デュナミス)である。

紀元前二世紀頃のセクストス・エンペイリコスが著した『ピュロン主義哲学の概要』には、以下のような記述があり、パルメニデスの哲学が古代懐疑主義に大きな影響を与えたことが伺える。
なにかが変化するとすれば、それは存在するものが変化するか、存在しないものが変化するか、のどちらかである。ところが、存在しないものは存在せず、したがって変化を受け入れることがない。たほう存在するものが変化するとすれば、それは存在するものとはべつのもの、つまり存在しないものとなるだろう。したがって存在するものもまた変化することがない(『ピュロン主義哲学の概要』第三巻第一五章一〇四節)。
この『ピュロン主義哲学の概要』は1569年ラテン語に翻訳され、モンテーニュ、デカルト、ヒューム、カントらに影響を与えることになる。

また、相対主義者のプロタゴラスは以下のように語っている。(廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』より引用)
人間が万物の尺度である。すなわち、そうあるものどもについては、そうあるということの、そうあらぬものどもについては、そうあらぬということの(尺度である)。(断片1)
これは「ある」「ない」の基準は人間の判断に委ねられているとみなすものである。

不変の実体と運動変化する現象を調和させようとしたアナクサゴラスや原子論者、またピタゴラス学派に対して、パルメニデスの弟子であるゼノンは「アキレウスと亀」をはじめとした数々のパラドクスによって、変化と多数性が存在しないことを証明しようとした。

「ある」の解釈

パルメニデスは存在について、「あるもの(eon)」と「ないもの」しか考えられず、そのうち「ないもの」については語ることさえ出来ず、ただ「あるもの」だけがあるという。しかし彼のいう「あるもの」については、さまざまな解釈がなされている。

以下のサイトから主要な三つの解釈を要約引用する
パルメニデスの「ある」を英語に訳すとis(ギリシア語で「エスティン」)だが、英語でisが何の前触れもなく単独でisと出てきたら明らかに異様であり、このパルメニデスに独特の「ある」の使い方こそが、2500年以上経った今でも彼の学説に対する解釈が固定していないことの最大の原因と解説している。

(1)「丸い真なるもの」が「ある」と読む解釈
パルメニデスの「ある」を、「特定の何か」が存在することを述べているのだと解釈す>るやり方。このように解釈する人の代表格はバーネット(Burnet)という人。

そうなると、当然問題となるのはその「特定の何か」とは何であるかということだが、>パルメニデスはその存在について以下のように述べる。
(岩波書店『ソクラテス以前哲学者断片集』より。)
性質1…非時間性(5行目「あったこともなくあるだろうこともない。今あるのである」)
性質2…一性(6行目「一挙にすべて、一つのもの、つながり合うものとして」)
性質3…不生不滅(6-21行目「この範囲で行われている一連の議論を参照」)
性質4…不可分割(22行目「あるものは分かつことができない」)
性質5…均一性(22-23行目「(不可分割であることの根拠として)すべてが一様である」「ここにより多くあったり、より少なくあったりすることによって互いがつながりあうのを妨げられることなく」)
性質6…充足性(24行目「全体があるもので満ちている」)
性質7…不動性(26行目「大いなる縛めに限られて動くことなく」)
性質8…不変性(39-41行目「名目にすぎぬであろう……明るい色をとりかえることも」)

(2)「あるもの」が「ある」と読む解釈
「なぜならば思惟することとあることとは同じであるから(Fr.3)」

Owenはパルメニデスの上の言葉から、「ある」と人間が考えたり語ったりすることとを>結び付ける。つまり、何らかの対象に対する我々の思考や言明が、意味を持ち判断可能な>ものとして成り立つためには、そこに「ある」という「存在」の要素が不可欠であるから。

我々が普段何がしかのことについて語っているその全ての前提は、対象にせよ思考にせ>よ「ある」ものだといえる。

この「前提」という着想をOwenはラッセルの「記述の理論」から獲得して、それをパル>メニデスに読み込んだ。


(3)結論を述べるときに用いる、何々で「ある」という使い方で読む解釈
「ある」という言葉には、「何かが存在している」という意味の「ある」の他にも、あ>るものに対して「それが何かである」という使い方で用いられることもある。この「であ>る」というときに使われる用法は、「存在用法」に対して「述定用法」と呼ばれる。

パルメニデスの「ある」をこちらの「述定用法」として解釈したのはMourelatosである。

パルメニデスのアポリア

(以下は管理者の見解)

