『イナズマイレブン シャドウサイド』
足が止まらなかった。
喫茶店のあった区画を抜け、いくつ目かの交差点を越えたあたりで不可視の力はとうに霧散していたはずだった。
このエリアから一目散に走り去る。
あの漫画家が書き込んだ命令は、エリアの境界を越えた時点で効力を失っている。
今のグランは自分の意思で足を動かせる。
それでも走っていた。
アスファルトを蹴る音が無人の街に反響する。
ビルの窓ガラスが、走り抜ける赤髪の影を次々と映しては置き去りにしていった。
渋谷の夜はもう終わりかけている。
林立するビルの隙間から藍色を溶かしたような薄明かりが滲み始めていた。
「はぁ……っ、はぁ……」
やがて肺が悲鳴を上げ、右足が鈍く疼いて、ようやくグランは足を緩めた。
膝に手をついて肩で息をする。
力では確かに勝っていた。
なのに敗北したのは自分だった。
奇妙な力に足を掬われて。
円堂守も、この島のどこかにいる。
ならば彼に会うまでに自分はもっと強くならなければならない。
露伴のような未知の力にも、緑川のような予想外の成長にも揺らがないだけの強さを。
ボールを抱え直してグランは歩き出した。
空が白み始めていた。
夜明け前の群青が薄れ、ビルの輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。
無人の街に朝の気配だけが遅れて満ちていく。
鉄錆に似た、生臭い匂いがした。
風向きが変わるたびにそれは濃くなり、グランは自然と歩調を落とす。
無意識のうちにボールを抱える腕へ力がこもっていた。
匂いの源は、二つ先の路地だった。
路地の入り口で足が止まる。
そこには人が倒れていた。
若い男だ。仰向けに横たわったその身体は見るからにあるべき形をしていなかった。
両腕は肘とは違う場所で折れ曲がり、両脚もまた、関節と反対の方向へ曲がっている。顎の輪郭は歪み、喉元には刃物を突き立てられた深い傷があった。
アスファルトに広がる血溜まりは、まだ乾ききっていない。
死んでから、そう時間は経っていないのだろう。
「…………」
グランは遺体の傍らに膝をつく。
悼む気持ちがあったわけではない。
ただ、そこに残された情報を読み取ろうとしただけだ……そのはずだった。
けれど男の顔を見下ろした瞬間、雑木林の光景が脳裏に蘇る。
岩肌に叩きつけられ、原型を留めないほど壊れた緑川の身体。
考えてはいけない。
自分は歴史を変えると決めたのだ。
視線を周囲へ移す。
路地の壁面には小さな穴がいくつも穿たれていた。
弾痕だ。壁の低い位置から高い位置まで、ばらけて並んでいる。
足元には薬莢がいくつも転がっていた。
銃を持った大人の腕を折り、脚を折り、顎を砕く。
抵抗の手段を一つ一つ丁寧に奪ってから最後に喉を刺す。
殺すだけなら、もっと簡単な方法がいくらでもあったはずだ。
この手口には殺意以外のものが混じっている。
愉しんでいる。
壊すこと自体を遊びにしている。
グランは立ち上がり血溜まりの縁を見つめた。
乾き始めた血の上に靴跡が残っていた。
一つは大きく重いブーツの跡。
もう一つはひと回り小さく覚束ない足取りの跡。
二人分の足跡が寄り添うように通りの向こうへ伸びている。
「……面白いじゃないか」
口元に笑みが浮かぶ。
エイリアの戦士としての純粋な闘志の笑みだった。
足跡と血痕を辿ってグランは慎重に歩を進めた。
ボールは脇に抱えたままビルの陰から陰へ。
朝陽が昇るにつれて街の色が戻っていく。
三つ目の角を曲がったところでグランは足を止める。
通りの先、五十メートルほど。
二つの人影が並んで足を運んでいた。
背の高い男とその傍らを歩く少女だ。
男は濃い色の肌をしていた。
着崩れた上着の下から、締まった筋肉の輪郭が覗いている。
顔には交差するように刻まれた古い傷跡。
散歩でもしているかのような飄々とした足取りで朝の通りを進んでいく。
少女は小柄だった。
見慣れない古風な装束をまとい、俯いたまま足を動かしている。
顔の半分が赤黒く汚れていた。
乾きかけた血が頬から額にかけて張りつき、涙の跡だけが白い筋になって残っている。
頬や顎のあたりには、殴られてできたらしい青黒い痣がいくつも浮かんでいた。
虚ろな目は何も見ていない。
その右手には刃を晒した小ぶりのナイフが握られていた。
男の背中に視線を戻す。
歩き方を観察する。無防備に見えて周囲の気配を拾っている。
路地の男を殺したのは間違いなくこいつだ。
(あの男に勝てばハイソルジャーとして戦果を挙げられる)
グランはビルの陰から静かに間合いを詰めた。
足元へボールを転がす。
爪先で軽く蹴り上げ、足の甲で受け止める。回転を加えながら、右足を大きく振りかぶった。
これは挑戦状であり、同時に力を測るための一撃だった。
「──流星ブレードッ!!」
紫色の絶光を纏った球体が朝の空気を切り裂いて飛ぶ。
狭い喫茶店の中で放ったものとは違う。
開けた通りでの全力の一撃は、アスファルトを軋ませながら一直線に十字傷の男へと迫った。
だが男は隣を歩いていた少女の襟首を無造作に掴み上げると、その身を引き寄せながら自らは横へ跳んだ。
流星ブレードは二人のいた場所を通り抜け、背後のシャッターを大きく歪ませて弾けた。
粉塵と金属の破片が朝の光の中に舞い上がる。
少女は悲鳴すら上げなかった。
ただ襟首を掴まれたまま力なく宙に揺れている。
十字傷の男──シュラはその少女──小蘭の身体を軽々と持ち上げたまま着地し、砂埃の向こうを睨みつけた。
