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喪失花《ワスレバナ》 (上)

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喪失花《ワスレバナ》 (上) ◆Yue55yrOlY


誰もが、絶望の坩堝の中で足掻いている。




ガッツという男の話をしよう。

男は、ただ自分の居場所が欲しいだけだった。

関係性の構築。
認めて欲しい相手に、友情や、愛情や、信頼を持って認めて貰う。
それが個人と社会との結びつきとなり、人は自分の居場所をそこに定める。

それは連綿と受け継がれてきたヒトの営みであり、
誰もがよりよい形を渇望して止まない社会的欲求だ。

だが、ガッツは何も国の頂点を目指すなどといった、類稀な夢を抱いていたわけではない。
誰もが当たり前に持っているような、そんな普通の絆が欲しかっただけだ。

たとえば、親子だとか。
たとえば、恋人だとか。
たとえば、友人だとか。

だが、そんな欲求の充足を得た事は一度もなかった。
手に入ったかと思えば、それは簡単にガッツの掌から零れ落ちて行った。

ガンビーノには、銀貨三枚で売られた。
キャスカは、もはやガッツを受け入れてはくれない。
そして――グリフィス
向き合う事すら出来ぬまま、彼はガッツの前から消えてしまった。

復讐すらも、彼の掌からは零れ落ちて行く。
何も掴み取る事が出来ずとも――なおも彼は、剣を振るい続ける事が出来るのだろうか。




「ここは……」

夜の街並みを明るく照らすのは、ライトと呼ばれる科学の光だ。
ガッツはその事を、この地での最初の同行者であるブラック・ジャックから学んでいる。
その光に照らし出された街並みには、見覚えがあった。
落下している最中、ブラックジャックたちと別れた巨大な建物が見えたのである。

「結局、何も出来ずに戻って来ちまったな……」

岩石を削って出来たような巨躯が、肩を落として小さく俯いていた。
頼りなく伸びた己の影を見詰めながら、ガッツはここまでの道のりを思い返していた。

グリフィスを追ってブラック・ジャックたちの元を飛び出してきたというのに、彼の影すら踏む事が出来なかった。
こんな結果になる事が判っていたのであれば、彼らの元に留まっているべきだったのだろうか。
そうすれば、昼の放送で彼ら四人の訃報を纏めて聞くような事もなかったかもしれない。
大方、忠告も虚しく胡喜媚なる少女のなりをした化け物にやられたのだろうが、彼女もまた先の放送で呼ばれていた。
もはや仇を取ってやる事も出来はしない。

しかし、あの医師は復讐という行為に対して、達観した境地を持っていた。
そんな事をしても、喜びはしないだろう。
妙という女も、増田を殺した化け物を恨むより、殺し合いその物に立ち向かう事を考えていたように思う。
たった一人の弟の訃報を聞いた時も、復讐に走るような言動はついぞ聞かなかった。
二人の少女については、その人となりを知る時間すら持たなかったが……。

  『復讐を否定はせんよ。そうしなければ、前に進めないという事もある。
   だが、それ以外の方法でも過去は精算出来る。
   おまえさんの目の前には、常に別の道もあるということだけは忘れずにいてくれ』

「オレにはわからねーよ。《黒ずくめ》先生よ……」

復讐は叶わずに終わった。
青天の霹靂とも言える、グリフィスの訃報。
あれほど憎んだ男が死んだのだから、自らの手で成し遂げた事ではないとはいえ、少しは晴れやかな気分になるはずだ。
あの過去を乗り越え、これからの事を考えられるはずだ。

しかし、ガッツの胸を穿ったのは、極度の喪失感だけだった。
それは、自分の手で直接グリフィスに鉄塊を喰らわせる機会を失った痛みなのか。
それとも、自分の真の望みは、グリフィスの『死』ではなかったとでも言うのか。

