ローダウン@Wiki

用語集2

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powerkoil18

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ハ行


プッシュ効果


投球においてボールの前進力として作用する動作。

振りほどき


リストブロークンと肘の伸展動作を組み合わせたもの。

振り子スイング


Pendulum Swing。
助走を計算に含めず肩を支点とした単振り子と考えておこなうスイング。


ボールにエネルギーを与えるために振り子の原理を利用するだけでなく
動作イメージ>も振り子をイメージしておこなう。

もちろんローダウンのスイングに振り子の要素がないわけではない。
振り子をイメージしてスイングをおこなうことと
スイングの中に力学的に振り子運動の要素が含まれていることとは
まったく別の問題であることに注意するべきである。

また振り子スイングの理論には下記のような動作の指定が見られることが多い。

  • まっすぐ前に差し出すようにプッシュアウェイをする。
  • リストの状態を問わず常にサムを早く抜く。
  • 「くるぶし付近」や「肩の真下」などリリース位置が決まっている。
  • 肘を曲げてはいけない。
  • 腕に力を入れてはいけない。

【参考リンク】

ブロークンリスト


リストが甲側にそっている状態。
またはスイング中にボールの重さでリストが折れてしまうこと。
リフト&ターンでサムを抜きにいく場合にもおこる。

勉強の障害


サイエントロジーの創設者であるL・ロン・ハバードの
<勉強の技術>を構成する一概念。
サイエントロジーはカルト団体ともいわれるが、
この概念については普遍性があると思われる。

勉強の障害にはおよそ三つの原因があるとする。

  • 【第一の障害】質量(マス、実物)が欠如した学習
  • 【第二の障害】段階を飛び越した学習
  • 【第三の障害】誤解語を読み飛ばす等の学習

これらをボウリングにおきかえると以下のようになる。

  • 【第一の障害】試合などの実践が欠如した練習

一人で投げて練習し、上手くなったらゲームに参加して
いいスコアを出してやろうと考えるような練習である。

現実にはボウリングの技術はレーンコンディションの変化と
密接な関係があり複数人で投げなければ技術は身に付かない。
ボックス内の人数によってもスコアが
左右されるといわれるぐらいである。

なによりボウリングはメンタルがもっとも重要であり
試合に出なければ本当の上達はない。

  • 【第二の障害】いきなり大きなフォームで高速高回転ボールを投げる練習

他の項でも何度も述べているように
もっとも重要なリリースの<位置/タイミング>を感じることができなければ
ボールに回転や球速を与えることはできない。
早く上手くなりたいと考えてやっていることでも
段階を飛び越すことは実際には上達が阻害されるだけである。

どんなスポーツでもそれは同じである。
野球ならばキャッチボールからはじめるだろうし、
サッカーであればまずはリフティングをするだろう。
水泳ならば顔を水につけるところからはじめるものである。
自動車教習所で初日から一般道を走らされれば戸惑うだろう。
しかし段階を追った訓練もせずいきなりPBAのような投球をするのは
普通乗用車しか乗ったことのないものがF1マシンに乗って
レース用のコースを時速300kmで走ろうとするようなものである。

また段階的に練習していれば習得できるはずのものも
自ずから習得を遅らせることで学ぼうとするその技能が
非常に難しいもののように感じられてくる。
そうしてボウリングへの熱意がそがれてしまうこともしばしばである。

  • 【第三の障害】実際に経験せずにアジャスティングを理解した気になる

レーンコンディションやアジャスティングの説明を読んで
実際には理解できていないのにセンターでは打っているので、
漠然と理解したつもりになっていてメンテを変えられたり、
外の大会で思いどおりに打てないと練習の熱意がそがれる。

日頃なにひとつ勉強していなかったのに
明日試験と聞いてあわてて参考書を開いてみても
ちんぷんかんぷんで投げ出したくなるのは当然である。
海外で迷子になったように右も左もわからず頭が真っ白になり
「どこをどうどう投げていいかさっぱりわからない、どうしようもない」
という無力感にとらわれてしまう。
わからないことはわからないとあらかじめ認めておく方が
無駄な心理的ダメージもなく上達は早まる。

