英雄伝説『黒き魔王』
東の山に魔王あり…
邪悪な心 邪悪な力を持ち
邪悪な姿となりて…
すべてを憎むものなり。
西の山に勇者あり…
強い心 強い力を持ち
勇ましき姿となり…
魔王をうちくだかん…
それは輝ける栄光の物語。
ルクレチアという国に伝わる伝説。
それは緑豊かなルクレチアの国に実際に起こった出来事。
伝説より幾つかの年月が経った頃、新たな物語が幕を開ける。
ルクレチアに生まれし姫君、その名はアリシア。
透き通っているかのように白い肌、顔の造形はまるで神より祝福を受けたかと思わせるほどに整っていた。
長く伸びた睫毛、ぱっちりと開いた瞳、ピンと筋の通った鼻、りんごのように赤い唇、起伏に富んだ女性的な身体のライン。
楚々とした振る舞いに、あどけなさと男を引き付けてやまない魅力をふんだんに内包されている。
気立てもよく、将来は良き賢妻になることは間違いなしだろうとのもっぱらの噂だった。
彼女の美しさを讃えた詩は十はくだらない。 それはまさにルクレチアの至宝ともいうべき人物だった。
そのアリシア姫が、復活した魔王に攫われてしまったことから、話は始まる。
王宮内は騒然とした。
かつての勇者ハッシュは人を避けて隠棲し、手を貸してくれる見込みは薄い。
アリシアの安否とルクレチアの平和を脅かす魔王、二つの暗雲が立ち込め、戦う前から王宮内は精魂尽き果てたかのような雰囲気が漂う。
しかし、希望というのはいつだって生まれてくるものだ。
立ち上がったのが、オルステッド。
姫が攫われる前夜、武闘大会にて優勝し、アリシア姫と結ばれる資格を得た若者だ。
剣の腕は先日の大会での通りお墨付き。
アリシアと年も近く、精悍な顔つきと礼儀正しさも持ち合わせたオルステッドが魔王討伐とアリシア奪還に向けて起つという知らせを聞いて、ルクレチアの民は熱狂した。
あれこそがかつてのハッシュに代わる新たな勇者だ、と。
伝説の再現を期待する民は、こぞってオルステッドに駆け寄り、激励や賞賛の言葉を贈る。
オルステッドもまた、人々の期待に応えることを誓う。
人々の願いと希望を一身に背負い、勇者オルステッドは旅立ちは始まった。
これに付いていったのが、オルステッドの親友であり最大のライバルでもある
ストレイボウだった。
ストレイボウもまた先の戦いでオルステッドに破れたとはいえ、準優勝。
その実力はオルステッドに比べても遜色は無い。
加えて、ストレイボウはオルステッドと違って魔術師だ。
オルステッドにできないことはストレイボウが、ストレイボウにできないことはオルステッドが、互いの長所を活かして進んでいく。
一人ではひとつのことしかできない。
しかし二人いれば大きな力を発揮できる。
親友二人は抜群の連携で、行く手を遮る魔物を次々と成敗していく。
途中、かつて勇者と言われたハッシュと、ハッシュと共に魔王を倒した僧侶ウラヌスも仲間に加わる。
老いたりとはいえ、さすがは勇者。
その剣技は現役のオルステッドになんら見劣りはしない。
ここにかつての勇者と新たな勇者が手を組み、魔王討伐にはもはや不安の種も後顧の憂いもなくなったと言っていい。
オルステッドとハッシュが斬り、ストレイボウが魔法で攻撃し、ウラヌスが癒す。
怒涛の進撃を見せるオルステッドたちの前に、とうとう魔王の住む魔王山が姿を現す。
辺り一帯に漂う悪意と瘴気で草も生えぬ、その茶色い肌をむき出しにした山は、人の侵入を頑なに拒んでいた。
しかし、勇者ハッシュとかつて魔王を切り裂いた剣、ブライオンにかかれば意味をなさない。
奈落の底のように口を開ける魔王山へ、勇者たち四人は己が武器を掲げ突撃した。
いざ進め! 魔王を倒し、アリシア姫を取り戻せ!
