人と人がコミュニケーションをとるとき必ず心の中で一定の距離がある。親密な人ならばその距離はとても近くなるだろうし、反対に疎遠な人ならば距離は大きく開いてしまうだろう。私は自分で言うのも難だが、そのボーダーラインを明確に引いてしまう。その所為かどうかわからないが、友人は多い方じゃない。だけれど、あいつは、あいつだけは、私が引いたボーダーラインを気にも留めず、図々しくもずかずかと踏み込んできたのだ。
はじめて、彼と出会ったときは何も感じなかった。ただの平凡な人。友人の先輩でなかったら気にも留めなかったに違いない。それほどまでに彼はパッとしなかった。髪こそ茶色に染めてはいるものの、大学にもなったらそんな人はごまんといるというもので、逆にいかにも大学デビューしちゃいましたという感じが出ていていることも相まって、見ていて痛々しくなるほどだ。だけれど、そんな彼の第一声は嫌に耳にこびりついた。
「君は、猫派? 犬派?」
「君は、猫派? 犬派?」
*
「井筒君、聞いてるの? 事件なの! すっごい事件なんだよ!」
目をキラキラと輝かせて話す女の子はぷくーっとまるでフグのように頬を膨らませ、小柄な体をぐいぐいと井筒と呼んだ健全な十九歳の青年の体に押し付けている。その姿はカップルのそれというよりも、父親と娘の関係のようだ。時刻は朝十時と早いが、彼女らがいる西千葉駅には人の数がちらほらといるため、その二人の様子に奇異の目線を向けながら近寄らないように立ち去っていく。そんな状況を苦々しく思った青年は慌てた様子で、手をわたわたと振りながら、女の子に言い聞かせた。
「お、落ち着いてください。綾瀬先輩。とりあえず深呼吸して。ここじゃ何ですから歩きながら話を聞きますよ」
そう彼が言うと、綾瀬と呼ばれた女の子は素直にも小さな体を全身使って深呼吸をしたあと、うん分かった、と口元に笑みを浮かべた。それはどう贔屓目に見てもあどけない少女のものであったが、彼女は立派な成年女性である。
そして、そんな二人はゆっくりと大学の方へと足を進めながら、話を始めた。
目をキラキラと輝かせて話す女の子はぷくーっとまるでフグのように頬を膨らませ、小柄な体をぐいぐいと井筒と呼んだ健全な十九歳の青年の体に押し付けている。その姿はカップルのそれというよりも、父親と娘の関係のようだ。時刻は朝十時と早いが、彼女らがいる西千葉駅には人の数がちらほらといるため、その二人の様子に奇異の目線を向けながら近寄らないように立ち去っていく。そんな状況を苦々しく思った青年は慌てた様子で、手をわたわたと振りながら、女の子に言い聞かせた。
「お、落ち着いてください。綾瀬先輩。とりあえず深呼吸して。ここじゃ何ですから歩きながら話を聞きますよ」
そう彼が言うと、綾瀬と呼ばれた女の子は素直にも小さな体を全身使って深呼吸をしたあと、うん分かった、と口元に笑みを浮かべた。それはどう贔屓目に見てもあどけない少女のものであったが、彼女は立派な成年女性である。
そして、そんな二人はゆっくりと大学の方へと足を進めながら、話を始めた。
「動物への暴行……ってことですか? 先輩?」
先輩の話を聞いたところ、そういった結論に落ち着いた。
「うん、そうみたいなの。わたしがかわいがってたノラ犬のぽーちゃんがね、この前見たら耳の後ろをけがしてたの……」
それを聞いた井筒は綾瀬に合わせて歩いていた足を止め、綾瀬のことを凝視した。綾瀬はかなり小柄なので、必然的に井筒が見下ろす形になる。
「…………え、野良犬なんですか? 先輩が飼ってるとかじゃなくて?」
「うん……飼ってはないけど、とってもかわいがってたんだよ」
的外れな返答に、井筒は思わず顔を手で覆ってしまっていた。
「……それって、普通に考えて、どこかにぶつかったとかじゃないんですか?」
そんな井筒の呆れが伝わったのか、負けじと綾瀬も足を踏ん張って、井筒をきっと見上げて答えた。
「ちがうんだよ! なんかそういうんじゃなくて、ぶわーってしてるの! あれはどう考えてもじんいてきなものだよ! ゆるせないよ! かぎりなくクロにちかいシロだよ!」
それだとシロだろ、と思わず井筒はツッコみそうになったが仮にも先輩なので必死に堪えた。そもそもこの人は本当に俺の先輩なのだろうか? というか大学生なのか? そんなことを真剣に考えている井筒に問題の先輩の声が降りかかる。
「井筒君、キミはほうりつを学んでるんでしょ。だったらいつも通り、この事件をかいけつして! おねがい、ぽーちゃんをいじめた人を見つけ出して!」
