劉鄴 りゅうぎょう
840頃-881
晩唐の藩鎮・宰相(在任871-874)。字は漢藩。潤州句容県の人。
劉三復の子。若い頃に父が没すると、
李徳裕が憐れんで自分の子ともに師をつけてやった。李徳裕が追放されると、陜虢観察使の
高元裕に見出され、官位につき、
劉瞻の推薦で左拾遺に抜擢され、翰林学士となり、進士の及第を賜った。中書舎人、翰林学士承旨を歴任した。
同昌公主が薨去すると、懿宗はその医者を殺したが、宰相の
劉瞻が諌めると、同昌公主の夫
韋保衡と宰相の
路巌と組んで、劉瞻を貶めた。咸通十二年(871)戸部侍郎・諸道塩鉄転運使を歴任。同年十月に礼部尚書同中書門下平章事(宰相)、判度支となった。僖宗が即位すると尚書左僕射に遷った。乾符元年(874)劉瞻が宰相に復帰すると害されるのを恐れ、劉瞻を招いて酒宴を行ない、その直後に劉瞻が死んだから、世間では劉鄴が劉瞻に毒を盛ったと噂した。
蕭倣と
崔彦昭が宰相になると、劉鄴は排斥されて検校尚書左僕射、淮南節度観察副大使、知節度事となったが、
黄巣の乱が起こると
高駢に交替させられた。黄巣軍が長安に迫り、僖宗が黄巣を避けて西狩すると、追いかけたが及ばず、
崔沆・
豆盧瑑とともに将軍
張直方の家に匿われたが、賊に捕らえられ、三人とも黄巣の臣となることをよしとせず、共に殺された。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年03月19日 01:53