人骨の散らばる洞窟内で、人の肉に味をしめた魔物どもが十重二十重に包囲する。
バーンバルブは自爆による特攻で道連れにしようとし、ドラグノンはその強大な矮躯を持って爪や牙で攻撃してくる。
エントモフォビアは昆虫のような羽根を使って毒の粉を飛ばし、アヌビノフォビアはその特徴的な声色でこちらの感覚を乱す。
ホットビードルは大群で現れて体当たりを仕掛け、食人花フリーザインは冷気でこちらの動きを鈍らせる。
怪鳥リキッドストローは口から粘性の液体を飛ばし、闇の勢力に魂を売った男たちが刃物を持って襲い掛かる。
魔王山に住むだけあって、襲い掛かる魔物はひときわ強力なものばかりだ。
しかし、正義の旗を掲げる勇者たちを止められるものなどいない。
たった四人、されど、ルクレチアの誇る最強の四人だ。
少数精鋭で挑んできた勇者たちに対して、魔物たちはその屍の数を増やすことしかできない。
これは敵わぬと見た魔物たちは、算を乱したように押し合いへし合い逃げ出す。
小さな魔物は我先にと逃げる大きな魔物に踏み潰され、無駄に命を散らせる。
障害のなくなったオルステッドたちはさらに進み、ついに魔王のいる部屋へと続く扉を開けた。
魔王は醜悪な姿と、それに見合った強さを持っていた。
苛烈な反抗を見せる魔王に、オルステッドたちも並々ならぬ苦戦を強いられる。
しかし、正義と義憤の剣の前には、どんな悪とて勝機はない。
オルステッドは渾身の一刀にて魔王の体に亀裂を走らせ、ストレイボウとウラヌスも援護する。
そしてついに勇者ハッシュの奥義デストレイルが炸裂し、魔王は断末魔の叫び声を上げて消滅した。
こうして魔王は再び勇者によって倒され、ルクレチアには平和が戻ったのでした。めでたしめでたし。
◆ ◆ ◆
「……それがどうかしたのか?」
「……」
口を動かすのを止めたストレイボウに、マリアベルが問いかける。
話している間、ストレイボウは顔を伏せ、その表情を一切マリアベルに見せないようにしていた。
「その話とオディオに何の関係があるのじゃ?」
「……」
「第一、今の話を聞いてただけでは、お主には落ち度はないではないか」
「……」
ぽたり。ぽたり。
樹木の葉に残されていた雨の雫が、いくつもの音を立てて地面に落ちる。
しかし、どれほど待ってもストレイボウは口を閉ざしたままだった。
そのまま、マリアベルは立ち尽くして、さらなる言葉を待つ。
零れ落ちる雫の音をなんとなしに数えてはいたが、何時になっても話は続けられない。
大抵のことなら、マリアベルもイスラたちとの合流を先にすませようとして、話を打ち切っただろう。
話しにくいなら、後でいくらでも聞いてやると言って。
だが、ストレイボウの口から語られた言葉はあまりにも衝撃的だった。
ようやく、オディオとは何者なのかという糸口を掴む機会が来たのだ。
安易に話を遮るのは得策ではない。
ストレイボウも、口を開けては何かを言おうとし、されど何らかの感情が邪魔をして声には出せないということを繰り返している。
それは、ストレイボウが過去の何らかのしがらみと戦っているからに違いない、そう思ったマリアベルは辛抱強く待つことにした。
どれほど時間が経ったかは分からぬが、ようやくストレイボウは話を続けた。
「ああ、ここでこの話は終わっていればよかったんだ」
「……」
「そうすれば、これから先の人生も、醜くて卑怯な自分となんとか折り合いをつけて生きていたんだろう。
オルステッドのライバルとして、これからも生きていけたんだろうさ。 でも――」
「そうはならなかった。 そうじゃな?」
項垂れたまま、ストレイボウは首を縦に振った。
功名心と嫉妬と愛憎に突き動かされ、犯してしまったストレイボウの罪。
永劫に許されることのない、贖罪の日々の始まり。
今、初めてそれがストレイボウの口から第三者に語られる。
話はまだ続く。
これからがストレイボウの罪の始まり。
友を裏切り、ルクレチアを滅ぼす切っ掛けの始まりだ。
さて、魔王を倒したものの、囚われの身であるはずの愛しきアリシア姫はどこにもいない。
おまけに、あんな雑魚が魔王のはずがないとハッシュは言い出す始末。
何から何まで謎だらけな今回の顛末に一同が首を傾げていた頃、ハッシュが不意に倒れた。
なんと、ハッシュは病の身を押してまで、此度の戦いに参加していたのだ。
吐血するハッシュは最後にブライオンをオルステッドに託し、静かに息を引き取った。
偉大なる勇者の死に、オルステッドもウラヌスも涙する中、ストレイボウだけがあることに気づいた。
魔王を象った彫像に、抜け道が隠されていることに。
その先には必ずやアリシア姫がいるということもすぐに推測できた。
そこで、ストレイボウは決心した。
いや、それまで押さえつけていた感情がついに爆発した。
ここでオルステッドに抜け道を教えて、見事アリシアを見つけて帰還しても、自分はオルステッドのお供でしかない。
オルステッドは輝かしい未来が保証されているのに、自分は精々何らかの褒美か地位が貰えるくらい。
それでいいのか?
このままオルステッドの引き立て役のままでいいのか?
生涯オルステッドに負けっぱなしでいいのか?