因果関係も何もあったもんじゃない、井筒は心中で毒づく。
だが怪訝そうに窺う周りの眼も無視して、真摯に助けを願う綾瀬の大きな目には涙が浮かんでおり、その瞳の奥には真剣な炎を宿している。そんな彼女の様子を感じ取ったのか、井筒は今までの様子を一変させ、
「わかりました。その依頼引き受けましょう。先輩には何度か依頼の手伝いでお世話になってますしね。ただし、俺は誰も助けることはできません。俺にできるのは支えてあげることだけです」
井筒はいつも通り依頼承認の印と自らの戒めを口にした。
先輩の話を聞いたところ、そういった結論に落ち着いた。
「うん、そうみたいなの。わたしがかわいがってたノラ犬のぽーちゃんがね、この前見たら耳の後ろをけがしてたの……」
それを聞いた井筒は綾瀬に合わせて歩いていた足を止め、綾瀬のことを凝視した。綾瀬はかなり小柄なので、必然的に井筒が見下ろす形になる。
「…………え、野良犬なんですか? 先輩が飼ってるとかじゃなくて?」
「うん……飼ってはないけど、とってもかわいがってたんだよ」
的外れな返答に、井筒は思わず顔を手で覆ってしまっていた。
「……それって、普通に考えて、どこかにぶつかったとかじゃないんですか?」
そんな井筒の呆れが伝わったのか、負けじと綾瀬も足を踏ん張って、井筒をきっと見上げて答えた。
「ちがうんだよ! なんかそういうんじゃなくて、ぶわーってしてるの! あれはどう考えてもじんいてきなものだよ! ゆるせないよ! かぎりなくクロにちかいシロだよ!」
それだとシロだろ、と思わず井筒はツッコみそうになったが仮にも先輩なので必死に堪えた。そもそもこの人は本当に俺の先輩なのだろうか? というか大学生なのか? そんなことを真剣に考えている井筒に問題の先輩の声が降りかかる。
「井筒君、キミはほうりつを学んでるんでしょ。だったらいつも通り、この事件をかいけつして! おねがい、ぽーちゃんをいじめた人を見つけ出して!」
因果関係も何もあったもんじゃない、井筒は心中で毒づく。
だが怪訝そうに窺う周りの眼も無視して、真摯に助けを願う綾瀬の大きな目には涙が浮かんでおり、その瞳の奥には真剣な炎を宿している。そんな彼女の様子を感じ取ったのか、井筒は今までの様子を一変させ、
「わかりました。その依頼引き受けましょう。先輩には何度か依頼の手伝いでお世話になってますしね。ただし、俺は誰も助けることはできません。俺にできるのは支えてあげることだけです」
井筒はいつも通り依頼承認の印と自らの戒めを口にした。
「どうしてこんなことに……」
サークル会館の階段に背中を押しつけながら、井筒は人知れず呟いた。あれはほんの一時間前のことだ。
井筒は綾瀬との依頼承認の後すぐに、当人の綾瀬から
「じゃあ早速、ちょうさにいこうよ! 井筒君!」
とせっつかれた。しかし井筒はゆっくりと首を振って応えた。
「……すいません、先輩。今は無理です。俺二限から授業あるんで」
「そうなんだ、じゃあ早く済ましちゃおう」
「ええ、そうしたいのは山々なんですが今は十時半なんです」
井筒はそう言いながら腕時計を綾瀬に見せたところ、それが伝わったのかハッと綾瀬は目を見開いた。
「じゃあ、早く済ましちゃわないとね」
……あれ? これデジャヴ? 井筒は心の中で首を捻った。目の前にいる女性は大学三年生とは思えないような、あどけない無邪気な笑みを浮かべている。悪意は見られない分、余計にたちが悪いかもしれない。
「もういっかい、言いますね。先輩。俺は二限に受ける授業があるんです。ここまではいいですか?」
できるだけ、ゆっくり丁寧に相手を説き伏せるように語りかける井筒の様子に綾瀬も何かを感じ取ったのか、いつになく真剣な様子になってこくりと頷いた。
「うん」
「そして今は十時半です。しかし授業が始まるのが十時半なんです。ここまではいいですか?」
「うん」
「だったら俺は急いで授業に出なければなりませんよね?」
「うーん……」
「何が不服なんですか!!!!!!!」
まさかの返答に声を荒げてしまった井筒に、しかし臆することなく綾瀬は立ち向かう。
「ちこくするくらいなら、休んじゃったほうがいいよ!!」
「なんですか……そのよくわからない理屈は!!」
まさかの返答に井筒は、半ば呆れながらも言い返す。だが綾瀬は少しも譲ろうとせずに、迫力を増していく。
「……それじゃあ、キミは動物たちのはかない命よりも自分のじゅぎょうの方が大事だっていうんだね……みそこなったよ、井筒君。そんな人だったなんて……」
