きみがぼくを――(ne pas ――――――――――) ◆MobiusZmZg



【0】










          ――――問いは、たとえある特定の事物の状態に言及しているだけで
          あっても、つねに主体に形式的に責任を負わせる。ただし否定的な形で。
          つまりこの事実を前にしたときの無力さの責任を負わせるのである。










 ×◆×◇×◆×


【1】


 すべての生命は、その本質へ近付くほどに黒を帯びる。
 燃やした肉が、炭と変ずるように。腐敗したものどもが、いずれ土へと還るように。
 それは数多の戦い、あるいは蹂躙の過程であり、結果としても睥睨してきたはずの光景であった。
 それは進化の秘法を発見し、秘匿した錬金術士どもの間で、まことしやかに語られる話でもあった。
 それはいつか、耳にしてすぐに与太話だと、机上の空論にほかならないと切り捨てたものでもあった。

 しかしてこの実例を、いま、魔族の王――。
 いいや。たったひとりの男は、目の当たりにせざるを得なかった。
 あがりどきも知らぬまま、密雨はいまだ糸と散らずに降りしきっている。
 彼がひとしきりの慟哭を終えた今も、彼の周りの空間は静謐を保ったままであった。
 戦場から切り離されたかのような空間のひろがりと、そこに横たわる静寂は、彼に内省をうながす。
 そうして彼に、彼の行動の結果を、因果を直視させることを、けして拒ませない。
 ……ここにはまるで、誰の邪魔も入らないようだ。水入りを拒絶するかのように、雨は止まない。
 私雨を思わせて天より奏でられ続ける滴り(しだり)のなかで、ピサロは動かなかった。
 恋しい者の死に顔から目を離せず、頬にかかる銀髪も払わない彼は、無様に息を荒らげている。
 つねの冷静の欠片を取り戻した、今。身じろぎも出来ないピサロの腕の中では、まさに彼女が。
 痛みをおぼえた心が求めるがままに行った抱擁に、淡紅色をした長い髪が乱れ流されたエルフの女性が、
進化の秘法を求めた魔族から近くも遠い場所で取り沙汰された『生命の本質』に近付きつつあるために。

 白と黒。
 闇に満ちた世界にて認識がなされる、はじまりの二色。
 無彩色の雷を一身に受けた彼女は、あまりに果敢なく崩れていく。
 いかに白く整った外郭を保っていようとも、実際には雷の熱量で体の内を焼かれているのだ。
 緊張を失いつつある女性の口許から、口内に溜まった血のあふれる様が、本質とやらの証左である。
 内蔵からの出血であろう流体は黒みを帯びて濁り、闇を思わせる粘りを帯びていた。
 くすんでよどんだ赤色が膚の肌理に張り付き、しぶとくも雨垂れ落ちに耐えんとする。
 それを拭うために彼女の輪郭を崩すことも、彼女の姿から目を背けることも、ピサロには選べない。
 思わずながらも彼女に永別の一撃を叩きつけてしまった彼にはとうてい、かなわない。

「ロ……ザ、リー……」

 ピサロがみずから名付けた四文字が、雨滴に遮られるよりも先に彼自身の耳朶を打った。
 つよく焦がれて追い求めた彼女と同じに尖った魔族の耳は、優れた聴覚を有するのだ。
 その耳が拾ったのは、おぼつかない発音と、軸のぶれた抑揚と、うわつき揺らいだ余韻である。
 どこまでも断片化された印象が、激情を前に動きを止めた脳裏で噛み合わさる。
 意図せずしてピサロの口許がいびつな上弦を描き、即座にかたちを崩した。
 激情のままに叫び、地に伏さんとする細い体を、美しきものを遮二無二かき抱いて、
 空が知るよしもない嵐の止んだいま、自身の声があまりに白々しいものであると思われたがゆえに。
 少しく落ち着いたいま、落ち着いたことそれ自体が彼女への背信であるとすら感ぜられたがために。