それでもいいというのは、負け犬の台詞ではないか。
ストレイボウの人生の目標は、オルステッドに勝つことだと言ってもいい。
血の滲むような努力を何年も、オルステッドに勝つためだけに繰り返し続けてきたのだ。
このまま負け続けることを是とするは、ストレイボウという男の全否定になるではないか。
ストレイボウはオルステッドのことをライバルだと思っている。
しかし、オルステッドにしてみれば、ストレイボウはそもそもライバルですらないかもしれない。
いつも自分に勝負を挑んでは負ける、歯牙にもかける必要の無い雑魚でしかないと思っていたら?
そこまで想像して、総身が屈辱と恐怖で打ち震えるのを、ストレイボウは感じた。
考えてみれば、今までストレイボウが勝利したことは無いのだ。
いつもオルステッドは勝ち続け、いつもストレイボウは負け続ける。
切磋琢磨し続けることこそがライバルの条件ではないか。
負け続けるストレイボウと、勝ち続けるオルステッドの関係はライバルではないかもしれない。
即ち、オルステッドとストレイボウがライバルでいるためには、ストレイボウもオルステッドに勝つことがあると証明しなければならない。
オルステッドが自分を対等の立場であると認めるのには、勝たないといけないのだ。
あの日の涙を思い出せ。
武闘大会でオルステッドに負けて、その夜を泣いて過ごしたことを。
何時の日か、やがて何時の日かはと願い修行を重ねながらも、ついぞオルステッドに勝てなかった悔しさを。
そうだ、これは正当なる権利。
武闘大会では優勝者にアリシア姫と結ばれる権利が与えられた。
今はそれが白紙に戻った状態だと考えろ。
ならば、いの一番に姫を助けた者にこそ、愛の言葉を囁く資格があるのだ。
アリシア姫がストレイボウを選ぶかオルステッドを選ぶかは自由だ。
しかし、アリシア姫にこの想いを伝えることができなかった数日前よりは、アリシア姫の選択肢の内に入る分マシだと言える。
今なら誰も気づいていない。
ならば、自分一人でアリシアを救出し、オルステッドを出し抜こう。
負けることの悔しさを知らない親友に、敗北の二文字を噛み締めてもらおうじゃないか。
敗北と挫折という言葉とは生涯無縁であろう男に、人生の厳しさを教えてやろうじゃないか。
功名心と嫉妬と愛憎が入り混じった感情に後押しされて、ストレイボウは動き出す。
そして、ストレイボウは、その決断がどういう事態を招くか知らずに、ついに裏切りの道へと手を染めた。
◆ ◆ ◆
「そして、俺はオルステッドを裏切った……」
「……それで終わりではあるまい?」
それだけでは、この話は終わらない。
この話は、もっと深い部分にまで食い込んでる。
マリアベルは、話の流れからそれを予感していた。
これで見事ストレイボウはアリシア姫と結ばれ、哀れオルステッドは失意の内にこの世を去った。
そんな結末が待っているとは、到底思えなかった。
もっと救いようのなく、誰も幸せになれなかった結末があるに違いない。
マリアベルは、それを肌でひしひしと感じていた。
ストレイボウはマリアベルの言葉に首肯すると、言葉を続けた。
◆ ◆ ◆
それまでの自分では考えもつかないようなことが次々と浮かんできて、ストレイボウはそれを片っ端から実行した。
まずは落盤事故を装い、自分が死んだと思わせるところから始まる。
自由に動けるようになったストレイボウはオルステッド達の後ろをこっそりとつけ下山し、ルクレチアまで帰還した。
そして、寝ているオルステッドに幻覚を見せ、王殺しの罪を負わせる。
異変を察知して謁見の間に入ってきた兵士の目には、血まみれで倒れた王と、血に濡れた剣を持ったオルステッドの姿。
これ以上の証拠はない。
大臣を始め兵士一同がオルステッドを糾弾し始めた。
さらに一体何が起こったのか自分でも分からないといった顔のオルステッドに対して、誰かが呟く。
まさか、ハッシュとストレイボウもオルステッドが?
ならば、オルステッドこそが人の皮を被った魔王では?
