唐書巻二百一十五上
列伝第一百四十上
突厥上
夷狄の中国の外患となることは長い期間に及んだ。前時代については史家の類がよく述べてきたことである。唐が興ると、蛮夷はさらに盛衰があり、かつて中国と匹敵するものは四つ、突厥・吐蕃・回鶻・雲南がそうである。まさにその時に群臣の献議は朝廷にあふれ、あるものは裁可され、あるものは捨て置かれ、明確に見るべきものがある。
劉貺がおもうに、厳尤は弁じたが詳細ではなく、班固は詳細ではあるが意を尽くしていない。そのいたるところを示せば、周は上策を得て、秦は中策を得て、漢は無策であった。何をもってそう述べたのか?服飾が整わない塞外の地では、声教はおよばず、それが叛いたときに対策を実施しなければ軍を出動させることになり、それが降ったときに対策を実施しなければ備えをとくことになり、厳しき防御を守り、要害に急ぎ集まれば、それが寇したところでできることはなく、臣下とすることはできないのである。「この中国をいつくしみ、四方を安んぜよ」というのは周の道であり、そのため周は上策を得たのである。
易に「王侯は要害を設けてその国の防御を固める」とある。長城を築き、砦を修築するのは、要害を設ける所以である。趙簡子は長城を築いて胡に備え、燕・秦もまた長城を築いて防備を中外に限り、ますます城塞に理した。城全して国が滅ぶと、人に責任をとらせたのだ。後に魏が長城を築くと、知識人は一人に一歩を治め、方千里に三十万人を労役させたが、十日としないうちに終わった。そのため秦は中策を得たというのだ。
漢は宗室の娘を匈奴に嫁がせた。また高祖は魯元公主を嫁がせようとしたができず、趙王の謀叛のために沙汰やみとなり、これをよく匈奴の叛をやませたというが、そうではない。また冒頓は手づからその親を殺し、外祖父の部族と融和せずに勢力を争った。どうしてこんなことに惑わされるというのだろうか?そうならば和親を知ったところとて長い平和などないのである。謀略でこれをなして天下に初めて平和が定まったのであり、歳月を延ばしたところとて禍となるのみである。武帝の時、中国は平和となり、胡の寇略はますます稀となり、疎遠となって途絶した。まさにさらに中華を費やし、兵を連ねること年を重ねた。そのため厳尤が下策としたのである。しかしながら漢も昭帝・宣帝の時代となり、武士は練兵し、斥候は精明となり、匈奴は痕をおさめて遠くに移ったが、なおも平和時の誤った政策を踏襲して、政府の倉庫を傾けて西北に給付すること、年に二億七十万にも及んだ。皇室の淑女は穹廬(テント)に嫁ぎ、夫は宮殿のわきの殿舎におり、沙漠にくだり、子女に方物を貢物するのが、臣僕の職掌となったのである。詩に「敢へて来享せざることなし、敢へて来王せざることなし」といい、「荒服は来王」といい、「来」と称して「往」とは言わないのである。公には盟約に及び、諱を書かなかった。いかんせん天子の尊をもって、匈奴と約して兄弟となすのである。帝女の号は、胡母とならんで夫人となり、母をすすめて子に報いるという、その汚俗に従うのだろうか?中国は蛮夷と異なるのは、父子男女の別があるからなのだ。美しき姿は、節が壊れて別物になっても、はずかしめが甚しいからなのだ。漢の君臣はこれを恥とはしなかった。魏・晋の羌狄は塞垣に居住し、給付は昔をこえた。百人の酋は千口の長となり、金印紫綬を賜い、王侯の俸禄をむさぼった。牧馬の童は乗羊の隸となり、毛皮をもたらして利をもとめる者は道にごったがえし、鋤鍬の利は養蚕を生むところとなり、数万里の国外に散財した。胡夷は年々驕り、中華は日に日にしわ寄せが来て、まさにその強きにあたらんとすれば、人力をつくして征伐した。それが服するに及んでは、これを養うことを初めのようであった。病めば則ち養いを受け、強ければ則ち内を攻め、中国は羌胡を服役させるために千年の時を費やした。悲しまざることがあろうか!誠によくその夷に与えた財を移して兵士に賞としてあたえれば、則ち民は富むだろう。その夷に与えた封爵を移して守臣に褒賞すれば、則ち将は良くなるだろう。富利を我に帰せば、危亡は彼に移るだろう。娘を夷に嫁がせる辱めもなくなり、伝送の労も無くなるだろう。これを破棄して為さないのは、だから漢は無策というのである。