「君の力を試させてもらったよ」
グランはゆっくりと瓦礫の隙間から姿を現す。
朝陽を背に受けて赤髪が炎のように輝いていた。
「今の一撃を初見で躱すか。悪くない」
シュラは小蘭を掴んだままの手を緩めない。
その表情に浮かんでいた愉悦の色が、わずかに鋭さを増した。
「僕の名前はグラン。エイリア学園の選ばれしハイソルジャーだ」
「あ?何だそりゃ」
グランは小さく息を吐き、説明の労を取ることにした。
シュラはしばし黙って聞いていた。
そして話が終わった後、堪えきれないというように吹き出した。
「ぷっ、はははは!なんだ要は球蹴りのお遊びかよ!」
シュラの口元が嘲りに歪む。
「星の使徒だかなんだか知らねえが、球蹴り野郎が偉そうにしてんじゃねえよ」
グランの中で何かが音を立てて切れた。
「……取り消せよ」
声が低く落ちる。
「僕の積み重ねてきたものを球蹴りのお遊びだと?」
翡翠の瞳に静かな怒りの炎が灯った。
磨いてきた技のすべてを路傍の石ころのように扱われたことがグランの神経を逆撫でしていた。
シュラの眉がわずかに動く。
「取り消さなきゃどうするってんだ?」
「……あの路地にいた男を殺したのは君だろう?」
グランは翡翠の双眸を細めまっすぐに男を見据えた。
昇り始めた朝陽がその瞳を弾いて鋭く光る。
「君に勝負を挑む」
空気が張り詰める。
シュラの口元に牙を剥くような笑みが広がっていく。
ようやく小蘭を放り出すように地面へ下ろした。
小蘭は崩れるように尻もちをつき、握ったままのナイフの刃が朝の光を受けて小さく揺れた。
「先手は譲ってやるよ」
シュラが挑発するような仕草を交えながら言った。
朝陽が二人の間の路面を斜めに切り取っている。
信号機の点滅だけが規則正しく続き、無人の交差点に緊張だけが張り詰めていく。
「後悔しても知らないよ」
グランは地を蹴る。
紫の疾風となって間合いを詰め右足を大きく振り上げた。
狙うは側頭部。剃刀のように鋭く加減という言葉を知らない一撃だ。
その攻撃をシュラは瞬時に身を屈めることで回避した。
着地と同時に二の太刀。今度は下段からの掬い上げるような蹴りをグランは繰り出す。
膝の裏を狙い崩れたところへ追撃を叩き込む算段。
だがシュラは半歩下がりながら軸足を引き、蹴りの軌道からわずかに外れた位置へと逃げていく。
回転を加えた踵落とし。踏み込みを利用した膝蹴り。
エイリアの戦士として鍛えられた肉体による連撃が雨のように降り注ぐ。
シュラは体を捻り、腕で受け流し、時に半歩だけ下がりながら、急所への直撃だけは確実に避けていく。
かすった一撃に舌打ちしながらも、次の瞬間にはもう体勢を立て直している。
経験に裏打ちされた勘で際どく踏みとどまっているようだった。
グランが苛立ちを飲み込み今度こそと足に力を込めた瞬間だった。
「攻撃ってのはこうやって当てないとなぁ」
シュラの拳がグランの頬を捉えた。
網膜の奥で光が爆ぜたような感覚があった。
頭の芯がぐらりと揺れ足がもつれた。
数歩よろめいて、なんとか踏みとどまる。
頬が熱を持ち口の中に鉄の味が広がった。
躱されているだけかと思っていた。
だがシュラはただ避けていたのではなく、反撃の機会を窺っていたのだ。
痛みを噛み殺しグランは即座に踏み込んだ。
頬を殴られた勢いを利用して、体を半回転させながらの回し蹴り。
踵が男の脇腹に深々とめり込む。
「──ぐっ、このガキ……!」
目の前の男の雰囲気が変わった。
これまで顔に貼り付いていた退屈しのぎの余裕。
獲物を甚振る愉悦の色。
それが脇腹への一撃を境にすっと消え失せていた。
シュラの顔に浮かんでいたのは純粋な戦意だった。
「この俺が本気で相手をする必要があるとはな」
シュラは脇腹をさすりもせず、ゆっくりと肩を回した。
関節が鳴る音がやけに大きく響いた。
「誉めてやるよ、球蹴り野郎」
その言葉を合図にシュラの連撃が始まった。
最初に来たのは鞭のようにしなる掌打だった。
身を引いたグランの脇へ、間を置かず肘が滑り込む。
距離を取ろうと後ろへ跳べば、床を這うような足払いが軸足ごと体勢を崩しに来る。
転がって逃れた先には、すでに男の膝があった。
技の系統が一つではない。
ある一撃は東洋の拳法を思わせる真っ直ぐな踏み込みから放たれる。
次の一撃は掴んで捻る組み技の理に沿って腕に絡みつく。
跳躍からの蹴りは別の国の様式で着地の隙に滑り込む肘には、また異なる流派の呼吸が宿っていた。
地を這うような足払いは体重を落とす独特の運びから生まれ、そのすぐ後に来る膝はまるで違う理屈で組み立てられている。
異なる土地で生まれた技が一人の男の中で継ぎ目なく繋がり、ただ相手を壊すという目的のためだけに並べ替えられていた。
その一つ一つに流派としての誇りや歴史への敬意は欠片も感じられない。
ただ殺すために、壊すために都合の良い部分だけが貪欲に切り取られ継ぎ接ぎされている。
「──くっ!」
なんとか受けた腕に痺れるような衝撃が走る。
防御に回した左腕が一撃ごとに悲鳴を上げていく。
皮膚の下で内出血が広がっていくのが分かった。
右の脇腹にもいつの間にか鈍い痛みが根を張っていた。
息を吸い込むたび、そこだけ引き攣るように疼く。
左からの掌打を辛うじて肩で受け勢いを殺しきれずによろめく。
追い打ちの膝が腹に沈み込み、胃の中身が逆流しかける。
噛みしめた歯の隙間から、くぐもった呻きが漏れた。
なんとか体勢を立て直し、間合いを切ろうと後方へ跳ぶ。
グランは荒い呼吸の中、右足でボールを掬い上げる。