……ともかく、ガッツに判ったのは、グリフィスの『死』では過去を清算出来そうもない、という事だけだった。


建物のひさしの下に佇むガッツの頭に、横風に乗って吹き付けるみぞれが付着する。
水気をたっぷり吸収した、綿のようなそれを振り落とす事もせず、ガッツはこの一日の追憶を続ける。

昼の放送で聞いた名は、彼ら四人だけではない。
あのデパートで共に戦った卑怯者コンビと、そして敵対した妲己や剛力番長(白雪宮拳)。
名は判らないが、自分が殺した少年もその中には含まれていたはずだ。

あの戦場で多くの人間が散っていき、そして自分だけがなぜか生き残った。
あの蝕で、自分だけが生き残ったように……。
それは、こんな結末を自分に見せる為だったのだろうか。
ガッツは生身の右手を強く握り締める。

(そんな訳がねぇ……こんな未来を見る為に……オレは剣を振るってきた訳じゃ……)

その後も、ガッツを取り巻く環境は変わらなかった。

鈴子・ジェラード
自爆した少女。
最後に見せたあの儚い微笑みは、誰に向けられたものだったのか。

ナイブズと、その連れの女。
少しだけシンパシーを感じた、乾いた男。
ヴァッシュという男を探し求めていたようだったが、その男の名が呼ばれた事を奴は今、どう感じているのだろうか。

頼みもしないのに様々な人間がガッツに関わってきて、そして去って行った。
だが結局、誰とも手を結ぶこともなかったし、あるいは自らの手でその機会を振りほどいて来た。
グリフィスと並び立てる男になろうと、鷹の団を飛び出した時と一緒だ。
そこに出来ていたかも知れないささやかな居場所を蹴って、ただグリフィスに並び立とうと我武者羅だったあの時と。
それは、こんな結末を迎える為か?
復讐の炎が容赦なく消された時、ガッツの元には何も残っていなかった。


――こんな事なら。
――こんな事なら。あの時。


降り積もる後悔は、雪のように。
有り得たかも知れない可能性は、その可能性の分だけ後悔の念を深くする。
結局、ガッツに残されたものは――。


「うー?」

鋼鉄の義手に、細い少女の腕が絡み付く。
名も知らぬ、金髪の少女。
せっかく温泉で暖めた身体を、カタカタと寒そうに震わせている。
寒さを凌ぐような知恵は、この路地裏で拾った少女からは喪われている。
あそこでガッツが手を引いてやらねば、何も分からないまま野垂れ死にをしていただろう。

――あるいは、そんな死に方も、そう悪いものでは無かったのかも知れないが。
湿り気を帯びた金髪を、掌で撫でつけてやりながらガッツは思う。

この少女が、こんな風になってしまったのには、相応の出来事があったはずだ。
その壮絶で、凄惨であろう記憶を取り戻してまで生きていく。
そんな生き方を強いる事は誰にも出来ないし、かといってこの状態のまま生きていく事も不可能だ。
特に、こんな場所では。
だから全てを忘却したまま、眠るように死んでいけたなら、それは神の与えたせめてもの慈悲とも言えるのかも知れない。

しかし、ガッツはその頼りなげな命を、拾ってしまった。
ガッツの内に芽生えたつまらない感傷が、彼女を見捨てる事を許さなかった。
女を守りながら、グリフィスを追う。
そんな器用な真似は、自分だけでは出来ないと判っていたのに。

「だぁー、だぁー」

そんな事をガッツが考えている事もおかまいなしに、少女はガッツの義手をべたべたと触る。
どうもこの少女は、普通の人間なら怖がるこの鋼鉄の腕がお気に入りらしく、触っていると上機嫌になるのだ。
少し興奮しているのか、生まれたばかりのように柔らかそうな頬っぺたが、うっすらと桃色に染まっている。

