私は弧域くんの恋人で。
鉄ちゃんは弧域くんの親友のまま。
鉄ちゃんは弧域くんの親友のまま。
私達の関係はまた、同じ場所に戻ってきました。
私にとっては、やっと取り戻した、在るべき姿。
鉄ちゃんがどう感じているかは、想像するしかありません。
私にとっては、やっと取り戻した、在るべき姿。
鉄ちゃんがどう感じているかは、想像するしかありません。
「じゃあ姫乃、部活行ってくる」
「また明日ね、傘姫」
「また明日ね、傘姫」
弓道場へ向かう二人に私は、軽く、手を振りました。
私を置いて行ってしまう、弧域くんと鉄ちゃん。
手が触れそうな距離を並んで歩く、私の恋人と友人。
私を置いて行ってしまう、弧域くんと鉄ちゃん。
手が触れそうな距離を並んで歩く、私の恋人と友人。
二人だけになってから始まる、二人だけのおしゃべり。
話していることは聞こえなくても。
話していることは聞こえなくても。
笑い合う二人の横顔だけで、もう、たくさんでした。
十二話 『ルナティックヒロイン』
私が目の前に立ったというのに、この人は何ら悪びれることもなく、私の依頼を破ったことすら忘れてしまったかのように、平気な顔をして湯呑みを傾けました。
八幸助さんは物売屋の開け放たれた入り口、何も無い土間で番でもしている犬のように見えます。今は千早さんもミサキもいないみたいです。二人の不在は、いつもながら都合がいい。私がこうして人に聞かれたくないことをしに来る時、この人は必ず一人で店番をしているのです。何度訪れても、絶対に。
回数制限ではなく、お金を必要とする魔法のランプのようなお店、物売屋。
時々私は、この飄々とした冴えない人が、実は魔法使いなんじゃないかって、思ってしまいます。それにしては、貫禄がこれっぽっちも足りていませんが。
「やあ姫乃ちゃん。丁度暇だったんだよ、お茶でも」
「何度も言ってますよね、気安く呼ばないで下さい。私を名前で呼んでいいのは弧域くんだけです」
凄んでみせても、八幸助さんは、やれやれ今日も虫の居所が悪そうだ、と肩を竦めただけでした。私が意味も無く噛み付いていることなんて、きっと、この人はお見通しです。見た目はともかく、こういうところがハリー・ポッターのダンブルドア校長のよう……と言うと、ダンブルドア校長に失礼でしょうか。
なんでも見透かして、分かった風な口を聞く。
ハリー側からしてみれば、ヤキモキされながらも全幅の信頼を寄せることのできる偉大な人かもしれません。でも、そんな人の商売で被害を受けた私からしてみれば、信頼とは真逆のものしか生まれません。
人を掌の上で弄んで、馬鹿にして、湯呑みを持つその手で悩む人をどん底まで突き落として、その上お金までむしり取る、極悪人。
この人がお金儲けのために物売屋を開いているとは、思いません。汗を流して働いているところは見たことがないし、たまに商売の場面に立ち会うこともありますが、依頼一回あたりの収入は、大きなばらつきこそあれ微々たるもの。宣伝をするでもない。人通りのない路地裏という最悪な立地条件。おまけにお茶を飲んでばっかりのアルバイトにだって、ちゃんと給料を払っているようです。
寿家がお金に困っている様子もありませんし、じゃあ、この人は果たして、【何者なのでしょう】。
人見知りをする私がこの人に強く当たれるのは、この不可思議さがあるからだったりします。世間離れというか、浮世離れというか、何処か別の世界からやって来た人に、わざわざ気を使う必要もないかな、と思ってしまうのです。
ますます、魔法の世界を信じたくなってしまう私でした。
八幸助さんの隣に座るよう促されましたが、私は正面から動きません。
「僕みたいなおじさんと世間話をしに来てくれた、というわけではなさそうだね、一ノ傘君。また今日も仕事の依頼をしてくれるのかな」
「ごまかさないで下さい。まだ前の依頼が終わってません」
「前の? はてはて……」
すっとぼけて、ズレたメガネを直した八幸助さんはジャージのポケットから古びた分厚いメモ帳を取り出しました。ページがすっかり変色してしまっていて、いったいそれが何年物なのかは想像もつきません。
しばらくパラパラと捲っていた手が止まり、開いたページを覗き込む八幸助さんでしたが、その動作がわざとらしく見えて私をイラつかせます。
「いや、心配しなくていい。確かに終わっているよ。依頼完了、ミッションコンプリートだ」
「終わってないからここに来たんです。コタマは確かに壊れましたけど、壊したのは弧域くんじゃなくて別人でした」
「別人? 誰のことだい」
「言ったじゃないですか、私に協力してくれた子ですよ」
胡散臭いお店でも、秘密だけは絶対に守るからこそ、私は計画の中にこのお店を組み込んだんです。……といっても計画なんて大それたものじゃなくて、あの子達にちょっと計画の手伝いをお願いしたりと、いい加減な部分もありますが。
でも結局、あの子達は【やりすぎました】。そこは私の不手際だったかもしれません。
一度、私と鉄ちゃんが神姫センターのフリースペースで話すところを見せて、現実味を持ってもらおうとしたのですが、その後であの子達は何に感化されたのか、無償で手伝うと言い出したのでした。その時、見ず知らずの子に体を触らせないで済むなら万々歳、くらいに考えていた自分を呪いたい。不要な正義感を持たれるくらいなら、お尻の一つや二つ触らせて、無理矢理にでも共犯者にしてしまえば、こんなことにはならなかったのかもしれません。
他にもインターネットの掲示板で煽ってみたり、鉄ちゃんが弧域くんに近づきやすくなるようにわざと身を引いたりしたのに、あの子達のせいで、全部、水の泡。
「でも実行犯が誰とか、そんな話じゃないです。何故、弧域くんじゃなかったんですかって聞いてるんです。私、依頼しましたよね? 『弧域くんにコタマを壊させる』って、10万も払って」
「だから実行犯は誰って、そういう話だろう? 誰がコタマに靴跡をつけたとしても、背比君は自分がやったようなものだと自責していたようだね」
「言い訳にもなってません。弧域くんは無意味に悔やんだだけじゃないですか」
「そうは言ってもね、姫……こほん、一ノ傘君。どうやら物売屋のシステムをよく知らないようだから、改めて教えてあげよう。次の依頼はこのことを踏まえて代金を払ってくれると嬉しいね」
「次なんてありません。このお店のシステムなんて知る必要、ないです」
「はっはっは、そう言わずに今後ともご贔屓にお願いしたいね。じゃあ簡潔に教えようか」
八幸助さんは開いたままだったメモ帳のページを私に見せました。といっても開いたページの左上の行に日付、時刻、私の名前、依頼内容、三角と丸マークが汚い字で小さく書かれただけで、それ以外は何も書かれていませんでした。このメモ帳はたぶん依頼されたことをメモしておくものなのでしょうから、あの日から何も書き足されていないということは……
「このお店、本当にお客さんが来ないんですね」
「違う違う、まったく酷いことを言うなあ。見せる必要のない部分は一時的に消しているだけだよ。今時はメモ帳にもセキュリティを、って風潮だからね」
そんな風潮は聞いたことがないし、メモ帳はとてもじゃないけど今時買ったものには見えません。いつのまにか字を消したこと、あの日以降もお客さんが来たこと、どちらかが嘘なんでしょうけど、今はどうでもいいことなので、気にしないことにしました。
改めてメモをまじまじと見てみるけど、書かれたこと以上のことは分かりません。
「で、これが何なんですか」
「見えないのかい、ここに三角と……って、そうか、お客さんにこれを見せたってしょうがないか。あっはっは、いやいや失礼。この手帳の中は鉄子君どころか千早さんにも見せたことがないんだった」
私、馬鹿にされてます。