空気そのものが軋むような、独特の圧力がボールの周囲に発生した。
「──流星ブレードッ!!」
「甘えな。この距離でそんな大振り当たらねえよ」
シュラは蹴り上げられたボールを一瞥するや横へ跳んで軌道から逃れる。
サッカー選手ではないシュラにボールを受け止める理由はなかった。
超次元サッカーという競技に何の敬意も持たない者にとって、ボールはただの飛び道具に過ぎない。
「くっ……」
グランは即座に体勢を立て直して連続で蹴りを繰り出す。
何度かはシュラの体を掠めるが直撃は避けられている。
放った蹴りの一つが受け流され、逆に伸びてきた腕に胸倉を掴まれる。
「──ッ!」
そのまま地面へ叩きつけられる。
受け身は取れたが衝撃で一瞬視界が揺れた。
すぐさま身を起こしたグランは距離を取りながら足元の瓦礫に狙いを定めた。
真正面からの蹴り合いでは分が悪い。ならば別の手段で崩す。
アスファルトの欠片を力任せに蹴り飛ばす。
並の人間が放てばただの土埃に過ぎないその一撃も、鍛え上げられた脚力をもってすれば話が違う。
砕けた破片と砂利が猟銃の弾丸さながらの密度で唸りを上げて宙を裂いた。
「──チッ」
シュラは舌打ちしながら体を低く沈めて半身になる。
顔面を庇いつつ肩と腕で破片の雨を受け流していく。
何発かは皮膚を掠め浅い擦り傷をいくつも刻んだが致命的な一撃には至らない。
戦局は少しずつシュラの方へと傾き始めていた。
(──どうして)
グランは奥歯を噛みしめた。
筋力も、瞬発力も、決して劣ってはいない。
むしろ蹴りの速度なら僅かに上回っているとさえ思う。
(力では負けていないはずだ)
エイリア学園は戦闘兵士育成所だが、その訓練施設は多数の特殊ギミックを搭載するとはいえサッカーの練習所となっている。
そこで磨かれたグランの技は人を蹴り殺すのに特化しているわけではない。
ボールを蹴るために、そのボールをゴールポストへと正確に力強く放つための技だ。
対してシュラの拳と蹴りはどうか。
それは元より人と戦うために生み出された武術だ。
しかも一つの流派に収まらない。
各地を渡り歩いて身につけた数多の流派の長所だけを組み合わせている。
相手の守りの死角へ入る角度、急所を確実に潰すための体の預け方、こちらの反応が追いつくより先に拍子をずらす間合い。
そのすべてが殺すという一点に向かって研ぎ澄まされている。
世界各地で幾つもの武術を学び実戦という名の殺し合いの中でそれを磨き続けてきた、近接格闘のプロフェッショナル。
技を学んだ場所も磨いた理由も行使する目的も何もかもがグランとは異なる。
ボールを蹴る足と人を屠るための足。
同じ蹴りという動作でありながら、その根が張っている土壌はまるで違う。
「──なあ」
シュラがふと思い出したように口を開いた。
「こういう時にチャンプかコスミナがいれば面白かったんだがな」
参加者名簿でそんな名前を見かけた気がするが、この男の仲間らしい。
仲間と連携して戦いたかったのかというグランの予想は即座に否定される。
「てめえの見た目なら案外チャンプもやる気を出すかもしれねえからな」
シュラはまるで世間話でもするかのように語り始めた。
「あいつは子供を──」
その先の言葉は性知識の乏しい中学生のグランにとってあまりにも受け入れ難い内容だった。
シュラの口から紡がれる内容が耳へと流れ込んでくる。
子供の尊厳を、あらゆる方向から踏みにじり尽くすための、具体的で、執拗で、そして愉悦に満ちた手順の数々。
それをまるで料理のレシピでも語るかのような口調で並べ立てていく。
時折挟まれる実際に見てきたのだろう固有の細部がその話に嫌な現実味を与えていた。
「──でそこまでやって殺した後、無垢な天使が汚い大人にならなくて良かったと本気で言ってるんだぜ」
シュラは喉の奥で笑いながら続けてもう一人の名を口にする。
「コスミナの方はイケメンが好きでよ。てめえぐらいの年齢でも気にしないんじゃねえか」
語られたコスミナという名の女についての話も性的な生々しさにおいては劣っていなかった。
「──とまあ、そんな感じでよ。死にかけの男にでも跨る売女なんだわ。コスミナがいればお前も死ぬ前に気持ちよくなれたのにな」
シュラは喉の奥で低く笑った。
その笑い声が朝の静けさに似合わず、いつまでも耳に残る。
まるで今語ったことの何もかもが褒められるべき武勇伝だとでも言うように。
グランの中で何かが冷たく凝固していく。
これまで感じてきた怒りとも屈辱とも違う感情だった。
嫌悪だった。
純粋な嫌悪。
今しがた語られたチャンプという男にもコスミナという女にも。
そしてそんな人間たちを仲間として従え、その所業を誇らしげに語ってみせるこの男に対して。
こんな人間たちが徒党を組み、互いの悪行を称え合いながら闊歩している。
想像するだけで腹の底から込み上げてくるものがあった。
「……お前らは」
掠れた声がグランの喉から漏れる。
翡翠の瞳に宿っていたのは、これまでのどんな戦いでも見せたことのない嫌悪の色だった。
「──最低だ」
その言葉にシュラは一瞬だけ目を丸くし、それから口の端を吊り上げた。
「ゲームに乗ってる奴がよく言うぜ」
シュラは鼻で笑うように言った。
「僕は誇り高きエイリア学園の戦士だ。お前たちのような外道とは違う」
その言葉を聞いた瞬間、シュラは堪えきれないというように吹き出した。
「──ぶはっ、はははは!誇り高き戦士だあ?」
シュラの顔がこれ以上ないほど楽しげにほころぶ。