拙い言葉ではあるものの潤んだ瞳で俯きがちに紡がれる綾瀬の言葉は、目の前の井筒の心に深く突き刺さり、「ぐぅ」と思わず後ずさってしまっていた。そして、その後大きく溜息をつき覚悟を決めて言い放った。
「……わかりましたよ、これから調査に行きます」
そういうと、ぱあ、と綾瀬は顔を輝かせ、「ありがとう、井筒君」、と言いながら無邪気に井筒に抱きついた。しかし当の井筒は顔を赤らめ、オロオロしっ放しであった。
そしてその後、綾瀬自身はぽーちゃんの様子を見に行ってしまったのだが……。
サークル会館の階段に背中を押しつけながら、井筒は人知れず呟いた。あれはほんの一時間前のことだ。
井筒は綾瀬との依頼承認の後すぐに、当人の綾瀬から
「じゃあ早速、ちょうさにいこうよ! 井筒君!」
とせっつかれた。しかし井筒はゆっくりと首を振って応えた。
「……すいません、先輩。今は無理です。俺二限から授業あるんで」
「そうなんだ、じゃあ早く済ましちゃおう」
「ええ、そうしたいのは山々なんですが今は十時半なんです」
井筒はそう言いながら腕時計を綾瀬に見せたところ、それが伝わったのかハッと綾瀬は目を見開いた。
「じゃあ、早く済ましちゃわないとね」
……あれ? これデジャヴ? 井筒は心の中で首を捻った。目の前にいる女性は大学三年生とは思えないような、あどけない無邪気な笑みを浮かべている。悪意は見られない分、余計にたちが悪いかもしれない。
「もういっかい、言いますね。先輩。俺は二限に受ける授業があるんです。ここまではいいですか?」
できるだけ、ゆっくり丁寧に相手を説き伏せるように語りかける井筒の様子に綾瀬も何かを感じ取ったのか、いつになく真剣な様子になってこくりと頷いた。
「うん」
「そして今は十時半です。しかし授業が始まるのが十時半なんです。ここまではいいですか?」
「うん」
「だったら俺は急いで授業に出なければなりませんよね?」
「うーん……」
「何が不服なんですか!!!!!!!」
まさかの返答に声を荒げてしまった井筒に、しかし臆することなく綾瀬は立ち向かう。
「ちこくするくらいなら、休んじゃったほうがいいよ!!」
「なんですか……そのよくわからない理屈は!!」
まさかの返答に井筒は、半ば呆れながらも言い返す。だが綾瀬は少しも譲ろうとせずに、迫力を増していく。
「……それじゃあ、キミは動物たちのはかない命よりも自分のじゅぎょうの方が大事だっていうんだね……みそこなったよ、井筒君。そんな人だったなんて……」
拙い言葉ではあるものの潤んだ瞳で俯きがちに紡がれる綾瀬の言葉は、目の前の井筒の心に深く突き刺さり、「ぐぅ」と思わず後ずさってしまっていた。そして、その後大きく溜息をつき覚悟を決めて言い放った。
「……わかりましたよ、これから調査に行きます」
そういうと、ぱあ、と綾瀬は顔を輝かせ、「ありがとう、井筒君」、と言いながら無邪気に井筒に抱きついた。しかし当の井筒は顔を赤らめ、オロオロしっ放しであった。
そしてその後、綾瀬自身はぽーちゃんの様子を見に行ってしまったのだが……。
「……回想終了。さて本格的に調査をするかな」
勘違いしないでほしい、決して抱きつかれた場面を妄想していたわけではない、心の中で誰かに言い訳しながら、井筒は今後の予定を立てる。
「まずは証人を捜すのが手っ取り早いが、いつ、どこで、だれにやられたのかわからないのでは聞きようがない。だから、学園内の協力者を捜さないとな」
そう独り言を呟きながら、井筒は頭を動かしていく。
(実は綾瀬先輩には隠していたが、同じようなことで俺に調査を依頼した人がいる。だから、そのことも考えるとこれは恐らく……)
そこまで考えて井筒は頭を振った。
「止めよう、余計な考えは捜査の邪魔になるだけだ」
そう自分に言い聞かせ、今までの考えを振り払った。そして改めて協力者について考える。もしかしたら、心当たりがある人がいるかもしれない、そうでなくとも動物たちの異変を感じ取っている人がいるかもしれない、その一縷の希望にかけて井筒はケータイのアドレスを見ていく。
綾瀬は野良犬のことが心配で、バラバラで行動しているため、協力は仰げそうにない(というかその犬の容態を見して欲しい、と頼んでいる)。そして気軽に協力してくれる、または事情を知ってそう、またはその両方を満たしているのは、と次々に井筒はふるいにかけていき残った人物の名前を見て、すいません、と小さく呟いた。その画面には綾坂冴姫、羽住蓮の二人の名前が静かに映し出されていた。