「そう怖い顔をしないで、ちゃんと説明するから――この場所にはね、依頼の達成状況によるマークを書くんだ。マルが完了、バツが未完了、といった具合にね。どうだい、これなら引き受けた依頼を忘れることはないだろう。ISOを取得しようとしたら門前払いされたけどね」
「そんなこと知りません。それより三角は」
「料金不足による検討」
キッパリと、八幸助さんは言いました。
私が小心者だからでしょうか、不足と言われると悪いことをしたような錯覚に陥ってしまいます。その言葉だけで責められているようで、私は無意識のうちに後退っていました。
当然、八幸助さんは私を責めようとも、ましてや、さらにお金をむしり取ろうともしません。この人はあくまで、あるがままを伝えるだけです。だから、苦手なんです。
「物売屋は先払いだからね、貰った金額と依頼内容の困難度合いに差ができることがあるのさ。多い分には構わない。千早さんの衝動買いの足しになるだけだからね。でも少なかったら? その時は再度、依頼内容を検討するのさ。予算内で出来ることをね。そして検討結果を実行に移して初めて、三角の横に丸を書くことができる」
「お金が足りないのなら、どうしてそう判明した時に連絡しないんですか。中途半端に払うくらいならキャンセルするなり、追加だって払うかもしれないのに」
「キャンセルも追加費用も受け付けてないよ。お客さんにそこまでの自由を持たせてしまえば商売あがったりだからね」
勿論クーリングオフは受け付けるけど、と言った八幸助さんはメモ帳を閉じて、再びジャージのポケットにそれをねじ込みました。
大きくもないポケットに入ったメモ帳のせいでポケットが四角い形になったのですが、それを見て私は、何か違和感を覚えました。何が変なのかは分かりませんし、八幸助さんを含む土間の中を見回してみても、特に目を引くものはありませんでした。といっても元々土間にはサンダルと箒、ビニール袋を被せた石油ストーブくらいしかありませんが。
何かが違う、ような気がする、けど、その何かが分からない。
「探し物かい? それなら居間に何かあるかもしれないよ。一ノ傘君と千早さんの趣味が合えば、の話だけど」
「いえ、このお店の居心地が悪くなってきただけです……って、そんなことじゃなくて」
「そんなこと、が商店にとっては死活問題なんだけどね――結局のところ、一ノ傘君は何が言いたいんだい。このままでは埒があかないからね、試しに思ったとおりのことを口に出してみるといい。この店の商品はファジィなものだからね、曖昧な依頼こそ得意とするところだ」
「ふぁじぃ?」
「鉄子君と一緒に制御分野の勉強をしているんだろう。聞いたことないのかい」
「まだ習ってないです」
「そんなはずはないんだけどなぁ。まあいいさ、今ここで話すべきは一ノ傘君のありのままの欲求さ。さあ、聞かせてくれ。枕元のぬいぐるみに愚痴をこぼすようにね」
ふと気づくと私は、八幸助さんの隣に腰を下ろしていました。立ち疲れていたから座りたかったものあるけど、数秒前を思い返すことで促されたことに気付いたくらい、八幸助さんの誘導は自然でした。
一度座ってしまえば反発して再び立つのもばかばかしいし、せめてもの抵抗で体を少し八幸助さんから遠ざけました。
居間に背を向けて座ると、土間の空っぽな広さがより強調されたように見えます。大きく開け放たれた入り口の外は細い路地で、その対岸にあるのは色褪せたブロック塀と、電柱だけ。
今は日が沈んで、電柱に灯る電球がうすぼんやりと道路を照らしています。ブラウスだけでは少し肌寒くなってきました。
「や、いつの間にか暗くなってるじゃないか」
立ち上がった八幸助さんが壁のスイッチに手を伸ばすと、天井からぶら下がった数本の電球が土間を淡く照らします。橙がかった灯りが木造の壁の木目や柱の傷を強調して、私は昭和の時代くらいにタイムトラベルしてしまったような気分になるのでした。数匹の小さな蛾が外から入ってきて、何が楽しいのか電球の周りを飛び回ります。
「失礼。それじゃあ、聞かせてくれるね」
座った時のように、促されるまま、私は口を開きました。
八幸助さんは物売屋の開け放たれた入り口、何も無い土間で番でもしている犬のように見えます。今は千早さんもミサキもいないみたいです。二人の不在は、いつもながら都合がいい。私がこうして人に聞かれたくないことをしに来る時、この人は必ず一人で店番をしているのです。何度訪れても、絶対に。
回数制限ではなく、お金を必要とする魔法のランプのようなお店、物売屋。
時々私は、この飄々とした冴えない人が、実は魔法使いなんじゃないかって、思ってしまいます。それにしては、貫禄がこれっぽっちも足りていませんが。
「やあ姫乃ちゃん。丁度暇だったんだよ、お茶でも」
「何度も言ってますよね、気安く呼ばないで下さい。私を名前で呼んでいいのは弧域くんだけです」
凄んでみせても、八幸助さんは、やれやれ今日も虫の居所が悪そうだ、と肩を竦めただけでした。私が意味も無く噛み付いていることなんて、きっと、この人はお見通しです。見た目はともかく、こういうところがハリー・ポッターのダンブルドア校長のよう……と言うと、ダンブルドア校長に失礼でしょうか。
なんでも見透かして、分かった風な口を聞く。
ハリー側からしてみれば、ヤキモキされながらも全幅の信頼を寄せることのできる偉大な人かもしれません。でも、そんな人の商売で被害を受けた私からしてみれば、信頼とは真逆のものしか生まれません。
人を掌の上で弄んで、馬鹿にして、湯呑みを持つその手で悩む人をどん底まで突き落として、その上お金までむしり取る、極悪人。
この人がお金儲けのために物売屋を開いているとは、思いません。汗を流して働いているところは見たことがないし、たまに商売の場面に立ち会うこともありますが、依頼一回あたりの収入は、大きなばらつきこそあれ微々たるもの。宣伝をするでもない。人通りのない路地裏という最悪な立地条件。おまけにお茶を飲んでばっかりのアルバイトにだって、ちゃんと給料を払っているようです。
寿家がお金に困っている様子もありませんし、じゃあ、この人は果たして、【何者なのでしょう】。
人見知りをする私がこの人に強く当たれるのは、この不可思議さがあるからだったりします。世間離れというか、浮世離れというか、何処か別の世界からやって来た人に、わざわざ気を使う必要もないかな、と思ってしまうのです。
ますます、魔法の世界を信じたくなってしまう私でした。
八幸助さんの隣に座るよう促されましたが、私は正面から動きません。
「僕みたいなおじさんと世間話をしに来てくれた、というわけではなさそうだね、一ノ傘君。また今日も仕事の依頼をしてくれるのかな」
「ごまかさないで下さい。まだ前の依頼が終わってません」
「前の? はてはて……」
すっとぼけて、ズレたメガネを直した八幸助さんはジャージのポケットから古びた分厚いメモ帳を取り出しました。ページがすっかり変色してしまっていて、いったいそれが何年物なのかは想像もつきません。
しばらくパラパラと捲っていた手が止まり、開いたページを覗き込む八幸助さんでしたが、その動作がわざとらしく見えて私をイラつかせます。
「いや、心配しなくていい。確かに終わっているよ。依頼完了、ミッションコンプリートだ」
「終わってないからここに来たんです。コタマは確かに壊れましたけど、壊したのは弧域くんじゃなくて別人でした」
「別人? 誰のことだい」
「言ったじゃないですか、私に協力してくれた子ですよ」
胡散臭いお店でも、秘密だけは絶対に守るからこそ、私は計画の中にこのお店を組み込んだんです。……といっても計画なんて大それたものじゃなくて、あの子達にちょっと計画の手伝いをお願いしたりと、いい加減な部分もありますが。
でも結局、あの子達は【やりすぎました】。そこは私の不手際だったかもしれません。