これは<知ったかぶり>をするなというのではない。
負けず嫌いであるのはむしろ良いことである。
自分の知らない話題をされてその場で<知ったかぶり>をしたなら
帰りにはその足で書店に向かい関連書籍を買いあさって読むなり、
インターネットで検索しまくるなりするのが本当の負けず嫌いである。
飲み会で話題についていけなくて悔しかったから
ベストセラーの本を手当たり次第に読みまくり、
そのまま読書にハマって文芸評論家になってしまうかもしれない。
きっかけは<知ったかぶり>でもなんでもいいのである。
突き抜けてしまえば誰も口出しはできないものだ。

問題は自分自身にたいして<知ったかぶり>をしている場合である。
この<自分自身への知ったかぶり>とはたとえば
「そんなことは知らなくたって打てるから困りはしない」
「それを知っていたからどうだっていうんだ」
というような慢心のことである。
こうしてボウリングを軽々しく見始めるともう学ぶことはできない。
「自分は上級者でボウリングに関してもはや教えてもらうことはない、
たとえ知らない情報が存在してもそれは大したことではないのだ」と
このように慢心してしまうとそれが重要な情報であっても
聞き流してしまい学習の大きな障害となる。
このような状態はトップではないがそこそこのアベレージボウラーに多い。
慢心の根拠がアベレージなので打てなくなるとそのセンターには来なくなる。
それは負けず嫌いではない。単に逃げているのである。
真の負けず嫌いは打てないセンターがあれば
原因を解明するためにむしろそのセンターに足を運ぶ。

自分の知らないことやわからないことに出会ったとき、
すぐ解決しそうなことはその場で調べる、または質問する。
大きなテーマや複雑な部分は書きだしておく。
そして後日調べる、日を改めて実験する。
それでもわからなければ保留する、
一年後にわかるかもしれない。

このようにわからないことをわからないままにせず
概念的な曖昧さをひとつひとつ解消していくことで
理解が深まり、応用力がつくのである。


マ行


物自体


※注意:以下の説明は極めて単純化されたものであり
実際のカントとはほとんど関係がないと思った方が賢明である

物自体イマヌエル・カントの思想の中心概念。

<物自体>は自己の外にあって自己を支える「なにか」である。
類似の概念にレヴィナスの<他者>、ラカンの<現実界>、柄谷行人の<外部>などがある。

われわれが事物を理解するときには意識によってしか理解できない。
意識というのは<イメージ/概念>の空間であり、事物そのものではない。
その意味で人間はついには世界全体を把握することはできない。

そのように人間は<イメージ/概念>というかたちでしか
「外の世界」を把握できないとしても、
人間に知覚や経験を発生させるような「外の世界」が存在すること、
なんらかの<外部性>があるのは確かである。

むしろそのような<外部性>によって領域を限定することで
自己を成立させているとも言える。
「(外部でない)内部」としての自己、「(他人でない)自分」としての自己、
つまり自己は否定的にしか見いだせない。
自分が自分であるためには<他者/外部/現実界>が必要なのである。
人間は<他者>の中でのみ自己たりえるのである。

しかし、人間的本質は、個々人に内在するいかなる抽象物でもない。
人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である。


<物自体>や<他者>は「それ」がなにかをあらかじめ知ることはできない。
「それ」は<イメージ/想起>することのできないなにかである。
「それ」は捕まえようとあがけばあがくほど遠ざかる。

屋根裏にいたかと思うと階段にいる。
廊下にいたかと思うと玄関にいる。
おりおり何ヶ月も姿をみせない。
よそに越していたくせに、そのうちきっと舞い戻ってくる。
ドアをあけると階段の手すりによっかかっていたりする。

<イメージ/想起>することができるものは「すでに知っていること」である。
「まだ知らないことがあるだろう」というのも<イメージ/想起>であり、
過去の経験からの類推、つまり自分の意識の範疇である。
「世の中には自分の知らないことがたくさんある」と考えたところで、
なにを知らないのか、どのぐらい知らないのかは
実際にその「知らなかった」という出来事にあってみなければわからない。

