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「うーむ……」<br>
やはりよく判らない。いや、判らないと言ってもそれをできない訳ではない。<br>
それが何なのか、全く判然としないのだ。俺にはこの操作の意味が理解できん。<br>
「――随分と熱心に教科書と睨めっこをしているね、キョン」<br>
向かいの席に座っている佐々木が、目の前を通り掛かった小動物へと狙いを定めた猫のように笑った。<br>
<br>
――高校二年の十二月、ある日曜日の事だ。<br>
学期末試験も近付いてきているが、そんなものなど物ともせずにハルヒ率いるSOS団は相変わらずの<br>
暴走っぷり。団長サマの学業優秀ぶりは自他共に認めるところで、あいつにとっては成績なんて<br>
ものは心配のしの字どころか一角目の点すらも無いと思われるが、それに漏れなく付き合わされる<br>
俺も含めた諸団員――この件については長門は例外か――は気が気じゃない。朝比奈さんなんて<br>
受験本番の直前だぜ。<br>
そんな訳で学業成績に一握の、どころかサハラ砂漠の砂の如くに不安を憶えている俺なのだが、<br>
試験勉強なんて一人でやってもまるっきり捗らず、ハルヒにでも教えを乞おうものなら最初から<br>
やめときゃ良かったと後悔するほどの説教付きだろうし、古泉に教えを乞うのはどうにも腹が立ち<br>
気に入らない。長門はとてもじゃないが俺どころか地球人を含めた全有機生命体には理解できない<br>
であろうレベルでの解説を聞かせてくれるであろうし、朝比奈さんは先述の通り本人が大変忙しい<br>
身であられるので申し訳無さ過ぎる。<br>
そんな訳で、俺には最早頼れる人間と言えば、中学からの友人であるところの、こいつしか当てが<br>
なかったのである――<br>
<br>
「全く、酷い言われようだな。キミがそのような減らず口を利くのならば、僕は直ちにでもここから<br>
去るに吝かではないのだよ、キョン」<br>
詰問口調の佐々木ではあるが、本気じゃないな。目が悪戯っぽく笑っている。<br>
趣味なんじゃないかと思えるくらいに、こいつは昔からこうやって俺をからかうのが好きなよう<br>
なのだが、実は俺はその事自体は特に悪い気はしていなかった。<br>
こうやって戯れられる友人が居ると言う事が、今の俺には嬉しい事だと思えているからだ。<br>
「わりィ」<br>
照れ隠しのつもりか、この時俺は無意識に頭を掻いていた。俺もこいつに甘えているな――<br>
「――いやなに、この微分積分ってのは一体何なのかと思ってな。教科書も授業も抽象的過ぎて、<br>
概念も何をする為のものなのかも、さっぱり判らねえ」<br>
「ふむ? なるほど確かにね。微積分と言うのは元々ニュートン力学において物体の運動を解析<br>
する中で発展を見せた方法だ。ニュートンが木からリンゴが落ちるのを見て引力を発見したと<br>
言う伝説はキミも知ってるだろう?」<br>
まあ、有名な話だからな。風呂に浸かって浮力を発見したアルキメデスが絶叫しながら街中を<br>
ストリーキングしたってのと同じくらいに。<br>
「中々上手い事を言うものだ。ストリークと言う英単語には『稲妻』と言う意味もある。その時<br>
のアルキメデスの心境たるや、正に稲妻に打たれた様に天啓を得たと言うところだったろうさ。<br>
――話を戻そう。多分に語弊はあるが、微分と言うのは件のリンゴの落下運動について研究した<br>
結果の賜物なのさ。だから理論だけを抜き出して、それだけを教えようとか覚えようと言うのは<br>
相当にナンセンスな事だ。中等教育の指導要綱では物理に微積分が持ち込まれる事は無いが、<br>
実に勿体無い話だよ」<br>
……? ちょっと待て、佐々木。この訳の判らん微積分と言うものがリンゴが木から落ちるのと<br>
一体どんな関係があるって言うんだ?<br>
「そうだね、判りやすいところから説明しようか――<br>
キョン、キミも小学校の頃に『はじき』の法則とか言うのを教わらなかったかな?」<br>
「速さと時間と距離の関係の事だったか? 距離は速さと時間を掛けたものと等しいって言う」<br>
「そう、それだ。実はね、キョン――」<br>
一呼吸の間を持たせる佐々木。何だよ、気になるから勿体振らずに教えてくれ。<br>
「――それが積分と言うものなのさ」<br>
……は? いやいやいや、意味が判らねえぞ。くっくっと笑われても困るんだが。<br>
「まあ落ち着きたまえよ。上手くできるか判らないが、今から説明してみよう」<br>