一度、私と鉄ちゃんが神姫センターのフリースペースで話すところを見せて、現実味を持ってもらおうとしたのですが、その後であの子達は何に感化されたのか、無償で手伝うと言い出したのでした。その時、見ず知らずの子に体を触らせないで済むなら万々歳、くらいに考えていた自分を呪いたい。不要な正義感を持たれるくらいなら、お尻の一つや二つ触らせて、無理矢理にでも共犯者にしてしまえば、こんなことにはならなかったのかもしれません。
他にもインターネットの掲示板で煽ってみたり、鉄ちゃんが弧域くんに近づきやすくなるようにわざと身を引いたりしたのに、あの子達のせいで、全部、水の泡。
「でも実行犯が誰とか、そんな話じゃないです。何故、弧域くんじゃなかったんですかって聞いてるんです。私、依頼しましたよね? 『弧域くんにコタマを壊させる』って、10万も払って」
「だから実行犯は誰って、そういう話だろう? 誰がコタマに靴跡をつけたとしても、背比君は自分がやったようなものだと自責していたようだね」
「言い訳にもなってません。弧域くんは無意味に悔やんだだけじゃないですか」
「そうは言ってもね、姫……こほん、一ノ傘君。どうやら物売屋のシステムをよく知らないようだから、改めて教えてあげよう。次の依頼はこのことを踏まえて代金を払ってくれると嬉しいね」
「次なんてありません。このお店のシステムなんて知る必要、ないです」
「はっはっは、そう言わずに今後ともご贔屓にお願いしたいね。じゃあ簡潔に教えようか」
八幸助さんは開いたままだったメモ帳のページを私に見せました。といっても開いたページの左上の行に日付、時刻、私の名前、依頼内容、三角と丸マークが汚い字で小さく書かれただけで、それ以外は何も書かれていませんでした。このメモ帳はたぶん依頼されたことをメモしておくものなのでしょうから、あの日から何も書き足されていないということは……
「このお店、本当にお客さんが来ないんですね」
「違う違う、まったく酷いことを言うなあ。見せる必要のない部分は一時的に消しているだけだよ。今時はメモ帳にもセキュリティを、って風潮だからね」
そんな風潮は聞いたことがないし、メモ帳はとてもじゃないけど今時買ったものには見えません。いつのまにか字を消したこと、あの日以降もお客さんが来たこと、どちらかが嘘なんでしょうけど、今はどうでもいいことなので、気にしないことにしました。
改めてメモをまじまじと見てみるけど、書かれたこと以上のことは分かりません。
「で、これが何なんですか」
「見えないのかい、ここに三角と……って、そうか、お客さんにこれを見せたってしょうがないか。あっはっは、いやいや失礼。この手帳の中は鉄子君どころか千早さんにも見せたことがないんだった」
私、馬鹿にされてます。
「そう怖い顔をしないで、ちゃんと説明するから――この場所にはね、依頼の達成状況によるマークを書くんだ。マルが完了、バツが未完了、といった具合にね。どうだい、これなら引き受けた依頼を忘れることはないだろう。ISOを取得しようとしたら門前払いされたけどね」
「そんなこと知りません。それより三角は」
「料金不足による検討」
キッパリと、八幸助さんは言いました。
私が小心者だからでしょうか、不足と言われると悪いことをしたような錯覚に陥ってしまいます。その言葉だけで責められているようで、私は無意識のうちに後退っていました。
当然、八幸助さんは私を責めようとも、ましてや、さらにお金をむしり取ろうともしません。この人はあくまで、あるがままを伝えるだけです。だから、苦手なんです。
「物売屋は先払いだからね、貰った金額と依頼内容の困難度合いに差ができることがあるのさ。多い分には構わない。千早さんの衝動買いの足しになるだけだからね。でも少なかったら? その時は再度、依頼内容を検討するのさ。予算内で出来ることをね。そして検討結果を実行に移して初めて、三角の横に丸を書くことができる」
「お金が足りないのなら、どうしてそう判明した時に連絡しないんですか。中途半端に払うくらいならキャンセルするなり、追加だって払うかもしれないのに」
「キャンセルも追加費用も受け付けてないよ。お客さんにそこまでの自由を持たせてしまえば商売あがったりだからね」
勿論クーリングオフは受け付けるけど、と言った八幸助さんはメモ帳を閉じて、再びジャージのポケットにそれをねじ込みました。
大きくもないポケットに入ったメモ帳のせいでポケットが四角い形になったのですが、それを見て私は、何か違和感を覚えました。何が変なのかは分かりませんし、八幸助さんを含む土間の中を見回してみても、特に目を引くものはありませんでした。といっても元々土間にはサンダルと箒、ビニール袋を被せた石油ストーブくらいしかありませんが。
何かが違う、ような気がする、けど、その何かが分からない。
「探し物かい? それなら居間に何かあるかもしれないよ。一ノ傘君と千早さんの趣味が合えば、の話だけど」
「いえ、このお店の居心地が悪くなってきただけです……って、そんなことじゃなくて」
「そんなこと、が商店にとっては死活問題なんだけどね――結局のところ、一ノ傘君は何が言いたいんだい。このままでは埒があかないからね、試しに思ったとおりのことを口に出してみるといい。この店の商品はファジィなものだからね、曖昧な依頼こそ得意とするところだ」
「ふぁじぃ?」
「鉄子君と一緒に制御分野の勉強をしているんだろう。聞いたことないのかい」
「まだ習ってないです」
「そんなはずはないんだけどなぁ。まあいいさ、今ここで話すべきは一ノ傘君のありのままの欲求さ。さあ、聞かせてくれ。枕元のぬいぐるみに愚痴をこぼすようにね」
ふと気づくと私は、八幸助さんの隣に腰を下ろしていました。立ち疲れていたから座りたかったものあるけど、数秒前を思い返すことで促されたことに気付いたくらい、八幸助さんの誘導は自然でした。
一度座ってしまえば反発して再び立つのもばかばかしいし、せめてもの抵抗で体を少し八幸助さんから遠ざけました。
居間に背を向けて座ると、土間の空っぽな広さがより強調されたように見えます。大きく開け放たれた入り口の外は細い路地で、その対岸にあるのは色褪せたブロック塀と、電柱だけ。
今は日が沈んで、電柱に灯る電球がうすぼんやりと道路を照らしています。ブラウスだけでは少し肌寒くなってきました。
「や、いつの間にか暗くなってるじゃないか」
立ち上がった八幸助さんが壁のスイッチに手を伸ばすと、天井からぶら下がった数本の電球が土間を淡く照らします。橙がかった灯りが木造の壁の木目や柱の傷を強調して、私は昭和の時代くらいにタイムトラベルしてしまったような気分になるのでした。数匹の小さな蛾が外から入ってきて、何が楽しいのか電球の周りを飛び回ります。
「失礼。それじゃあ、聞かせてくれるね」
座った時のように、促されるまま、私は口を開きました。
弧域くんが私の恋人でいてくれてさえいれば、他に何もいらない。そう思っていたのは間違いありませんが、それは間違っていました。モヤモヤと、何かが足りないと感づいていたのですが、それがハッキリしたのは昨日のことでした。
エルやコタマ達が戦う姿を見ている時、弧域くんは、すごく、楽しそうでした。
サレンダーしてコタマとマシロは負けたけど、鉄ちゃんも、すごく楽しそうでした。
筐体の中を食い入るように見つめていたかと思うと、目を合わせ、言葉を交わし、笑いあう二人は、すごく、すごく、すごくすごくすごく、楽しそうでした。
目を逸らしても、気付きたくないから余計に意識してしまって、それは確信に変わってしまいます。そして一度確信してしまえば、後に見えるものはもう、確信を絶対のものに決めてしまう材料にしかなりません。
エルやコタマ達が戦う姿を見ている時、弧域くんは、すごく、楽しそうでした。
サレンダーしてコタマとマシロは負けたけど、鉄ちゃんも、すごく楽しそうでした。
筐体の中を食い入るように見つめていたかと思うと、目を合わせ、言葉を交わし、笑いあう二人は、すごく、すごく、すごくすごくすごく、楽しそうでした。