パルメニデスの提起したアポリアは、「変化とはあるものがないものになり、ないものがあるものになることで、これは矛盾している」というものである。この「変化の矛盾」というアポリアに明快な解を出した哲学者はいまだにいない。

パルメニデスの弟子であるゼノンは、パルメニデスの「唯一にして不変の実体」を証明するため、いくつかのパラドックスを考案した。ただパラドックスとしてあまりに面白くできているため問題が矮小化されて考えられているケースも多い。ゼノンが示そうとしたのは、ピタゴラス派のいうように存在が「多」であり、時間や空間が実在するなら、それらは無限分割が可能であり、したがって「運動」が不可能なこと、かつ「変化」は矛盾しているということ。そしてパルメニデスのいうように、「一」があるのであって「多」があるのではなく、多とは一から派生した概念であるということである。

パルメニデスのアポリアと不変の実体の概念は、既述したように古代ギリシャの哲学者たちに重大な影響を与え、彼らは独自の形而上学を構想していった。その彼らを経由して、エレア派の思想は中世以降の哲学者たちにも強い影響を与えたことが伺える。

アウグスティヌスは時間の実在性を否定し、時間は人の心(魂)の作用においてのみ見出せるとした。そして実在(神)は永遠であり、過ぎ去ることもなく、全体が同時に存在することを主張する。全体性・同時性・一挙性がアウグスティヌスの実体概念である。これもパルメニデスの実体概念を受け継ぎ、また変化というものの矛盾を避けようとする思想であると考えられる。

スピノザが神のみを実体として、生成消滅する物質世界と人間の精神を、唯一である神の属性として還元したのもアウグスティヌスと同様の試みであると考えられる。これは汎神論的な一元論である。

デカルトは変化の矛盾に対し、神による「連続創造説」を主張した。デカルト方法的懐疑によって疑い得ない「私(コギト)」の存在を確認したが、しかしその「私」が現時点だけでなく、直前の瞬間に存在したこと、また次の瞬間に存在することは方法的懐疑から論理的に導けない。したがって「私」の持続を説明するために神の意志を想定した。どんなものも、それが持続するところの各瞬間において保存されるためには、そのものがまだ存在しなかった場合に新しく創造するに要したのとまったく同じだけの力とはたらきを要するとし、それゆえ神が世界を持続的に保存しているはたらきは、神が世界をはじめに創造したはたらきとまったく同じものであると考える。つまり存在の維持(変化)はその時々の創造にほかならない、とする。これはパルメニデスが提起した変化の矛盾というものを認めざるを得なかったために、神の権能によってその矛盾を解消しようとしたと考えられる。

ジョージ・バークリーは、「存在するとは知覚されることである」という主観的観念論を主張したが、その背景には、「変化」というものの解き難い不合理があったからだと思われる。バークリーに対しては、世界を瞬間ごとに消滅させては創造する不合理に陥るという批判がある。しかしバークリーは、瞼を閉じれば周囲のあらゆる事物が無に帰することは不合理であることを認めた上で、「光と色彩は知覚される以上に少しでも永く存在しない感覚にほかならない(『人知原理論』)」と、感覚の消滅の不合理さを主張している。そして、神の意志による保存が無ければ世界は存続できないというデカルトの「連続創造説」が学院で普通に教えられていることを延べ、実体世界の消滅と感覚の消滅の不合理さを類比的に主張している。

デイヴィッド・ヒュームは因果関係というものを考究し、原因と結果の結びつきを我々の心の習慣にすぎないものと考えた。すべての出来事は完全にばらばらに分離している。一つの出来事は別の出来事に続いて起こるが、しかし私たちはそれらの出来事の間にいかなる結びつきも決して見出すことはできない。それらは連接(conjoined)しているように見えるが、結合(connected)しているようには決して見えないと彼はいう。これは「変化」というものが人間の知覚から独立してあるのではない、という論述だとも受け取れる。事実、ヒュームは時間や空間の実在については懐疑的であった。

ヘーゲルはゼノンのパラドックスに対し、そこから帰結するのは、運動が存在しないということでなく、運動は定有する矛盾であるということだと結論している。もちろんヘーゲルの場合は、独自の弁証法によってその矛盾が解消されることを展望していると考えられる。