そう言って佐々木はノートの新しいページを開き、直交する二本の線を描く。縦線へ「v」、横線へ<br>
「t」と註釈が書き加えられた。交点は「O」とある、原点だな。縦軸が速さで横軸が時間か――<br>
「なあ、何で速さってvなんだ? tはtimeだろうってのは判るんだが」<br>
「velocityの頭文字と言われているね。『速さ』を意味するラテン語で、同義で英単語にもある。<br>
――さて、小学校の頃は速さとは一定なものだった。時速3kmとあれば最後まで時速3kmだ。<br>
等速度運動については物理でやっているだろうから説明は要らないだろうが」<br>
言いながら佐々木は『t』の線と平行な線をもう一本書き足す。『 v = 3 』との註釈が加えられた。<br>
「この場合の速さvは時間の影響によらず、常に一定だ。時間tがどんな値を取ろうとも関係ない。<br>
さて質問だが、この図においてvとtとは何を意味している?」<br>
「んー……vが縦辺でtが底辺って事か?」<br>
「御名答」<br>
くつくつと笑いながら、佐々木は今度は『v』の線と平行な線を新たに引き足した。『 t = 3 』とある。<br>
「さて、こうして『 v = 3 』と『 t = 3 』、それにv軸とt軸とで囲まれた正方形ができた訳だが、<br>
これの面積は当然3掛ける3で9だ。この図形の面積の単位、何だと思う?」<br>
「――距離、だな」<br>
縦軸が速さで横軸が時間。ならばこの計算は速さに時間を掛ける事という意味であり、即ちそれは<br>
距離を示すものである。さっき俺が『はじき』の法則の説明として自分で言った事だ。<br>
「その通り。これで等速度運動において距離とは速さと時間とが成す長方形の面積で表せる事が<br>
判った訳だ。そしてこの面積は時間の関数である事もね」<br>
佐々木が『 S1 = vt 』と言う式を書き出す。そう言えば物理でやったな。<br>
「さて、今度は等加速度運動について考えてみようか。或る時刻での速度は加速度aと時間tとを<br>
掛け合わせたものと、初速度v0を足し合わせたものと等しいのだから――」<br>
『 v = v0 + at 』と言う式が書き出される。<br>
「――こういう関係だね。さて、単純に考える為に初速度をゼロ、加速度を1としよう」<br>
佐々木はさっきの図へ、原点を通り斜め45度の右肩上がりの線を書き足した。<br>
その脇へは『 v = t 』と、シンプルな式が書き出される。何の変哲も無い一次関数だ。<br>
「さて、今度の速さは時間の増減によって変動する事になる。<br>
さっきと同じ『 t = 3 』で考えてみようか、この時の距離はどうなるかな?」<br>
「『 S = vt 』なんだから、それへ突っ込んでみれば良いんじゃないのか?」<br>
そうすれば『 S = tt = t^2 』となり……いや、何か違うな。<br>
確か物理で習った公式は初期位置をS0として『 S = S0 + v0t + (1/2)at^2 』とか、そんな感じの<br>
鬱陶しい式だった筈だ。この場合は初期位置も初速度もゼロなんだから『 S = (1/2)t^2 』となら<br>
なければおかしい。<br>
「気付いたね。そう、先の考え方を発展させれば、距離とは速さを表す線と時間を表す線とが成す<br>
図形の面積であり、今回のそれは三角形なのだから、最後に2で割ってやらなければいけないのさ。<br>
つまり求めるべき面積は、3*3/2で9/2、4.5となる訳だ」<br>
なるほどな……この1/2ってのは何の事なのかと思ってたが、そういう意味か。<br>
「ところで佐々木、v0がゼロじゃない場合はどうなるんだ? y――じゃないか、v軸の切片があるだろう」<br>
「その場合は台形として求めればいいだけさ。上底をv0、下底をv0+at、高さtとしてね」<br>
言ってる間に『 S2 = S0 + (1/2){v0+(v0+at)}t 』と書き出された。<br>
「ん……なるほど、S0とv0がゼロならさっきの三角形になる訳か」<br>
「なかなか良い所に気付いたね。そう、さっきのはこのS2についての方程式において、原点を通る<br>
場合に限定された特殊解なのさ。或いは三角形とは上底がゼロの特殊な台形と言い換えてもいい<br>
だろう。ゆえに等加速度運動において距離を求める式の一般解としては、こちらの台形の面積と<br>
して求める方が適していると言えるね。さて――」<br>
佐々木は今書き出したばかりの式をシャーペンで小突きながら、俺に尋ねてきた。<br>
「この式、どこかで見覚えがないかな?」<br>
「……? あっ――」<br>