目を逸らしても、気付きたくないから余計に意識してしまって、それは確信に変わってしまいます。そして一度確信してしまえば、後に見えるものはもう、確信を絶対のものに決めてしまう材料にしかなりません。
あんなに楽しそうな弧域くんは、見たことがありません。
あんなに幸せそうな笑い方をする弧域君なんて、知りません。
あんなに面白そうな話を私にしてくれたことなんて、ありません。
あんなに無邪気になれる弧域くんなんて、聞いたことがありません。
あんなに嬉しそうに勝利を喜ぶのに、私と分かち合ってはくれません。
あんなに純粋な好意を持っているのに、受け取ったことはありません。
あんなに優しく傷心の女の子を支えられるなんて、想像したこともありません。
あんなに幸せそうな笑い方をする弧域君なんて、知りません。
あんなに面白そうな話を私にしてくれたことなんて、ありません。
あんなに無邪気になれる弧域くんなんて、聞いたことがありません。
あんなに嬉しそうに勝利を喜ぶのに、私と分かち合ってはくれません。
あんなに純粋な好意を持っているのに、受け取ったことはありません。
あんなに優しく傷心の女の子を支えられるなんて、想像したこともありません。
鉄ちゃんは、私が何を代償にしてでも手に入れたいものを、たったの一日ですべて、いとも簡単に、弧域くんから受け取りました。神姫を持たない私は、蚊帳の外でした。たくさんの神姫が集まって戦っているという他人事を、なんとなく眺めているだけでした。その間、弧域くんは私が側にいることも忘れ、鉄ちゃんにありったけのものを与えてたのです。
優しく細められた弧域くんの目は、人を好きになった時だけ持つことができる輝きで溢れていました。
優しく細められた弧域くんの目は、人を好きになった時だけ持つことができる輝きで溢れていました。
あんなに美しい目で私を見てくれたことなんて、ありません。
馬鹿みたいです。
鉄ちゃんは壊れたコタマを元に戻し、弧域くんの心を掴みました。それに比べて私は、自分の手でニーキを壊し、友人に恋人を奪われました。
弧域くんはこれからも、私に 「愛している」 と言ってくれるでしょう。 「俺には姫乃しかいない」 と、はっきり言ってくれるでしょう。もう心が私の方を向いていなくたって、義理を立てるためだけに、私に嘘を吐き続けるんです。寄り添って甘い言葉を並べていれば一ノ傘姫乃は満足すると、私のことを少し手間のかかる人形くらいにしか考えてくれません。
弧域くんにとって私は、神姫のような都合の良いモノだったんです。無条件に自分を好んでくれて、放っておいても近づいてくれて、求めれば必ず応えてくれる、操り人形。踏めば簡単に壊れてしまう神姫のように、私もいつか、そう遠くない将来、捨てられます。
私はどこで間違えたんでしょう。ただ、やっと掴んだ自分の幸せを守りたかっただけなのに、守れたものは何一つなくて、失ってばかりです。私だけを見てくれる弧域くんも、愚痴を聞いてくれるニーキも、私の手からずっと遠く離れたところに行ってしまいました。
人から咎められることもしました。それは言い逃れできません。だからって、すべてが裏目に出て、何一つ報われなくて、不幸になるばかりだなんて、あんまりです。
あるいは、これは、ニーキの呪いかもしれません。
おもちゃ屋さんで見かけたレミリアが可愛くて、ストラーフ型神姫が欲しくなった、それだけの理由でした。ぬいぐるみを買う気軽さで私の元にやって来たニーキは、こんな無責任な私に無条件の信頼を寄せてくれました。
私にとってニーキは、都合の良いモノだったんです。無条件に自分を好んでくれて、放っておいても近づいてくれて、求めれば必ず応えてくれる、操り人形。その姿は紛れも無く私自身の鏡写しだったと、今更になって気づきました。
いえ、きっと私は意識の奥底では気付いていたんです。私と心を同じくするはずのニーキが綺麗事を言うことに嫌悪して、私の手は躊躇なくニーキの首を千切ったんだと思います。
あの時の感触は今も、はっきりと掌に残っています。非力な私でも容易く千切ることができた、細すぎる首。私が頭と体を掴んでも、ニーキは逃れようとはせず、されるがままでした。
私の写し身だったニーキは、依存していた相手に捨てられました。
だから、次は私の番、なんです
悪魔型神姫の、悪魔らしい呪い。同じ存在ならば、辿る道もまた同じ。
邪魔になったガラクタをゴミ袋に放り込むように、ニーキを捨てた、私。
弧域くんも、邪魔になった私を、適当な言い訳を添えて捨てるでしょう。
鉄ちゃんは壊れたコタマを元に戻し、弧域くんの心を掴みました。それに比べて私は、自分の手でニーキを壊し、友人に恋人を奪われました。
弧域くんはこれからも、私に 「愛している」 と言ってくれるでしょう。 「俺には姫乃しかいない」 と、はっきり言ってくれるでしょう。もう心が私の方を向いていなくたって、義理を立てるためだけに、私に嘘を吐き続けるんです。寄り添って甘い言葉を並べていれば一ノ傘姫乃は満足すると、私のことを少し手間のかかる人形くらいにしか考えてくれません。
弧域くんにとって私は、神姫のような都合の良いモノだったんです。無条件に自分を好んでくれて、放っておいても近づいてくれて、求めれば必ず応えてくれる、操り人形。踏めば簡単に壊れてしまう神姫のように、私もいつか、そう遠くない将来、捨てられます。
私はどこで間違えたんでしょう。ただ、やっと掴んだ自分の幸せを守りたかっただけなのに、守れたものは何一つなくて、失ってばかりです。私だけを見てくれる弧域くんも、愚痴を聞いてくれるニーキも、私の手からずっと遠く離れたところに行ってしまいました。
人から咎められることもしました。それは言い逃れできません。だからって、すべてが裏目に出て、何一つ報われなくて、不幸になるばかりだなんて、あんまりです。
あるいは、これは、ニーキの呪いかもしれません。
おもちゃ屋さんで見かけたレミリアが可愛くて、ストラーフ型神姫が欲しくなった、それだけの理由でした。ぬいぐるみを買う気軽さで私の元にやって来たニーキは、こんな無責任な私に無条件の信頼を寄せてくれました。
私にとってニーキは、都合の良いモノだったんです。無条件に自分を好んでくれて、放っておいても近づいてくれて、求めれば必ず応えてくれる、操り人形。その姿は紛れも無く私自身の鏡写しだったと、今更になって気づきました。
いえ、きっと私は意識の奥底では気付いていたんです。私と心を同じくするはずのニーキが綺麗事を言うことに嫌悪して、私の手は躊躇なくニーキの首を千切ったんだと思います。
あの時の感触は今も、はっきりと掌に残っています。非力な私でも容易く千切ることができた、細すぎる首。私が頭と体を掴んでも、ニーキは逃れようとはせず、されるがままでした。
私の写し身だったニーキは、依存していた相手に捨てられました。
だから、次は私の番、なんです
悪魔型神姫の、悪魔らしい呪い。同じ存在ならば、辿る道もまた同じ。
邪魔になったガラクタをゴミ袋に放り込むように、ニーキを捨てた、私。
弧域くんも、邪魔になった私を、適当な言い訳を添えて捨てるでしょう。