勘違いしないでほしい、決して抱きつかれた場面を妄想していたわけではない、心の中で誰かに言い訳しながら、井筒は今後の予定を立てる。
「まずは証人を捜すのが手っ取り早いが、いつ、どこで、だれにやられたのかわからないのでは聞きようがない。だから、学園内の協力者を捜さないとな」
そう独り言を呟きながら、井筒は頭を動かしていく。
(実は綾瀬先輩には隠していたが、同じようなことで俺に調査を依頼した人がいる。だから、そのことも考えるとこれは恐らく……)
そこまで考えて井筒は頭を振った。
「止めよう、余計な考えは捜査の邪魔になるだけだ」
そう自分に言い聞かせ、今までの考えを振り払った。そして改めて協力者について考える。もしかしたら、心当たりがある人がいるかもしれない、そうでなくとも動物たちの異変を感じ取っている人がいるかもしれない、その一縷の希望にかけて井筒はケータイのアドレスを見ていく。
綾瀬は野良犬のことが心配で、バラバラで行動しているため、協力は仰げそうにない(というかその犬の容態を見して欲しい、と頼んでいる)。そして気軽に協力してくれる、または事情を知ってそう、またはその両方を満たしているのは、と次々に井筒はふるいにかけていき残った人物の名前を見て、すいません、と小さく呟いた。その画面には綾坂冴姫、羽住蓮の二人の名前が静かに映し出されていた。
*
思わず私は、「はあ?」と聞き返してしまった。どこの世界に初対面の人間に対して犬と猫の論議を醸そうという輩がいるのだろうか? だが目の前にいる男は私の棘のある言葉に嫌な顔ひとつせず、
「俺は、猫派だなあ」
と、呑気に笑っていた。
それが、彼との最初の出会い。彼と私の間に引かれたボーダーライン。それはひどくはっきりしていて目にも見えるようだ。だけれど、どうしてだろう、とても脆くて、どこか儚い印象を受けるのは……。事実、このボーダーラインを壊されるのはそう遠くなかった。
「俺は、猫派だなあ」
と、呑気に笑っていた。
それが、彼との最初の出会い。彼と私の間に引かれたボーダーライン。それはひどくはっきりしていて目にも見えるようだ。だけれど、どうしてだろう、とても脆くて、どこか儚い印象を受けるのは……。事実、このボーダーラインを壊されるのはそう遠くなかった。
*
「わざわざ、呼び出すなんてどうしたんだ? まあ昼休憩だったからいいけどさ」
「悪いね、綾坂。助かるわ」
呼び出したのは、かつて依頼で井筒が解決してあげたことで知り合いになった、綾坂冴姫、その人だ。その一件から、綾坂は自分の複雑な事情を井筒に知られてしまい、一悶着あり、結果的にお互いは親友になっているのだが、それはまた別の話。ともあれ、井筒はあの後、綾坂冴姫と羽住蓮の二人に連絡を取ったが、羽住には残念ながら連絡が取れなかったため、やむを得ず綾坂一人に協力を申し込んだところ、すぐにオッケーのサインが来て現在に至る、という次第である。
勝手に助けを頼んだことを少し心苦しく思っているのか、井筒は頭を掻きながら綾坂に話しかけた。
「本当に巻き込んで悪い。ちょっと協力してもらいたいことがあってさ」
「気にするなよ、お前が厄介事抱えるのはいつもの事だろ。それに、俺にはお前が相談したいことがわかる」
少し軽い調子でありながら、綾坂のその言葉には真剣さを帯びている。そしてその綾瀬が言った内容に井筒は目を瞠った。
「ほ、本当か!!」
「……ああ、ビルの幽霊騒ぎだろ」
わかってるぜ、というように片目をつむって綾坂は答えたが、井筒はゆっくり頭を振って、
「いや全然違う、むしろ初耳だ」
容赦なく切って捨てた。
「なん……だと……?」
井筒の返事に一人で驚き震えている綾坂を余所に、井筒は半ば強引に今朝綾瀬先輩から聞いた話を手っ取り早く、かいつまんで説明する。
「動物虐待ねえ……そりゃ、いつのことだ?」
「それが、わからないんだ」
「……それがわからないって、話にならないだろ。お前の頼みなら応えてやりたいところだけど、さすがにそれだけじゃ事件性もあるかどうか疑わしいぞ」
「いや、多分だけど、事件性はある。実は他にも似たようなことで俺に依頼をした人がいるんだ」
「へえ、そうなのか……誰? 守秘義務があるから言えないか?」
井筒はゆっくりと首を横に振った。
「久賀千景さんだ、本人からは口止めされなかった。むしろ、言っていいって」
「久賀って……じゃあもしかして被害にあったのって……」
