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第3・4(2)イ 援護法適用のための捏造

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pipopipo555jp

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沖縄集団自決裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第3 争点及びこれに対する当事者の主張
第3・4 争点4(真実性の有無)について
第3・4(2)原告らの主張

第3・4(2)イ 援護法適用のための捏造



第3・4(2)イ(ア) (捏造を裏付ける証言や文献)*

a (「母の遺したもの」の記述)*

座間味島の集団自決が原告梅澤の自決命令によるものであるとされたのは,援護法の適用のためである。

「母の遺したもの」(甲B5)には,概略,次のような記述がある。すなわち,
「援護法は,軍人・軍属を対象に昭和27年に施行された法律で,翌年には米軍支配下にあつた『北緯29度以南の南西諸島(奄美諸島と琉球諸島)に現存する者』にまで適用が拡大された。それによって,戦没者の遺族や負傷した人などに国から金が支払われることになるが,一般の民間人には適用されなかった。」

「ところが,昭和34年から,旧国家総動員法に基づいて徴用された者,あるいはそれ以外に軍の要請で戦闘に協力して死亡,または負傷した『戦闘参加(協カ)者』に,準軍属という新しい枠が設けられて,結果的には20種のケースに適用されることになった。沖縄関係では,『集団自決』,スパイ嫌疑で日本軍に殺害された人,義勇隊参加,陣地構築,食糧供出、壕の提供,道案内,勤労奉仕などによる負傷者や,死亡者が含まれた。つまり,一般住民の死者たちに対して,単に砲弾に当たって死んだり米軍に殺されたりした人には補償がなされないが,『日本軍との雇用関係』にあって亡くなったり,負傷した人には補償されるという法律である。したがって,この戦争で亡くなった非戦闘員の遺族が補償を受けるには,その死が,軍部と関わるものでなければならなかった。」

「その結論を得るまでの作業として,まず厚生省による沖縄での調査がはじまったのが昭和32牢3月末で。座間味村では,4月に実施された。役場の職員や島の長老らとともに国の役人の前に座った母は,自ら語ることはせず,投げかけられる質問の1つ1つに,『はい,いいえ』で答えた。そして,『住民は隊長命令で自決をしたと言っているが,そうか』という内容の問いに,母は『はい』と答えたという。」

「座間味村役所では,厚生省の調査を受けた後,村長を先頭に,集団自決の犠牲者にも援護法を適用させるよう,琉球社会局を通して,厚生省に陳情運動を展開した。」

「陳情の成果なのか,昭和34年,戦闘参加者への援護法の適用とともに,慶良間諸島の6歳未満を含む集団自決の負傷者や遺族に,障害年金,遺族給年金が支給されるようになった。戦闘参加者に6歳未満を含めたのは,当初は集団自決だけで,他の戦争犠牲者には適用されなかったが,全県的な運動もあって,昭和56年以降は,壕の追い出しなどで犠件になった6歳未満の子どもたちにも適用されている。」
との記述がある。

b (照屋昇雄供述)*


渡嘉敷島の集団自決が赤松大尉の自決命令によるものであるとされたのも,援護法の適用のためである。

琉球政府社会局援護課の元職員である照屋昇雄は,平成18年8月27日付け産経新聞において,渡嘉敷島の集団自決について,援護法の適用のために軍による命令ということにしたものであり,軍命令とする住民は1人もいなかったと述べた。

照屋昇雄は,昭和20年代後半から,琉球政府社会局援護課で,旧軍人軍属資格審査委員会委員を務め,当時援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調ぺるために,渡嘉敷島で聞き取りを実施した。

援護法では一般住民は適用外となっていたため,軍命令で行動したことにして準軍属扱いとすることを企図し,照屋昇雄らが,赤松大尉が自決命令を出したとする書類を作成し,厚生省に提出した。これにより,集団自決の犠牲者は,準軍属とみなされ,遺族や負傷者が,年金や弔慰金を受け取れるようになった。

c (その他)*


その他にも,原告梅澤の陳述書(甲B1)や本田靖晴ママ,春 の「第一戦隊長の証言」(甲B26)など,援護法適用のために,座間味島の集団自決を原告梅澤の命令によるものであることにしたこと及び渡嘉敷島の集団自決を赤松大尉の命令によるものであることにしたことを示す関係者の証言,文献等がある。