誰から漏れたともしれぬその呟きはあっという間にその場にいる人間全てに伝播し、オルステッドこそが魔王だという推論は真実へと摩り替わった。
勇者だ英雄だと持て囃していた民衆でさえも、掌を返したようにオルステッドを魔王だと言いはじめた。
魔王の烙印を押されたオルステッドは、這う這うの体で逃げるようにルクレチアから逃げ出す。
この結果はストレイボウも予測し得ない出来事だった。
王殺しの罪を着せることが目的だったが、まさか魔王の嫌疑までかけられるとは。
そこで、ストレイボウの愉悦は最高潮を迎えた。
あのオルステッドが、落人のように逃げ惑っている。
あのオルステッドが、訳が分からないと言った表情になっている。
あのオルステッドが、誰よりも勇者にふさわしき器を持った人物が、こともあろうに魔王の疑いをかけられている。
いい気味だった。
たまらなく愉快だった。
どうしてもっと早くこうしなかったのかと悔やまれた。
こんなに笑ったのは生まれて初めてだと言えるほど、腹を抱えて笑った。
あれこそが、ストレイボウが渇望してやまなかったオルステッドの姿。
今までストレイボウがどんなに魔法で勝負をしても、見ることのできなかった表情だ。
オルステッドは今、地面に倒れ土の味を噛み締めている。
今すぐ、駆け寄って直に言ってやりたかった。
敗北の味はどうだ、誰からも理解を得られず一人彷徨う気持ちはどうだと。
お前はいつもこうやって俺のことを上から見下ろしていたんだ。
こうやってお前はすまし顔で敗者を踏みつけ、顧みようともしなかった。
お前には、負ける者の気持ちなど分かりはしないんだと。
あとは頃合を見計らってアリシア姫を伴って、ルクレチアに凱旋するだけでよかった。
死んだと思われたストレイボウが実は生きていて、アリシア姫も連れて帰った。
それで、今回のオルステッドとストレイボウの勝負はストレイボウの勝利で終わり、ストレイボウこそが勇者だと言われるだろうと。
しかし、それで話は終わりではなかった。
なんと、オルステッドは僧侶ウラヌスの助けを借りて、再び魔王山までやってきたのだ。
何時になっても、自分の邪魔ばかりするオルステッドのことが憎らしくて仕方なかった。
全てを奪ったはずなのに、崖っぷちの境遇に立たされても信じてくれる仲間に恵まれているのが忌々しかった。
やはり、勝負をつけるのは策謀ではなく、互いの剣を交えることしかないということか。
今こそオルステッドの引き立て役だった惨めな過去に訣別し、人生の主役になるべき時がきたのだ。
そしてストレイボウはオルステッドに全ての種明かしをした後、生死をかけた最後の勝負に挑むのだった。
『あの世で俺にわび続けろオルステッドーーーーッ!!!!』
話は終わる。
これこそがストレイボウの罪の始まり。
ここからストレイボウは長い時を、冷たい空間で過ごす。
「勝負には、当然負けた」
「……」
「今まで負け続けていたんだからな。 今回だけ勝てる理由はない」
「……して、魔王オディオとは一体何者なのじゃ?」
話を聞き終えたマリアベルの一番の疑問はそこだった。
ストレイボウの話には魔王オディオの影も形もないのだ。
ハッシュなる勇者が倒した魔王こそがオディオとは到底思えない。
マリアベルはこれに、ある仮説を立てていた。
一つは、全ての背後に、ストレイボウさえも気づかぬところで魔王オディオが暗躍していたという説。
そして、もう一つ。
しかし、もう一つの説はストレイボウの口から直接聞くまでは、どうしても口にはしたくないという思いがあった。
それは考えられる限り最悪で、どうしようもなく救いようのない仮説なのだから。
「オルステッドのことだ……」
ああ、やはり。 そう思わずにはいられなかった。
もう一方の仮説の方が当たりなら、どれほどよかったことだろう。
それなら、ストレイボウも道化となって操られていただけだ。
そなたには何の咎もないのだから、力を合わせてオディオを倒そうと、そう言う準備までマリアベルはしていたのだ。
しかし、ストレイボウの口から語られた真実は、そんな甘い想いすら容易く壊すほどに残酷なものだった。
「オルステッドは仲間を失い、国に裏切られ、友に裏切られ、そして愛する人にまで裏切られ、全てを失った。
帰る場所も、帰りを待つ者もいなくなったオルステッドは自分こそが魔王になることで、人間の愚かさを思い知らせようとしたんだ……」
「当り前じゃッ!!」
「……」
「オルステッドは、国に追われ、仲間が死んで、それでも親友のお主のことだけは信じていたのじゃッ!!