20世紀ではマクタガートが時間の実在性を否定する主張を展開している。マクタガートの主張を簡略に説明すると、われわれが理解する時間の概念は、「現在、過去、未来」という時制述語によって理解される「A系列」の時間と、「~より前、~より後」という関係語によって理解される「B系列」の時間があるが、「変化」の概念を伴っているA系列こそが時間の本質であり、B系列とはそこから派生した時間概念であるとする。その上で彼は時制述語で理解されるA系列は矛盾しているという。つまりあらゆる出来事は、「未来である」「現在である」「過去である」、という三つの時制を持たなければならないが、それらは互いに排他的な特性であり、従ってA系列は矛盾している、というものである。もちろん常識的観点からはマクタガートの主張に対して、三つの特性は「同時に」でなく「時制を異にして」または「順序を異にして」あるものだから矛盾していない、と反論しうる。しかしその反論には「時制(A系列)」や「順序(B系列)」というような、証明すべきはずの当の概念が用いられており、循環論法になっている。つまり論点先取的に「時間」や「変化」の概念を用いなければ、時間も変化も説明できないということである。このマクタガートの議論はパルメニデスの論考に論理形式を与えたものと見ることができる。 パルメニデス風に言えば、変化とは「ない」が「ある」に(未来が現在に)なることであり、「ある」が「ない」に(現在が過去に)なることである。これは矛盾である。この主張は次の形式に変換できる → 出来事は過去・現在・未来という互いに排他的な特性を持たねばならない。これは矛盾である。

マクタガートが時間の非実在を主張して以来、分析哲学ではマクタガートの時間論を巡って議論が百出し、今もなお継続中である。しかしマクタガートの問題のメタレベルに、「変化」と「無からの生成」というエレア派以来の存在論の根本問題があることを理解して論じた人物は極めて少ない。マクタガートを巡る議論はゼノンのパラドックスの類型である。反駁に懸命な者たちは問題を言語表現上の「みかけの矛盾」だと思い込んで、その矛盾を解消しようと視野狭窄に陥って、メタレベルの問題を捉えていないのである。

廣松渉は、「変化」とは本質的に矛盾した存在様態であるという。別々のものの状態をいくら並べても変化とはいわない。変化とは或る一定のものの変化であって、或る同じものが一貫して存在しなければ変化という概念がそもそも成立しない。しかし同じものがあり続けるのなら無変化である。したがって同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けること、こういう矛盾構造を変化というものは孕んでいると指摘し、変化というものは不思議であると述べる。

結局、パルメニデスが提起した変化の矛盾を論理的に否定できた者は歴史上いない。そして時間(そして空間)の実在を証明できた者もまた皆無である。時間や空間は所詮、バークリー、ヒューム、フィヒテがいうように感覚から抽象された観念なのだから、デカルトが見出したコギトのような、いくら疑ってもそれ以上は疑えないものとしての存在と、同じレベルの確かな存在とはいえないのである。

なお現代の物理学における時間論は相対性理論がベースになっているが、相対性理論の解釈によって、「時間の流れ」を否定し、「現在・過去・未来の全ての事物は、消滅も生起もせず、ただ永久に存在しているだけだ」とするブロック時間(block time)、またはブロック宇宙(block universe)を主張する学者が少なからずいる。※詳細は時間と空間の哲学を参照されたし。

心の哲学におけるパルメニデスのアポリア

(以下は管理者の見解)

現代の心の哲学の核心部分においても、パルメニデスのアポリアが存在する。心の哲学の最大の焦点は現象的意識クオリアの由来(意識のハードプロブレム)をどう説明するかだが、クオリアとはまさに「ある」ものが「ない」ものになるものである。 先ほどまでなかった心的現象がいきなり生まれ、そして消えていく。

これを物理主義的な立場では還元・創発・汎経験説といった概念で説明しようとするが、説明として失敗している。そもそも心的なものと物理的なものは、カテゴリーとして論理的に異なるものとしてデカルトによって分割されたものである。科学とはわれわれ人間の知覚によって捉えられるもののうち、時間・空間的、つまり数学的に記述できる部分(デカルトのいう「延長」)だけを対象としてきたのである。つまり心的なものと物理的なものはカテゴリーとして論理的に異なることが前提とされているため、「延長から精神が生まれる」という主張は、決して「1プラス2は3である」というような論理的整合性を確保できない。このことを端的に指摘しているのがソウル・クリプキによる固定指示子の概念である。還元説をたとえるなら「1に2をプラスすることが愛情である」というようなものであり、創発説をたとえるなら「1に2をプラスする過程で愛情が生まれる」というようなものであり、いずれも意味論的にナンセンスである。 また物理的なものは生成消滅しているように見えても、実は他の元素や素粒子が組み合わさったり、分解されているだけであり、因果性やエネルギー保存則は保たれている。しかし心的現象はそのような法則が発見できないことが最大の問題なのである。私が机の上に「美女」の姿を思い描いたとする。次にその美女を消して「戦車」を思い描いたとする。では、先ほどの美女はどこに消えたのか? 