 ピサロの、のどがこわばる。
 たんにこわばるどころか、本格的な夜を前に鋭角な傷みさえ訴えてきた。
 戦闘をくぐり抜け、怒号をとおし、呪文を唱えた粘膜が、吸気にまじる硬さ冷たさを許容しかねている。
 精神どころか、肉体までもが能動を拒むかのような反応に、誰よりもまず彼自身が驚いていた。
 ロザリーのいない安穏など、求めるべくもない――。
 そうと断ずる思考を疑いようもなかっただけに、弛緩する思考には手ひどく裏切られたような思いがした。
 巧まずして露呈した自己矛盾を前に、頭の中身が飽和しかけているとも感ぜられた。

 ……皮肉なことに、ロザリーの死によって生じた慟哭こそが、ピサロの心に冷水を浴びせしめている。
 あふれた叫びと、叫びと向きあう時間こそは、許容量をおおきく超えた感情を浄化し、整理せしめている。
 いまの彼は、自らの手でロザリーを殺しておいて憎しみに身を任せられるほど、周りが見えないわけではない。
 そして、憎しみにとらわれた勇者、倒すべき存在であるユーリルの無様は彼の脳裡にも刻まれていた。
 感傷と憎悪と焦燥に駆られてこの結果を招いたのだとも思えば、絶望に折れてやるわけにもいかなかった。


 ならば、結局のところは。
 彼が選べる道は、ロザリーが存命であったころと質的に同じである。
 ピサロはおのが身を削り、追い詰め、なにかを捨てることでしか、彼女への想いを表せない。

 たとえば彼女が虐げられたことに怒りを覚え、彼女がされた以上の破壊を及ぼすほどに心を燃やして。
 たとえば彼女を喪ったことに対して、喪失したものの価値を示すに相応な質量の悲嘆で魂をゆがめて。

 辛く悲しく苦しいと、笑えなくなってしまう。
 救いたかった者から真っ直ぐな言葉をかけられてもなお、そこだけは変わらない。
 ロザリーがなにかを喪ったというのなら、ピサロは彼女に、彼女の面影に与えたいのだ。
 与える過程で自分がなにかを喪おうとも、彼女は、それ以上になにかへ心を砕けるのだから。
 ならばこそ、何かを壊すことでしか思いを表せなかった自分は、彼女以上に心を砕かねばならない。
 真に彼女がいとしいのなら、自身のたましいをさえ砕かねばならないと信じさえしていたのだ。

 ……しかして今回ばかりは、彼もひととき、立ち止まってしまった。
 実態が見えないからではなく、むしろ、おのれの本質に突き当たったがために。
 ほかでもないロザリーの言葉こそが、彼が感情のままにおのれを捨てることをさせない。
 それでいてピサロの側は、彼女を喪った事実を埋めるだけの量感をもった思いを、犠牲を求めている。
 誰よりもまず、愛しき者を屠ってしまった自身にこそ、なにかを捨てることを求めてやまないのだ。

 この矛盾に、愛を注ぐべき者との落差に気付いたがゆえに、足を止めた彼は、動けない。
 自身の基底を衝く欠損に直面し、思いあぐねた魔族は、すでに喪われた救いを求めて瞑目した。
 視界が闇にと染まる刹那、木陰に隠れていた花の残骸が視界の端へ収まり、眼裏に素朴な白がにじむ。
 頬にさす雨垂れ落ちをまえに、あれは摘まれることで嵐を呼ぶ、雨花であったのかもしれないと。
 思考が主の意に反して、わずかに逃げを打つ。どうでもいいと思えることこそ、切り捨てられない。
 冷静さの軸をなす俯瞰を取り戻すべく眉根を寄せても、視覚は無為に散ったものに支配されたままだ。
 車軸の雨に散らされた花弁は、ピサロの意識で葉脈のそれより細かい組織を透かせてくずれ、

(花――?)