それくらい、わらわにも分かるわ。 信じていた分、裏切られた時の憎しみも強くなるのじゃッ!」
「ああ、そうさ。 けど、当時の俺はそんなことも分からなかったんだ……」
今にして、ストレイボウは思う。
アリシア姫は優しすぎたのだ。
だから、オルステッドに何時までも勝てないのが悔しいと、その思いを吐露したストレイボウに同情してしまった。
オルステッドが国を追われた立場であることなど、アリシアは知りはしない。
最後までオルステッドに勝てなかったストレイボウの悔しさと惨めさだけを知っていた彼女は、ストレイボウの傍にいるため、自刃して果てたのだ。
それが、最後に残された希望を救おうとしていた、オルステッドの拠り所を完膚なきまでに粉砕すると知らずに。
そして、魔王を名乗ったオディオは手始めにルクレチアの人を全て惨殺した。
オルステッドこそが魔王だと言ったルクレチアの人々の言葉は、最悪の形で実現されたのだ。
大臣も、兵士も、貴族も、平民も、男も、女も、老人も、赤子も、全て残らず皆殺しだ。
それだけで飽き足らなかったオディオは、今回の殺し合いを思いつき、50人近くの人間を呼び寄せたのだ。
ルクレチアにいた人間の中で、ストレイボウだけが新たな命を得て。
「だから! ブラッドも
ロザリーも他の皆が死んだのも、全部俺のせいなんだ……ッ!」
頭を抱えて濡れた地面に膝をつく。
「酷いだろう? 憎いだろう? 許せないだろう? お前の目の前にいる男は、お前が仲間だと言ってくれた男は、全ての元凶なんだ」
ブライオンを、かつて勇者の使った剣を地面に差す。
「30人以上も人が死んだのに、こうして俺だけはまだのうのうと生きているんだ!」
両手を腰の後ろに回して、手を繋ぐ。
「だから、俺を殺してくれ」
頭を垂れて、マリアベルに首を差し出す。
「俺を裁いてくれ」
それは、断頭台の露に消える前の罪人のような姿勢だった。
「そのブライオンは勇者の剣だ。 女の細腕でも必ず罪人の首を跳ね飛ばしてくれる」
もう、逃げ回るのは止めだ。
マリアベルが終わらせてくれるのならば、それに越したことはない。
何もかもが手遅れだったのだ。
贖罪だの友を救うなどと、体のいい言葉を使って罪から目をそらしてきた結果がこれだ。
サンダウン・キッドにアキラとの関係を聞かれた時、答えられなかったのが何よりの証拠だ。
いつか話すだと? いつかとは一体何時のことなのだ?
いつかは話すと、自分に言い聞かせてはいたが、とどのつまり自分は正直に言うのが怖かったのだ。
真実を語って糾弾されるのが怖かったのだ。
カエル一人止めることもできず、いたずらに死者は増えるばかり。
オルステッドを裏切った理由も、逆恨みもいいところだった。
誰がこんな男を許そうと思おうか。
誰がこんな男に同情などするだろうか。
こんな救いようのない男は早く死んだ方が世の中のためなのだ。
誰かを傷つけることしか出来ないのなら、死んだ方がいいのだ。
だから、首を差し出したまま、ストレイボウは、マリアベルの裁きを待つ。
「よかろう」
しばし、逡巡していたマリアベルだが、ブライオンの剣を取る。
両手でしっかりと握られた剣を、ストレイボウの首の少し上で止める。
それから、ゆっくりと、高々とブライオンを掲げる。
後は振り下ろせば、ストレイボウの首と胴体は綺麗に生き別れになるだろう。
「ノーブルレッドが一人、このマリアベル・アーミティッジがお主の罪を裁こう」
夜の光を受けて、マリアベルは毅然とした表情で言った。
被告はストレイボウ、断罪するはマリアベル。
処刑とは見せしめのために行われる意味合いも強いが、今回の処刑はたった二人だけしかその場にいなかった。
あるいは、イスラたちの下で裁こうとしないのは、最後に自白したストレイボウへの情けなのか。
どっちでもいいかと、ストレイボウは思った。
どちらにせよ、これで死ねるのだ。
それが、贖罪を行うまでは死ねないと言い聞かせてきた、自分に対する裏切りだとは知っていても。
後は元の通り、あの冷たい空間に戻り、永劫に罪悪感に苛まれる日々が続くのだ。
それが、友を裏切り全てを滅ぼす切っ掛けを作った男への罪状なのだ。
きっとオディオは償おうとしても結局何もできないのだという、無力感を刻みつけるためにストレイボウに二度目の命を与えたのだ。
月の光を受けて白く輝くブライオン。
ノーブルレッド特有の真紅の瞳。
赤と白、二色を光らせるマリアベルはブライオンを振り下ろす前にストレイボウに問うた。
「お主は、オルステッドを策謀に嵌めるのが楽しかったか?」
「……ああ。 楽しかったさ」
それは偽りようのない事実だ。
今でも、その時のことを思い出すと、楽しいと思ってしまう感情が鎌首をもたげてくる。