厳尤はいった「古に上策なく、ために臣妾とすることができないのだ。本当にこれをよくしたが、用いなかったのみであった。秦は無策というのは、狄をはらって亡国となったのである。秦が亡んだのは、狄をはらったからではないのである。漢は下策を得て、胡を討伐して人は病んだが。人は既に病んでいたのである。また役人はこれを奉ったが、無策であった。」だから厳尤は弁じたが詳細ではない、というのである。
班固はいう「義を慕って貢物を献上するときは、礼譲をもってこれに接す」。なぜならば、礼譲は君子の交を以てし、禽獣・夷狄が接する所以ではないからである。しなやかで美しい外散、則えびすの心生である。えびすの心生は、侵盗の原因である。聖人は飲食・声楽をこれとともにせず、来朝すれば門の外に座し、舌は人体の委ねでこれを食べれば、よい香りや美味を知らしめないのである。漢習の習俗は外敵を玩び、その喜びは燕妃・趙妃といった色欲を喜び、太官の地位に甘んじて、服するに彩絹・薄絹の美服の豪華なものを、これを供すればさらなる増加を求め、これを絶せばすなわち怨をまねいた。これは飢えたヤマイヌ・狼に良肉をやるようなもので、食いつき噛みつかせるのをほしいままにさせたのだ。華人の歩卒は険阻に利し、虜人の騎兵は平地に利し、堅守して付け入る隙を与えなければ、逃げる賊などを追い、来襲したならば険を塞いで進ませないのであり、退去しようとしたならば険を閉じて帰らせないようにするのである。衝くには長戟をつかい、臨んでは強弩を用い、勝利を求めるのではないのである。例えば虫やトカゲに、何の礼譲をもって接するのであろうか?だから班固は詳細ではあるが意を尽くしていない、というのは、このことをいうのである。杜佑はいう、
秦はわずかに関中の地を以て六強国を滅ぼし、今万方の財をつくし、上は京師に奉り、外は犬戎の強勢があった。城を陥すこと数百、内は兵革があったが未だ休まらず、三紀(18年)(で滅亡)となった。どうして異術を行ったというのだろうか。古今の時代が違うというのだろうか? 周の制は、百歩を畝とし、、畝百を一人に給付した。商鞅は秦を補佐すると、地の利を尽くしていないから、さらに二百四十歩を畝とし、百畝を一人に給付した。また秦の地は広く人は少ないが、晋の地は狭いのに人がおびただしかった。三晋の人を誘致して耕させ、田宅を優遇した。また子孫におよんでは、秦の人をして外敵にあたらせ、農業・戦士でなければ官吏となることができなかった。大率百人は五十人を農業に従事させ、五十人は戦闘の訓練をさせた。そのため富国強兵となった。その後仕官の道は増え、職業の種類の広がりは日に豊かになり、今は大率百人で、わずか十人を農業に従事させ、他は違う技を習わせた。また秦・漢は鄭渠の漑田四万頃、白渠の漑田は四千五百頃であったが、永徽年間(650-655)、鄭渠・白渠の両渠は浸水して一万頃を超えることはなく、大暦年間(766-779)初頭、減じて六千畝となり、畝はわずかに一斛、毎年たったの四・五百万斛程度であり、地の利は消耗して、労働力は逃散し、富国強兵しようとしてもできなかった。漢の時、長安の北七百里はすなわち匈奴の地であった。侵掠はいまだかつてひと時も休まることはなかった。匈奴の人口は漢の一つの大郡程度でしかなかった。チョウ錯は防御の備えを請い、そのため北辺は平安となった。今、潼関の西、隴山の東、鄜坊の南、終南の北、十余州の地はすでに数十万家。吐蕃は資源が少なく、食少なく工芸も拙く、中国に及ばないこと遠く甚しかった。まことによく両渠の豊かさに復し、農夫を誘致して耕作させ、要害を選んで城塞を修繕し、屯田して力を蓄え、河・隴を回復すれば、どうしてただ自ら守るのみということがあるだろうか。