 まったく別の方面から、彼の脳裏にひらめきがくだった。
 天地が鮮やかに見えよう戦慄とともに、情報の欠片が結ばれ開闢にも似た流れが生じる。
 進化の秘法に関する文献や伝承を調べていた際に耳にしたことのある口伝が、すべてを切り開く。

 それは、千年に一度だけ開くといわれる貴重な花。
 《世界樹の花》にまつわる話だ。

 錬金術士の論のように与太話とするどころか、今の今まで積極的に忘れていたのは、ひとえに花が咲く場所に拠る。
 地上より生まれて、はるかな天空にとつながる樹を、魔族の王であった彼は心から忌んでいたのだ。
 あれが地上を俯瞰し、魔族を滅ぼす勇者を生んだ天空の城へ通ずる道というだけで疎ましい。
 事実、天空人による干渉を嫌った彼は、一度はあの樹を焼き払おうとも考えていたものである。

 しかして結局、彼には世界樹を焼くことなど、出来はしなかった。
 魔族の王にとっては目の上のこぶとなんら変わりのない、ただひとつの大樹。
 あれは森に生きるエルフ、ロザリーにとっては父にして母とさえいえるものなのだから。

 彼女の優しさを知るがゆえに、ピサロには、彼女の愛するものは侵せないと思われた。
 ひとたびそう感じてしまったなら、彼の意識は妥協点や着地点を探す方に水が向いたものだ。
 そもそもの話、人間を蔑視する彼も、樹木や地上の世界そのものまでを憎んでいたわけでもない。
 天空人が地上に降りることが罪であれど、勇者が天空に至ることのほうが罪でないのなら、話は簡単だったのだ。
 天より来たるかどうかも分からない脅威を警戒するより、必ずや地上に現れる敵手を滅ぼせば問題は無い。
 ロザリー本人から口伝を耳にしていれば話は別だったが、それこそめぐり合わせの問題であった。

 そして、いま問題にすべきものは、めぐり合わせの妙でも皮肉でもない。
 数瞬の回顧を終えた魔族のなかでは、彼に打たれた様々な点が線につながりつつある。
 最も大きな点、思考の転換点はふたつというところだ。


  ――どのような薄汚い欲望でもよい。何でも望みを叶えてやる――


 ひとつは、憎悪のままに人間どもを睥睨していた魔王の声。
 あの闇のなかで、オディオが口にした言葉だ。


  ――ロザリーさんは、いつ、亡くなられたのですか?――


 もうひとつは、勇者の仲間であった占い師の言。
 旋風でもって竜巻をいなした人間が投げかけてきた問いである。

 連想と黙考により、暗河(くらごう)のごとき認識に光が当たった。
 鮮明の度合いを増す自身の思考を受けて、ピサロの口許がふいに、ゆがんだ。
 上弦をさえ作らない口角からこぼれたのは、乾きに渇いた哄笑である。
 ……こうなれば、人間の言葉を信じないというわけにはいかない。
 いかに自身が滑稽であろうとも、下等な人間どもと同列あるいはそれ以下に立とうともだ。

 《世界樹の花》を使えば、ロザリーはいまひとたびの生を享けることがかなう。
 それが千年に一度の奇跡でも、占い師との間にあったような時間軸のずれについても、おそらくは問題などない。
 ずれを生んだであろうオディオにならば、いかようにも修正しうる。
 あの魔王は……自分が一面に共感を覚えた者は、おのが前言をひるがえしなどしない。