「チッ、止めろって。こいつは危ねぇんだ」

しかし、先程までならともかく、今のこの義手にはとんでもないエネルギーが吸収されている。
自分と少女と剣、合計で数百キロを超えるだろう重量が、空の上から落ちて来た時の衝撃の全てを、
この腕に仕込まれた衝撃貝は呑みこんでいるのだ。
そんなものを解放してしまったら、その衝撃はあの『番長』の攻撃力を解放した時よりも凄まじい事になるだろう。
学のないガッツでも、その程度の事は想像出来る。

だからやんわりと振りほどこうとしたのだが、意外と力のある少女はガッツの義手を抱き締めるようにして離れようとしない。
少女の身体ごと持ち上げて、振り回してもだ。
その内、ガッツの腕に振り回される事自体が楽しくなってきたのか、少女はあどけない笑顔でうー、うーと唸る。

「……テメェ、は・な・せってのっ……遊んでやってる訳じゃねーんだよ」

腕を持ち上げ、顔を突き合わせてメンチを切る。
一瞬、きょとんとしたような少女であったが、牙を剥いたガッツの顔が可笑しかったのか再び破顔一笑。
そんなのれんに腕押しをするような少女の反応に、根負けしたように顔を背けるガッツであったが、なんの邪気もない笑顔を見て
つい、ガッツの頬も綻んでしまう。

笑顔。
それはガッツが、キャスカに与えてやりたいと思っても、一度も与えてやれなかったものだった。

(ったく、あいつの代わりなんかじゃねぇんだぞ……)

自分への欺瞞だと判ってはいるが、今となってはこの少女を守ってやる事だけが、ガッツに残されたたった一つの責務だった。
死すべき運命だった少女の手を、自ら引き上げたからには最後まで面倒を見る責任がある。
少女一人分の身体の重みが、今のガッツに僅かながらの活力を与えていた。


――否。やらねばならない事は、もう一つだけあった。

サクサク、ぴちゃぴちゃと、まだ見えぬ闇の向こうから、雪と水でぐちゃぐちゃの道を駆けて来る足音が聞こえてくる。

「おいでなすったか……」

一人ごちるように呟きを漏らすと、ガッツは音の響く方向に視線を向けた。
先程の幻聴じみた、不思議な会話を思いだしながら。




それは天から墜落している際に聞いた、夢か幻のような声だった。

   も一つ土産だ。落ちた先辺りにいる女は、あんたの仇の一人だよ、色んな意味でね。
   じゃあな、自称死神。

  「……待ちやがれっ! 仇、だと――?」

ガッツにとって、仇と言えばグリフィスただ一人だ。
この島でのしがらみはガッツにとっての仇を数多く増やしているが、わざわざこうして言ってくるからには
自分にとって縁の深い相手だろう。

パックを殺った奴か……? それとも――。

脳裏に浮かんだ小さくて陽気な妖精の顔は、しかし一瞬の後にグリフィスの大きすぎる姿に上書きされてしまう。
それも鷹の団の時代の、自分に轡を並べて笑いかけて来るグリフィスの姿でだ。
思いだしたくもない事を思い出してしまい、思わずガッツは舌打ちを漏らす。

冗談。アイツの仇をオレが討つ、だと?
それは仇討ちなんかじゃねェ。
アイツを殺った奴をぶちのめすってんなら、それはただの八つ当たりだ。
オレから復讐を奪いやがったからブチ殺す。ただ、それだけの事だ。

    はい――、どっ――も構わねーよ。ともかく――つが――えの……

ノイズが酷い。
地表が近付くにつれ、声は聞き取りにくくなっていく。

   「おい……、おい!」

    そい――名――――ユノ――――

ユノ。なんとか聞き取れた音は、人の名のようにガッツの耳に響く。

   「ユノ――その女が、アイツを殺ったってのか!?」

応えはない。
もはや地表は視界を覆い尽くさんばかりに広がっていき、ガッツは腕の中の少女を強く抱き締める。
そして――。




あの声が言っていた事が本当なのかどうか、ガッツには判らない。
魔女が持っているような、不可思議な力。恐らくあの声の主は、この殺し合いに関わる者たちの一人なのだろう。
ならば、自分たちにとって都合のいいように、ガッツを動かそうとしている可能性だってある。
常のガッツならば、こう言い放っていたかもしれない。