今でこそ、倫理観と罪悪感でそれは絶対に楽しいと思ってはいけないと抑制しているが、あの時の自分は確かに喜び、楽しんでいたのだ。
「お主は何故今になってそれを喋る?」
「……もういやなんだ」
喉の奥から絞り出すような、憔悴しきった声だった。
体が凍えるように寒かった。
雨に打たれたためというのもあるだろうが、それ以外の要因も絡んでいることは間違いない。
参加者は次々と死に、何の罪もない半数以上の人が死んだのだ。
オディオを生んだのはストレイボウのせいだ。
ならば、今回の殺し合いで死んだのは、結果的にストレイボウが殺したも同然なのだ。
例えオディオがどういう思惑でストレイボウを生き返らせようと、無下に死んではならぬと言い聞かせた。
贖罪をするまでは死んではならぬと心に命じ続けてきた。
それこそが自分の生きる意味であり、生きながらえる義務なのだから。
真実を打ち明けることで、他の人からどういう誹りを受けようと、それが自分の罪なのだと戒めてきた。
しかし、カエルとは道を違えたばかりか、未だに元の道に引き返させることすらできぬ有様。
今こうやって勢いに任せて言ってしまうまで、真実を打ち明ける勇気すらなかったのだ。
その上、何も知らないマリアベルたちは優しい言葉をかけるばかり。
醜い真実を隠して、優しい言葉だけを受け取る自分が、とてつもなく卑怯に思えた。
仲間だと言われて、癒やされてしまうことが嬉しくて、そして許せなかった。
誰よりも罪を意識しているストレイボウだからこそ、簡単に許されてはいけないと思いこむ。
結果、慰めや励ましの言葉でさえ、重荷になるのだ。
これで心を強く持て、自信を持てという方が無理な話だ。
死者の名前を告げられる度に、罪悪感で頭がおかしくなりそうになった。
目を閉じるだけで、死んだ人たちの罵倒の声さえ聞こえそうだった。
寝ることさえ、死者たちが夢に出てきそうでできなかった。
罪の十字架を背負ってきたが、ついにその重さに耐えきれずに潰されてしまう。
何一つ目的を果たせない自分の弱さと、罪悪感でもはやストレイボウの軋む心は限界を迎えていた。
「もうこうやって、おめおめと生き恥をさらすのが限界なんだ……」
罪人は罪人らしく、裁きを受けるべきだ。
死んだ30人以上の人はこんなところで死ぬべきではなかった。
こんな不条理な出来事に付き合わされる必要は皆無だったのだ。
納得して死んでいった人、納得して殺し合いに乗った人は一割にも満たないだろう。
きっと、死んでいった人たちは明日の予定も来週の予定もあったに違いない。
誰もが、何の迷いもなく明日を生きていていい人たちばかりだったのだ。
ブラッドも、ロザリーも、
サンダウンも、
シュウも、
ルッカもだ。
誰もがこんなところで理不尽に死ぬことに、怒りと絶望を感じていたに違いない。
なのに、無辜の人々が何の意味もなく、やりたいことを遺して理不尽に死んでいく中で、どうして元凶の自分だけはやりたいことをできると思っていたのか。
思い上がりも甚だしい。
変わると決めた癖に、何一つ成し遂げてない男が何を言うか。
どうすれば罪を滅ぼせると、どうすれば、などと考えていることすらそもそもの間違いだったのだ。
すぐに死ぬことこそが贖罪なのだ。
ストレイボウはもう、そうとしか思えなくなっていた
「だから、もう殺してくれ……ッ!」
それはもはや懇願に近い想いだった。
火あぶりにされるのなら、それでいい。
このまま首を断たれるのなら、それでもいい。
とにかく、一刻も早くこの醜く生にしがみつく罪人を殺して欲しい。
魔王になったばかりのオディオが、ルクレチアに住む人全てを殺しつくす情景を思い出す。
やっぱりオルステッドが魔王なんだと言って逃げ惑う人々に対して、違うと言ってやりたかった。
全部自分のせいなんだと、誰かに伝えたかった。
しかし、それは叶わず、あの空間に魂を縛られたルクレチアの人々は、今でもオルステッドこそが魔王だと信じて疑ってない。
友を裏切り、名誉を穢したのは他ならぬ自分であるのに、オルステッドこそが魔王だと言われるのが悔しかった。
悔しいと思う資格すらないのだとは知りつつもだ。
「最後に、もう一つ答えよ……」
冷たさを持ったマリアベルの声が頭上より降ってくる。
マリアベルの表情はストレイボウからは窺い知れない。
しかし、その声の冷たさだけでマリアベルの怒りは容易に想像がついた。
それは当然の反応と言えるのだから。
「オディオに何か言うべきことはあるか? 可能なら、わらわが相見えた時に伝えようぞ」
「……ッ! 謝りたいんだッ!!」
即答に近い答えだった。
何故なら、それは自分が胸の内に閉まっておいたものだから。
いつしかその言葉を言う機会が訪れたときに、いつでも言えるように。
オディオに会えた時に、真っ先にその言葉を言いたかったからだ。