物質が「脳」を構成してそれが動作したらクオリアが生じるというのは、法則的な説明が全くなされておらず、これは無から何かが生じていると主張するに等しいナンセンスである。たとえるならこういうことである。子供がバケツを見ると、そのバケツからカエルが飛び出したとする。バケツを見る度何十回と同じことが起これば、その子供は「カエルはバケツから生まれる」と主張するかもしれない。還元説や創発説は同じような不合理な主張をしているのである。

還元主義や創発説に対して性質二元論者の一部、チャーマーズなどは汎経験説を主張し、「原意識」の組み合わせによってクオリアが生成されると考えるが、これは意識に対する原子論的な還元主義であり、創発説と同様に因果的な説明をしていない。原意識の組み合わせなるものをたとえていえば、「赤」が37個集まれば「痛み」になるというようなものであり、これは単純にナンセンスである。 また汎経験説には自己についての独我論的問題が生じるだろう。たとえばトマス・ネーゲルは、単一の自我が数多くの自我から構成されることはありえないという主張をしている。この自我の問題は意識の超難問とも関係してくる。

結局「変化は矛盾である」というパルメニデスのアポリアは、心の哲学の核心部分においても最大の障壁となっているのである。

※クオリアの変化という問題は現象的意識の非論理性として詳細に考察しているので参照されたし。
相対性理論から導出されたブロック宇宙説では、変化や生成といったものを否定するので、意識のハードプロブレムや心的因果の問題は消去される可能性がある。


  • 参考文献・論文
青山拓夫『新版 タイムトラベルの哲学』ちくま文庫 2011年
井上忠『パルメニデス』青土社 1996年
入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書 2002年
植村恒一郎『時間の本性』勁草書房 2002年
内井惣七『空間の謎・時間の謎』 中公新書 2006年
内山勝利『ここにも神々はいます』岩波書店 2008年
大森荘蔵『時間と自我』青土社 1992年
大森荘蔵『時間と存在』青土社 1994年
大森荘蔵『時は流れず』青土社 1996年
木田元『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』新書館 2002年
橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』集英社新書 2006年
神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史1』講談社 2011年
神崎繁、熊野純彦、鈴木泉 編集『西洋哲学史4』講談社 2012年
中島義道『「時間」を哲学する』講談社現代新書 1996年
中島義道『「私」の秘密 哲学的自我論への誘い』講談社 2002年
廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』講談社学術文庫 1997年
廣松渉『心身問題』青土社 1988年
ジョージ・バークリー『人知原理論』大槻春彦 訳 岩波書店 1958年
デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 白揚社 2001年
ジョン・R・サール『ディスカバー・マインド!』宮原勇 訳 筑摩書房 2008年
プラトン『プラトン全集 4 パルメニデス ピレボス』田中美知太郎 訳 1975年
伊勢田哲治「科学的実在論はどこへ向かうのか」Nagoya Journal of Philosophy vol. 4 2005年
西藤洋「ジョージ・バークリーにみるオッカムの剃刀」科学基礎論研究
Vol. 26 1999年
野内玲「存在的構造実在論の妥当性」科学基礎論研究Vol.37 2009年
的場 哲朗「ハイデッガーにおけるパルメニデス断片 III : その解釈と暴力の問題」白鴎女子短大論集 19(1), 108-127, 1994-09
  • 参考サイト
WEBで読む西洋テツガク史 パルメニデス
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/vorsokratiker/parmenides.html
無からは何も生じない
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%82%E7%94%9F%E3%81%98%E3%81%AA%E3%81%84
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%9C%E4%BD%95%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B
充足理由律
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%85%E8%B6%B3%E7%90%86%E7%94%B1%E5%BE%8B
時空の哲学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6
形相
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E7%9B%B8
時間の矢
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E9%96%93%E3%81%AE%E7%9F%A2


最終更新:2013年10月13日 14:05