うるせェ、ほっときやがれ。
と。


いくら助けられたと言っても、姿も現わさない怪しげな女の言葉など、素直に信じるガッツではない。
それをこうして、声の導きのままに行動してみる気持ちになったのは。

グリフィスを追うという指針を失っていた事もあったが、腹の底に溜まったうっ屈した気分。
それを吹き飛ばせるような相手が現れるのを、望んでいたのかもしれない。
あのグリフィスを、殺したかも知れない女。それはきっと、全身の血が沸騰するほど強い相手のはずだ。
それはあのデパート前で会った妲己のような妖女か、はたまた剛力無双を誇った、あの『番長』の如き鉄の女か。
ガッツは、闇の向こうを見据えながら、その女をじっと待つ。


どちらでもなかった。
みぞれの降る中、闇から抜け出てきた少女の顔立ちは、下手をしたらガッツの腕にしがみつく金髪の少女よりも幼いかもしれない。
我妻由乃
長く伸ばされた髪の毛は、可愛らしく二つに括られている。
全身ずぶぬれの臙脂の服装には、見覚えがあった。

そう、あれは確か、オキタの知り合いの銀髪の男と一緒にいた、眼鏡の少女が着ていた服だ。
同一の仕立てで縫製された制式の服を着ているという事は、同じ組織に所属する人間である事を意味している。
あの眼鏡の少女は、どこからどう見ても普通の小娘だった。
だとすれば、この少女もごく普通の人間なのだろうか。

「テメェが……ユノ、なのか?」

うっ屈を晴らすような、派手な戦を期待していたガッツの心が、困惑と失意。そして落胆に揺れる。
しかし、それはガッツの一方的な思い込みからきた落胆だと言えるだろう。

あの声の主は思わせぶりな発言に終始して、ユノがグリフィスの仇だと明言したわけではない。
あるいは、パックの仇かもしれないのだ。
パックならば、普通の少女だろうと殺す事は難しい話ではない。
むしろあの人のいい妖精は、普通の少女にこそ無警戒に近寄っていって、殺されてしまいそうなイメージがある。

ただ、ガッツの心情として、普通の小娘などと戦いたくはなかった。
いくらパックの仇だとしても、このくそったれの殺し合いの中で、やりたくもない殺しに手を染めたのだとすれば、それは――。


しかし、そんな動揺に乗ずるように、制服の少女は手にしていた奇妙な形状の物体をガッツに向ける。
その物体の正体を識別するよりも早く、全身を突き刺すような殺気に反応したガッツの肉体は防衛反応を示した。
鉄塊の如き巨剣ドラゴンころし。
攻撃においても、防御においても、もっとも信頼する大剣を身体の前面にかざして盾としたのだ。

そして分厚い鉄の塊に、重たい衝撃が連続して叩きつけられる。
やや遅れて、耳をつんざくような硬質の砲音が、それまでの静寂を引き裂いた。
ここに来てガッツが初めて体験する近代兵器。
二丁の機関銃ダブルファングによる銃撃であった。

「私の名を――やっぱり、あの男の仲間か!? お前なんかにユッキーはやらせない!!」
「あの男……だと!?」

耳が痛くなるような凄まじい銃撃音と、それを弾く鋼のシンフォニー。
一瞬にして街角に立ちこめる硝煙の臭い。
そんな中でも詰問するかのような、少女の甲高い叫びはよく通る。
攻撃の正体を見極めるべく、大剣の影に隠れていたガッツが、隻眼を見開いた。

あの男の仲間と、そう言ったか。
それはもしや、グリフィスの事か。
オレがアイツの仲間だと、そう思っているのか?
……いいぜ、いきなり仕掛けて来るような、分かりやすい奴は嫌いじゃねェ。
テメェにも牙があるってんなら……遠慮は抜きだ!

