黄色い手袋
いつのまにか、街はバレンタイン一色である。とはいうものの受験生にはそんなものは関係
ない。決して、俺自身がそんな浮ついたイベントにこれまでまったく関係がなかったから言って
いるわけじゃない。確かに、母親やら妹やらからしかもらえないさ。ああ、妹の友達から、チロ
ルチョコ的な物をもらったことはあったかもしれない。だが、まぁ一般的な中学生ならそんなも
んだろう?
さて、そんなわけで何時にもまして、チャリ通(正確を期すならば行っているのは塾なので
チャリ通塾というべきなのだろうが)をする俺にとって世間はいと寒いわけだ。特にこの時期は、
私立の受験真っ最中である。公立に専願である俺だったが、対岸の火事という気分にはなれ
ず、貴重なラストスパートに否応なく俺の足は速まるのだった。そんなことを考えながら、家の
ドアを開けて外に出る。吹き荒ぶ二月の寒風に身をすくませる。
大分くたびれてきた赤いママチャリの荷台には完全冬季モードの佐々木がちょこんと腰掛け
て俺を待っていた。
「ふむ、キョン。防寒具をハーフコートに変えてきたのかい」
両手を軽く挙げて答える。
ロングコートだと裾がペダルに引っかかることがあるんだよ。特に学校指定のヤツはやばい。
なまじ生地がしっかり作ってあるから切れずに巻き込む。
「たしかにね、ふたり乗りで転倒したら、危険だからね」
実際チャリのふたり乗りは違法行為だしな。よい子は真似すんな。
「誰に言ってるんだい? 軽犯罪者のキョン」
気にしないでくれよ、共犯の佐々木某。
「しかるべき所に証言を求められたら、キミにそそのかされたと言うことにするよ」
佐々木はそう言って唇を曲げて、お得意の偽悪的な微笑を浮かべた。
「んじゃあ、今日も楽しいお勉強といくか」
冷え切ったサドルにまたがり、腰に佐々木の腕が回ったのを触感で確認してから、俺は勢い
よくペダルを踏み込んだ。
40kg超のウェイトを付けてのサイクリングは、結構な運動であり、結果的に俺は寒さを感じ
ずにいた。もっともそれはハーフコートに守られた上半身に限っての話である。寒風にさらさ
れた両手は氷のように冷え切っていた。
塾の自転車置き場に駐輪してきた俺を出迎えた佐々木は、両肩を抱くようにして白い息を吐
いた。
「今日は、冷えるね」
まったくだ。今日は雪になるかもしれんな。
「まぁロマンチックかもしれないが、僕ら受験生には関係のない話さ」
何がロマンなのかわからんが、それが何だろうと受験生に関係あるのは受験だけだな。
「……、ねぇ……」
「……何だって、この時期はこんなに寒いんだ。空気読まないにも程がある」
ん? いま、何か言わなかったか、佐々木よ。
「……受験の時期は、雪が良く降るのさ。受験生いじめともっぱらの評判だ」
凍結した路面に気を付けろということか。確かにそんなものに足を取られるわけにはいかな
いな。陰鬱になっていく俺の気分に同調したのか、佐々木は深く溜息をついた。
佐々木さんや溜息をつくと、幸せが逃げると言うぜ。
「もう逃げたよ。……ちょっと悲観的な気分になっただけさ」
まぁ、わかるよ。さ、今日も勉強と行こうじゃねぇか。
塾の教室は、暖房が控えめで(なんでも、眠気対策らしいが、そんな言葉は誰も信じてはい
ない)、防寒具を手放せる状態ではなかった。俺たちと同様に着ぶくれた受講生たちが自習を
続けていた。俺と佐々木もその雰囲気に支配され、黙々と授業の準備を始めた。
二時間程の授業を終えて、俺たちは再び、車上の人になっていた。普段なら、塾近くのバス
停に佐々木を送ってそこで別れるのだが、今日に限っては、佐々木に帰りも送ってくれるよう
に頼まれていた。女の子に冬の暗い夜道を歩かせるわけにもいかない。
そんなわけで、俺は普段の二倍増しのトレーニングにいそしむことになった。
「しかし、珍しいな。帰りにも佐々木を送っていくことになるなんて」
夜気の中に蒸気機関車のように白い息を吐きながら、俺は荷台に話しかけていた。
「ま、ちょっとした理由があってね」
バス代の使い込みでもしたのか?