天下が平穏無事な時、大臣は栄逸を偸み、戦士は離落し、兵甲はにぶらせ弱くなり、車馬は損耗し、天下は雑然として群盗が多発する。すなわち急遽戦えば、これを「宿敗の師(常敗の軍)」という。これは訓練不足の過ちであり、敗因の一である。百人が戈を背負って県官に食を仰ぎ、水増しして千人の名簿をもって、大将はせせこましくもその余りを儲けとし、敵兵が強いのをこれ幸いとして、戦う者は常に少なく、ただ飯喰らいが常に多い。城塞を建設しても未だ乾かず、公の備蓄食料はすでに空っぽ、これは実態がないのを責めないの過ちであり、敗因の二である。戦は小さな勝利で大げさにその戦功をいいたて、感状をいただくのに奔走して、あるいは一日は再賜、一月は封を重ね、凱旋して未だ歌わないのに、書品だけはすでに崇く、封爵は極まり、田や宮殿は広く、金絹はあふれ、子孫は官位を得る。外地で戦死して彼らのために勤めた者は承知するというのだろうか?これは賞が厚すぎるの過ちで、敗因の三である。多く兵士を失い、都に逃げ帰って、身を跳躍させて来て、国を刺して去り、肉刑をかいまみて、悪い顔色はよくなり、一年も満たずしてすでに壇墀の上に立つ。これは刑罰が軽いの過ちで、敗因の四である。大将・将兵は、指揮が専一ではなく、あるときは偃月陣、あるときは魚麗陣となり、三軍の万夫はあちこちさまよい、陣の乱れの間を敵騎はこれに乗ずるのである。これは専任ではなりの過ちで、敗因の五である。元和年間(806-820)兵団数十万が蔡に誅殺され、天下は損耗し、四年後によく奪還したが、思うに五敗は去ったわけではなかった。長慶年間(821-824)初頭、盗人の子・孫がことごとく来て命を走り、しばらくもしないうちに燕・趙が反乱し、軍を率いる将軍を起用したが、五敗がますますひどく、威を反乱兵に加えることができなかった。
二杜(杜佑・杜牧)の論はこのようであった。
広徳・建中年間(763-783)、吐蕃は再度馬に岷江の水を飲ませ、常に南詔を先鋒とした。二尋にもおよぶ戟をあやつり、戦っては進み、蜀兵は刃折れ矢じりを呑むまで戦ったが、一人として斃すことができなかった。敵兵は日々深く侵攻したが、疫病で死ぬものが日に日に多くなり、留まることができず、たやすく撤退した。蜀人は語って、「西戎はなお貴ぶべきだ。南蛮はわが方に残るべきである」と言った。
韋皋は青谿道を開通して群蛮と和し、蜀に入貢させ、子弟を選抜して書や算を成都に留学させ、学業が成ってから去らせたが、同時に山川の要害を周知させることになった。文宗の時、大挙して成都に侵入し、越巂より以北の八百里は、民衆も家畜もいなくなり、また敗卒・貧民によって略奪・殺害されたが、官は禁止することができなかった。これより群蛮は常に蜀を攻掠しようとする心があり、蜀の民は幾度とない征討に苦められ、また非常な幸運がないかと願うことになった。毎年兵隊を徴発され、山川の険しきを前もって習うことなく、ゆっくり歩いてわずか一舎(三十里)でも、すでに苦痛のため汗が流れ。将軍となる者らは酷薄で、給された帛を自らの懐に入れ、粟は砂のようなのを三粒給付するだけで、そのため辺境の士卒は恨みを抱き、巴・蜀の地は危機に瀕した。
孫樵は「よろしく厳道・沈黎・越巂の三州に詔して、要害をわたり、兵卒を募兵して守らせるべきである。また兵籍は州に置き、すなわち易役とし、兵卒は辺境に出して山川の険を習わせ、それぞれの地に分けて駐屯させ、春は耕し夏は養蚕して衣食にあて、秋冬には守りを厳として敵の侵攻を待つ。毎年廉吏を派遣して兵卒の有無を視察させるならば、則ち官は賄賂に動くことなく、官吏は横領することがなくなるだろう」といった。その備禦の策を施行すべきものは、篇に著した。
すべて突厥・吐蕃・迴鶻の盛衰を以て先後とし、東夷・西域を次とした。当時の軍事上の優先順位によったものである。最後に南蛮としたのは、唐代に記録された資料が失われたからである。
突厥の阿史那氏は、そもそもは、昔の匈奴の北方の一氏族(原語は部)であり、金山 (アルタイ山)の南に居て蠕県(茹苑、柔然)の支配を受けたが、子孫は繁栄し、吐門のときになってきわめて強大となった。そしてかれは可汗の称号をとったが、単于のようなものであり、妻を可敦といった。その地は、三方は海に近く、南は大きな砂漠(ゴビ)に接している。その部(所領)を別にして軍隊を持ち指揮する者を設といい、子弟を特勒といっ た。臣の重要なのは、葉護、屈律啜、阿波、俟利発 、吐屯、俟斤、閻洪達、頡利発、達于などで、ぜんぶで二十八等級あり、みなその官位は世襲であって、定員はない。衛士を附離という。可汗は、都斤山に支配の根拠地を置き、本営の入口には金の狼頭をつけた大旗を樹 て、つねに東に向かって席を占めている。