ガッツの中で、漆黒の獣が頭をもたげる。
解放される時を待ち焦がれていたかのように、それはガッツの意識に一瞬で同調して――


「うー?」


無垢な少女の声によって、引き戻される。
突然の轟音に身をすくませた少女は、周囲で何事が起きているのかを確かめようとガッツの身体の影から頭を出していたのだ。

「バカ野郎ッ! テメェなにしてやがる!!」

怒鳴って、慌てて少女の顔の前にかざした義手に衝撃が走る。
飛んできた銃弾が小手の曲面を少し削って、明後日の方向へと弾かれていた。

ガッツはすぐさま少女の金髪を義手の指に絡め取り、地面へと引き倒す。
生身の腕は生命線である大剣を握って離せないし、鋼鉄の腕は少女を優しく扱えるようには出来ていない。
叩き付けられるような勢いで、少女の身体はアスファルトの上に倒れ伏す。

「あうっ」

痛みに顔を顰めた少女が、ガッツを恐れたような眼で見やる。
自身も少女を庇うように窮屈に身をかがめながら、ガッツは心の中で怒鳴っていた。

マヌケ! またか。またオレは――。

図書館で、ゾッドを相手取った時の反省がまるで生かせていなかった。
戦いになると分かっていたのなら、少女をどこか安全な所に隠しておくべきだったのだ。
それを、何を呆けていたのか、漫然と時を過ごしてしまった。
いくら悔やんでも、今更どうにもならない痛恨のミス。

そうしてガッツの心に又一つ、緩やかに、深々と雪が降り積もる。
後悔という名のそれは、重々しく圧し掛かるぼたん雪のようで。
たった一人でそれを支えるガッツの膝は、崩れそうになってしまう。

しかし、そんな後悔に沈む間もなく、敵の攻撃は続く。
大剣の守りに業を煮やしたのか、我妻由乃はその剣の反対側に落ちるように、手榴弾を投げ入れたのである。
その、防御の手薄な所へと投げ込む小さな道具の運用法に、覚えがあった。

「――炸裂弾か!?」

ガッツは、折り曲げた義手の指を、少女の外套の襟にひっかけて逃げる体勢を取る。

しかし、その場を一歩も動けないまま――次の瞬間ガッツの傍に落ちた手榴弾は爆発していた。




ここで少し視点を変えて、我妻由乃という少女の話をしよう。

少女は、ただ自分の居場所が欲しいだけだった。

酷い折檻を加えてくる鬱病のママに、優しくして欲しかった。
家庭を顧みず、仕事から帰ってこないパパに、助けてほしかった。
孤児だった由乃を家族に迎え入れてくれた二人と、いつかは分かり合いたかった。

いや、二人に限らずとも、自分を迎え入れて必要としてくれる人間なら、誰でも良かったのかもしれない。
自分と同じように家族の問題を抱えた少年と、子どもみたいな結婚の約束をした事もあった。
大人になったら、お嫁さんになってあげる、と。

だが、少女と少年は、世界の命運を決める戦いのプレイヤーに選ばれてしまった。
それはたった一人しか生き残る事が出来ず、それを拒めば世界は滅亡するという過酷な戦いだった。

抗った。
戦って、殺しまくって、恋人すらも騙し抜いて。

最後に得たのは、絶望だけだった。
手に入れた、神の力ですらも由乃の願いを叶えてはくれなかった。
神でさえも、絶望の螺旋からは逃れられない――。

その宿命を知った後でも、由乃は抗った。
因果律を紡ぐ神の力を、自身が選んだ代行者に委ねてまで。



今度こそ、雪輝との幸せな未来が手に入ると思っていた。
再び、雪輝ともども戦いの運命に巻き込まれるとは思っていなかった。

デウスの代行者は、既に在るのだ。
新たな神を決める戦いは、二度と起こる事はない。
あの男が勝手な事をしないようにと、目付役の使い魔もつけてある。

ならば、こんな戦いが起こるはずがないと、少女は自分の記憶を改竄した。
自らのミスを認めず、これは未だデウスを決める戦いの途中で巻き込まれた戦いなのだと思いこもうとした。
まだ自分は失敗してなどいない。
全ては、これからなのだと。