両手で膝を叩き心底おかしそうに笑い続ける。
その哄笑が朝の静けさに似合わず路上に響いた。
「無差別に人殺して回ってる奴が、よくもまあそんな口が利けるもんだな」
「──っ」
シュラは地面に座り込んだままの少女へとちらりと視線を投げた。
「俺がいなかったら小蘭のことも蹴り殺してんだろ?」
グランの言葉が喉の奥で詰まった。
その事実に何も言い返せなかった。
脳裏にあの喫茶店での光景が蘇る。
震える手で刃物を握らされ命乞いをしていた佐倉千代。
優勝のため、円堂守との決着のため、邪魔になるならば躊躇なく手にかける。
あの瞬間の自分の心には罪悪感の欠片すらなかったことをグランは今更ながらに思い知らされていた。
言い淀む様子を見てシュラは満足そうに口の端を吊り上げる。
「図星ってわけだ」
シュラはわざとらしく両手を上げてみせた。
「──なら人殺しの球蹴り野郎から俺が小蘭を守ってやらねえとな」
追い討ちをかけるような口調だった。
まるで自分こそが正義であるかのように平然とその言葉を口にする。
その厚顔さにグランは眩暈すら覚えた。
この男が誰かを守る側に立つという歪んだ事実。
「──決めたぜ」
シュラの目がぎらついた光を帯びる。
まるで玩具の使い道を思いついた子供のような無邪気ささえ滲む表情だった。
「てめえの両足をへし折って、二度と球蹴りができねえようにしてやる」
シュラは心底愉しそうに笑いながら続けた。
「それで泣き叫ぶてめえを──小蘭に殺させる」
その言葉がグランの体を芯から冷たくした。
両足を砕かれ二度と立てない体で、あの少女の手によって命を絶たれる。
その光景があまりにも生々しく脳裏に浮かんでしまう。
シュラは地面に座り込んだままの小蘭へと視線を移した。
「──小蘭」
名を呼ばれ少女の肩がびくりと震える。
「俺が守ってやる上に凶悪な球蹴り野郎を殺せるんだ。嬉しいだろ?」
小蘭はすぐには答えなかった。
虚ろだった瞳がわずかに揺れる。その視線がグランへと向けられた。
その視線の中に何が浮かんでいたのかグランには読み取れなかった。
ただ少女の唇が、かすかに震えていることだけは分かった。
血の気の引いた、それでいて何かに縋りつくような脆い震え方だった。
朝の光の中、沈黙が一拍だけ流れる。
次の瞬間──
シュラは無言で裏拳を小蘭の顔面へと打ち込んだ。
躊躇いも前触れも何一つなかった。
「──っ!」
鈍い音が響き少女の体が横倒しに転がる。
シュラにとっては小突く程度の力加減だ。
倒れ込んだ小蘭の鼻から新たな血が流れ出す。
頬にはすでにいくつも刻まれていた青黒い痣の上に、また一つ、赤みを帯びた腫れが加わった。
小蘭は痛みに顔を歪めながらも声を上げることすらしなかった。
悲鳴を上げることさえ、もはやこの少女には許されていないかのように。
「──嬉しいだろ?」
シュラは何事もなかったかのように同じ言葉を繰り返した。
冷徹なほど平然とした態度だった。
まるで答えなければ何度でも同じことを繰り返すと言わんばかりの静かな威圧だった。
グランはその光景をただ呆然と見つめていた。
殴った。ただ望んだ答えが返ってこなかったという、それだけの理由で。
抵抗する力を持たない少女に対して。
小蘭は地面に伏せたまま、しばらく肩を震わせていた。
やがてゆっくりと顔を上げる。
鼻血に汚れた顔に涙が幾筋も伝っていた。
だが、その口元には笑みが浮かんでいた。
「……うん」
掠れた声が震えながら紡がれる。
「嬉しいよ、シュラくん」
涙を流しながら少女はそう言った。
ただ求められた答えを、求められた通りに差し出す。
それだけが今の小蘭に残された唯一の在り方であるかのように。
シュラはその答えに満足したように短く息を吐いた。
「──さて、と」
シュラは小蘭から視線を外し、ゆっくりとグランへと向き直った。
愉悦の色が再び戦意へと塗り替わっていく。
「小蘭のためにもお前の足──折らないとな」
構えを取り直したシュラの体から圧力が滲み出す。
再び拳が放たれる。
右からの掌底、左肘の追撃、低い足払い。
世界各地の技法が縦横に織り交ぜられた連撃が途切れることなく続く。
グランはそれを何とか受け、躱し、時にわずかに凌ぎながら必死に体勢を保っていた。
頬に新たな痣が増え、腕の感覚は既に麻痺しかけている。
負ければ、両足を折られ、あの少女の手で命を絶たれる。
それだけは絶対に受け入れられなかった。
「──ハァァァァァアアアアアア──ッ!!」
制限(リミッター)解除。
その瞬間、戦況が一変した。
振るわれた拳をグランは今度こそ完全に見切った。
躱すだけでなく、その隙間に自らの拳を叩き込む。
「──なっ!?」
シュラの口から初めて驚愕の声が漏れる。
防御の間に合わなかった一撃が脇腹に深々とめり込んでいた。
勢いのままグランは畳みかける。
回転を加えた踵落とし、回し蹴り、低く沈んでからの掬い上げるような蹴り。
これまで一方的に浴びせられていた連撃を、そのまま倍にして返すかのような猛攻だった。
速度も威力も先ほどまでとは桁が違う。
シュラは上体を僅かに反らし、あるいは半歩だけ体を捻り、致命的な部分だけは執念で外し続ける。
何発かは確かに掠め、何発かは肩や腕で受け流された。
それでも防ぎきれなかった一撃が着実にシュラの体力を削っていく。
「──っ、この……ガキ……ッ!ドーピングでもしやがったのか……ッ!」
驚きを隠しきれないシュラの声が漏れる。
回避の判断がわずかに遅れ始めていた。