『 S0 + (1/2)(v0 + v0+at)t 』を展開すれば『 S0 + v0t + (1/2)at^2 』。さっき俺が思い出した<br>
等加速度運動の距離の式と同じだ。加速度がゼロなら『 S0 + v0t 』となり、これは等速度運動の<br>
距離の式とも合致する。<br>
「なるほどな……そういう意味だったのか、あの式は」<br>
「さて、これで『はじき』の法則から始めて、速さと時間と距離との関係を説明する要素が一通り<br>
揃った訳だ。項を並び替えて整理してみようか。とりあえずS0、v0はゼロ、aは1のままで考えよう。<br>
距離は『 S = (1/2)t^2 』、速さは『 v = t 』、加速度は『 a = 1 』と、こうだね」<br>
うむ、それはいいのだが佐々木、俺は確か微分積分の話をしていたと思ったのだが。<br>
「おや、まだ気付いていなかったのかい? 流石はキョンだ、適度に利口で適度に物を知らない。<br>
自賛になってしまうが、昔の僕も全く上手い事を言ったものだ」<br>
「……だからそれ、褒めてないだろう」<br>
「貶しているつもりも無いがね。じゃあお待ちかね、微積分の話だ。とりあえずはそれぞれの操作に<br>
ついておさらいと行こうか」<br>
佐々木がノートへシャーペンを走らせる。しかしよく見たら随分と綺麗な指をしているな、こいつ。<br>
「まず微分、正確にはx^nについての導関数だが、<br>
『 f(x) = x^n 』ならば『 f'(x) = df(x)/dx = n x^(n-1) 』<br>
次に積分、今から示すのは不定積分だな。<br>
『 f(x) = x^n 』ならば『 F(x) = ∫f(x)dx = {1/(n+1)} x^(n+1) + C 』<br>
重要なのは変数xについて微分したら係数が増えて次数が下がり、逆に積分すれば係数が減って<br>
次数が上がると言う所だね。さて――」<br>
くふ、と佐々木の口から聞き慣れない笑い声が漏れる。可笑しくて堪らないと言った風情だ。<br>
「キョン、一次関数『 f(x) = x 』の、xについての導関数と不定積分をそれぞれ書いてみたまえよ」<br>
おいおい、そんなもん楽勝だろ。意味はよく判らないけどな。<br>
『 f'(x) = 1 』で『 F(x) = (1/2)x^2 + C 』だろうが。<br>
「……んん?」<br>
何だこれ、さっき佐々木が書き出した『はじき』のと同じじゃねえか。積分定数Cを削ってxをtにしたら完璧だ。<br>
「おい佐々――」<br>
向かいの席を見れば、佐々木が机に突っ伏して背中を痙攣させている。<br>
「……そんなに笑うなよ」<br>
「これが笑わずに居られるものか。全くキョン、キミと言う奴は面白い」<br>
涙まで流して笑ってるぜ、こいつ。――っておい、ここは図書館だぞ。仮にも女である佐々木に<br>
泣かれてしまっては俺は男として最低な野郎に見えてしまうではないか。周囲からの視線攻撃が<br>
冷た過ぎて、きっと俺はもう凍死寸前だ。<br>
「お、おい、頼むぜ佐々木――」<br>
「くっくっ、いや大いに笑わせてもらったよ。こんなに笑ったのはいつ以来だろう――<br>
しかしこれで何となく感触は掴めただろう? 微分が変化量を求めるものと言う事や、積分が<br>
面積を表していると言う意味も」<br>
大笑いによる涙をハンカチで拭いながら佐々木が言う。<br>
確かにな、身近に感じられる実例があるのと無いのとじゃ大違いだぜ。物理の教師も勿体振らずに<br>
最初からそう教えてくれりゃいいものを。<br>
「解析関係が絡んでくると複雑になるのは否めないからね。ある程度はトレードオフなのだろうが<br>
――微積分やベクトル、正弦波あたりについては高校でも学べるのだから、それを無視するのは<br>
勿体無い事だよ。一方の数学でも、物理の視点を切り捨てているのは残念な事だ。この辺りは<br>
もっと統合的な単元としてくれれば、相当に面白いはずなのだがね」<br>
「で、お前はそれを自分で実践してるわけか」<br>
「独学では限界もあるがね。それに――」<br>
佐々木はふっと嘆息を漏らす。<br>
「――独りでやっていると味気ない、と時々思ってしまうものなのさ」<br>
<br>
<br>
――この日より『補習:佐々木講座』が毎週日曜に図書館で定例開講されるようになった事を、<br>
一応補足しておこう。ちなみに言うまでも無かろうが、生徒は俺しか居ない。<br>
やれやれ、俺に休みは無いのか?<br>
<br>
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