 冷静さを保った頭には、その念がおためごかしだとしか思えず、笑いが深まった。
 だが、そうと信じていなければ、ピサロはロザリーに報いる機会を永遠に無くしてしまう。
 こちらが辛く悲しく苦しいと、ロザリーは笑えない。
 しかして彼女がいないなら、ピサロはずっと辛く悲しく苦しいままだ。
 彼女が最期に自身を断罪しなかったことが、なおのこと魔族の胸を衝き上げる。
 それほどに思える相手を手にかけてしまった事実が消えないことを分かっていても、
 それほどに思われていた彼女が、なにをされて喜べるかを理解していても、
 せめて、この手にかけてしまった彼女に、この自分に出来る方法で、力を尽くしたい。
 その行為に注力することで、彼女に憎まれようとも、悲しまれようとも……構いはしない。
 彼女が継ぎかけた言葉も聞けず、憎まれることさえかなわない現状よりは、よほどましなのだ。
 時間が解決するなどと、少なくとも自分は思わないが、そうすることでわずかなりと。

(愚かとされるは、私も、同様だな)

 わずかなりと、報いを受けたい。
 そうと考えていた自身を、若き魔族は思うさまあざ笑った。
 思えば、ロザリーを殺した者どもを蹂躙した初手から、自分は変わらなかったのだ。
 彼女が生きていることを暗喩された後も、彼女に会いたい、生きて欲しいと思いながら……。
 ピサロのやったことといえば、壊すことのみだ。彼女を生き残らせる方法など考える余裕もなかった。
 ロザリーを庇護したいと思ったのなら、どうして後先も考えず、体力や魔力を消費してしまったか。
 彼女を守るべきとしていたのなら、どうして、自分と彼女が生き残るように動けなかったのか。
 いまから出来ることといえば、彼女の名残りを、これ以上傷つかないようにするだけではないか。
 重なる自問は、自分を責めても実になることなどない。そうと分かってもなお止まらない。

 けれども、激情を上下する肩に押し込める、その前から。
 彼が、彼女をいだきつづける手のやわらかみだけは、変わらない。
 そして絶え間ない花降しのなか、魔族は反射的に笑みを収め、息を吸い込んだ。
 血のように紅い双眸が、玉水とは違う輝きを――。
 輝きの根源たる、ちいさな結晶をこそとらえたがゆえに。

 水に冷えて赤みを深めた輝きを目指して、ピサロの右手が伸びた。
 端正な容貌と裏腹に節の目立った五指が向かう先は、いとしき者の空知らぬ雨。
 ロザリーが最期に遺していった、ひとしずくのルビーの涙だ。
 雨夜の星を思わせるきらめきを求めた指先が、しいて引き締めた頬を裏切るほどにふるえている。

 彼の胸にも、この世界にも美しきものを遺していった彼女が、
 土に埋まり、やがては泥に還る光景をまったくと想像出来ないまま、
 指関節が伸び、指先に意識が向かい、末端にまでとどく血流が脈を刻んでいると知れ、
 神経の集中した部位で、雨のまえにも冷え切らない自身の体温を感じた直後の、


 接触の瞬間。


 ピサロの指に触れた涙は音もなく砕け、花よりおぼろな光を散らした。
 ほどなくして、黒い外套が北雨吹の一陣に押され、主の体にしなだれかかる。
 明らかな指向性をもって落ちてきた天水に打たれたピサロの瞳は、鏡面のごとく色を見せない。
 黙してロザリーの遺骸を抱えなおし、伏せたまぶたで紅い瞳に浮かんだ色を抑える。
 細くとも意識をなくした体を支える両腕より、裏地に毛皮を張った防寒具こそが、いやに重かった。


 ×◆×◇×◆×


【2】


 守勢にまわっている自分たちが、あえて相手を押し切る。
 押し切られるまでに押さえ込むのなら、今より他に機などない。
 ユーリルと刃を交わすイスラがそうと判断した理由は、守るべきものの不在であった。

 ピサロにとっての大切な者。
 先刻まで気絶していたはずの、ロザリーがいない。
 紋章使いの少年によって守られた直後、それに気付いた三人は決断を迫られたのだ。
 すなわち、姿を消した彼女とピサロを追うために戦力を分割するか、このままユーリルを押し切るか。
 意図しなかった増援である青年がこの場に留まることでユーリルの怒りを煽る可能性はあれども、ロザリーならば。
 彼女の死の可能性にさえ、ピサロがあれほど激していたのならば。