先ほどまでは半歩の動きだけで完全に往なせていたはずの攻撃が、今や全身を使わなければ捌ききれない。
グランの追撃の蹴りが飛ぶ。
シュラはかろうじて上体を反らして凌いだ。
だが完全に躱しきれず爪先が肩を掠めていった。
「くっ……この球蹴り野郎が……ッ!」
悪態をつきながらも後退は止まらない。
確かな痛打がいくつも突き刺さっていく。
防戦一方という表現がこれほど似合う場面もなかった。
グランは止まらなかった。
左の回し蹴り、着地と同時に踏み込んでの前蹴り。
一つ一つの攻防がシュラを追い詰めていく。
(──いける)
このまま押し切れる。
リミッター解除によって得た圧倒的な速度と威力。
それさえあればシュラの完成に近い強さの体術すらも押し潰せる。
最終兵器さえ用いれば自分は誰にも負けない。
その確信がグランの中で確かな形を成した、まさにその瞬間だった。
シュラの口元がゆっくりと歪んだ。
劣勢に追い込まれているはずのその顔に浮かんでいたのは焦りでも恐怖でもない。
それは紛れもない笑顔だった。
嫌な予感がグランの背筋を駆け抜けた次の瞬間。
脇腹に灼けるような激痛が走った。
「──っ、があ……ッ!」
声にならない絶叫が喉から迸る。
膝が勝手に折れそうになる。
視線を落とせば脇腹の衣服が真横に裂け、そこから鮮血が噴き出していた。
刃物で切りつけられたような、深く、鋭い傷。
激痛に呻きながらもグランは必死に思考を巡らせる。
(──何が、起きた)
シュラの手には何も握られていない。
何かを投げつけるタイミングもなかったはずだ。
まるで傷そのものが唐突にそこへ発生したかのような不条理な感覚だけがあった。
グランは視線を素早く小蘭へと向ける。
だが彼女はただ地面に座り込んだまま、ぼんやりとこちらを見つめているだけだった。
手にあるナイフを投げた様子も動いた様子もない。
(違う……なら、一体──)
混乱するグランの視界の端にそれが映った。
路肩に打ち捨てられていた割れたショーウィンドウの残骸。
一枚のガラス板に映り込むグランの脇腹付近にミイラのような影が寄り添うように蠢いていた。
包帯を幾重にも巻きつけたような醜悪な人型の怪物。
腕の部分には鈍く光る仕込みナイフのようなものが仕込まれている。
それはガラスに映ったグランの脇腹に刃を突き立てていた。
咄嗟に振り向くがミイラ男の姿はない。
(──鏡の中で僕を刺した……?)
あの怪物が刃を突き立てたのは現実のグランではない。
ガラスに映ったグランの体だ。
それなのに現実の脇腹には寸分違わぬ位置に傷が刻まれている。
鏡の中の相手を傷つけることで現実でも同じ箇所にダメージを与える奇妙な能力。
タロットの大アルカナ12番目のカード「吊られた男」の暗示を持つスタンド「ハングドマン」。
それがDISCによりシュラが得た力だった。
「気づくのが遅えんだよ、馬鹿が!」
「──貴様……ッ!」
グランは痛みを噛み殺しながら地を蹴った。
狙うは鏡そのもの。あの反射面さえ潰せば、この卑劣な攻撃はできないはずだ。
渾身の蹴りをガラスへと叩き込む。
「──ぐ、うっ……!」
脇腹の傷が悲鳴を上げるのを無視して力を込める。
ガシャンという乾いた音とともにガラスが粉々に砕け散り、破片が四方に飛び散り、朝の光を反射しながら地面に降り注ぐ。
(──いない?)
困惑するグランの視界にそれが映る。
砕け散った無数のガラスの欠片。
そのうちの一つに自分自身の姿とあのミイラのような影が何事もなかったかのように映り込んでいた。
「な……っ!」
鏡を割ったところで意味はない。
むしろ状況を悪化させただけだった。
一枚の反射面を破壊しても破片の一つ一つがそのまま新たな反射面として機能する。
一先ずは割れたガラスの破片から距離を取る。
だがここは渋谷という街だ。
ショーウィンドウ、水たまり、金属製の看板、車のミラー。
この無人の街には光を反射するものが、数え切れないほど溢れている。
そのどれもが、少しでも角度が合えばグラン自身の姿を映し出す。
あの怪物が潜む先は無限に近い数だけ存在していた。
しかも不利な状況はそれだけに留まらなかった。
脇腹からの出血は止まる気配がなく、力を入れるたびに新たな血が流れ落ちていく。
全力で稼働する肉体に傷口からの失血が重なる。
その負荷は想像を絶するものだった。
「──ハハッ、いい様だな」
脇腹から鮮血を垂れ流し、荒く息をつくグランを見下ろし、シュラは肩を揺らして笑った。
シュラはゆっくりと拳を構え直した。
「ここからは容赦しねえぞ」
その言葉には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
これまで一方的に甚振ってきたはずの獲物に、まさか本気で押される場面が来るとは思っていなかったのだろう。
「──ッ!」
太腿に鋭い痛みが走る。皮膚を切り裂かれた感触だった。
リミッター解除で強化された肉体で反射的に足を下げていなければ致命的な一撃だった。
(──何処からだ)
目で追う暇すらなかった。
振り返る前に既に終わっている。
視線を落とせば少し離れた場所に転がった空き缶の丸みを帯びた表面にミイラ男の姿が映り込んでいた。
光の速さに近い。
いや実際に光そのものとして移動しているのだとグランは直感していた。
自分の姿を映す反射面さえあれば、瞬き一つの間に平然と飛び移る。
グランは地を蹴り絶えず鏡から離れるように移動した。
止まった瞬間が負けだった。
シュラはそんなグランの動きを見て口の端を歪めた。