だが、もはや世界を繰り返す円環の理は、由乃を新たな世界に導いてはくれない。
全てをやり直すには、デウスの代行者たるあの男を倒し、再び力を取り戻すほかはない。

そんな事すら忘れたまま――なおも少女は、運命に抗い続ける事が出来るのだろうか。




天空から墜ちる流星。
鳴海歩と共にいた、あの空舞う鷹が再び現れたかと、由乃はその光が墜ちた場所まで走っていく。

降りしきるみぞれを、気にも留めず。
我妻由乃が気に懸けるのは、天野雪輝の身の安全だけだ。

鳴海歩に奪われたままの雪輝日記であったが、実はこれを破壊される事を由乃はさほど恐れてはいない。
別に死ぬのが怖くないわけではない。
日記所有者に死のペナルティが課されるのは、未来日記を破壊される事で、所有者の未来をも破壊されてしまった時。
それを考えると、由乃には裏技とも言えるアドバンテージがあるからだ。

一周目の世界と、二周目の世界。
二つの世界を繰り返して、二つの雪輝日記を手に入れた我妻由乃は、どちらか片方だけなら破壊されても死ぬ事はないのだ。
どちらも由乃の未来を記述する、由乃の日記である事に変わりはないのだから。
もし、鳴海歩がそのペナルティを当てにした作戦をとってくるのであれば、由乃はそれを逆手にとって鳴海歩を倒すつもりだった。
もっとも、もう一つの雪輝日記が手元にないのだから、100%安全とは言い切れないのだが。


しかし、雪輝日記の、その本来の力を利用されては打つ手なしだ。
雪輝本人の事を予知出来ない無差別日記に対し、雪輝日記は天敵とも言える日記だ。
鳴海歩がもしその力を使って、雪輝を襲撃してきたなら防ぐ事は難しいだろう。

それに今、なぜか雪輝は由乃と別行動を取っている。
もし、あの鷹が降りた所に雪輝がいたのなら……。

「待っててユッキー! 今行くから!」

駆ける双脚は軽やかに。
しかし目的地付近の街灯に照らされる二人組を発見して、その勢いは緩む。
雪輝がその場にいない事は、一瞬で分かった。

一人は前髪が一房だけ白髪になっている、半裸の男。
鳴海歩や、あの鷹の男とは似ても似つかない強面の大男だ。
こちらを隻眼で睨むその顔付きは、見るからに強そうではあったが、由乃にとってはどうでもいい事だ。

そしてもう一人。こちらにはかなり問題がある。
年頃の少女でありながら、その身なりは外套を素肌の上に羽織っているだけなのだ。
だらしなく適当に合わせられた黒い襟元から覗くのは、白く瑞々しい若い肌だ。
そんな格好をした金髪の少女が、男のごつい鋼鉄の義手に甘えるように腕を絡ませ、そのたわわに実った胸の果実を歪ませている。

「いやらしい女……」

ぼそりと呟く。
あの大男に媚を売るだけなら別にいいが、きっとこの売女は雪輝にも色目を使うに違いない。
なにせ、雪輝はカッコイイから女性にモテモテなのだ。
そう考えて頭に血を昇らせていた由乃に、大男――ガッツが声をかけて来た。