「失礼な、僕がそんなことを恒常的にしているはずもない。今日は……」
佐々木は言い淀んだ。なんだ? なんかやりたいこととか、あんのか。その、内容によって
は付き合うのもやぶさかではないが。
「……そうかい? それならば付き合って貰うとしよう。実は寄って行きたい場所があるのだ」
寄り道くらいならかまわんぜ。どこいくんだ。道はこのままでいいのか?
「そうだね。次の角を右に曲がってくれないか。カジュアルショップがある。知っているだろう」
ああ、ユニクロ的な地方独自ショップだな。俺もそこそこ利用しているぜ。
「まぁ、この辺りでは適度に安くて、品揃えもよいからね」
うむ、まさに適当なんだ。電車で少し行けば、もっと品揃えが良い所も、もっと安い所も、
高い所もあるんだがな。そんなことを話ながら、自転車を止め、歩道の隅に駐輪する。
しかし、あそこは女性向けの商品は弱くなかったか?
「いや、その、必要なのは服じゃないんだ、そうだな」
そういって、佐々木は俺を上から下まで、見つめた。な、なんだよ。そんな変な格好してる
か? つうか、お互い同じガッコの制服じゃねえか。佐々木は視線を外して、店へ入っていった。
なんだ? 心なしか恥ずかしがっているようにも見えたが、佐々木が? 俺を見て? わけが
わからん。とにもかくにも冷え切った屋外に立ちつくす趣味はないので、彼女の後を追うこと
にする。店内を見渡すと、佐々木は手袋やらマフラーやらが置いてある一角にいた。
「手袋でも買うのか?」
そう問い掛けた俺の方を見もせずに、佐々木はうなずいて、俺の推測を肯定した。
佐々木は真剣な面持ちで棚に並んだ色とりどりの手袋をチェックしている。手で触れて品質
を確かめる。やがて振り向くと俺の目の前にふたつの手袋をぶら下げる。
「このふたつは品質は十分なようだ。違いは色だけ、そこでだ。キョン、キミはどちらの色が
好みだね? こっちの黄色か、こちらの黒か」
俺の好みなんか聞いてどうするんだ?
「ああ、父へのプレゼントに適当だと考えたんだ」
ほう、父親にプレゼントとは、殊勝な心がけだな。
「こう言っては何だが程度が微妙なのだよ。親娘という関係性からそれほど高級なものを贈る
気にはなれないし、かといってだね。何もないというのも何だろう。ならば適度に使いつぶせる
実用品がベストだ。そんなわけで、手袋さ。これならば、値段は適度で、使ってもらえるから、
贈られたことを覚えてもらえる。そして、その印象が薄れた春頃にはお役御免だ」
さすがだな。プレゼントひとつでそこまで見事な計算を聞いたのは初めてだ。
「そうかい? ああ、ところで、質問の答えがまだだよ」
ん~、そうだな。個人的には黒だな。強い色だが、服には合わせやすい。親父さんのスーツ
にも合うだろうさ。
「ふむ、僕の考えと一緒だね。では会計してくるとしよう」
そう言って、佐々木は手袋をふたつとも持ったままレジへと向かった。なんだ。結局、両方
とも買うのか? 俺も手袋でも買うかなぁ。行き帰りで凍えきった両手の感覚を思い出す。
……いや、チャリンコ用の手袋なんざ、カラー軍手で十分だな。そう結論して、俺は店を出た。
自転車を店の前に引き出して、佐々木を待つ。
やがて、プレゼントとわかる包みを持った佐々木が店内から現われた。
「先に出ていたのか。探してしまったよ」
すまん、声を掛けておくべきだったな。
「別にかまわないよ。ああ、そうだ。これを」
そう言って、佐々木は先刻の手袋を差し出した。ちなみに、黄色い方だ。このタイミングな
ら黒い方じゃねぇの?