『待てよ! いまロザリーになにかあったらッ!』
『二手に分かれて泥仕合を続けて、共倒れになりたいのかい?』

 それを類推出来てなお、アキラとイスラの意見は大きく割れた。
 剣戟をいなし、かわしつつの第一声で、改めて互いに見えるものが違うと判断出来るほどに。
 かりに彼らが二人でいたなら、一対一の平行線をたどり、結果として消極的な判断を迫られただろう。
 あるいはさらに悪い結果、時間切れによる判断や選択そのものの消失をすら招いてさえいたかもしれない。
 守れと仰せつかったアナスタシアの……殺しをいとわない者の意見は、イスラもアキラも求めはしなかった。

『あの魔法……を、相殺すれば。当面の問題は剣だけです。
 彼がどういう人物なのかは知りません。ですが脅威は、押さえうる機を逃してはいけない』

 均衡あるいは緊張を保った、彼らの天秤。
 それを傾けたのは、きらめき輝く刃と盾で彼らを守った者である。
 ジョウイ。マリアベルからアナスタシアを守るように依頼されたという彼の声音も、緑がかった瞳も
穏やかであるとみえたが――最後の一節をつむぐに至って両方が厳しさを増す。
 数多の鉄火場をくぐり抜けた者のそれといえよう眼光に、言葉を切った一瞬、宿ったのは父性か。
 剣戟を受けて視覚の取り込む情報こそ変じたものの、柔和と厳格の相半ばした印象はイスラの胸にも残る。
 慎重の奥に懊悩の……イスラとて嫌になるほど覚えた感情の名残りをにじませていながらも、まだなにかがあると
言わんばかりに澄ました顔つきは、正直言って気に入らない類のそれだと感じてはいた。

 けれども同時に、援護をうけた胸にはある種の鈍感がさしたのも事実である。
 無関心と紙一重の感慨が胸へとさすに至って、イスラはユーリルの剣にこそ集中した。
 敵意でないものならば好感とも言えようほどに単純化された思いは、戦場特有のそれといえる。
 彼は、身を挺してアナスタシアを、自分たちを守ったのだ。ただそれだけで、命を、あるいはもっと大切な
なにものかを賭さねばならない戦場における彼の行いは、好感を抱くに値するものであった。
 アキラも、その思いを肌で感じていたのだろう。イスラの返した剣に超能力のひとつ、スリートイメージを重ねて
ユーリルの感覚を撹乱しながら、胸をあえがせる勢いを借りて声をしぼり出す。

『悔しいけどよ……無理を通したって、たぶん、俺の力じゃアイツは折れねー』

 焦点があてられたのは、サイキッカーのもつ力であった。
 ユーリルとピサロを止めるための札であったレッドパワー、スリープ。
 マリアベルの力について説明を受けた彼らは、仲間のもつ類似の札についても話を聞いている。
 正確には、アキラが口の端にのぼらせたヘブンイメージが、この状況と相手にそぐわないという話をだ。
『相手を安らかな心地にさせて眠りを呼び込む』のが、アキラが有する力の原理。
 相手の心に働きかける――すなわちある種の双方向性を保持している以上、単純に魔力の押し合いで結果が
出されるようなものでないことは想像にかたくない。
 力を受けた者がアキラの展開するイメージを信じられなければ、精神力を浪費するだけに終わってしまう。
 この性質を巧く使えば、相性の良い相手にはとことん強い技ともなろうが、相手はユーリルなのだ。
 ここまで打ちのめされた結果、周囲の声を聞き入れなくなっている、彼なのだ。
 それが超自然の力によるものであろうとも、安楽な場所など信じられるはずもない。
 彼を燃やし、摩耗させるであろう激情と対極にある、安らかな心地など想像すらかなうまい。