「ああ、お前の予想通り、八千代さんだ」
「あの人に喧嘩を仕掛けるとは……度胸あるやつがいたもんだな」
ごくり、と思わず唾を綾坂は飲み込んでいた。それも無理はない。
久賀千景とは、よくキャンパス内を歩き回っている男性の変人、もとい井筒と綾坂がともに勤めているバイト先の常連でもある。普段は何処か冷たい印象を与えるが犬のペットの八千代さんには、途方もなく優しいことでバイト先はもちろん学園内でも有名なのだ。はっきり言って犬バカだ。
「……依頼するときも、俺を殺すんじゃないかってぐらい睨んできたからな。思わず謝ろうかと思った」
井筒は乾いた笑い声をあげながら、綾坂に説明した。それにつられて綾坂も、はは、と同情するように笑った、笑うしかなかった。
「それで、八千代さんの耳の後ろを見させて貰ったんだけど、明らかにナイフで切りつけられたような人為的な傷があった」
雰囲気を変えるように、しっかりと静かな口調で井筒は語りかけた。それを察したのか、綾坂も何か考えるように手を顎に持って行った。
「と、すると、もし犯人がいるとすると、このキャンパス内にいる可能性は高いだろうな」
綾坂のその言葉に、神妙な顔をして井筒は頷いた。
「まあ、あくまでも、綾瀬先輩の一件の犯人と同一だった場合だけどな」
綾坂は続けていったが、それに対して井筒は首を横に振って断言するように言った。
「いや、同じ犯人だよ。むしろそう考えないと不自然だ」
確信したかのように言う井筒の様子を怪訝に思ったのか、綾坂は首を傾げている。それに対して説明しようと口を開こうとしたら、
「悪いね、綾坂。助かるわ」
呼び出したのは、かつて依頼で井筒が解決してあげたことで知り合いになった、綾坂冴姫、その人だ。その一件から、綾坂は自分の複雑な事情を井筒に知られてしまい、一悶着あり、結果的にお互いは親友になっているのだが、それはまた別の話。ともあれ、井筒はあの後、綾坂冴姫と羽住蓮の二人に連絡を取ったが、羽住には残念ながら連絡が取れなかったため、やむを得ず綾坂一人に協力を申し込んだところ、すぐにオッケーのサインが来て現在に至る、という次第である。
勝手に助けを頼んだことを少し心苦しく思っているのか、井筒は頭を掻きながら綾坂に話しかけた。
「本当に巻き込んで悪い。ちょっと協力してもらいたいことがあってさ」
「気にするなよ、お前が厄介事抱えるのはいつもの事だろ。それに、俺にはお前が相談したいことがわかる」
少し軽い調子でありながら、綾坂のその言葉には真剣さを帯びている。そしてその綾瀬が言った内容に井筒は目を瞠った。
「ほ、本当か!!」
「……ああ、ビルの幽霊騒ぎだろ」
わかってるぜ、というように片目をつむって綾坂は答えたが、井筒はゆっくり頭を振って、
「いや全然違う、むしろ初耳だ」
容赦なく切って捨てた。
「なん……だと……?」
井筒の返事に一人で驚き震えている綾坂を余所に、井筒は半ば強引に今朝綾瀬先輩から聞いた話を手っ取り早く、かいつまんで説明する。
「動物虐待ねえ……そりゃ、いつのことだ?」
「それが、わからないんだ」
「……それがわからないって、話にならないだろ。お前の頼みなら応えてやりたいところだけど、さすがにそれだけじゃ事件性もあるかどうか疑わしいぞ」
「いや、多分だけど、事件性はある。実は他にも似たようなことで俺に依頼をした人がいるんだ」
「へえ、そうなのか……誰? 守秘義務があるから言えないか?」
井筒はゆっくりと首を横に振った。
「久賀千景さんだ、本人からは口止めされなかった。むしろ、言っていいって」
「久賀って……じゃあもしかして被害にあったのって……」
「ああ、お前の予想通り、八千代さんだ」
「あの人に喧嘩を仕掛けるとは……度胸あるやつがいたもんだな」
ごくり、と思わず唾を綾坂は飲み込んでいた。それも無理はない。
久賀千景とは、よくキャンパス内を歩き回っている男性の変人、もとい井筒と綾坂がともに勤めているバイト先の常連でもある。普段は何処か冷たい印象を与えるが犬のペットの八千代さんには、途方もなく優しいことでバイト先はもちろん学園内でも有名なのだ。はっきり言って犬バカだ。
「……依頼するときも、俺を殺すんじゃないかってぐらい睨んできたからな。思わず謝ろうかと思った」
井筒は乾いた笑い声をあげながら、綾坂に説明した。それにつられて綾坂も、はは、と同情するように笑った、笑うしかなかった。
「それで、八千代さんの耳の後ろを見させて貰ったんだけど、明らかにナイフで切りつけられたような人為的な傷があった」