また「自分自身そのもの」というのも人間は知ることはできない。
通俗的に言われるような意味での自己、
いわゆる自分というのは実は自意識のことである。
人間というのは先に引いたマルクスの言葉のように
現実的なありようとしては関係の総体であり意識外の領域を含んでいる。
自分自身で自分を表象することは不可能である。
その意味で「本当の自分」や「生きる意味」を求める
「自分探し」に「終わり」も「答え」もない。
もしなにか「答えらしきもの」があったと思ったのなら
「それ」は「見つけた」のではなく「選んだ」のである。

本気で「自己そのもの」をイメージしようとすれば
「一匹の巨大な毒虫」のように<おぞましいもの>として
悪夢とともに表象されるであろう。

汝が久しく深淵を見入るとき、 深淵もまた汝を魅入るのである。 -ニーチェ

「本来の自分」を取り戻そうと暗い洞窟の奥へ奥へとすすみゆき、
世界の中心で櫛の歯を折って灯をともしたその先に照らし出されるのは
かつて自分が「それ」であったものの残骸である。
「それ」は「マロニエの根」のように見た瞬間に
「嘔吐」せずにはいられない不気味な肉塊であり、
眼のないウナギや、異星人の二つの目のあごや、
つぶれたウジ虫のようにバラバラに<寸断された身体>である。

われわれが外界を捉えるときはいつもイメージできなかった残余がある。
自分の心の奥を覗き込むと、しばしば見いだされる<おぞましいもの>は
そのイメージできなかった「人間のなりそこない=対象a」である。
「人間のなりそこない」は乳房、糞便、声、まなざしを求め、
いつもどこかしら<男根/ファルス>に似ている。

意識が外界を捉えるときにかならず「なにかを残す」が、
しかし、それは人間の心の中の「世界のイメージ」と
「世界そのもの」が似ているか、似ていないか、
正解しているか、誤解しているかといった問題ではない。
「意識(われわれが世界はこのようにあると確信しているもの)」と、
<物自体>、いわば「世界そのもの(われわれにかろうじて
「現実的なもの」として知覚されるもの)」は
根本的に異なる次元に属すると理解する必要がある。

ただその未知の領域は一度知ってしまえば「つまらないこと」かもしれない。
当たり前のようにそこにあるが、単に見逃していたもの、
いつもそばにいたがすれちがっていただけの「他者」のようなものかもしれない。
そのように既知のことに「つまらなさ」や「当たり前さ」を感じるのは
知ってしまった瞬間に「それ」は<外部>ではなくなるからである。
<他者>の<他者性>が失われるからという言い方もできる。
しかし、なにかひとつ知ったところで<物自体>はなくなりはしない。
<物自体>は自己が自己であるために必須だからである。

人間はつねにすでに<外部>にさらされている。
「世の中は知らないことがたくさんある」という達観めいた考えが誤謬のもと*1かもしれない。
もう知っていると思っていたことのすぐそばにまったく知らなかった
驚くべき事実が存在しているかもしれないのだ。

自分のほかにも世界があることを思い知ったか。
所詮は悪魔のような悪だったわけだ!
――だからこそ知るがいい、わしは今おまえに死を命じる、溺れ死ね!

「それ」は知ろうとすることではじめて存在するのかもしれない。
たとえば「見ようとするからオイルは見える」のかもしれない。
逆を言えば見えないボウラーは「見る必要がない」のかもしれない。

「それ」は手に入れようとするから困難だと思うのかもしれない。
たとえば安定させようとするから「曲げると安定しない」と思うのかもしれない。
逆を言えば安定しないのに曲げるボウラーは「安定させる必要がない」のかもしれない。

そのように「無いから欲しい」のではなく
「欲しがるから無いことに気付く」のかもしれない。

欲望とは他者の欲望である -ラカン

「それ」は望まれることで存在する。
望まれなければ「それ」は存在しない。
「もっと打ちたい」と思うから「打つ方法」は見いだされる。
いまだ誰にも見いだされていない方法も存在するだろう。

経験というのはいつも<物自体>を通じておこり、かならず「想定外」である。
<物自体>を経由せず「想定内」であるものは経験ではない。
それはすでに既知のもの、経験し、知っていることであり
すなわち自分の意識の範囲内である。
真の経験は常に自己を超えた次元で起こる。