私だって捨てられないように、いろいろ考えたんです。弧域くんと同棲を始めるのなんて、いいと思いませんか。今まで隣に住んでいたんですから生活はあんまり変わらないかもしれませんけど、壁一枚があるのと無いのじゃ全然違いますよね。じゃあ、一緒に済むならもう、私からプロポーズしちゃって戸籍上で繋がっちゃったほうが早いかもです。いえ、もちろん弧域くんから指輪を受け取りたいですよ。ロマンティックにプロポーズされるなんて夢みたいじゃないですか。弧域くんならどんな指輪を選んでくれると思います? どんな指輪でも、薬指で輝くそれって世界一の宝物ですよ。眺めているだけでも幸せになれるんです。でも、私からプロポーズしなきゃですから指輪は後のお楽しみに取っておくとして、弧域くんは意外といろいろ考えてますから、学生のうちはやめておこう、って言われるかもしれません。弧域くんが今やってるアルバイトの収入、いくらだと思います? なんと月6千円ですよ。家庭教師なんですけど、週1回1時間1,500円。もちろん私だってちゃんと働くつもりですけど、月6千円じゃお小遣いにもならないです。これじゃあ弧域くんが頭を縦に振ってくれるわけ、ないですよね。じゃあ、じゃあ、もう既成事実を作っちゃって弧域くんに何とかしてもらえばいいんです! 最初は元気な男の子がいいかな~、なんて期待してるんですけど、弧域くんはたぶん女の子が欲しいって言うはずなんですよ。どっちでも可愛いならそれでいいんですけど、私達、名前のことでケンカになりそうなんですよね。弧域くんは純日本風の名前が好きそうですけど、今の時代にそのセンスは古いですから、そうですねえ、例えば漢字で 『射美』 って書いて 『イルミ』 って読めば、弓道やってる弧域くんなら気に入ってくれると思うんです。ちゃんとした漢字を使ってますし響きも綺麗で、しかも男の子でも女の子でも使えそうな名前ですから、そういうの、弧域くんの好みに合うはずです。きっと毎日毎日、ヘトヘトになるまで働いて大変ですけど、射美の寝顔を見るだけで元気になれて、また明日もがんばろうって、言えるんです。
……弧域くんに捨てられたら、この幸せが、全部、無くなっちゃうんですよ。幸せは自分で掴むものだって言われますけど、強く掴もうとすればするほど、指の隙間から零れ落ちて、私の手には砂粒ひとつだって、残らないんです。掴もうなんて思わずに手を伸ばさなかったら、サラサラしててキラキラ光る砂に触れることもなくて、欲しくなることなんてなかったのに、ほんとうに馬鹿を見るだけですよね。
最初から弧域くんなんていないほうがまだ良かったって思っちゃう自分をどれだけ嫌悪したか、想像できますか? 幸せな未来なんて想像するから、崩れた時の絶望に耐えられなくなるんです。
弧域くんも、付き合いはじめてしばらくは私と同じことを考えてたんですよ。どうして自分みたいなのを好きになってくれたんだろう、って。二人で同じ不安を分かち合って、二人で一緒に乗り越えていこうって励まし合って、やっと本当の意味で両想いになれたと思ったのに。
全部、何もかも、ひとつも残さず、鉄ちゃんが奪っていくんです。
一緒に住む部屋も、結婚指輪も、射美も、全部、全部、全部。
私の手をすり抜けて、鉄ちゃんのものになるんです。
最初から弧域くんなんていないほうがまだ良かったって思っちゃう自分をどれだけ嫌悪したか、想像できますか? 幸せな未来なんて想像するから、崩れた時の絶望に耐えられなくなるんです。
弧域くんも、付き合いはじめてしばらくは私と同じことを考えてたんですよ。どうして自分みたいなのを好きになってくれたんだろう、って。二人で同じ不安を分かち合って、二人で一緒に乗り越えていこうって励まし合って、やっと本当の意味で両想いになれたと思ったのに。
全部、何もかも、ひとつも残さず、鉄ちゃんが奪っていくんです。
一緒に住む部屋も、結婚指輪も、射美も、全部、全部、全部。
私の手をすり抜けて、鉄ちゃんのものになるんです。
「じゃあ、もう……鉄ちゃんを殺すしかないじゃないですか」
「なるほどね。いやはや一ノ傘君、君は君自身のことを実に良く理解しているようだ――けれども、やれやれだと言わざるを得ないよ。君のような可愛らしいお嬢さんは、あまり物騒なことを言うものじゃないと進言したいね」
顎が痛くなるくらい話したというのに、八幸助さんはちっとも分かってくれていませんでした。何が 「君自身のことを実に良く理解している」 だか。見透かしたようなことを言っておいて、私のことなんて全然理解してないくせに。さっきまで良い聞き手だったというのに、聞いた振りをしながら右から左へ受け流していたようです。
「あなたに話した私が馬鹿でした。失礼します」
「まあまあ待ちたまえ」
立ち上がって帰ろうとすると、手首を掴まれました。ギュッと握られたわけではないので痛くありませんが、八幸助さんの手は手錠のように硬くて、振りほどこうとしてもビクともしません。筋肉があるようには見えない枯れ細った手なのに、どうして。
「離して下さい、止めたって無駄ですよ。もう殺すって決めましたから」
「一ノ傘君の話はよくよく分かってるつもりだよ。だから、今度は僕の話を少しくらい聞いてくれたっていいだろう」
手を振りほどけないどころか、八幸助さんの真っ直ぐ伸びた腕すら動かせませんでした。いくら私が非力だからって、こんなの、おかしいです。只ならぬものを感じて、渋々戻ろうとすると、鉄のように固かった手はあっさりと緩みました。逃げられそうにないので、大人しく元の位置に座りました。
「ありがとう。もう遅い時間だから、すぐに終わるよ――さて、一ノ傘君と鉄子君は友人関係にあったと、数分前の僕は記憶しているけどね」
「鉄ちゃんは今も大切な友達です。それは何も変わりません」
「一ノ傘君は友達を殺せるのかい。ただでさえ意図的にヒトの命を奪うことは難しいのに」
「躊躇うってことですか? そうですね、そうかもしれません」
昨日からバッグの底に潜ませていたものを取り出しました。危ないからタオルでグルグルに巻いていたのですが、ほどいてみると、刃に当たっていた部分が裂けていました。ちょっと高かったですけど、これだけ切れ味の良い包丁ならきっと、大した力を使わなくたって何でも切れちゃいます。
まだ一度も使っていない刃は銀細工よりも綺麗な銀色をしていて、灯りにかざすとその輝きがもっと引き立ちます。反射する光の強さがそのまま、切れ味の鋭さを表すようです。
「でも私にとってこれは、復讐でもなんでもない、ただの正当防衛なんです。だってそうでしょう、私は略奪されるんですから。あっちから手を出してきたんですから、私はちょっと精神が錯乱しちゃって、【たまたま持っていた】 この包丁で、やむを得ず、友達の鉄ちゃんを刺さないといけないんです。八幸助さんだって、そうじゃないんですか」
「と言うと?」
「もし千早さんを他の人に盗られそうになったら、どんな手段を使ってでも取り返しますよね」
千早さんを奪う気になれるような度量の大きな人がいればの話……とまでは言えませんでした。鉄ちゃんが神格化しているあの人を、私もすごいと思っています。本当です。嘘じゃないです。ただ、その方向性が、いささかアレですが。
「あり得ない事だけど、ご尤もだね。それくらいの覚悟がなければ誠実ではないと言う人もいるだろう。一ノ傘君の話を信じるのなら、彼はその努力を怠ったんだ」
人を愛し続けるには努力が必要になる、と似合いもしない台詞を吐く八幸助さん。
「いや、僕は一ノ傘君の 『事情』 も 『理屈』 も 『決意』 も、否定したいわけじゃないんだよ。物売屋の看板娘がいなくなるとしても、勿論寂しいことではあるけれど、だからといって一ノ傘君の幸せを取り戻す邪魔はできない。ところで、鉄子君を他界させた後はどうするつもりかな。まさか彼が匿ってくれると楽観していないだろうね」
「今日はそのお願いに来たんです。これで本当に最後ですよ」
私のバッグの中、包丁と一緒にしまっておいた封筒の中に、限られた時間で集められるだけ集めたお金が入っています。これを使ってしまえば、私の手元には1円玉の1枚すら残りません。残るのは借金だけ。といっても、時間がなかったので消費者金融や闇金を利用できたわけではなく(時間があっても学生の私が借りられるとは思いませんが)頼れるだけの知人にお金を借りたので、取り立てに追われるわけではありません。明日のご飯を買うお金が無いだけです。
