顔真卿 がんしんけい
709-786
中唐の忠臣、書家。長安の生まれ、先祖は琅邪・臨沂(山東省臨沂)の人。のち丹陽(河南省)に移り、5代の祖の顔之推のとき、長安に移った。字は清臣、また職にちなんで顔平原、封爵にちなんで顔魯公と呼ばれる。737年に進士に及第し、742年に文詞秀逸科にあげられて醴泉の尉、次に長安の尉となり、監察御史、武部員外郎などを歴任したのち、宰相の
楊国忠に憎まれて753年に平原(山東省徳州市の南東、もとの徳県)の太守に転出させられた。その翌々年に安史の乱が起こって、河北・山東地方の各地はみなその勢力下に入ったが、彼と常山(河北正定県)の太守であった従兄の
顔杲卿とだけが
安禄山にしたがわず、彼は義軍を組織して抵抗をつづけたのち、756年になって、結局平原をすてて脱出した。翌春に鳳翔(陝西省鳳翔県)の
粛宗のもとに行き、憲部尚書に任命され、天子とともに長安に帰ったが、また転出させられて馮翊太守、蒲州刺史、華州刺史、饒州刺史を歴任して浙西節度使となり(759)、翌年刑部侍郎として中央に帰ったが、宦官の
李輔国に憎まれ、蓬州長史に格下げされた(760)。
代宗がたって利州刺史となり、さらに戸部侍郎となって中央に帰り(762)、吏部侍郎、尚書右丞となり、その間、魯郡開国公に封ぜられたが、766年宰相の
元載と合わず、陝州別駕、ついで吉州司馬にまで格下げされ、撫州刺史(786)、湖州刺史(772)となった。777年に元載が殺されて、また刑部尚書となり、翌年吏部に転じ、代宗が没して礼儀使、太子少師となったが、また
楊炎・
盧𣏌らと合わず、淮西でそむいた
李希烈の説得に差遣されたが、汝州の李希烈のために捕われて蔡州に移され、3年間の監禁ののち李希烈の部下のために縊殺された。彼の家系は、兄の顔允南、父の顔惟貞、伯父の
顔元孫から祖父の顔昭甫、曽祖父顔勤礼まで能書家ぞろいであった。壮年時代には
張旭について筆法を学んだという。彼はそれまで世を風靡していた王羲之流の典雅な書法に反発して、書の革新を試みた。そのためには、終始「正鋒(直筆)」をもって書き、真上からの圧力で筆画にアクセントをつけ、または隷書の筆法を楷書にとり入れて、筆画を「蔵鋒(筆の穂先をかくす)」させるという技法を編み出した。こうして得た書風は、力強さのなかにおだやかな美しさをこめた独特の楷書であるが、いっぽう、後世の書風の堕落は彼よりはじまるとも批判される。今日まで伝わるおもな作品には「千福寺多宝塔碑」(752)、「東方朔画賛碑」(754)、「麻姑仙壇記」(771)、「顏氏家廟碑」(780)などの楷書のほか、「祭姪文稿」「祭伯文稿」(758)、「争坐位帖」(764)などの草書のものがある。草書も楷書と同じ筆法で書いたところにその特色がある。またその文学作品集『顔魯公文集』14巻が伝えられている。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
参考文献
『アジア歴史事典』2(平凡社,1959)
外部リンク
最終更新:2025年07月30日 11:28