隋の大業年間(605-616)の乱のとき、始可汗の咄吉がついで立った。中国人が多くかれを頼って亡命した。契丹、室韋、吐谷渾、高昌などもみな服属した。
竇建徳・
薛挙・
劉武周・
梁師都・
李軌・
王世充らは蜂起し、情勢をうかがっていたが、いずれも臣としてつかえ、敬意をはらった。兵力はまさに百万、戎狄の強盛とであったことは、かつてなかったほどである。
高祖が太原で起ちあがると、府司馬の
劉文静をつかわし、行って訪ねさせ、お互いに和約を結んだ。始畢は、その特勒の康稍利に、馬二千頭を献上するとともに、兵五百でもって合流させた。
帝が都を平定すると、そのようなことから、功労を自負して、その使者は来るたびにわがまま勝手をすることが多かった。
武徳元年(618)、骨咄禄特勒が来朝した。
皇帝は、
太極殿で宴を催し、九部楽を奏し、玉座のところまで昇らせた。この年、始華の本営の帳幕が自然にこわれたが、皇帝が内史令の
蕭瑀に訊ねると、蕭瑀は、「魏の文帝が許に行ったとき、城門が理由もなくこわれ、その文帝が崩したということがあるが、それと同じようなことかもしれぬ」と答えた。二年(619)、始畢はみずから将となって兵をひきい、黄河を渡って夏州に来て賊の
梁師都と合した。さらに、
劉武周を兵五百騎で授け、句注山に侵入し、太原に侵入しようとしたところで、たまたま病死した。帝は、そのために
長楽門でその死を発表し、群臣に詔して宿舎に行って使節を弔問させ、さらに使者をその本国に派遣して、織物三万段を弔慰品として贈った。子の什鉢苾は幼少すぎて可汗位をつぐことができなかったので、泥歩設として東方に居り、弟の俟利弗設が即位した。これが処羅可汗である。
処羅可汗はまた隋の
義成公主を妻とし、使者を派遣して報告してきた。一方でまた
王世充に連絡をとろうとしたので、潞州総管
李襲誉は襲撃してその使者を斬り、牛羊一万余を手に入れ た。処羅は、隋の
蕭皇后と斉王暕の子の
楊正道とを
竇建徳のところから迎え、正道を立てて隋王とし、隋のあとをついだ。隋人の亡命したものはみな従い、隋の暦を用い、百官を置き、定城を居城としたが、人口は一万もあった。
秦王が
劉武周間を討つと、処羅は、弟の歩利設の二千騎をもって并州で合流させた。三日間滞在して、城中の婦人、女子を多数拉致したが、総管の李仲文はそれを制することができなかった。処羅は倶倹特勒を助勢として駐屯させた。明年、処羅は并州を取って正道をそこに置こうと謀ったが、占ってみると不吉と出たので、側近の者が中止をすすめた。処羅は、「わが亡き父が国を失ったときには、隋のおかげで存続することができた。今になってそのことを忘れるのはよろしくない。たとえトが不吉と出ても、神が知らないということはないはずだ。自分で決を下そう」と言った。おりから天から血が雨となって降ること三日に及び、国中の犬が夜になると群がり吠えたが、その姿は見えなかった。そして処羅はついに病気になり、公主が五種の薬石を与えたが、にわかに疽が出て死んだのである。公主はその子の奥射設がいやしく弱々しかったので立てず、またその弟の咄苾をつがせた。これが頡利可汗である。
はじめは莫賀咄設で、五原に本営を置いていた。
薛挙が平涼郡を陥落させると、手を結んだ。
皇帝はこれを心配し、光禄卿の
宇文歆を派遣して、頡利に賄賂して、薛挙との交わりを絶たせた。隋の五原の太守張長遜はその領内の五城をもって突厥に服属していたが、宇文歆はなおまた頡利を説得して、五原の地を返させようとした。みな聞き入れられ、しかも頡利はその兵を出し、張長遜の配下の人びとぜんぶとともに、
秦王の軍に合流した。太子の
李建成が、豊州を廃し同時に楡中(オルドス)を突厥に割譲することを提議した。そこで処羅の子の郁射設は、配下の一万帳とともに黄河の南に入り占住し、霊州を境界とした。
頡利もまた