どこかで落としてしまっていないか気が気でなくて、何度も中身を確かめなきゃいけなかったくらいの大金。コタマを壊す時は見当をつけて支払い、失敗しましたが、今回ばかりは失敗は許されないんです。見積もりをしてくれない物売屋に依頼する以上、払えるだけのお金を払うしかないんです。
法の目を掻い潜ろうとするのですから、どれだけお金があっても不安を拭いきることはできませんが……もう、後戻り、できないんです。
「依頼するのは――」
「ストップ。慌てない慌てない、まだ僕の話は終わってないよ一ノ傘君」
時間が過ぎれば過ぎるほど心に迷いが生まれそうなのに、八幸助さんは続け様に口を挟んできました。
「実はね、数日前に匿名希望君からある依頼を受けたんだよ。どんな依頼だと思う?」
「知るわけないじゃないですか。私と何か関係あるんですか」
戯言として聞いていたのですが、意外なことに、八幸助さんは深く頷きました。
「こういう内容さ――『近日中に一ノ傘姫乃が竹櫛鉄子を始末しようとする。だから殺意を好意にでも変えて、彼女の暴走を止めること』」
「…………」
「それともう一つ、匿名希望君から伝言を賜ってるよ。『金は適当に工面した。心配無用』」
「……誰ですか、その依頼者は」
「だから匿名希望君だよ。ここ最近、匿名希望の依頼者が多くてね」
「信じると思いますか、そんな話を」
八幸助さんのポーカーフェイスを覗き込んでも、嘘をついているかどうかは分かりません。だからといって、八幸助さん以外の誰にも話していないことなのに妨害しようとするなんて、出任せの嘘にしたってもう少しマシな話を作るべきです。
「じゃあさっきのメモ帳、見せて下さいよ」
「メモ帳? 何のことかな」
「とぼけないで下さい。私が来るより前に依頼があったんでしょう、だったらメモ帳に日付と依頼者の名前と、さっきの依頼内容が書かれてるはずじゃないですか」
無理矢理奪うつもりで八幸助さんのポケットに手を伸ばしました。ポケットのサイズに対して少々大きいメモ帳は、布の上からでも位置が分かりやすい……はずでした。
四角く形がついているはずのポケットは膨らんですらおらず、何も入っていませんでした。
「どこに隠したんですか」
「だから何のことだい、メモ帳が欲しいのかい? ああ、丁度昨日、新聞配達の人に貰ったものがあるから、持って帰ってもいいよ」
「違います、さっき私に見せたものです! 私の依頼はお金が足りなくて三角を付けたって言ったばかりじゃないですか!」
「おかしなことを言うなあ、一ノ傘君は」
包丁を持っていたおかげで、詰め寄って脅しているような格好になりましたが、それでも八幸助さんは包丁などまるで目に入っていないのか、眉ひとつ動かしません。
「お客さんの大切な情報を安易にメモ帳に記すなんてあり得ないよ。この店の自慢の一つは秘匿性だからね、預かった依頼はすべて僕の頭の中にある。少しだけ鉄子君にも預けているけどね、外に漏れる可能性があるとすれば僕か鉄子君の思考を解読された時だけだよ。それに、仮に一ノ傘君の言うメモ帳があったとして、その存在を君のような危うい子に教えるとでも?」
この時、私は初めて、この人がニヤリと笑った顔を見たのでした。人間が、こんなに気持ち悪い笑みをたたえることができるなんて、私は知りません。例えるなら、子供の頃に見てトラウマになったトランプのジョーカー。でも、あの口を大きく釣り上げて恐怖を植えつける道化師ですら、ここまで気持ち悪くなんて、ない。すべてを見透かして、騙して、弄んだことが、ほんの少し表面ににじみ出ただけで、この不快さと不気味さ。
物売屋をただの何でも屋と思ってた。この得体の知れない 【何か】 を、お金さえあれば魔法で願いを叶えるランプ程度としか考えていなくて、もう、取り返しがつかないくらい関わりすぎていた。この男はランプの魔人なんかじゃない――もっとおぞましい 【何か】 だった。
包丁を突きつけずにはいられない。足は正直で私の意思に反してジリジリと店の入り口の方へ下がっていき、上半身だけが置いていかれそうになる。
包丁を握り締める手が定まらず、みっともなく震えが止まらない。
「可愛いなあ一ノ傘君は。そんなへっぴり腰で僕を脅そうとするなんて、逆に同情を引こうと狙っているのかい?」
「あ、あなた、何者よ……!」
答えず、ついには大笑いした八幸助さんは立ち上がった。座っている姿しか見たことがないから、こんなに見上げるほどひょろ長い男だなんて知らなかった。
見上げる私に覆いかぶさるように、ゆっくりと近づいて来る。電球の灯りの影になった顔はのっぺりと黒い。でも気持ち悪く唇を歪めていることはハッキリと分かった。
気が振れそうになるほどの恐怖に耐え切れず入り口に駆け出した。でも木造の戸が目の前でひとりでにピシャリと閉まって行く手を遮る。はめ込まれた薄いガラスをいくら叩いても、戸が音を立てて揺れるだけで、割れるどころかヒビのひとつすら入らない。
戸の外の路地は暗いばかりで人の気配がない。ガラスは土間の姿を写して、大きな影が私の背後でどんどん大きくなっていった。
「や、やだ、助けて! 誰か!」
「花の女子大生に嫌われるのはショックだなあ。よし、こっそり記憶も消しておこうかな。明日から君は、鉄子君を溺愛して僕に姫乃ちゃんと呼ばせてくれる普通の女の子だ」
「いや、やめて……許して、ください……」
包丁が手からすり抜け、土の上に落ちた。拾えない。迫る影から目を逸らすことはおろか、まばたきすらできない。涙が滝のように溢れてきた。
耳元で心臓が鼓動しているみたいに、ドクンドクンという音ばかり聞こえる。
腰が抜けて、戸を背にズルズルとへたり込んだ。冷たい土にじわりと温かいものが広がった。
私はもう、馬鹿みたいに、何が悪かったのかも考えられないのに、許しを請うことしかできなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「なあに、心配はいらないさ。すぐに終わる」
ヌッと伸ばされた手は骨に皮を巻いただけであるかのように細くて、関節が出張っている。
「いやだ、いやだぁっ……!」
伸ばされた手が私の頭を掴んだ。
皺だらけの手の掌が、プツリと意識が切れる直前、私が最後に見たものだった。
「痛くないからね――じゃあ暫くの間、おやすみ」
顎が痛くなるくらい話したというのに、八幸助さんはちっとも分かってくれていませんでした。何が 「君自身のことを実に良く理解している」 だか。見透かしたようなことを言っておいて、私のことなんて全然理解してないくせに。さっきまで良い聞き手だったというのに、聞いた振りをしながら右から左へ受け流していたようです。
「あなたに話した私が馬鹿でした。失礼します」
「まあまあ待ちたまえ」
立ち上がって帰ろうとすると、手首を掴まれました。ギュッと握られたわけではないので痛くありませんが、八幸助さんの手は手錠のように硬くて、振りほどこうとしてもビクともしません。筋肉があるようには見えない枯れ細った手なのに、どうして。
「離して下さい、止めたって無駄ですよ。もう殺すって決めましたから」
「一ノ傘君の話はよくよく分かってるつもりだよ。だから、今度は僕の話を少しくらい聞いてくれたっていいだろう」
手を振りほどけないどころか、八幸助さんの真っ直ぐ伸びた腕すら動かせませんでした。いくら私が非力だからって、こんなの、おかしいです。只ならぬものを感じて、渋々戻ろうとすると、鉄のように固かった手はあっさりと緩みました。逃げられそうにないので、大人しく元の位置に座りました。
「ありがとう。もう遅い時間だから、すぐに終わるよ――さて、一ノ傘君と鉄子君は友人関係にあったと、数分前の僕は記憶しているけどね」
「鉄ちゃんは今も大切な友達です。それは何も変わりません」
「一ノ傘君は友達を殺せるのかい。ただでさえ意図的にヒトの命を奪うことは難しいのに」
「躊躇うってことですか? そうですね、そうかもしれません」