人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。 -マルクス

そのようにつねにすでに自己の外にあり、
その不在、欠如によって、自己を支え、
新しい経験をうみだすような「なにか」を<物自体>という。

【参考リンク】

ラ行


リストブロークン


ローダウンのリリース動作。
カップリストの状態からリストをすばやく前に倒す。

リフトアップ


オールドスタイルでの<回転効果動作>。

オールドスタイルではボウラーの移動は計算に入れずに
投球動作をイメージするため、
ボールは単振り子の運動をする(ようにボウラーから見える)

その投球イメージによってボールを最下点付近でリリースすると
リリース時には手のひらの速度とボールの速度は等しく、
その後手のひらは減速し、ボールは等速で水平に移動していく。
リリース後は手のひらとボールはたちまち遠ざかることになる。

そのため<回転をあたえる動作>のイメージは
「リリースの瞬間に持っているボールを真上に引っかき上げる」
というほぼ点に等しいものになる。
ちなみにローダウンのリリースイメージは長い線である。

単刀直入にいえばオールドスタイルの投球イメージは
「なにか重いものを手でぶらさげて振り、
それが体の真横を過ぎる瞬間に引っかきあげて
回転をかけながら離す」ということになるだろう。

このオールドスタイルの<動作イメージ>を
ローダウンリリースと対比して説明するために
当Wiki内では<リフトアップ>と呼ぶ。

両側性転移


利き手側で訓練、学習された動作がもう片方の手では
比較的容易にかつ短時間で行えるようになる現象。

右手でローダウンリリースを習得したものが
左手で練習をはじめるとかなり短時間で
(場合によってはその場で)投げられるようになる。

この転移の度合いは元の学習のレベルが高いほど強い。
利き手での学習が不十分な場合はもう一方の手ではできない。

また過去に受けた訓練や学習過程が次の課題において
習得を早めるように作用することを学習転移、
動作においては運動転移と呼ぶ。

スポーツ競技をやっていたものが別の競技を学ぶときに
過去の競技経験によって習得が早まる。

【参考リンク】
両側性転移

ローダウン効果


投球動作においてボールの落下速度を回転に変換する作用。

人がボールを持つときには身体構造上
サムが高い位置に来てフィンガーが低いところに来る。
意図的に先にフィンガーを抜く動作をとらない限り
通常サムが先に抜けフィンガーの方が後から抜けるため
ボールが手から離れるときに程度の多少はあっても
かならず落下速度の一部は回転に変わる。

事実なんら曲げる動作をとっていないハウスボウラーであっても
男性の付き合いでボウリングをしている女性のボールでも
幾分かの回転初速は持っているものである。

またターンやフィンガーリフトをおこなう場合にも、
サムリリース後はボールは落下するだけであることに変わりはない。
ターンやフィンガーリフトなど<回転効果>は腕を基準にして考え、
ボールの落下速度を上げる効果があるとみなすべきである。
リフトをすればボールは手から速く離れるが、
それは相対的にボールの落下速度があがったことになる。
たとえばエレベーターに乗っているときには実際には自分が上昇しているが、
周りの風景が下降していくように見えるのと同じである。
「引っかきあげて回転を付けている」と感じるのは
ボウラーのイメージ上の問題であって、
基本的に回転はボールの落下速度から得られると思うべきである。

上記のことからあくまでボールが落下し始めてから
ターンやリフトの<回転効果動作>をとらなければいけないことがわかる。
そうでなければその動作は<ローダウン効果>にならない。

リフトによって回転数を上げようとした場合は
球速が低下していないか注意する必要がある。
もし球速が下がっている場合はリフトする時間を長くしようとして
無意識に球速を落としている可能性がある。
それは<回転効果>を高めようとして<プッシュ効果動作>を妨げていることになる。
前進力となる分のエネルギーを回転に変えているだけで、
全体としてのボールのエネルギーを大幅に損なっている可能性がある。

プッシュ効果動作>と<回転効果動作>は分けて考える必要がある。
それが<ローダウン効果>を高める秘訣である。



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注釈

*1 柄谷行人は「世の中はいろいろある」と静的にメタレベルに留まっているような状態を「超越的」、「世の中のいろいろとはなにか」とつねに移動しながら<外部>にあろうとすることを「超越論的」として区別する。ただし人間にそのような「超越論的」な態度をとらせている「超越論的動機」を自由意志とはしない。それも意識外の「なにか」である。