「テメェが……ユノ、なのか?」

見知らぬ男に突然名を呼ばれて、由乃の心に僅かな驚愕が走る。
装填を済ませたダブルファングの銃把を、我知らず強く握り締めた。
しかし、その瞬間に由乃の身体を駆け巡ったものは、驚愕だけではない。
鬱積していた疑念を全て払拭するような、素晴らしい『正解』を、由乃はその僅かなヒントから得たのである。


「私の名を――やっぱり、あの男の仲間か!? お前なんかにユッキーはやらせない!!」
「あの男……だと!?」

由乃は両手に持つ異形の銃を、フルオートで撃ちまくりながら叫ぶ。
猛烈な轟音を響かせながら高速で弾丸が射出され、雪輝への刺客である二人組のいる場所が蜂の巣のように変わった。


そう、やはり鳴海歩は雪輝日記を使い、彼に刺客を放ってきたのだ。
見知らぬ男が、一度も会った事のない自分の名を知っていたのは、鳴海歩か秋瀬或に教えられていたからに他ならない。

そしてここが大事な所なのだが。
どうやら雪輝は、その鳴海歩の行動を読み切った上で、自分と別行動を取っていたようなのだ。

(凄い……ユッキーは、やっぱり凄い!!)

夢見るような由乃の瞳が感激に潤み、雪輝の知略の深さに思わず憧憬の吐息を漏らしてしまう。
雪輝の考えた作戦とはこうだ。

確かに無差別日記では、雪輝本人についての予知が出来ない。
しかし『雪輝を刺客から守る』という意思を持って、由乃が行動を開始すれば――
いくつものifを。どこそこで刺客を見つけるという由乃の未来を、無差別日記は読み切る事が出来るのだ。
結果、刺客は雪輝の元に辿りつく前に、彼を守る由乃に仕留められるという寸法だ。

そして雪輝と別行動を取っている限り、雪輝日記を持つ鳴海歩にも、その由乃の行動が知られる事はない。
何もしていないはずの雪輝の元に、いつまで経っても刺客が辿りつかない事に焦れて、自らやって来た時が鳴海歩の最後の時となるだろう。

自分達は、そういう作戦で動いていたのだ。

と、そのように由乃は今の状況を『理解』する。

「アハハハハ、アハ、アハハハハハハハハハ!!」

全て話に筋が通り、由乃の気分は最高にハイになる。
頬を紅潮させ、笑い声を響かせながらダブルファングを乱射する。

しかし硝煙漂う闇の中を、よく目を凝らして見てみれば、男はなんと巨大な鉄塊の如き剣を盾として
銃弾の直撃を防いでいるではないか。

「しゃらくさい!」

二丁のダブルファングを足元に投げ捨て、自由になった腕で手榴弾を手に取り、ピンを引き抜いて投擲する。
ねらいたがわず、男の大剣の向こう側へと放りこまれた手榴弾であったが、そこで男は目を疑うような行動に出た。
しゃがみ込んだ姿勢のまま、あの信じられないほど巨大な剣を振るったのだ。

その剣は地面をえぐり取るかのように、手榴弾が乗ったままのアスファルトへと沈み込み――
まるでスプーンでティラミスの一層でも掬い取るような気軽さで、道路の表面を持ち上げた。

そうやって、自分と手榴弾との間に無理矢理壁を作る事で、男と少女は爆発をやり過ごしたのだ。

――信じられない。

無理、無茶、無軌道が売りの由乃を持ってしても、そう思わせる常識外の戦闘理論。
思わず唖然としてしまった由乃であったが、男が少女を連れて駆けだした事で我を取り戻し、足元の銃を拾う。

そして銃撃を再開したのだが、一瞬対応が遅れた事が仇となったか、既に男はトップスピードに乗っている。
でかい図体の癖に、信じられないほど素早かった。
結局、足を止める事も出来ずに、男と少女の姿は街並みの中に消えてしまった。
気が付けば、手に持ったダブルファングは、全ての弾丸を撃ち尽くしている。