義成公主を妻とし、始畢の子の什鉢苾を突利可汗とし東方に居らせた。義成公主は楊諧の女である。その弟の楊善経もまた突厥に亡命していたが、
王世充の使者の王文素とともに頡利に対して、「かつて、啓民可汗の兄弟が国を争ったとき、隋のおかげで可汗位を回復し、子孫も国を保つことができた。いまの天子は隋の文帝の後継者ではない。このさい、当然
楊正道を立て、その厚徳に報いるべきだ」と言い、頡利はそのとおりだとしたので、年が入寇してきた。そして父や兄の遺産により、兵は精鋭、馬も多く、おごりたかぶる気持ちは多くの国に比べるものがないほどで、中国をとるにたらぬ対手として、書状の言葉も非道無礼、待ち受け求めることのみ多いありさまだった。
皇帝は、まさに天下経路の途上にあったので、へりくだって多くはすておき、贈り物は数えきれぬほどしていたが、それでも満足せず、際限なく要求してきたのである。
武徳四年(621)、頡利は一万騎をひきい、君璋といっしょに、雁門を攻めたが、定襄王の
李大恩が撃ってしりぞけた。頡利は、わが使者の漢陽公の
李瓌、太常卿の
鄭元璹、左驍衛大将軍の
長孫順徳をとらえていた。
皇帝もまた突厥の使者をとらえて、対抗した。そこで頡利は代州に入寇し、行軍管の永安王
李孝基を破り、黄河の東に侵略し、原州を犯し、延州の塞を破った。諸将は、戦いをかさねたが、俘囚を手に入れることはできなかった。
その翌年になって
長孫順徳らを解放し、同時に和を請うてきた。魚膠を礼物とし、「両国の友好を固くするためである」などとの好辞を弄していて、
皇帝はまだ心を動かされることはなかったが、その使者の特勒熱寒らを釈放し、金を多く与えて、帰国させたのである。
李大恩が、「突厥は食糧がなくなっている。馬邑を攻略すべきだ」と上言した。詔して、李大恩といっしょに殿中少監の
独孤晟に征討させた。独孤晟は約束におくれ、李大恩は進むことができず、新城に駐屯していた。頡利はみずから数万をひきいて
劉黒闥と軍を合わせて包囲し、李大恩は戦死して兵士の死者数千人を出した。忻州に進撃して、
李高遷に破られたが、劉黒闥は突厥の一万の兵をもって太行山の東方をさわがし、定州で暴逆をふるった。頡利はまだ気がすまず、十五万騎をひきいて雁門に侵入し、并州を包囲し汾州・潞州を掠奪し、男女五千人をとらえ、さらに数千騎を分けて原州・霊州の間を掠奪してまわった。ここにおいて、太子の
李建成は兵をひきいて豳州道に出陣し
秦王も兵をひきいて蒲州道に出て敵を攻撃し、
李子和は軍をひきいて雲中に行き可汗の後方を襲い、
段徳操は夏州に出てその帰路を狙った。并州総管の襄邑王
李神符は汾水の東で戦って敵の首五百を斬り馬二千を奪い、汾州刺史の
蕭顗は五千の捕虜を献上した。敵は大震関を陥落させ、弘州で兵にかってに掠奪させたが、弘州総管の
宇文歆、霊州の
楊師道はこれを防ぎ、馬とらくだ数千を捕えた。頡利は、秦王がまさにやって来ると聞き、引きあげて境界から出たのであり、わが軍も引きあげた。
さらにその翌年、突厥は
劉黒闥・苑君璋らと、定・匡・原・朔などの諸州に小規模に入寇し、屯将との間にそれぞれ勝敗があった。
皇帝は太子の
李建成をふたたび北辺に駐屯させ、
秦王を并州に駐屯させて、突厥に対する防衛体制をとらせたが、長く続いたものの廃止された。突厥はとつぜんまた代州の一屯営を破り、さらに進んで渭・豳の二州を攻撃し、馬邑品を占領したが、長くは保有せず、あらためて講和を求めて、馬邑は返還された。
武徳七年(624)、原・朔の二州を攻撃し、代州の地に侵入したが、勝つことができなかった。さらに苑君璋と合して隴州と陰槃城を攻め、別軍は并州の地を攻撃した。
秦王と斉王
李元吉とは、豳州道に駐屯して敵に備えた。君璋と突厥とは、原、朔、忻、并などの地方に出入しては強奪などして騒がせていたが、わが諸将もしばし ばそれを駆逐した。その八月、頡利と突利の兵が総動員されて原州から軍陣を連れて南下してきた。かれらのあらわれた所では震えあがって恐れた。
秦王と
斉王がその防禦に当たった。
その前に関中方面は、長雨で濁流が溢れ、糧食運搬道がとだえていたが、軍が豳州に駐屯すると、可汗の万騎は怒濤のように襲来し、五竜坂に陣とって、数百騎をもって挑戦してきた。わが軍士は色を失ってしまった。