昨日からバッグの底に潜ませていたものを取り出しました。危ないからタオルでグルグルに巻いていたのですが、ほどいてみると、刃に当たっていた部分が裂けていました。ちょっと高かったですけど、これだけ切れ味の良い包丁ならきっと、大した力を使わなくたって何でも切れちゃいます。
まだ一度も使っていない刃は銀細工よりも綺麗な銀色をしていて、灯りにかざすとその輝きがもっと引き立ちます。反射する光の強さがそのまま、切れ味の鋭さを表すようです。
「でも私にとってこれは、復讐でもなんでもない、ただの正当防衛なんです。だってそうでしょう、私は略奪されるんですから。あっちから手を出してきたんですから、私はちょっと精神が錯乱しちゃって、【たまたま持っていた】 この包丁で、やむを得ず、友達の鉄ちゃんを刺さないといけないんです。八幸助さんだって、そうじゃないんですか」
「と言うと?」
「もし千早さんを他の人に盗られそうになったら、どんな手段を使ってでも取り返しますよね」
千早さんを奪う気になれるような度量の大きな人がいればの話……とまでは言えませんでした。鉄ちゃんが神格化しているあの人を、私もすごいと思っています。本当です。嘘じゃないです。ただ、その方向性が、いささかアレですが。
「あり得ない事だけど、ご尤もだね。それくらいの覚悟がなければ誠実ではないと言う人もいるだろう。一ノ傘君の話を信じるのなら、彼はその努力を怠ったんだ」
人を愛し続けるには努力が必要になる、と似合いもしない台詞を吐く八幸助さん。
「いや、僕は一ノ傘君の 『事情』 も 『理屈』 も 『決意』 も、否定したいわけじゃないんだよ。物売屋の看板娘がいなくなるとしても、勿論寂しいことではあるけれど、だからといって一ノ傘君の幸せを取り戻す邪魔はできない。ところで、鉄子君を他界させた後はどうするつもりかな。まさか彼が匿ってくれると楽観していないだろうね」
「今日はそのお願いに来たんです。これで本当に最後ですよ」
私のバッグの中、包丁と一緒にしまっておいた封筒の中に、限られた時間で集められるだけ集めたお金が入っています。これを使ってしまえば、私の手元には1円玉の1枚すら残りません。残るのは借金だけ。といっても、時間がなかったので消費者金融や闇金を利用できたわけではなく(時間があっても学生の私が借りられるとは思いませんが)頼れるだけの知人にお金を借りたので、取り立てに追われるわけではありません。明日のご飯を買うお金が無いだけです。
どこかで落としてしまっていないか気が気でなくて、何度も中身を確かめなきゃいけなかったくらいの大金。コタマを壊す時は見当をつけて支払い、失敗しましたが、今回ばかりは失敗は許されないんです。見積もりをしてくれない物売屋に依頼する以上、払えるだけのお金を払うしかないんです。
法の目を掻い潜ろうとするのですから、どれだけお金があっても不安を拭いきることはできませんが……もう、後戻り、できないんです。
「依頼するのは――」
「ストップ。慌てない慌てない、まだ僕の話は終わってないよ一ノ傘君」
時間が過ぎれば過ぎるほど心に迷いが生まれそうなのに、八幸助さんは続け様に口を挟んできました。
「実はね、数日前に匿名希望君からある依頼を受けたんだよ。どんな依頼だと思う?」
「知るわけないじゃないですか。私と何か関係あるんですか」
戯言として聞いていたのですが、意外なことに、八幸助さんは深く頷きました。
「こういう内容さ――『近日中に一ノ傘姫乃が竹櫛鉄子を始末しようとする。だから殺意を好意にでも変えて、彼女の暴走を止めること』」
「…………」
「それともう一つ、匿名希望君から伝言を賜ってるよ。『金は適当に工面した。心配無用』」
「……誰ですか、その依頼者は」
「だから匿名希望君だよ。ここ最近、匿名希望の依頼者が多くてね」
「信じると思いますか、そんな話を」
八幸助さんのポーカーフェイスを覗き込んでも、嘘をついているかどうかは分かりません。だからといって、八幸助さん以外の誰にも話していないことなのに妨害しようとするなんて、出任せの嘘にしたってもう少しマシな話を作るべきです。
「じゃあさっきのメモ帳、見せて下さいよ」
「メモ帳? 何のことかな」
「とぼけないで下さい。私が来るより前に依頼があったんでしょう、だったらメモ帳に日付と依頼者の名前と、さっきの依頼内容が書かれてるはずじゃないですか」
無理矢理奪うつもりで八幸助さんのポケットに手を伸ばしました。ポケットのサイズに対して少々大きいメモ帳は、布の上からでも位置が分かりやすい……はずでした。
四角く形がついているはずのポケットは膨らんですらおらず、何も入っていませんでした。
「どこに隠したんですか」
「だから何のことだい、メモ帳が欲しいのかい? ああ、丁度昨日、新聞配達の人に貰ったものがあるから、持って帰ってもいいよ」
「違います、さっき私に見せたものです! 私の依頼はお金が足りなくて三角を付けたって言ったばかりじゃないですか!」
「おかしなことを言うなあ、一ノ傘君は」
包丁を持っていたおかげで、詰め寄って脅しているような格好になりましたが、それでも八幸助さんは包丁などまるで目に入っていないのか、眉ひとつ動かしません。
「お客さんの大切な情報を安易にメモ帳に記すなんてあり得ないよ。この店の自慢の一つは秘匿性だからね、預かった依頼はすべて僕の頭の中にある。少しだけ鉄子君にも預けているけどね、外に漏れる可能性があるとすれば僕か鉄子君の思考を解読された時だけだよ。それに、仮に一ノ傘君の言うメモ帳があったとして、その存在を君のような危うい子に教えるとでも?」
この時、私は初めて、この人がニヤリと笑った顔を見たのでした。人間が、こんなに気持ち悪い笑みをたたえることができるなんて、私は知りません。例えるなら、子供の頃に見てトラウマになったトランプのジョーカー。でも、あの口を大きく釣り上げて恐怖を植えつける道化師ですら、ここまで気持ち悪くなんて、ない。すべてを見透かして、騙して、弄んだことが、ほんの少し表面ににじみ出ただけで、この不快さと不気味さ。
物売屋をただの何でも屋と思ってた。この得体の知れない 【何か】 を、お金さえあれば魔法で願いを叶えるランプ程度としか考えていなくて、もう、取り返しがつかないくらい関わりすぎていた。この男はランプの魔人なんかじゃない――もっとおぞましい 【何か】 だった。
包丁を突きつけずにはいられない。足は正直で私の意思に反してジリジリと店の入り口の方へ下がっていき、上半身だけが置いていかれそうになる。
包丁を握り締める手が定まらず、みっともなく震えが止まらない。
「可愛いなあ一ノ傘君は。そんなへっぴり腰で僕を脅そうとするなんて、逆に同情を引こうと狙っているのかい?」
「あ、あなた、何者よ……!」
答えず、ついには大笑いした八幸助さんは立ち上がった。座っている姿しか見たことがないから、こんなに見上げるほどひょろ長い男だなんて知らなかった。
見上げる私に覆いかぶさるように、ゆっくりと近づいて来る。電球の灯りの影になった顔はのっぺりと黒い。でも気持ち悪く唇を歪めていることはハッキリと分かった。
気が振れそうになるほどの恐怖に耐え切れず入り口に駆け出した。でも木造の戸が目の前でひとりでにピシャリと閉まって行く手を遮る。はめ込まれた薄いガラスをいくら叩いても、戸が音を立てて揺れるだけで、割れるどころかヒビのひとつすら入らない。
戸の外の路地は暗いばかりで人の気配がない。ガラスは土間の姿を写して、大きな影が私の背後でどんどん大きくなっていった。
「や、やだ、助けて! 誰か!」
「花の女子大生に嫌われるのはショックだなあ。よし、こっそり記憶も消しておこうかな。明日から君は、鉄子君を溺愛して僕に姫乃ちゃんと呼ばせてくれる普通の女の子だ」
「いや、やめて……許して、ください……」
包丁が手からすり抜け、土の上に落ちた。拾えない。迫る影から目を逸らすことはおろか、まばたきすらできない。涙が滝のように溢れてきた。