雰囲気を変えるように、しっかりと静かな口調で井筒は語りかけた。それを察したのか、綾坂も何か考えるように手を顎に持って行った。
「と、すると、もし犯人がいるとすると、このキャンパス内にいる可能性は高いだろうな」
綾坂のその言葉に、神妙な顔をして井筒は頷いた。
「まあ、あくまでも、綾瀬先輩の一件の犯人と同一だった場合だけどな」
綾坂は続けていったが、それに対して井筒は首を横に振って断言するように言った。
「いや、同じ犯人だよ。むしろそう考えないと不自然だ」
確信したかのように言う井筒の様子を怪訝に思ったのか、綾坂は首を傾げている。それに対して説明しようと口を開こうとしたら、
「邪魔」
冷たい一言が井筒に浴びせられた。後ろに目を向けると、水の入ったペットボトルを両手いっぱいに持った井筒と同じ手芸部員の倉田薫が無表情で立っていた。
*
「ちょっと聞いてよ、私ちょーいいことあったんだ」
「今日はあまり話しかけないで、テンションが上がらないの」
「今日はあまり話しかけないで、テンションが上がらないの」
はっきりいって私はテンションの上がり下がりが激しい。それに付き合いきれず、疎遠になってしまった人もいた。だけれど、目の前でにこにこと笑っているこいつは、そんな私を少しも嫌そうな目で見ることなく、私が陽気な時はそれに付き合ってくれ、暗いときにはただ黙って、そっと傍にいてくれる。……出会ったあの日からいつしか自然と一緒にいることが多くなっていた。
ボーダーラインが……ぼんやりとして見えなくなってきた。
*
「ど、どうしたんだ、そのペットボトルは?」
突然の来訪者に驚きながらも、井筒は疑問を投げかけた。
「あんたには、関係ない。ていうかそこ邪魔。なんでサークル会館の階段を二人してふさいでるの?」
それは質問というよりもむしろ恫喝に似たものがあったが、倉田のその怒りはもっともだったので井筒は、「悪い」と謝り道を譲った。すると、そこをふん、と鼻を鳴らしながら倉田は通っていった。その様子に思わずたじろぎながらも、倉田の背中に井筒は質問を投げかけた。
「……そのペットボトルはお前が一人で飲むのか?」
「ばっっっかじゃないの! こんな大量に買い込むわけないじゃない」
呆れたようにいう倉田に対して、少しも動じず、井筒は質問を重ねていく。
「ということは、どこから持ってきたんだ?」
「それをあんたにいう必要性はないわね」
「……サークル会館の周りにあった猫除けか?」
「…………知ってるなら聞かないでよね」
なるほどな、と井筒は独りごちた。無論猫除けのことなど、全く知らない。カマをかけてみただけだが、正解だったようだ。倉田本人は教えてくれそうにないので、井筒は冷静に頭の中で情報を処理していく。倉田は猫好きだ、いつもサークル会館のところにいる野良猫を愛でている様子を見る。ということは、恐らく倉田は何者かが設置した猫除けのペットボトルが猫好きとしては許すことができず、今こうして持ってきてしまったということだろう。だが、まだ足りない。情報をもっと聞き出したいため、井筒はさらにカマをかける。
「だけど、そんな風に勝手に持ち出していいのか? 学校側がやったものかもしれないぞ? それにずいぶん前からあるものみたいだし」
「はあ? 何言ってんの? これが置かれたのはここ最近一週間くらい前からよ。それに用務員の人にはちゃんと確認を取ったわ。そしたらこっちで置いたものじゃないって。あんたと違って手芸部に迷惑かけてないから、余計な勘繰りはやめてよね」
「はは、耳が痛いな」
ひとしきり言い終わると、倉田は肩を怒らせながら部室へと向かっていった。ペットボトルはどうするのか気になったが、まあいい、と井筒は割り切って、会話に全く入ってこなかった綾坂に話を振った。
「相変わらず、人見知りが激しいなお前」
「放っとけ」
「倉田とは会ったことがあるだろう? お前の依頼の時に」
「だから嫌なんだよ」
いつもと違う綾坂を井筒は怪訝に思ったが、「それで何か分かったのか?」という綾坂の一言で思考を中断した。
「ああ、少しな。だけど、肝心な部分がまだだ。犯人もその動機も、な」
「つーことは猫除けをしたのも同じ犯人だとお前は思ってるのか?」
「ああ、多分な。証拠はないけど」
今度は綾坂が首を傾げる番だった。どうしてこいつは自信があるのだろうか? 問い詰めようとすると、小気味のいいリズムが鳴り響いた。音の発生源はどうやら井筒のポケットの中からのようだ。
