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歩出夏門行 - (2017/07/31 (月) 11:20:45) の編集履歴(バックアップ)





「歩出夏門行」

曲調:大曲(宋書)、相和歌大曲(楽府詩集)

觀滄海

東臨碣石。以觀滄海。水何澹澹。山島竦峙。
樹木聚生。百草豐茂。秋風蕭瑟。洪波湧起。
日月之行。若出其中。星漢燦爛。若出其裏。
幸甚至哉!歌以詠志。

東の碣石に望み、以って滄海を観る。水の世界に。山島が竦らに峙えるのみ。
樹木が群生し。百草が豊かに茂る。秋風が音楽を奏で。溢れんばかりの波が湧き起こる。
日月の行くこと。景色の中から出るが如し。燦爛たる天の川。水色の衣の裡から出るが如し。
成就あれ!歌以詠志。

冬十月

孟冬十月。北風徘徊。天氣肅清。繁霜霏霏。
鶤鶏晨鳴。鴻雁南飛。鷙鳥潛藏。熊羆窟息。
錢鎛停置。農收積場。逆旅整設。以通賈商。
幸甚至哉!歌以詠志。

冬の始まり十月。北風が地上を掃いて回り。空は透き通るように清らかで。霜が地を覆うこと甚だしい。
神鶏は朝の歓びを告げ。渡り鳥は大小問わず南へ飛び。鷹狩りの猛禽も(軍隊も)翼を休め、熊も羆も冬眠に入る。
錢や鎛などの田器(農具)は停め置かれ。収穫された農作物は畑や圃に積みあげられる。
旅籠が開放され、旅商が行き交う。
成就あれ!歌以詠志。

土不同

郷土不同。河朔隆冬。流澌浮漂。舟船行難。
錐不入地。蘴藾深奥。水竭不流。冰堅可蹈。
士隱者貧。勇侠軽非。心常嘆怨。戚戚多悲。
幸甚至哉!歌以詠志。

郷土と違い。袁紹の支配した河朔は冬気が強く。流氷は浮き漂い。舟船が行くのも難しい。
錐も地に入らぬ農業の北限を越えた地は。鹿も立ち入らぬ不毛の地であり。
水は竭き流れず井戸を掘り進み。様々な艱難に苦しみつつ凍土を歩む。
士は貧しさに痛み地位を軽んじ。勇侠は武をもって法を犯す。
心は常に嘆じ怨み。くよくよと(または、諸将の忠告をはっと思いだし)悲しみにくれる。
成就あれ!歌以詠志。

亀寿雖

神亀寿雖。猶有竟時。騰蛇乗霧。終為土灰。
老驥伏櫪。志在千里。烈士暮年。壯心不已。
盈縮之期。不但在天。養怡之福。可得永年。
幸甚至哉!歌以詠志。

神亀は千年単位で生きるが。それでも終わりがある。騰蛇は霧に乗り飛び回るが。土灰となって終わる。
老いた馬は櫪(うまや)に伏しても。志は千里を駆ける。烈士は人生の暮れにも。若々しい心を保っている。
満ち欠けがあるのは、天に数多ある星だけではない(人命もまた同じ)。
この中原で心身を養う(私と諸君らの誼を交わす)幸福は。永えに続くべし。
成就あれ!歌以詠志。


出典等

出典 所蔵 ページ・コマ タイトルまたは章 艶の有無
晋書/巻21-24/志11-14 国公 史002-0001 No.6p69 碣石篇 含まず
宋書/志11-14 国公 280-0034 No.6p23 碣石・歩出夏門行 含む
楽府詩集/巻37-42 国公 134-0001 No.10p5 歩出夏門行(隴西行に魏武碣石篇の注釈あり) 含む
古詩帰/巻7-9 国公 319-0009No.3p7 観滄海、土不同、亀雖壽 含まず
古詩源 国会 958952/Error 観滄海、土不同、亀雖壽 含まず
古逸詩載/巻7-8 国公 319-0016/No.4p33 観滄海のみ 含まず
詩紀 国公 319-0023/Error 歩出東西門行 含む
石倉十二代詩選 国公 319-0025/Error 歩出東西門行 含む
漢魏六朝 国公 361-0051/No.11p78 碣石篇 含む
国会 2551356/81 碣石篇 含む
楽府古題要解 国公 363-0089p18 歩出夏門行、歩出東門行、隴西行 -
国会 2537689/19 歩出夏門行、歩出東門行、隴西行 -
黄節戔 中華書局 歩出夏門行 含む