「アレは父へのプレゼント用だ。これはキミが、寒さで自転車の運転操作を誤らないようにと
いう心づくしだな。色が黄色なのは、夜道でも目立つようにという配慮だ。黒は夜道では本当
に危険なのだぞ」
なるほど、見事な配慮だ。謹んで受け取らせて貰おう。
きゅっきゅっと両手に新品の手袋を装着する。おお、あたたかい。思わず、頬を両手で撫でた。
「ありがとうな、佐々木。大事に使わせてもらうよ」
佐々木はそっぽを向いて「いや、使い潰してくれて構わない」なんて言った。
三度、こぎ出す。しばらく無言の時間が続いた。
「ねぇ、キョン。ひとつ聞いてもいいかな」
なんだ?
「キミは北高志望だったよね、国木田と同じく専願で」
国木田もそうだったっけ?
「ああ、彼は私立でも公立でも、もうひとつ、ふたつは上のランクをねらえるはずだが、北高
に専願らしい」
ま、あいつらしいか。
「ほう、キミはそう思うのかい。差し支えなければ、理由を教えてくれないか?」
なんだ、国木田の進路に興味があるのか? あいつの志望理由なんざ知らねーよ。でも、
面倒だったんだろ。その気持ちならよくわかるよ。俺も似たようなもんさ。お前みたいに、ふた
つも三つも受験するような気分にはなれないよ。専願にすれば確実、なんて言われれば、
それがいいかなって思うんだよ。
「僕だって、好きでふたつも三つも受験するわけではないよ。高望みと本命と滑り止めだけだ。
うっかり、模試でいいスコアを取りすぎたな。おかげで、志望より高いランクの学校を受けてし
まう始末だ。まぁ、それも残るはふたつだけだ」
ああ、佐々木は、公立も受けるんだったよな。って明日だか明後日だかにも受験だったっけ?
頑張ってくれな。俺は私立は受けないから、気休め的な応援ぐらいしかできないけどな。
「明日さ。とりあえず、気持ちだけ、受け取っておくよ。僕と同じ学校をキミは受けないわけ
だから、キミはライバルではないのだし」
お前と同じ学校を受けても、受かる可能性なんかないから、ライバルにはなれそうもないな。
「そういうつもりで、言ったわけではないよ。気を悪くしたなら、謝罪しよう」
こっちも、そんなつもりで言ったわけじゃないさ。気にすんな。
「……そっか、明日か」
「ああ、そうさ、だからちょっとナーバスになっていてね。普段と違うこともしてしまうのも、
そのためなのかもしれない」
……そっか。囁くような声に、応えるべき言葉は俺の中になかった。何を言っても、この場
の空気を虚しい物にしてしまいそうで、何を言っても、この寒空の中に解けていきそうで、
佐々木には伝わりそうもなかった。だから、俺は自転車を止めた。
「キョン、何かあったのか?」
その声にも、応えず、俺は自転車を降りる。戸惑いながらも、佐々木もまた荷台から降りる。
「少し、歩こう」
俺は自転車押し始めた。空いた左手で、佐々木の右手を握る。なんだよ、手袋が必要なのは
お前の方なんじゃないか?
「そうかな。でも、暖かいな」
ああ、親父さんも喜ぶぜ。
「そうかな」
そうさ。俺なら、感激して小遣いのひとつもやるトコだ。
ゆっくりと、歩いた。やがて、どちらともなく言葉は消えた。だが、苦痛ではなかった。
佐々木とは、そういう関係だ。
「ああ、ここまででいいよ。送ってくれてありがとう」
そうか。
「明日、ガンバレよ。何、お前なら楽勝だ」
結局、考え続けて思いついた言葉はこんな凡庸な物でしかない。
俺はその程度の中学生なのだ。
「ああ、ありがとう。そして、大丈夫、伝わっているよ」
佐々木はそう言って、ゆっくりと手を離した。結局、受験なんてひとりで戦うしかない。
そういう物なのだ。俺たちは戦友だが、同じ戦場に立つことはない。だけど、今だけは、
俺はお前の味方で居たかった。
「それじゃあ、また」
そう言って、佐々木は家の中に入っていった。俺は何となく、その背中を見送り、そして
帰路に就いた。
相変わらず、空気は凍るように冷たかったが、両手は暖かだった。
「ガンバレ」
つぶやいた一言はどこにも届かずに、夜空に溶けていった。
最終更新:2013年03月03日 01:34