『目的を達せられれば! 手段は――問題じゃないさ』

 イスラの言葉に、左右に散っている二人が彼の手許でひるがえったものを見た。
 袈裟斬りをいなした魔界の剣。反り身の得物は片刃であり、肉厚すぎるということもない。

『……しゃあねー。分かったよ! 打ちどころだけは間違えんなッ』
『言われるまでもないね』

 喧嘩殺法とはいえ体術を修めているアキラが、いち早くなにかを察したようだ。
 投げ出すようだが優しいひと言で、先刻言ったように、イスラの背中を守る位置につく。
 三人のうちで面制圧と力の相殺に秀でるジョウイは、状況を俯瞰できる最後衛にと身を置いたようだ。
 そして、最もわりを食う前衛についたイスラは、ユーリルと剣を交わしている。
 剣を一合重ねるほどに、彼は、胸の奥底から浮上した共感と嫌悪感を強めていた。


 どうにも気に入らない少女の問いで受けた不全感は、彼とて実感している。
 彼女の言葉をきっかけに低くゆがめられた、あるいは彼がみずからゆがめてしまった自己の評価こそが、
いまのユーリルから他者に対する基本的な信頼感や安心感を喪わせてしまっているとも想像がつく。
 けれども自分の欲望を達したいのに、自身を見据えることすら厭うている彼は……本当に無様だ。
 彼の思い、それ自体には深く共感出来るからこそ、イスラには少年のありようこそが見るにたえない。
 ユーリルがみせる、在りし日の自分が世界を呪ったのと同じ姿に、ともすれば苛立ちを抑えられなくなる。

 そのくせ、彼にはユーリルを見捨てられもしないのだ。
 相手のなかに自分を見出して、なおも突き放しきるのは、イスラには出来ない。
 死にたい。死んだほうがいい。死ぬしかない。死ねば、死んだら――。
 感情の好悪は別として、そうと思いつづけた自分は、自分だけは。
 ずっと、自分を見ていた。疎んで、貶めつつも大事に抱え、見捨てなかったのだから。

(本当、皮肉も冗談も抜きで、説明するのも嫌になるけど)

 防御を意識しないユーリルが、上段から逆落しじみた一閃を放つ。
 常人離れした膂力を誇るがゆえに単純化の際立つ軌道を、少年は見切った。
 直線に近い縦軌道に剣の峰を合わせ、手首の回内で繰ってみせた刃でもって力の向きを逸らす。
 運動、ひいては筋肉の伸びと弛緩に伴い、双方の肺からはするどい呼気が押し出されていた。
 感覚が次の一手を志向する刹那、鼓動をつづける体は自動的に夜気を取り込まんとうごく。
 それはユーリルも、剣を構えた肩を大きく上げて肺をふくらませたイスラも同じだった。
 吸気を体全体に満たした黒髪の少年は、つねより張って少しく高めに響いた、

 声をつむぐ。

「言っても分からない。さっき、確かにそう言ったね」

 彼が発するは、かつての自分が浴びせられ、包まれたものだ。
 自分と向きあったアティが、なによりも大事にしていたものだ。
 イスラは、言葉を、彼女たちと真逆の方向につむぐことをこそ選び取らんとして。

 意識的に、声を張る。

「じゃあ、同じことをシンシアに、……彼女には伝えられたのかい?」

 張っていようとも――。

 シンシア。
 イスラ自身の内奥で消化がなされていない、だれかの名前。
 そんな単語をわけ知り顔でつむいでみせる行為は、いやに不快なものだった。
 平然を保ったまま、強い語調で押し通そうとした少年の喉奥が、幾度もこわばりかけるほどに。
 けれど、最初の一歩で揺れてはいけない。確証がないことを悟られてはならない。

