佐々木さんの、子猫の目の甘い日々7
エイプリル・フール? の巻(前)
桜が時ならぬ寒波に襲われ、あやうく散りそうになり、
そろそろ新学期の姿がおぼろげに見えてきて、時折憂鬱になる頃。
そんなとある一日。
「やあキョン、今の君は、4月1日の君というわけだね?」
外の景色をぼんやり眺めやっている間に、シャミは今日もシャシャキとなっていた。
部屋の様子をその大きな瞳で見渡し、日めくりカレンダーの日付を見て確認する。
「……ああ、そうだな。今日はエイプリル・フールってわけさ」
しかしまあ、毎回よくも時間まで渡ってくるもんだな。
今日のお前さんは、一体何時の時間軸から来たんだ?
「さて、多分数日前ではないかな。もうちょっと暖かいかと思ったけれど、
逆に肌寒いくらいだね。三寒四温とはよく言ったものだよ」
そう言うと、シャシャキはくしくしと右手で頬をこする。
そういうしぐさはまるっきりシャミそのものだが、
佐々木がやると妙な愛嬌があって、見てるほうが何かむずがゆくなってきて困る。
「エイプリル・フールというのは、起源があまりはっきりしない行事ニャんだそうだよ。
多分フランスが起源なのだろうけど、異説も多くある。
そもそも、エイプリル・フールで嘘をついてもいいのは午前中だけなハズなのに、
一日中皆嘘をつくしね。正直、僕はあまり興味のない日ニャのだよ」
湿気がイヤなのか、念入りに手を頬にこすりつけながらシャシャキはそうのたもうた。
そういや中学時代、エイプリル・フールで佐々木が何かした覚えはないなあ。
しかし、興味ない日のことまでそこまで薀蓄を語るあたりがシャシャキらしいよ。
「僕はむしろ、嘘というなら、クレタ人のパラドックスなどの方が、
よっぽど興味深いと思うけどね」
こりゃまた随分話が飛ぶな。なんでいきなりクレタ人。
「有名なパラドックスでね、”「クレタ人は嘘つきだ」とクレタ人が言った”という文章は、
果たしてどういうことになるか、という命題なのさ」
なんだそりゃ。
「つまりね、クレタ人が嘘つきだ、という言説が正しいのであれば、それを言ったクレタ人は、
嘘を言ってるわけではなくなる。ここに矛盾が生じる。
かと言って、発言者のクレタ人が嘘を言っているのであれば、「クレタ人は嘘つきだ」という
言説は嘘であって、つまりクレタ人は嘘つきではなくなり、これもまた矛盾になってしまう。
否定辞を伴う自己言及には、矛盾が含まれるというのは、結構興味深い命題ニャのだよ」
ああ、そういやなんか聞いたことあるな。長門が読んでた本の中に、
なんかそんなようなものがあった気がするよ。俺は読んでないけど。
しかしなんだ、「クレタ人が嘘つき」だからって、四六時中嘘しか言えないわけでもないだろ。
逆に一つも本当のことが言えないなんて、ドラえもんのUSO800じゃあるまいし、
かえって不自然だろ。
「いや、まあそうではあるのだけれどね。この問題提起の本質は、そうした量化子の有無に
帰結するところではないのだよ」
すまんシャシャキ、今の発言ぜんぜんわからん。
「じゃあこう言うのはどうだい。
「この文章は間違っている」
これなら、もっとシンプルで、逃げ道もニャいよ」
……この文章が間違っているなら、間違っているが間違っていて、つまり正しい?
おや?
「まあ、本当は集合論に広く展開される、奥深い話題のようだよ。
流石に僕も数学でのこの議論は、ラッセルが階層理論でなんとか難を逃れようとした
ところくらいしか知らないけれど。くっくっ」
何が楽しいのか俺にはさっぱりわからんが、楽しい思い出を振り返るようにして、
シャシャキは目を細めて笑った。
佐々木さんの、子猫の目の甘い日々7
エイプリル・フール? の巻(後)
「この手の話は、自己言及のパラドックスとか、公理集合論とか、
かなり突っ込んだ専門的な話題になるので、僕も正直よくわからないんだ。
たとえば、大学の修士課程の人にでも聞いてみると面白いと思うよ。
純粋数学の人からすれば、そんな矛盾を含む集合は、そもそも集合の概念が曖昧なせいで、
きちんと集合を定義すればパラドックスから免れる、というだろうし、
逆に哲学の人からすれば、本質的な自己言及における矛盾に対する逃避に過ぎない、と反論される。
もう、それぞれの立場とか、前提となる述語の定義とか、色々難しすぎて手に負えないのさ。
面白いものだね」
いや、俺は全然面白くないから。大学入ってもそういう方面には確実に手を出さないから。
「僕もここらへんは聞きかじりだからね。あまり偉そうなことは言えニャいよ。
ただ、僕が面白く思うのはね、
人間は、言葉や概念でもって思考する。逆に言えば、自分の知る言葉の範囲、自分の知る概念の範囲で、
そして自分が体得した論理大系の中でしか思考できない存在だと言えるだろう。
勿論、現実の発見を日々取り込んで発展はするのだろうけれど」
言えるのかね? 正直全然おまえの話についていけないんだが。
「そんな人間の一番の道具である言葉・論理が、自己言及でパラドクスを孕むような、
言ってしまえばとても不完全な代物だというのが、とても興味深いんだよ。
人は、ただ人であり、言葉を用いているというそれだけで、どれだけのものを見逃しているのだろうね。
たとえば今ここにいる僕を、君以外の人たちは見逃しているようにね」
一息に言い切って、佐々木はくっくっと笑う。
そういや朝比奈さんのTPDの概念は言葉で説明できないとか、長門も似たようなこと言ってたな。
「うん。僕も藤原君や九曜さんに、現在の人間では想像もつかないような、
言葉以外の概念形成とか、現在とは全くことなる論理学について質問攻めにしてみたのだけれど、
流石に二人ともがんとして口を割らなかったよ。下手なタイムマシンや、UFOなどよりも、
よほど現代の地球に与える影響は大きいものだろうからね。
ある意味、今の僕の状態も、かなり反則ぎみではあるのだろうけどね」