秦王は百騎をひきいてかけ出し、敵陣に乗りこんで大声をあげてこう言った。「わが国は突厥にそむいたことがないのに、なにゆえにわが領域深く侵入するのか。自分は秦王だ。だから、とくにここまで来て、自分で可汗と事を決しようとするのだ。もしあくまで戦いを望むなら、わが方はただの百騎でよい。いたずらに殺傷の数を多くするのは、なんの益もないであろう」と。頡利は笑って答えなかった。また騎士を馳せて、突利に語って言った。「なんじは、かつてわれと危急のときにはお互いに救いあうことを誓ったはずだ。いま神聖なる誓約を無にするのか。ひとつ勝負を決しようではないか」と。突利もまた答えなかった。王はまさに河を渡って進もうとした。頡利は兵が少ないのを見、また突利と語るところを聞き、ひそかにねたんだ。そして使者を派遣してきて、「王よ、なにも心配することはない。自分は、もちろん戦うつもりはなく、ただ王と相談しようと思うだけだ」と言った。そして兵をひいて退いた。間者を突利のところへ放った。そこで心をわが方に帰し、戦おうとしなくなった。頡利もまた強いて戦うことをせず、ために突利と夾畢特勒の思摩を派遣して講和を願った。
皇帝はそれを許した。そして突利自身は、ついに王にたより、兄弟となったのである。皇帝が思摩を引見するとき、御座のところまで昇らせようとしたが、頓首して固辞した。皇帝が、「われが汝にまみゆるのは、頡利にまみゆるのも同じだ」と言ったので、ようやく命に従った。
突厥はすでに毎年国境方面を盗掠していたので、ある者が
皇帝に説いて、「突厥がしばしば国内深く侵略してくるのは、財貨の収めてある倉庫や子供、女の所在を狙ってである。もし長安を抛棄すれば、かれらの意図もやむだろう」と言った。皇帝は、中書侍郎の
宇文士及に南山をこえて樊か鄧に行くことを検討させ、都をそこに移そうとした。諸臣は多く遷都に賛成したが、
秦王だけは、「夷狄は古来中国の患となってきたが、周も漢もそのため遷都したということはなかった。願わくば、ここに数年の時を借していただきたい。そうすれば、可汗を捕えてみせるであろう」と言った。そこで皇帝は遷都を中止した。頡利はすでに講和もしたし、おりから大雨が降り弓矢がみなゆるんでしまったので、ここにいたってついに解囲して引きあげていった。皇帝は諸臣を集めて辺防の策を諮問した。将作大匠の
于筠は、五原、霊武の地で、水軍を黄河に置いて侵入をくいとめることを申しでた。中書侍郎の
温彦博は、魏が対匈奴のためにつくった長い濠が現在も使用できると言った。皇帝は、
桑顕和に国境地帯の大道にほりを作らせ、江南の船大工をよびよせ大勢の兵士を動員していくさ船を整備した。頡利は使者をつかわしてきて、北楼関まで行って、通商せんことを願った。皇帝は拒むことができなかった。皇帝は、はじめ天下を併合すると、十二軍を廃止して、武力によらぬ政治を目ざしてきたが、いまや突厥に対する心配が大きくなったので、またそれを置き、兵卒を訓練し軍馬も集めた。
武徳八年(625)、頡利は霊州と朔州を攻め、代州都督の
藺謩と新城で戦った。藺謩が敗戦した。そこで、
張瑾の軍が石嶺に駐屯し、
李高遷が大谷に駐屯し、
秦王は蒲州道に駐屯することにした、当初、
皇帝は突厥を敵国の礼であつかったが、 ここに及んで怒り、「以前には、わが方は、天下が未だ平定しないので、かれを厚遇し、辺境の整備もゆるめた。それが今とつぜん約束を破ったのである。朕はこれを撃滅しようと思う。一時のがれのこと をすべきではない」と言い、役人に命じて送るのを書としていたのを、詔または勅とさせた。張瑾はまだ駐屯するところまで来なかったのに、すでに石嶺をこえて并州を囲み、霊州を攻め、さらに転進して潞州・沁州をさわがせた。
李靖は軍をひきいて潞州道に出、行軍管の
任瓌は太行山に駐屯した。張瑾は大谷に戦って敗れた。中書郎の
温彦博は賊にとらえられ、鄆州都督の
張徳政はそのとき死んだ。最後に広武を攻め、任城王