「うるさい! お前に、お前たちに僕のなにが分かるッ!」
「少なくとも、キミが望むような分かり方は出来ないだろうね。そこだけは認めておくよ」

 また、彼になまなかな夢を見せるわけにもいかない。
 本音を言えば見せたくもない。
 呪うしかないと思い込むほどに閉塞したユーリルの心を推し量れてもだ。
 様々なものを奪われ続けていた気持ちが分かっても、イスラには、与えられない。
 与えたこともなければ、与えようとも思えないほど、彼が持ち得たものは。
 持ち得たと、思えたものは……彼には少ないと感じられてならないのだから。

 健康な体。普通の食事。安楽な時間。他者との触れ合い。たんなる日常。
 そんなものすら世界から与えられないのなら、この手で奪いにいくしかなかった。
 与えられなかったと決め込むほどに、自分にかけられたものなど、なにもないと思っていた。
 そんな、確信じみて屈折した思いを。一面における甘えを抱え続けていたのがいまの彼だ。
 自身の認知へ盲目にすがってさえいたのが、ここに立っているイスラ・レヴィノスだ。
 姉に、アティに愛されていたことが分かっても、底にあるものが一朝一夕で変わるわけもない。
 おのれの渇きと付き合うだけで手一杯だった自分が、一足飛びに他者の渇きを癒せるわけもない。
 二人の思いを受けた自身を育てきる時間もなくここに来た現状、あるいは、もっと先になっても――。
 本質的にはおのが渇きしか癒そうと思えないでいた自分に、過剰な期待をかけられるのは。
 自分のごとき者に寄りかかられて、無様を、醜悪な姿を至近で眺める羽目になるのはごめんだった。

 だからこそ、イスラは冷淡かつ現実的な言葉でもって、ユーリルと距離を保つ。

「でも、分かってもらえないことに対して覚える気持ちは、僕にも心当たりがある。
 それで、分からなくもないなんてことが……言えたのさ」

 その上で、彼は言葉をつらねた。
 強めていた語勢をわずかにゆるめ、相手の放った薙ぎ払いに対処する。
 穏やかとさえ言える動きで反り身の刀身を直剣の腹に当て込み、受け流しとともに前へ踏み出す。
 体力の限界を忘れた相手を一気に押し切る。そのために必要な隙を……果たして、作れるか。
 力でかなう公算が低いのなら、言葉で。つらなりつむぐ思いとやらで、作れるだろうか。
 盲目の、ある意味では安楽のうちにある相手に、自分は、一時でも切り込めるのか。

「だから訊けもする。他人に分かってもらうために、キミはなにか努力をしたのか……。
 自分がなにを思っているか、なにを感じたか――キミは、彼女たちに分かってもらおうとしたのか」

 鍔迫り合いに持ち込んだイスラの心中で、自嘲がこぼれた。
 いったい、こんなことをどの口が言うのか。
 イスラの死にたさを、その原因を知り得ない二人の様子がたまらない。
 ……もっと、雨が降ればいい。
 緩やかにユーリルを囲みつつあるアキラとジョウイを視界に入れた少年は、つよく思う。
 驚きから納得に遷移した、彼らの表情。僕の背中を後押しするような首肯なんか。
 剣を受け流すのでなく、いなすのでもなく、真っ向から受け止めてしまった僕の姿なんか。

 けぶり、砕けてあまぎる雨に。
 隠れていてくれ。

 精緻な技を問われる反面、どうにも焦れる数瞬――。
 あらぬ方へ流されかけた心と剣に、イスラは意識を傾けなおした。
 重心の動きに合わせて刃を押し込み、間髪を入れずに押し返される、波が止まない。

「言っただろッ、僕は、世界を救った! 戦いたくもないのに、必死で、頑張ったのに!」
「そうじゃない。いま問題にしているのは、そういう努力じゃない。
 言わなきゃ伝わらないことを、言いたい相手に言えたのか。言おうとしたのか。そう聞いているんだ」