耳元で心臓が鼓動しているみたいに、ドクンドクンという音ばかり聞こえる。
腰が抜けて、戸を背にズルズルとへたり込んだ。冷たい土にじわりと温かいものが広がった。
私はもう、馬鹿みたいに、何が悪かったのかも考えられないのに、許しを請うことしかできなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「なあに、心配はいらないさ。すぐに終わる」
ヌッと伸ばされた手は骨に皮を巻いただけであるかのように細くて、関節が出張っている。
「いやだ、いやだぁっ……!」
伸ばされた手が私の頭を掴んだ。
皺だらけの手の掌が、プツリと意識が切れる直前、私が最後に見たものだった。
「痛くないからね――じゃあ暫くの間、おやすみ」
唐突に目が覚めて、弾かれたように飛び起きました。
「はあ、はあ……!」
布団の中でマラソンでもしていたように(?)、体が酸素を求めて喘ぎます。
暑いわけでもないのに、全身汗でビッショリ。どうしてだか私はパジャマに着替えなかったらしく、ブラウスとスカートを着たまま寝ていました。特にスカートの濡れ方が酷いのですが、まさか――いえ、セーフでした。布団は濡れていないので、イイ年しての惨事ではなかったようです。
汗で体温を奪われることなんて比べ物にならない寒気に襲われ、体がブルリと震えました。とんでもない悪夢を見ていたことは間違いないのですが、どんなものだったのかサッパリ思い出せません。
目覚まし時計の針は、アラームが鳴り出す5分前の位置にありました。当然外はもうすっかり明るくなっていて、あと2時間もすれば1限目の講義が始まってしまいます。寝直す時間もありません。壁の向こうの弧域くんはいつもギリギリまで寝ているから、まだ夢の中でしょう。
昨日何時にベッドに潜ったのかも悪夢と同様に思い出せませんが、全然眠った気になれないこと、なのに目がバッチリ覚めてしまっていることは確かでした。
とにかく、シャワーを浴びたいです。ポリポリ頭をかいて、ベッドから降りました。
「はあ、はあ……!」
布団の中でマラソンでもしていたように(?)、体が酸素を求めて喘ぎます。
暑いわけでもないのに、全身汗でビッショリ。どうしてだか私はパジャマに着替えなかったらしく、ブラウスとスカートを着たまま寝ていました。特にスカートの濡れ方が酷いのですが、まさか――いえ、セーフでした。布団は濡れていないので、イイ年しての惨事ではなかったようです。
汗で体温を奪われることなんて比べ物にならない寒気に襲われ、体がブルリと震えました。とんでもない悪夢を見ていたことは間違いないのですが、どんなものだったのかサッパリ思い出せません。
目覚まし時計の針は、アラームが鳴り出す5分前の位置にありました。当然外はもうすっかり明るくなっていて、あと2時間もすれば1限目の講義が始まってしまいます。寝直す時間もありません。壁の向こうの弧域くんはいつもギリギリまで寝ているから、まだ夢の中でしょう。
昨日何時にベッドに潜ったのかも悪夢と同様に思い出せませんが、全然眠った気になれないこと、なのに目がバッチリ覚めてしまっていることは確かでした。
とにかく、シャワーを浴びたいです。ポリポリ頭をかいて、ベッドから降りました。
「おはようヒメ。うなされていたが、大丈夫か」
机の上にある、電源を付けっぱなしのパソコンに繋がった、神姫用のクレイドル。その上で、イルミは朝のストレッチをしていました。神姫が柔軟体操をやっても意味が無いような気がしますが、毎日欠かさずやっているのですから、何かしらの効果があるのでしょう。バトルを好むストラーフですから、体の調整とかそんな意味合いかもしれません。
「おはよう。夢見がすっごく悪かった……ような気がすゆふあぁああぁぁ……んんん、寝足りない」
「だろうな、酷い顔をしているぞ。前に弧域と同棲したいと言っていたが、その顔を見せることになるなら、いささか再考の余地があるな」
「いいの。どうせ弧域くんより早く起きて朝ごはん作るんだから、先に顔を洗えばいいでしょ」
毎朝の早起きが私にとってどれだけの難題か、イルミもよく知っているものですから 「まあ、努力あるのみだ」 と全然信用してくれずストレッチを続けました。
服と下着を洗濯機に放り込んでバスルームの扉を押し開くと、ふと、ある単語が頭に浮かびました。何かの商品名でしょうか、その語感からは物を想像することができないのですが、一度意識すると、どうしても頭から離れませんでした。
「ねえ、イルミ」
「どうした」
「『ニーキ』って、何のことだか分かる?」
「ニーキ? 海外の伝統料理の名前か? さっきはそのニーキとやらを食べ過ぎた夢でも見たか」
「にはは、そんな夢見てないわよ。んー、料理ねえ。たぶん違う、ような気がする」
しばらく考えてみても、やっぱり、ぜんぜん覚えがありません。
でも。
全然心当たりが見つからないのに、『ニーキ』 という単語だけがくっきりと頭に残って、なんだかモヤモヤします。
「ネットで調べておこう。早く汗を洗い流してくるといい」
「ん、お願い」
少しぬるめのお湯を浴びると、汗と一緒に、悪夢を見て溜まっていた不快感も落ちていくようでした。しばらくの間、ボーッと、お湯に打たれていました。
「……そうだ、神姫の名前かも」
ゲームセンターでそういう神姫の名前を聞いたのかもしれません。顔の広い鉄ちゃんなら知っている、かな? 今度の休みの日にデートに誘うついでに、聞いてみましょう。
今調べてくれているイルミには悪いけど、『ニーキ』 という名前を知る目処がつくと、どうでもよくなってきました。体をスポンジでこすりながら、弧域くんと鉄ちゃんの手を取ってのデートプランを練ることで頭をいっぱいにしました。
「おはよう。夢見がすっごく悪かった……ような気がすゆふあぁああぁぁ……んんん、寝足りない」
「だろうな、酷い顔をしているぞ。前に弧域と同棲したいと言っていたが、その顔を見せることになるなら、いささか再考の余地があるな」
「いいの。どうせ弧域くんより早く起きて朝ごはん作るんだから、先に顔を洗えばいいでしょ」
毎朝の早起きが私にとってどれだけの難題か、イルミもよく知っているものですから 「まあ、努力あるのみだ」 と全然信用してくれずストレッチを続けました。
服と下着を洗濯機に放り込んでバスルームの扉を押し開くと、ふと、ある単語が頭に浮かびました。何かの商品名でしょうか、その語感からは物を想像することができないのですが、一度意識すると、どうしても頭から離れませんでした。
「ねえ、イルミ」
「どうした」
「『ニーキ』って、何のことだか分かる?」
「ニーキ? 海外の伝統料理の名前か? さっきはそのニーキとやらを食べ過ぎた夢でも見たか」
「にはは、そんな夢見てないわよ。んー、料理ねえ。たぶん違う、ような気がする」
しばらく考えてみても、やっぱり、ぜんぜん覚えがありません。
でも。
全然心当たりが見つからないのに、『ニーキ』 という単語だけがくっきりと頭に残って、なんだかモヤモヤします。
「ネットで調べておこう。早く汗を洗い流してくるといい」
「ん、お願い」
少しぬるめのお湯を浴びると、汗と一緒に、悪夢を見て溜まっていた不快感も落ちていくようでした。しばらくの間、ボーッと、お湯に打たれていました。
「……そうだ、神姫の名前かも」
ゲームセンターでそういう神姫の名前を聞いたのかもしれません。顔の広い鉄ちゃんなら知っている、かな? 今度の休みの日にデートに誘うついでに、聞いてみましょう。
今調べてくれているイルミには悪いけど、『ニーキ』 という名前を知る目処がつくと、どうでもよくなってきました。体をスポンジでこすりながら、弧域くんと鉄ちゃんの手を取ってのデートプランを練ることで頭をいっぱいにしました。
第二部 『十五センチメートル程度の死闘』 終