「悪い、綾瀬先輩からだ」
そういって井筒はポケットから取り出した携帯を耳に押し当てた。綾坂はああ、と言い自分にも聞こえるように耳を澄ませた。すると、井筒は綾坂に悪いと思ったのか、ハンドフリーモードにして地面に置いた。
「もしもし綾瀬先輩。どうしたんですか?」
井筒がそう呼びかけると返ってきたのは、ぐすっぐすっという泣き声だった。
「綾瀬先輩! 一体何が!」
「あー、お前が井筒ってやつか?」
ようやく返ってきたのは、期待していた声ではなく見知らぬ男の声であった。予想だにしない展開に思わず井筒も綾坂も息をのんだ。
「誰だ! お前は!? 綾瀬先輩に何をした!」
「あー、勘違いすんな。この女が行動不能になったから俺が代わりに出ているだけだ。だから別に誘拐とかじゃない。それに名乗りたくもない。俺はしがない通行人Aだ。用件だけ先にいうぞ」
矢継ぎ早に話す男に困惑する二人。誘拐じゃないとすると相手の意図がわからない、ここはひとまず落ち着いて相手の出方を伺った方がいい。そう判断した井筒と綾坂は、何だ、と先を促した。
「猫が殺されてる。それもかなりグロテスクな方法でな。腹を割かれて頭部がもがれている」
内容にも、淡々とした相手の言い様にもぞっとして冷や汗が二人の背中を伝った。井筒はやっとの思いで声を絞り出した。
「それを綾瀬先輩とお前が見つけたのか? 場所は何処だ?」
声の震えを感じ取ったのか、はん、と鼻で笑いながら相手の男は答えた。
「大学の図書館の前にある茂みの中さ。因みに第一発見者は多分ここにいる……綾瀬? っていう女だ。俺はこいつが茂みの中に入っていくのをみて、気になってついてきたんだよ」
「そうか、ありがとう。あとは俺たちが警察に連絡したあと、現場に向かう。だからそれまで……………………」
突然の来訪者に驚きながらも、井筒は疑問を投げかけた。
「あんたには、関係ない。ていうかそこ邪魔。なんでサークル会館の階段を二人してふさいでるの?」
それは質問というよりもむしろ恫喝に似たものがあったが、倉田のその怒りはもっともだったので井筒は、「悪い」と謝り道を譲った。すると、そこをふん、と鼻を鳴らしながら倉田は通っていった。その様子に思わずたじろぎながらも、倉田の背中に井筒は質問を投げかけた。
「……そのペットボトルはお前が一人で飲むのか?」
「ばっっっかじゃないの! こんな大量に買い込むわけないじゃない」
呆れたようにいう倉田に対して、少しも動じず、井筒は質問を重ねていく。
「ということは、どこから持ってきたんだ?」
「それをあんたにいう必要性はないわね」
「……サークル会館の周りにあった猫除けか?」
「…………知ってるなら聞かないでよね」
なるほどな、と井筒は独りごちた。無論猫除けのことなど、全く知らない。カマをかけてみただけだが、正解だったようだ。倉田本人は教えてくれそうにないので、井筒は冷静に頭の中で情報を処理していく。倉田は猫好きだ、いつもサークル会館のところにいる野良猫を愛でている様子を見る。ということは、恐らく倉田は何者かが設置した猫除けのペットボトルが猫好きとしては許すことができず、今こうして持ってきてしまったということだろう。だが、まだ足りない。情報をもっと聞き出したいため、井筒はさらにカマをかける。
「だけど、そんな風に勝手に持ち出していいのか? 学校側がやったものかもしれないぞ? それにずいぶん前からあるものみたいだし」
「はあ? 何言ってんの? これが置かれたのはここ最近一週間くらい前からよ。それに用務員の人にはちゃんと確認を取ったわ。そしたらこっちで置いたものじゃないって。あんたと違って手芸部に迷惑かけてないから、余計な勘繰りはやめてよね」
「はは、耳が痛いな」
ひとしきり言い終わると、倉田は肩を怒らせながら部室へと向かっていった。ペットボトルはどうするのか気になったが、まあいい、と井筒は割り切って、会話に全く入ってこなかった綾坂に話を振った。
「相変わらず、人見知りが激しいなお前」
「放っとけ」
「倉田とは会ったことがあるだろう? お前の依頼の時に」
「だから嫌なんだよ」
いつもと違う綾坂を井筒は怪訝に思ったが、「それで何か分かったのか?」という綾坂の一言で思考を中断した。
「ああ、少しな。だけど、肝心な部分がまだだ。犯人もその動機も、な」
「つーことは猫除けをしたのも同じ犯人だとお前は思ってるのか?」
「ああ、多分な。証拠はないけど」