単語解説


【夏門】
洛陽伽藍記によると、洛陽の北面にある門の名前。漢代は夏門、魏晋代は大夏門と呼ばれた。
ただ200年代当時に使い物になったかどうかは不明。
洛陽伽藍記(維基)

洛陽伽藍記の十二門簡易リスト(漢代、勘違いしていたら指摘よろり)
詳しくは、当時の洛陽を紹介する論文(例:北魏洛陽の形成と空間配置など)をご覧ください

(,,゚д゚) 夏門 宮観 穀門
上西門 上東門
雍門 城内 中東門
廣陽門 (ω・`) 望京門
津門 小苑門 平門 開陽門

  • 東面
東北:上東門:阮籍詩曰「歩出上東門」。魏、晋代の建春門。
東中:中東門:魏、晋代の東陽門。
東南:望京門:魏晋代の清明門,北魏の青陽門。
  • 南面
南東:開陽門:漢、魏、晋すべて同じ。
南中:平門:魏晋代の平昌門
南西:小苑門:魏晋代の宣陽門。前漢、北魏では、この近くに洛水が入城する津門があったという《尺度綜攷(近デジ)》
  • 西面
西南:廣陽門:漢、魏、晋すべて同じ。
西中:雍門:魏晋曰西明門
西北:上西門:北斗七星の観測台を兼ねる?魏晋では閶闔門
  • 北面
北中:夏門:魏、晋では大夏門
北東:穀門:魏、晋では廣莫門


【雲行雨歩】
《周易-彖伝》「大哉乾元、萬物資始。乃統天。雲行雨施、品物流形」
天が雲や雨をもたらし、水が流れるように、万物はあるべき形に向かって流れる。
天命のもと流れる黄河のように、あるべき所へ赴こう。
「雲行雨施」をあえて「雲行雨歩」に直したのは、天意と自分や兵たちの足音と雨音をかけている?
何にせよ、地上にいる自分と、雲が流れ雨が降る天を結びつけたものではある。
「施」=「我」が、この作品を解読する鍵になる。

【九江】
《尚書-禹貢》で言う、いくつもの様々な河の流れ。複数の河。
もしくは、長江と廬山の間にある九江地区。

【臨觀異同】
 何が異なり、何が同じなのか?
 《楽府正義》では、曹操の北征にあたり、諸将が劉備の危険性を説き反対したなか、郭嘉が曹操に賛成したことを指摘している。
 訳者は「我」の持つ複数の意味から、特定の意味に縛られるものではないと解釈する。

【游豫】
帝王が各地に巡遊するさまを指す。春に巡ることを"游"、秋に巡ることを"豫"という。
《孟子-梁惠王下》「遵古道以游豫兮」

【碣石】
1.墓碑
2.古黄河の河口
3.河北省秦皇島市昌礼黎県にある、海面から突き出た巨石の山島。そのため、書籍によっては「島」「山」とする。
 秦始皇帝が東巡(BC215)のさい、入海求仙を願い碑を建て、漢の武帝がBC110、仙台山頂に「漢武台」を築いた。
 《書経-夏書-禹貢》《尚書-禹貢》《史記-秦始皇帝本記》《漢書-武帝記》、唐代の記録にもあるなど、古代の有名な名所。

 主峰は仙台といい、山中に古刹「水岩寺」、岸壁の上に古人が刻んだ「碣石」の字がある。
 伝承につたわる「孟姜女廟」と4公里分の海を挟んで対峙しているため、地元の人は「孟姜女墳」と読んでいたが、20世紀後半に考古学者が碣石山上で秦漢代に作られた、海を望む為の大型高台を発見、特定した。

【惆悵】うらみ嘆き

【滄海】
1.青々とした大海原
2.渤海湾
3.北海と言われることもある

【星漢】あまのがわ

【鷙鳥】鷹狩りに使う猛禽の総称、ツバメなど諸説あり。

【河朔隆冬】後漢書荀彧伝「袁紹既兼河朔之地」

【冰堅】
 《易経_坤卦》から、「堅氷」は大災のたとえとされることもある。
 風土だけではなく、河北や遼東での戦乱など、様々な困難を指しているか?