「けど……もうできない……。 もう俺には、そんな資格はないんだ……ッ!」
誰もが死なず、オディオのとこへ行けたのならあるいは、それを口にする資格もあったかもしれない。
だが、誰一人救えない時点で、そんな資格は消え去ってしまったのだ。
30人以上が死んでしまったけど、元凶のストレイボウは謝って許されました、めでたしめでたし。
死んでしまった人間の誰がそんなことを許すだろうか。
亡者の嘆きが今にも聞こえてくるかのようだった。
そんなことは許さない、お前はそんな言葉を口にする資格すらないのだと。
苦しみぬいて死ぬことこそが義務なのだと。
死者の念にとり憑かれたストレイボウは、贖罪の念が強すぎたためにそれを振り払うことができない。
そうして、24時間以上に渡って苦しんだストレイボウの心は、ついに折れてしまったのだ。
「お主の覚悟、確かに受け取った。 わらわが介錯してやろう」
重い口をマリアベルが開く。
問答はそれで終わりだという具合に、それ以上マリアベルは喋りはしなかった。
マリアベルは心の中で思考する。
たしかに、ストレイボウの語った真実は衝撃的であった。
ストレイボウが常に何かについて頭を悩ませていたのは周知の事実だ。
大方カエルについてであろうとは思っていたが、まさかオディオのことについてもだったとは、さしものマリアベルも思いもよらぬ事であった。
ロザリーたち異郷の者と出会えたことは得難い機会であり、また幸運ではあったが、ストレイボウの罪は見過ごすことはできない。
ストレイボウが罪の呵責に苛まれていることを差し引いても、償いたいと思っていても、情状酌量の余地は無い。
それが、中立の立場から見た、冷静で客観的なマリアベルの意見だった。
ファルガイアの法に照らし合わせても、万死を以って償うしかあるまい。
「ありがとう……皆にもすまなかったと伝えてくれ」
頭を垂れたまま、ストレイボウが言う。
これから死ぬことに対して、ありがとうと言ったのだ。
変な情に流されることのない人物を選んだ、ストレイボウの目は確かだったのだ。
これで、ようやく終われる。
こうして待っていれば、マリアベルがストレイボウの首を断ち切ってくれる。
それは、死こそが救いであると信じたストレイボウへの救済でもある。
死ぬまでのわずかな時間すらも、贖罪の言葉を胸に抱く。
そして、死んだ後もあの空間に戻って、いつしかこの魂が消えてなくなるまで、贖罪の言葉を述べ続けるのだろう。
終わらない罰を課せられて。
購いきれない罪に怯え続けて。
それが如何に報われないことかを知っていつつも、そちらの方がいいとさえ思う。
下手に望みを持つから、もしかしたら許されるかもしれないと思ってしまうからいけないのだ。
それなら、最初から救済も謝罪の言葉が届くことがないと分かりきっている場所にいた方がいい。
悲鳴を上げて軋む心を、これ以上傷つけなくて済むのだから。
沈黙の時間が長く続く。
それを、ストレイボウは粛々と受け止める。
いつ死ぬかも分からない無言の時間を、ストレイボウはただ黙って待つ。
なのに。
いつまで経っても。
断罪の剣は振り下ろされない。
待つことに慣れたストレイボウも不審に思い、顔を上げる。
すると、マリアベルがブライオンを下ろし、地面に捨てたのだ。
何故と聞こうとするストレイボウよりも先に、マリアベルが口を開く。
「……お主は死ぬべきであっただろう。 じゃが、わらわにそれを裁く権利はない」
マリアベルはずっと考えていたのだ。
ストレイボウを殺すべきか否かを。
公平な視点から見たストレイボウの悪行は罰せられるべきである。
それは何度も考えた上での結論であるし、間違っていないとも信じている。
しかしながら、マリアベルは今回のオディオの完全な被害者とは言いにくい部分もある。
そう、マリアベルは中立ではないのだ。
どちらかというと、今回の件で恩恵を受けた部分もある。
それは
アナスタシア・ルン・ヴァレリア。
ノーブルレッドの知恵と科学でもどうしようもない、故人との再会を果たすことができたのだ。
アナスタシアはマリアベルの大切な友人だ。
その別れの際の悲しみがあまりにも強く、以後友は二度と作らないと決めたほどに。
たとえどのような状況であろうと、こんな殺し合いの中だろうとマリアベルはそのアナスタシアと奇跡の再会を果たすことができたのだ。
アナスタシアとはロクに言葉は交わしてない。
久しぶり、とか元気だった?とか、そんなありきたりな言葉さえ言えなかった。
最初に言うべき言葉はもっと違う言葉を想像していたのに。
死者には二度と会えぬと知りつつも、マリアベルは悠久の日々の中で何度となく妄想していたのだ。
もしも会えたらどんなことを話そうか。
どんな言葉を交わそうかと。
生憎、アナスタシアは生への渇望が強すぎるため、ユーリルを陥れるような真似をしてしまった。