「逃げ回るだけじゃ、勝てねえぜ」
言葉と同時にシュラ自身が動く。
攻撃をスタンド任せにせず、自らも動いてハングドマンとの連係攻撃を繰り出す。
グランの逃げる方向を先回りするようにじりじりと追い詰めてくる。
まるで獲物を狭い場所へ誘い込む狩人のようにシュラは自らの足で退路を塗り潰していった。
(──追い込まれてる)
単に距離を詰めてくるだけではない。
シュラが回り込むたび、グランが逃げられる方向は少しずつ狭まっていく。
そして狭い路地には、割れたショーケースが並び、放置された自転車の反射板があり、水たまりが点在している。
シュラはグランをそうした場所へと意図的に追い立てていた。
「──ぐっ……!」
背中に浅い傷が刻まれる。
それでもグランは足を止めなかった。
止まれば終わりだという確信だけが疲弊しきった体を突き動かしていた。
ミイラ男が付近の鏡に映ればリミッター解除で強化された脚力で強引に振り払いまた走る。
だが時間が経てば経つほど、状況は悪化していく一方だった。
動けば動くほど傷口から鮮血がアスファルトへと滴り落ちていく。
弱っていくグランに対してシュラは狙う場所を変え始めていた。
これまでは顔面や胴体、急所を万遍なく狙っていたはずの攻撃が、いつしか下半身へと集中し始めていた。
膝、脛、足首。同じ場所を執拗なまでに何度も何度も刈り取ろうとしてくる。
「──ぐっ!」
辛うじて躱した蹴りが脛を掠める。
狙いは明確に、そして執拗にグランの両足へと定められていた。
(──足を狙ってる)
脳裏に先ほど聞かされた言葉が蘇る。
──てめえの両足をへし折って、二度と球蹴りができねえようにしてやる。
──それで泣き叫ぶてめえを小蘭に殺させる。
シュラの目的は明白だった。
純粋な殺害ではない。
グランという戦士から、その戦う手段そのものを、そして誇りそのものを根こそぎ奪い取ること。
両足を破壊し、二度とサッカーができない体にした上で、あの少女の手で命を絶たせる。
全身が粟立つ。
これまで感じてきた恐怖とは、また違う種類の戦慄だった。
命そのものへの恐怖ではない。
自分という存在の根幹──サッカー選手として、エイリアの戦士として積み上げてきたすべてを、二度と取り戻せない形で奪われることへの戦慄。
これまで重ねてきた努力も、円堂守と戦うという目標も、すべてが両足と共に断ち切られてしまう。
それは命を奪われること以上にグランにとって根源的な恐怖だった。
足元のアスファルトをグランは思い切り蹴り上げる。
砕けたコンクリートの破片と土埃が勢いよく舞い散った。
「──悪あがきをしやがって!」
シュラは咄嗟に横に転がって回避する。
そのタイミングでグランは踵を返して駆け出した。
振り返ることなく、ただ一心に朝の渋谷を疾走する。
走る足に脇腹の傷が容赦なく痛みを訴えてくる。
それでも足を止めるわけにはいかなかった。
ミイラ男を振り切って鏡のない場所を見つけて傷を癒す。
それが今、なによりも優先すべきことだった。
脳裏に先ほど聞かされた名前が浮かんだ。
チャンプ。コスミナ。
あの男の口から語られた、あまりにも悪趣味な所業の数々。
円堂守がチャンプに穢され、コスミナに跨られている光景が脳裏に浮かび吐き気が込み上げる。
元よりそういった知識が乏しかったこともあり、性的な行為そのものに対する嫌悪感まで芽生え始めていた。
朝の渋谷を赤髪の少年が駆け抜けていく。
その背中には屈辱と嫌悪が重く伸し掛かっていた。
【D-4/早朝/1日目】
【グラン(基山ヒロト)@イナズマイレブン】
[状態]:右足にダメージ(中)、全身に無数の打撲、脇腹に深い刺傷、疲労(大)、シュラ、コスミナ、チャンプに対する激しい嫌悪感、性的な行為そのものに対する嫌悪感
[装備]:ザ・ストライカー@FINAL FANTASY Ⅹ
[道具]:基本支給品、ランダム支給品×0~2、緑川リュウジのランダム支給品×1
[思考・状況]
基本方針:ハイソルジャーの力を示す。
1:鏡のない安全な場所まで走る。
2:傷を癒し、態勢を立て直す。
3:円堂くん、君とはここで決着をつけることになるかもね。
※エイリア編、雷門イレブンとの決着前からの参戦です。
※リミッターを解除することで限界以上の力を引き出せますが、消耗が大きいです。
※ヘブンズ・ドアーによって「岸辺露伴、佐倉千代を攻撃できない」という命令を書かれました。
粉塵の向こうへと消えていく赤髪の背中をシュラは忌々しげに睨みつけていた。
この先は別エリアだ。
ハングドマンの制限としてエリアを越えた追跡はできない。
追うならばシュラ本人も動くしかないが、そうなると小蘭との距離が離れすぎる。
小蘭が自発的に逃げだすことはないだろうが、他の参加者に救助される可能性はあった。
あるいは別のマーダーにあっさり始末される展開もあり得る。
せっかくの玩具を自分の与り知らぬところで失うのは面白くない。
それにシュラは自分の体を一瞥する。
脇腹、肩、あちこちに散った打撲の痕。
万全とはお世辞にも言えない状態だ。
スタンドが受けたダメージは使用者にフィードバックされると説明書に書いてあった。
グランはドーピングで人間離れした身体能力を発揮している。
もし追い詰めた先で、なりふり構わず玉砕覚悟の一撃を放ってくれば最悪相打ちになりかねない。
「あの球蹴り野郎を小蘭に殺させられなかったのは残念だが、探せば他にも子供はいるだろうぜ」
この島にいる参加者の中にグラン以外の子供が一人もいないとは思えない。