第3・4(2)イ(イ) (被告ら主張に対する反論)*


a (援護法適用の経緯)*


援護法が沖縄に適用されるに至った経緯は以下のとおりであり,この一連の事実は総合的に踏まえなけれぱならないところ,被告らは,自らに都合の良い事実だけを断片的に拾い上げ,粗雑な推論をして事実を歪曲するものである。

昭和27年 4月 援護法の公布。援護法の目的は,「軍人軍属の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し,国家補償の精神に基づき,軍人軍属であった者又はこれらの者の遺族を援護すること」にあり,軍人軍属ではない一般住民は適用外となっていた。
昭和27年 8月 政府が沖縄に「那覇日本政府南方連絡事務所」を設置。政府としても,将来的には援護法の沖縄への適用を考えていたため,主として援護業務推進のために,総理府内に「南方連絡事務局」を創設した。
昭和28年 3月 北緯29度以南の南西諸島にも援護法の適用が認められる。琉球政府社会局に援護事務を主管する援護課が設置され,各市町村にも援護係が設置される。宮村幸延が座間味村の援護係に着任する。「琉球遺家族会」が「琉球遺族連合会」と改称して,各市町村に遺族会が相次いで結成される。
昭和28年 9月 琉球遺族連合会が日本遺族会の一支部として正式加入を認められる。
昭和30年 3月 総理府事務官の馬淵新治が,援護業務のため沖縄南方連絡事務所へ着任する。
昭和31年 3月 中等学校生徒について,男子生徒は全員軍人。女子戦没学徒は軍属として死亡処理され,援護法の適用開始。
昭和31年 3月 厚生省の援護課事務官が,沖縄住民の戦争体験の実情調査に訪れる。この際,初枝に対する事情聴取も行われた。また,昭和31年ころまでに,渡嘉敷村において,照屋昇雄が100名以上の住民から聞き取りを実施していた。その結果,原告梅澤の自決命令及ぴ赤松大尉の自決命令が公認されることとなった。
昭和32年 7月 厚生省が,一般住民を対象とした「沖縄戦の戦闘参加者処理要綱」を決定し,住民の沖縄体験を20種類に類型化した「戦闘参加者概況表」にまとめる。その結果,軍の命令による「集団自決」に該当すれば,一般住民も兵士同様「戦闘参加者」と認定され,「準軍属」扱いされることになる。ただし,軍の命令を聞き分けられる「小学校適齢年齢の7歳以上」という年齢制限が設けられた。
昭和38年 10月 6歳未満の集団自決者も「準軍属」として扱われるようになる。



b (援護課文書等に対する疑義)*


「住民処理の状況」(乙36)は,「軍によって作戦遂行を理由に自決を強要されたとする本事例」「比較的信愚性があり」というように,推測に基づく表現や信用性に一定の留保を付す表現がある。

また,「沖縄作戦講話録」(乙37)「沖縄戦講話録」か は,「渡嘉敷村(住民自決数329名)座間味村(住民自決数284名)」としており,「鉄の暴風」の記載(座間味島52名)や「住民処理の状況」(乙36)の記載(座間味村155名,渡嘉敷村103名)と大きく異なっている。このように,各文献,調査により自決者数が異なることから,集団自決以外の原因で死亡した住民の数も含まれていき,自決者数が増加していったことが疑われ,原告梅澤の自決命令及び赤松大尉の自決命令が虚偽であることを示している。

さらに,「戦斗参加者概況表j(乙39の5)は,自決命令の主体を,単に「警備隊長」としており,その主体が原告梅澤及び赤松夫尉を指しているのか疑問である。


c (軍命という風説はもともとあった)*


しかし,「ある神話の背景」(甲B18)にあるように,「鉄の暴風」出版前に,外地から帰還した者の家族の中で,ある家族は全減し,ある家族は生きているという事実にさらされた際,島に残っていた者はその責任を追及されることになり,責任を回避するために集団自決が軍の命令によるものだとせざるを得ず,それがいかにもありそうな風説として流布したものと理解することができる。


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