 一進一退を暗喩するかのような一合を前にして、巧まずして語勢が強まった。
 するどさを増す舌峰が、彼自身に追い討ちをかけるようだ。

 ――アティのようになりたかった。

 泣きに泣いたときにあふれだした本音は、ある意味では正しいのだと痛感する。
 なり“たかった”。
 無意識につむがれた過去形の表すとおりにか、イスラは、アティとあまりにも違う。
 この乖離に、十数年をかけて作られた埋めようのない落差に、苛立ちと諦観を覚えるほどに。
 当然のように諦観を交えんとする心のありように落ち着く反面、なにか、許せなくもある。

 それでも、ここまで自分の急所を、やわらかな部分をさらしたからには退けなかった。
 鍔迫り合いを膂力でもって押し切られようとも、すべての動きを支える体幹までは崩させない。

 そして――。

「そうやって、時間を稼いで……アナスタシアを逃がすんだろッ!」
「違う!」

 たとえ弱みを見せていなくとも、この単語だけは全力で封じるべきだった。
 アナスタシア。まるで魔法の言葉であるかのような言いように、イスラは声を荒らげる。
 彼女にこそ自身のなにものかを壊されたのだろうに、どうして彼女に行き着くのか。
 どうして、彼女以外の救済策を見ようとしないのか。どうして、どうして。
 どうして死を救いと信じ、思考の果てに死を誇りとするに至った自分の、出来損ないのように思考を展開するのか。
 ぴしゃりと言い切ってなお残る胸のむかつきを、少年は続いた縦斬りをいなす作業に注力し、逸らす。

 この、盲目そのものといってよい無知と、無理解と、思い込み。
 不快で、嫌でたまらない思いを吹き払う言葉が、なによりも自分にこそ欲しい。

「――家族だって、僕がなにも言わなければ!
 僕がなにを思っているかなんて、とうてい知り得なかった。逆もまたしかりだったさ!」

 その一念が呼び込んだものは、アズリア・レヴィノスの影だった。
 姉である彼女と、彼女と同じ軍属であったアティ。
 あの二人に刃を向けさせるために、自分は、思うさま二人の甘さを罵った。
 罵られた姉は、弟の真意を汲み取れなかったことを謝り、一時とはいえ彼に殺されようとさえした。
 人は言葉でいくらでも本心を偽れるものだと前置きしていた、イスラ・レヴィノスの内心を知らずに。
 知らないままに命を投げ出せる精神が、きっと、彼女が自分の家族たる所以だった。
 知らないままに思いを砕けるところが、きっと、自分が姉に反撥出来た一因だった。

 自嘲などしている暇もないというのに、崩れるように剣が軽くなったのは、この時である。
 受け流された剣筋ではなく、この言葉にこそ、ユーリルは腰を泳がせた――。

「《勇者》は、泣いちゃ、いけなかったんだ! 泣くような《勇者》なんて、誰にも望まれやしないッ!
 だから、それなら僕は……もう、そんなものは捨てたんだ! 捨てた、のに――ッ!」

 次の一閃は、意図したかと思われるほどに大きな風切り音を残して振るわれた。
 吹き払うことなどかなわないと思われた怒りに、《勇者》という語が油を注いだかのようだ。

 けれども。
 くしゃくしゃになったユーリルの顔は、火の付いたように。
 まるで、今にも泣き出しそうな子どものように、歪んでいる。
 それほどに心を動かしめたなにものかを、彼はひらめかせた剣にと注ぎ込む。


 雨を帯びたる少年の衣服は、髪は、肌はいまだに、紅い。


 ×◆×◇×◆×


時系列順で読む


投下順で読む


109-3:夜雨戦線 -Emotional Storm- ユーリル 114-2:きみがぼくを――(ne pas céder ―――――――)
アナスタシア
アキラ
イスラ
ジョウイ
ピサロ


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最終更新:2012年12月05日 01:44