李道宗のために撃破された。欲谷設は綏州で掠奪し、講和を申しててひきあげたが、并州の数県を破り、蘭、鄯、彭の各州で諸営に侵入した。かれらはときどき戦勝したが、制圧することはできなかった。とつぜん、原州に侵入したが、折威将軍の
楊屯はそれを撃ち、また兵を出して大谷に駐屯させた。
武徳九年(626)、原州、霊州を攻め、さらに涼州を包囲し、進んで涇州、原州に侵入した。
李靖がそれと霊州で戦ったが、敵は退却して西会州を侵略し、烏城を囲み、隴州、渭州の間をさまよった。平道将軍の
柴紹がそれを秦州で破り、一人の特勒、三人の大将ならびに千人の首を斬った。かれらはたいてい、調子がよければどこまでも深入りし、負けいくさとなると講和を願って恥じないのである。
その七月、頡利はみずから十万騎をひきい、武功を襲撃した。京師には戒厳令がしかれた。高陵を攻めた。
尉徳敬徳がそれと涇腸で戦い、烏没啜を捕え、千余級の首を斬った。頡利は、かれの参謀の
執失思力を派遣して入朝させ、こちらの情勢を探らせたが、かれは誇らしげに、「二可汗の軍百万がいま来ている」と言った。太宗はつぎのように言った。「自分は可汗とかつて対面して和約を結んだのに、お前の方でそれに背いた。また、われわれが正義の軍をおこした当初、お前の方の父子みずから従軍したので、われは無数の財宝を与えた。なぜみだりに軍をひきいては、わが都近くの地にまで侵入し、自分の強を誇示するのか。こうなれば、お前をまず殺すしかない」。執失思力は、おそれ助命を願った。
蕭瑀と
封徳彝とが、かれを礼遇して放免する方がよいと諫言したが、
皇帝は許さず、かれを門下省に拘禁した。そして 侍中の
高士廉、中書令の
房玄齢、将軍の
周範らと六騎でもって馳け出し、
玄武門を出て、渭水のほとりに行き、可汗と河を隔てて語り、その約束に負いたことを責めた。多くのおもだったものたちは、皇帝を見てみな驚き、馬を下りて拝した。そこにたちまちわが大軍がやって来た。旗や鎧はきらきら輝き、部隊は静粛で厳然としていたので、かれらは大いに驚いた。皇帝と頡利とはたづなをひかえ、軍隊には退いて陣どるように指図したのである。
蕭瑀は、
皇帝が敵を軽んじすぎていると考え、馬をひきとめて諫めたが、皇帝はつぎのように言った。「自分は十分考えていることだ。お前の知るところではない。そもそも突厥がその国内をからにして入寇してきたのは、わが国家がまだ新しく、国内に困難があり、軍を起こすことができぬと思ってのことだ。わが方がもし都城内に閉じこもれば、かれらはかならずわが国内で大掠奪を働くだろう。だから自分は一人でとび出し、なにも恐れていないことを示し、一方、軍容をととのえて、必要ならいつでも戦うことを知らしめたのだ。意表外のところを衝いて、わが方がそのそもそもの計略をはばめば、かれの方はもはやわが地に入ってきているのだから、恐れても引き返すこともできない。だから、一戦を交えればかならず勝つし、和約を結べば強固なものとなろう。賊の命を制するのは、このような行動にあるのだ」。この日、頡利ははたして和を請い、それを許した。翌日、白馬を殺して、頡利と便橋のほとりで盟約を結んだ。突厥がひきあげていったとき、蕭瑀がこう言った。「頡利がやって来たとき、多くの将軍が戦うことを願った。しかし、陛下はそれを許されなかった。今や敵はみずから退いたわけだが、いったいこれには、どういうはかりごとがあったのでしょうか」。皇帝はつぎのように言った。「実際は、数は多いが秩序がない。君臣それぞれ狙っているのは、ただ利だけだ。可汗だけは川の西に居るのに、おもだった連中はみな自分の方に拝謁にやってくる。かれらを酔わせて捕縛することなど、きわめてたやすいことだ。また、自分は長孫無忌と李靖に命じて幽州に軍隊をかくして待ち伏せさせてある。もし大軍がすぐ敵の後を追い、前面にまた迎え討つものあれば、それを攻めとることは手のひらをひっくり返すようにたやすいことだ。しかし自分は新しく即位したものだ。国をかためるためには、安静が肝要である。ひとたびかれらと戦えば、死傷者もかならず多く出よう。たとえかれらが負けたとしても、亡びてしまうわけではない。かえってこちらを警戒し、わが国を敵視するようにでもなれば、十分対抗できるだろうか。いま戦いをやめて、玉・帛をやってきげんをとっておけば、かれらはきっとおごりたかぶるであろう。そうなれば、まさに衰亡がはじまるのである。取ろうと思えば、まず十分に与えねばならぬ」。蕭瑀は再拝して、「臣ら愚かものの及ぶところではありません」と言った。そこで、殿中監の