【神亀】
参考:曹植「神亀行
「壽千歲。時有遺余龜者,數日而死,肌肉消盡,唯甲存焉。」

【老驥伏櫪,志在千里】
《韓非子_説林上》の「老馬は路を忘れず(道に迷ったとき、老馬を放ってあとからついて行くことで、道がわかったという話)」(weblio)の故事にもかけているか?
 曹操と共に中原を駆け回った名馬なら、さぞかし多くの道を知っているだろう。

【盈縮之期】
歳星(季節を司る星)が満ち欠けする。時の巡るさまを兼ねる。

【養怡之福】
説文解字「怡、和也」。荀子で「養和」は君子が人々との交流を重視すること。
天地、人々、作者の三者が平穏無事にあってこそ、誼を深めることが出来る。

【幸甚至哉!歌以詠志】
この時代の「幸」は「罪人が枷から解放される」という意味に近いが、この作品では文意から「艷の失意に対し、気づく、悟る」ような意味もあると考える。
「志」については、詩経の序文に「在心為志,發言為詩(心にありて志と為り、発言すれば詩に為る)」とある。
詠志は、尚書「詩言志、歌永言(詩は志を言い、歌は言を永くす)」など。

曹操の場合、「一合」や門に洽の字を書いた逸話があるぐらい言葉遊びが好きだったことを考えると、秋胡行「歌以言誌」の「誌」は明らかに「言志」の意味を併せ持っている。この作品の「詠」も、本来の意味とは別に、「歌永言」の意味を持つと考えられる。
この辺りをどう訳したものか。いっそ訳しないのも手かな→成就あれ!歌以詠志。


コメント


 「艶」では惆悵を抱いていたが、とても幸運なことに、さまざまな経験を経て、ここまで到達できた。
 ついには、幸甚にも「亀寿雖」の心境に到達できた。よって志を辞にしたためるものである。
 「何事にもへこたれない詩人」という見方もあるし、「曹操といえど、最初から気宇壮大な英傑だったわけじゃない」という見方もできるかしら。

 と、超初期はこう書いたが、再分析したら、そんな生易しい作品じゃなかった…
 曹操が人心を掌握する指揮官としても言語学者としても、超一流であったことを証明する作品と言えるかも。
 ちょっと役が適当すぎるので、再分析結果を反映した訳に直している途中。今月中には出来たらいいな。

 《楽府詩集》によると、《隴西行》とされることもあった。

《楽府詩集(台湾)》
僧虔《技錄》云:「《隴西行》歌武帝『碣石』、文帝『夏門』二篇。」

 《宋書》では、「艶」を含む5つが掲載されている。
 しかし時代によっては、「艶」を削除した晋楽所奏《碣石篇》もしくは《碣石舞》が掲載されている場合もある。

《楽府詩集(台湾)》
《南齊書‧樂志》曰:「《碣石》,魏武帝辭。晉以為《碣石舞》。其歌四章:一曰《觀滄海》,二曰《冬十月》,三曰《土不同》,四曰《龜雖壽》。」《樂府解題》曰:「《碣石篇》,晉樂,奏魏武帝辭。首章言東臨碣石,見滄海之廣,日月出入其中。二章言農功畢而商賈往來。三章言鄉土不同,人性各異。四章言老驥伏櫪,志在千里,烈士暮年,壯心不已也。」按《相和大曲》,《歩出夏門行》亦有《碣石篇》,與此並同,但曲前更有豔爾。

 元々は「艶」の章を含む詩だったが、晋代の朝廷で古人の辞を舞楽曲にした時、メインの四曲を舞曲として用いたという。
 「《歩出夏門行》には《碣石篇》があり、これらは同じものであるが、ただしさらに曲前があり、豔(艶)がこれに該当する」、つまり本曲の前奏曲として、艶があったとしている。

 いつ読んだものかは不明。いくつか説があるが、明確かつ確実なものはないんじゃないかな。
 苦寒行ラストで、周公の東山詩を挙げているので、或いは北征から帰ったあとに、東山詩にちなんで作ったのかもしれない。
 後は同じ年に劉備が侵攻してきたとき、防衛に当たった留守番役への賛辞とかね。



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