(強者と無理に戦い続ける必要もねえ)
弱い獲物を狙い小蘭に殺させる。
シュラは肩を回しながら踵を返した。
小蘭を置いてきた場所まではそれなりの距離がある。
足取りに迷いはなかった。
来た道を逆にたどるように、崩れたシャッターや砕けたガラスの欠片を踏み越えながらシュラは元いた場所へと戻っていく。
やがて見覚えのある通りに出た。
小蘭はそこにいた。
逃げ出してはいない。
座り込んでいた地面から立ち上がり、ただぼんやりとした様子で、シュラが去っていった方向を見つめたまま、その場に突っ立っていた。
「……シュラ、くん」
シュラの姿を認めた瞬間、少女の唇から、掠れた声が漏れた。
「──悪いな、小蘭。球蹴り野郎は逃がしちまった。だが安心しな。次は必ず子供殺させてやるからな」
「……っ」
「てめえも子供を殺したかったよな?」
小蘭の肩がびくりと震えた。
答えに詰まる。
子供を殺したいなどと、考えたことはない。
だが、この男の問いに逆らうことがどれほど恐ろしいかを、この短時間で嫌というほど学んでいた。
小蘭は震える声で絞り出すように答えた。
「……うん……子供、殺したいよ、シュラくん」
涙の滲んだ声で少女はそう繰り返した。
本心かどうかなど、もはやどうでもよかった。
ただシュラが望む答えを口にすること。
それだけが、これ以上の痛みを避ける唯一の手段だと、小蘭の体はとうに学習していた。
「──よし」
シュラは深く頷いた。
これまで乱暴に振り上げられたのと同じ手が、今度は優しく、まるで幼子をあやすかのように、少女の頭を撫でる。
ごく自然な手つきで、まるでそれが当然の流れであるかのように。
「いい子だ、小蘭」
小蘭の肩がびくりと震えた。
これまで殴られた痛みが、まだ頬に残っている。
それなのに頭に乗せられたその手の感触に、少女の体からは徐々に力が抜けていくのが分かった。
強張っていた背中が、ゆっくりと弛緩していく。
やがて少女の口元に小さな笑みが浮かぶ。
「……ありがとう」
消え入りそうな声で、それでも確かに小蘭はそう呟いた。
これが正常な感情の動きでないことは傍から見れば明らかだった。
撫でられる感触。褒め言葉。
極限まで追い詰められた人間の心は、時として、その僅かな慈悲にすがりつくことでしか自我を保てなくなる。
加害者と被害者という関係の中で芽生える歪んだ絆。
殴られ、脅され、時に頭を撫でられる。
その反復が少女の中の判断基準そのものを、少しずつ塗り替えていく。
恐怖と安堵が交互に繰り返されるうちに少女の心はどちらが正常な感情なのかすら、判別する力を失いつつあった。
繰り返される度にその境界線はさらに曖昧になっていく。
小蘭にとってシュラの存在は恐怖の対象であると同時に縋るべき唯一の拠り所になりつつあった。
この地獄のような島で自分を守ってくれる存在。
襲いかかってきた赤髪の少年を退けたのは他でもないシュラだった。
自分ではどうすることもできなかった脅威から、結果として守られた形になったという事実が、少女の中で歪んだ感謝として積み重なっていく。
子供を殺したいという本来なら少女の中に存在しないはずの願望すら、今はこの男に望まれるまま素直に口にできてしまう。
それがどれほど自分自身の心を蝕んでいくものなのか、当の本人はもう正しく判断できなくなっていた。
シュラはそんな少女の変化にはっきりと気づいていた。
恐怖と、それを和らげる僅かな慈悲。
その二つを交互に与え続けることで、人はやがて自分を傷つける者にこそ縋りつくようになる。
試すようにシュラは口を開いた。
「──なあ、小蘭」
「……なに?」
小蘭は痣だらけの顔を上げた。
つい先ほどまで怯えるばかりだった瞳に、今はどこか、続く言葉を期待するような色が滲んでいる。
「てめえと一緒にいたレイとかいう弱っちい男」
その名前を聞いた瞬間、小蘭の肩がほんの一瞬だけ強張った。
「あいつを殺して俺の仲間になって良かっただろ」
残酷なまでに直接的な問いだった。
かつて自分を守ろうとしてくれた男を殺したという事実を少女自身の口で肯定的な言葉として上書きさせる。
それが済んだ時、この少女の中で何かが決定的に変わるはずだった。
シュラは答えを急かさなかった。
腕を組み、少女の表情の移ろいを、まるで芝居でも眺めるかのように見下ろしている。
沈黙そのものが少女に対する無言の圧力として機能していた。
答えを間違えれば、あの拳が再び飛んでくる。
そのことを少女の体は既に覚え込んでいる。
だからこそ、迷いの時間は、あまりにも短かった。
小蘭は、一瞬だけ、完全に硬直した。
瞳の奥で何かが激しく揺れる。
あの朝、自らの手で握らされたナイフの重み。
喉に突き立てた時の、あの生々しい感触。
レイが最後に見せた、小蘭を案じる優しい瞳。
それらの記憶が一気に押し寄せてくる。
呼吸が浅くなり指先が小さく震えた。
だがその硬直はほんの数秒で解けた。
小蘭は自分の内側で何かがぷつりと切れる音を聞いたような気がした。
認めてしまえば楽になれる。
この男の望む答えを口にすれば、少なくとも今この瞬間だけは殴られずに済む。
撫でてもらえる。
その事実だけが罪悪感という重石に押し潰されそうな心を辛うじて支えていた。
「……うん」
小蘭はゆっくりと頷いた。
「レイくんより……シュラくんの方がいい」
声が震えている。
「強くて……腕も太くて逞しくて」
笑いながら少女はそう続けた。
頬に浮かんだ笑みは、確かに本物の感情の発露のように見えた。