「ユッキーの所に向かうつもりかっ」

後を追おうと駆けだした由乃の視界が、一瞬だけ翳る。
頭上を照らす明かりが、何かに遮られたのだ。
見上げると、そこには禍々しささえ感じるほど近くに見える月。
そしてそれを背景に、悠々と飛ぶ化物の姿があった。
それは病院で安藤潤也が転じた、巨大な肉食獣のような姿であった。

「あいつは……もしかして、あいつもユッキーを狙って……」

由乃は、荷物の中から愛する雪輝の無差別日記を取り出すと、大切そうに抱き締める。
それには、由乃がどこにいけばあいつらと出会えるか、どうやれば勝てるのかが、予知されているはずだった。

「ユッキー。大丈夫だよ。私が絶対、守ってあげるからね……」



何の前触れもなく吹き抜けた颶風が、街路樹の葉に積もった新雪を散らす。
その姿すら霞んで見えるほどの突風の正体は、路地を全力で奔る黒の剣士であった。
外套の襟首を掴まれて、引っ張られている少女の足は宙に浮いている。
それほどの勢いを持って、ガッツは全力で我妻由乃の前から撤退していた。

表通りから大分離れたせいか、路地に沿って並ぶ街灯の数はまばらとなっている。
月と星とに照らされた夜本来の暗がりの中で、ガッツはようやく足を止めて周囲の様子を窺う。


「――カハッ。なんてェ武器だよ……このだんびらがなかったら、凌げなかったぜ……」

『番長』から死ぬほどの思いをしてまで奪い返した巨大な剣。
鍛冶屋ゴドーによって鍛えられたドラゴンころしは、此度もガッツの助けとなった。

だが、何事にも完全という事はない。
ガッツの脇腹には、一発の弾丸によって穿たれた貫通射創が開いていた。
はらわたをも喰いちぎるほどの、痛烈な衝撃波を伴う一撃。
それを受けてなお、ガッツはここまで全力疾走を続けてきたのである。

ズボンのポケットから、残り少なくなったパックの燐粉を取ろうとしながら、ガッツは少女の様子を見やる。
空中浮遊しながらの逃走から解放された金髪の少女は、ぺたんと道路に尻をついて痙攣するように震えている。

「……」

乱暴に掴んで散々街中を振り回したせいか、適当に留めておいてやっていた外套のボタンがいくつか外れている。
それに気付いたガッツは自分の手当てを後にして、服の乱れを直してやろうと手を伸ばす。しかし――
ビクリと、弾けるように少女の身体が縮こまる。
そんな少女の反応に、ガッツの手もピタリと止まる。

この震えは恐らく、先程までの寒さから来るものではない。
何も知らなかった無垢な少女は、初めての痛みを知る事で恐怖の感情を学習したのだろう。

「……チッ」

キャスカとの旅で何度も味わってきた、ほろ苦い感情が再び胸の中に湧きおこる。
この様子では、どこかに隠して来ても逃げたり、騒いだりするかもしれない。
彼女を一人にしておくなら、そうは出来ないように縛っておく必要があるだろう。

少女は、きっと怯えるだろう。
だが守る為だ。他に方法はない。
綺麗事だけでは、やっていけないのだ。

止まった手を、再び伸ばして少女の腕を掴む。
上目遣いに自分に向けられた碧い瞳の中に、ガッツは化物の姿を見た。
それはまるで、自分の心の中に棲む怪物を――

いや、そうではない。
少女の瞳孔に映し出された化物は、実際にそこに佇んでいる。
少女の正面。ガッツの後方。
月光に照らされて、いなびかりを纏って。

「奴は……ッ!!」

剣を、大地に突き刺す。
その姿を知っていた。
黒炎と、雷の化身。
仔細は異なれど、形状は同じ。
ならば同種の力を持っているのだろう。
剣から離れ、少女をその背中に庇った瞬間。


夜の闇を切り裂く、万雷の輝きに世界は白く染まった。





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