そのことに関する問いかけしか、マリアベルはアナスタシアと言葉を交わしてないのだ。
その点についてはイライラするし、むしゃくしゃもする。
二人はもっと違う言葉を交わさないといけないはずなのに、何故数百年ぶりの再会がこんな形になってしまったのかと。
けれど、会えたことは純粋に嬉しい。嬉しいのだ。
その点で、マリアベルはある意味ストレイボウのおかげで再会できたと言える。
「それにな、わらわの仲間がお主のことを知ったらどういうかも考えたのじゃが……」
ARMSのメンバーは、もしもストレイボウの言葉を知っていたらどうするかも考えていた。
「なのにな、どいつもこいつも皆、一貫してお主のことを許そうというのじゃ」
面映いような、そんな笑みを浮かべてマリアベルは、力尽きた友と、今も生きている友のことを考える。
リルカはきっと、間違いなんて誰にでもあると言う。
カノンはきっと、罪を犯して悔い改めないことこそが罪だと言う。
ブラッドはきっと、中途で倒れることは、始めからなにもしないことと同じだと言う。
アシュレーはきっと、自らの過ちを知り、償う決心したのなら僕らはもう仲間なんだと言う。
「わらわの仲間は、ここに連れてこられたことに対して怒ってなどいない。
むしろ、お主や他の者に会えたことが嬉しいと言うだろうわさ。
否定してくれるでないぞ? 否定は即ち、わらわの仲間が狭量であるという侮蔑に繋がるからな」
どいつもこいつも、筋金入りで極めつけのお人よしだ。
でも、それがアナスタシアと別れて以降、初めて作ったマリアベルの友なのだ。
マリアベルが胸を張って仲間だと言える、誇り高き絆の力を持った者たちなのだ。
アナスタシアとARMSのメンバー、双方のことを考えた結果、マリアベルにストレイボウを裁く権利はなしと判断したのだ。
ストレイボウは呆けたような表情でマリアベルの言葉を聴き続ける。
まるで信じられないとでも言うかのように。
マリアベルの言葉はそれほど意外なものだったからだ。
諭すような、不思議と安らいでしまうような、そんなマリアベルの柔らかな声が続く。
「だから、お主は生きよ……。 生きて、贖罪を続けよ。
それこそがお主に課せられた罪であり、宿業なのじゃろう……。
わらわも、お主が贖罪を続ける限り、仲間でいることを誓おう。
誰かがお主を責め、あるいは批判しようとも、お主が贖罪にその生を費やす限り、わらわはお主を守ろうぞ」
「違う、違うんだ……俺にはそんな優しい言葉をかけてもらう資格なんてないんだ……」
それでも首を振って、ストレイボウはマリアベルの言葉を拒絶する。
自分は誰にも許されてはいけないんだと、あくまでそう思い続ける。
「異なことを言う。 ならば何故お主は泣く?」
「ッ!?」
気づかされてしまう。
大粒の涙が溢れている。
嗚咽で声が震えている。
そうなのだ。
先ほどから、それはストレイボウの意思と関係なく頬を濡らしていた。
それは今までストレイボウが流したどんな涙とも違っていた。
体中が今までにない感動で打ち震えた。
許されてはいけないと、ずっと思っていた。
あの空間でずっと一人で佇んでいたときから。
自分の罪の重さを知るが故に、誰にも優しい言葉をかけてもらってはいけないと自分で自分を追い込んでいた。
ストレイボウは生涯自分を許しはしないし、許されることも望んではいなかった。
けれど、心の中ではどれだけ戒めていても、意地を張っても本心は嘘をつけない。
「まったく、大の大人が泣くでないわ。 みっともないぞ」
そう、今この体に流れ続ける涙が物語っている。
自分は心の中で、誰かに許されたいと思っていたのだ。
それが、決して許されないと知っていても、誰かに慰めてほしかったのだ。
ずっと、あの日からずっと待ち望んでいた言葉を聴くことができた。
出口の見えない贖罪の迷宮に当てられた初めての光。
「ありがとう。 ありがとう……。 本当にありがとう」
屈辱でも、後悔でもない、それらのものと無縁の感情で流れた涙は、ただ熱かった。
雨に濡れた冷たい体を、涙が暖める。
何も始まっていない。
何も終わっていない。
マリアベルは許さざるをえない事情があっただけだ。
謝罪する人間はまだ10人以上残っている。
オディオの下へ到達する手段を見出した訳でもない。
やるべきことは何一つ片付いていないのだ。
だが。
今、隠し事もやましいこともつまびらかに全て話し、その上で許された男は、マリアベルの前で涙を流す。
それは、熱く清清しい、暗夜に灯を見るがごとき心地の涙だった。
ずっと救いを求め続けた男の心が、満たされた瞬間でもあった。
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最終更新:2011年03月15日 20:56