だが、その笑った瞳の端から、一筋の涙が静かに零れ落ちていた。
本人にすら、その涙の意味は、もはや正しく説明できなかっただろう。
恐怖からくるものなのか、罪悪感からくるものなのか、あるいは失ったものへの言葉にならない哀惜からくるものなのか。
それらすべてが混ざり合った末に、ただ一筋の涙という形でしか、外に出てくることができなかった。
笑いながら泣いている。
その矛盾した表情こそが、今の小蘭という少女の内面を何よりも雄弁に物語っていた。
シュラはその答えに深く頷いた。
「──よく言えたな」
望み通りの返答だった。
シュラの口元に薄い笑みが浮かぶ。
あれほど強張っていた少女が、ほんの数秒の逡巡の末に、自ら進んで亡き男を貶める言葉を口にした。
その事実こそが、これまでの調教の成果を何よりも明確に示していた。
大きな手のひらが再び少女の頭に乗せられる。
乱暴さの欠片もない、ただ純粋な労いのような手つきだった。
頭を撫でられる感触に小蘭は目を細める。
涙を流しながら、それでも幸福そうに。
「……えへへ」
小さな笑い声が漏れた。
その笑い声は後宮で同僚たちと無邪気に笑い合っていた頃の彼女のものと、何一つ変わらないように聞こえた。
だからこそ、それは余計に歪んで響いた。
その光景をシュラは無言のまま見下ろしていた。
自分の言葉一つで目の前の少女の感情が面白いように塗り替わっていく。
小蘭は頭を撫でる手に自分から頬を寄せるような仕草を見せた。
無意識のうちの動きだった。
殴られた頬の痛みも、今はその温もりの陰に隠れて遠くなっている。
この手だけが、この島で自分を守ってくれる唯一の手なのだ。
そんな錯覚が少女の中で確実に形を成していく。
「シュラくん……わたし、ちゃんと言うことをきくよ。だから……褒めてね」
縋るような声だった。
小蘭は自分の中で何が起きているのか明確には理解できていなかった。
ただ、頭を撫でられている間だけは胸の奥で渦巻いていた冷たいものが、少しだけ和らぐような気がする。
だから離れたくなかった。
この手が離れてしまえば、またあの記憶と向き合わなければならなくなる。
それは殴られることよりも、ずっと恐ろしいことのように思えた。
小蘭にとってシュラはもはや、痛みを与える存在であると同時に、痛みから遠ざけてくれる唯一の存在でもあった。
加害者に救いを見出すという、あまりにも歪な構図が少女の中で固まりつつあった。
「……ねえ、シュラくん。マオマオのこと……殺さないよね」
その名前を口にした瞬間、小蘭の目には一縷の不安がよぎった。
シュラを信じていいのか。約束は本当に果たされるのか。
心のどこかで、そんな疑念が微かに首をもたげたのだろう。
だがそれも頭に乗せられた手が、もう一度優しく動いた途端に霧散していく。
「ああ、約束は守るぜ。お前が、いい子にしてる限りな」
「……うん。わたし、いい子にする」
小蘭は心底安堵したように微笑んだ。
それを見たシュラの脳裏に一つの考えが形を成し始めていた。
壊れかけた玩具を、さらに時間をかけて壊していく。
その過程で見せる表情の変化を飽きるまで眺め続ける。
この少女は、そのためにこれ以上ないほど適した素材だった。
殴り、撫で、殺させ、褒める。
その反復を繰り返せば繰り返すほど、少女の心は完全にこちらのものになっていくはずだ。
そして、いずれ依存が完全に浸透した、その頃合いを見計らって。
(マオマオとかいう女を見つけ出して小蘭に殺させる)
友を自らの手で。
それも、恐怖に強制されてではなく、シュラへの依存ゆえに、進んで手にかけるという結末。
単純な暴力や恐怖による支配とは、また質の異なる遊戯。
人の心そのものを、根本から作り変えていく過程を眺めるという娯楽。
友を手にかけた小蘭に向かって優しく頭を撫でてやる。
その時の顔を想像するだけで、この男の口元は自然と歪んだ。
「──いい子だ、小蘭」
シュラはもう一度、少女の頭を撫でた。
小蘭は、その手の感触に身を委ねながら幸せそうに目を閉じていた。
少女は自分の意志で目を逸らすことを選び始めていた。
見たくないものから目を背け、縋れるものだけを見つめる。
彼女がこれから辿ることになる運命の輪郭を何一つ知らないままに。
【E-5/早朝/1日目】
【小蘭@薬屋のひとりごと】
[状態]:精神的損耗、返り血、顔に複数の痣、シュラへの依存(中)
[装備]:ナイフ
[道具]:基本支給品一式x3
[思考]:シュラくんに褒められたい。
1:シュラくんの言うことに従う。
【シュラ@アカメが斬る!】
[状態]:負傷、全身に無数の打撲、疲労(中)
[装備]:帝具「次元方陣シャンバラ」、ハングドマンのスタンドDISC@ジョジョの奇妙な冒険
[道具]:基本支給品一式、ペンチ、不明支給品× 3~5
[思考]:ワイルドハントとイェーガーズを従えて玩具を蹂躙する。
1:小蘭を殴り、撫で、殺させ、褒める。
2:小蘭の依存をさらに深めさせる。
3:いずれマオマオを見つけ出し、小蘭に殺させる。
4:イゾウを探す。
5:他のワイルドハントのメンバーも集結させる。
6:エスデス、イェーガーズを大臣の権力で従わせる。
7:戦力を整えてからオールマイトに報復する。
※一度の戦闘で使用できるシャンバラの回数は二回です。
※使用時の体力消費を%で計算することでシュラに限らず全ての参加者が同様に二回までとします。
※ハングドマンは制限でエリアを越えた追跡はできません。
最終更新:2026年10月10日 00:40