今度は綾坂が首を傾げる番だった。どうしてこいつは自信があるのだろうか? 問い詰めようとすると、小気味のいいリズムが鳴り響いた。音の発生源はどうやら井筒のポケットの中からのようだ。
「悪い、綾瀬先輩からだ」
そういって井筒はポケットから取り出した携帯を耳に押し当てた。綾坂はああ、と言い自分にも聞こえるように耳を澄ませた。すると、井筒は綾坂に悪いと思ったのか、ハンドフリーモードにして地面に置いた。
「もしもし綾瀬先輩。どうしたんですか?」
井筒がそう呼びかけると返ってきたのは、ぐすっぐすっという泣き声だった。
「綾瀬先輩! 一体何が!」
「あー、お前が井筒ってやつか?」
ようやく返ってきたのは、期待していた声ではなく見知らぬ男の声であった。予想だにしない展開に思わず井筒も綾坂も息をのんだ。
「誰だ! お前は!? 綾瀬先輩に何をした!」
「あー、勘違いすんな。この女が行動不能になったから俺が代わりに出ているだけだ。だから別に誘拐とかじゃない。それに名乗りたくもない。俺はしがない通行人Aだ。用件だけ先にいうぞ」
矢継ぎ早に話す男に困惑する二人。誘拐じゃないとすると相手の意図がわからない、ここはひとまず落ち着いて相手の出方を伺った方がいい。そう判断した井筒と綾坂は、何だ、と先を促した。
「猫が殺されてる。それもかなりグロテスクな方法でな。腹を割かれて頭部がもがれている」
内容にも、淡々とした相手の言い様にもぞっとして冷や汗が二人の背中を伝った。井筒はやっとの思いで声を絞り出した。
「それを綾瀬先輩とお前が見つけたのか? 場所は何処だ?」
声の震えを感じ取ったのか、はん、と鼻で笑いながら相手の男は答えた。
「大学の図書館の前にある茂みの中さ。因みに第一発見者は多分ここにいる……綾瀬? っていう女だ。俺はこいつが茂みの中に入っていくのをみて、気になってついてきたんだよ」
「そうか、ありがとう。あとは俺たちが警察に連絡したあと、現場に向かう。だからそれまで……………………」
「はははははははははははは」
井筒の言葉を遮るように相手の男はまるで威圧するように笑い声をあげた。
「警察う? おいおいつまらないこと言うなよ。たしかに警察ならすぐに解決できちまうかもなあ。だが、この事件を止められるのはお前しかいないんだぜ。井筒隆幸」
突然本名を言われて井筒は、な、と声をあげてしまった。
「気が変わった。俺は名乗っておくことにしよう。だが今回の事件は俺に関わりあうことはないだろう。だから、それが終わったらお前に会いに行く。無事に解決しろよ。井筒君」
じゃあな、といって相手は電話を切った。世界が動き出した、そう思わずにはいられないほど、この短時間に井筒の周りで多くのことが起こった。起こりすぎた。嫌な予感がする。願わくばこの右手の力を使うことがないように、と井筒は無意識のうちに左手で右手をきつく握りしめていた。
「警察う? おいおいつまらないこと言うなよ。たしかに警察ならすぐに解決できちまうかもなあ。だが、この事件を止められるのはお前しかいないんだぜ。井筒隆幸」
突然本名を言われて井筒は、な、と声をあげてしまった。
「気が変わった。俺は名乗っておくことにしよう。だが今回の事件は俺に関わりあうことはないだろう。だから、それが終わったらお前に会いに行く。無事に解決しろよ。井筒君」
じゃあな、といって相手は電話を切った。世界が動き出した、そう思わずにはいられないほど、この短時間に井筒の周りで多くのことが起こった。起こりすぎた。嫌な予感がする。願わくばこの右手の力を使うことがないように、と井筒は無意識のうちに左手で右手をきつく握りしめていた。
*
気づくとこいつが隣にいるということが当たり前になってきた。そしてこいつの膝の上にはよく猫がいる。私もよく知っている、サークル会館の周りでよく見かける猫だ。そいつの他にもよく猫がこいつの周りには集まってくる。そして実は犬好きであった私も毎日のように見ていたせいか、猫がいつしか好きなっていった。
猫を撫でてやると嬉しそうな声をあげて、にゃあ、と鳴く。それを聞いて私も彼も自然と笑顔になる。ずっとこんな時間が流れればいいのに、そう思った自分に不覚にも顔が熱くなる。
猫を撫でてやると嬉しそうな声をあげて、にゃあ、と鳴く。それを聞いて私も彼も自然と笑顔になる。ずっとこんな時間が流れればいいのに、そう思った自分に不覚にも顔が熱くなる。
猫と私、佐々木紘華を隔てるボーダーラインはもはや無くなっているに等しかった。