豆盧寛と将軍の
趙綽とに命じて、突厥を護送させた。頡利は馬三千頭と羊一万匹とを献上してきたが、皇帝は受け取らず、詔して捕虜をこちらに返させた。
貞観元年(627)、薛延陀・回紇・抜野古らの諸部がみな頡利に叛いた。突利に討伐させたが、その軍は敗れ、突利は身体一つで逃げ帰ってきた。頡利は怒り、かれを監禁したので、突利はそれから怨みをいだくようになった。この年、大雪が降り、羊馬は多く凍死し、人間も飢餓に陥った。わが軍がその困難に乗じて 出撃しはせぬかと心配し、軍を朔州地方に引き入れ、巻狩りをすると言いふらした。朝廷での会議に集まったものは、その背を責めて討伐すべしと言ったが、皇帝はつぎのように言った。「身分賎しい人間でも、信義がなくてはならぬ。いわんや、一国としてはなおさらである。 自分はそれと盟約を結んでいるのだ。それなのに、その災禍を利用してそれを攻略するなど、どうしてできようか。それがわが方に対して不法なことをしたときには、討伐しよう。」
明くる年(628)、突利は、頡利に攻められたからと、救援を求めてきた。
皇帝は、「朕は頡利と盟約を結んでいるし、また突利とも兄弟となる約束をしたので救わぬわけにはいかぬが、どうしたものか」と言った。兵部尚書の
杜如晦は、「あのものたちには信義がない。 こちらが翌約どおりにしても、あちらは常にそれにそむく。いま乱れているときにそれを攻めるのは、亡ぶべきものは侮るという道理である」と言った。そこで、将軍の
周範に話して、太原にとりでを作り、このことの全般を処理させたが、頡利もまた、軍をひきいて辺境を狙っていた。ある者が、むかしの長城を築きなおし、兵を出して境界を守ることを願ったが、はつぎのように言った。「突厥では、この盛夏に霜がふったし、五日間太陽は同じ時刻に昇り、三日間月は同じ明るさで、野一面に大気は赤色となった。彼が災いをみても正しい道を行なおうとしないのは、天をかしこみ畏れないものである。むやみと移り動いても多く死んだのは、地を用いないものである。その風俗では死者を焼いたのに、いまはみな埋葬し墓をつくっているのは、父祖の命にそむくものであり鬼神をあなどるものである。突利と仲良くしないで内輪で攻めあっているのは、近親のものと相和していないことである。この四つのことがある以上は、まさに亡びるにちがいなかろう。当然、公らのために、それを征服しよう。要塞を築くことなどあろうか。」 突厥の風俗はもともと質素なものであったが、頡利は中国人の趙徳言を得てから、その才能を高くかい、すべてをまかせきりにしたので、だんだんと国政を左右するようになっていた。 また胡人たちにも国政をまかせ、本族の者を遠ざけて用いなかったので、軍を動員して毎年のように中国辺境に侵入するとなると、下のものはその因苦にたえきれなくなっていた。胡人は性質が貪欲であり、無定見で信用ならぬことがしばしばで、その指図するところはいつも変わっていた。年々大飢饉が続いてもきびしく重く、諸部族はだんだんと二心を抱きはじめたのである。
その翌年(629)、属部の薛延陀が自分で可汗と称し、使者を派遣して来た。兵部尚書の
李靖に詔して、突厥を馬邑で攻撃させた。頡利は逃げ去り、九人の俟斤が配下たちとともに降服した。抜野古(バイルク)・僕骨(ボクトゥ)・同羅(トンラ)の諸部や、霫・奚の族長たちもみな来朝してきた。そこで詔して、并州都督の
李世勣には通漠道、
李靖には定襄道、左武衛大将軍の
柴紹には金河道、霊州大都督で任城王の
李道宗には大同道、幽州都督の
衛孝節には恒安道、営州都督の
薛万淑には暢武道に出動させ、ぜんぶで六総管が十余万の軍をひきいて、みな李靖の指揮を受けて、討伐に向かった。
李道宗は霊州で戦って、人や家畜一万ほどを捕えた。突利と郁射設・蔭奈特勒らがみな領民をひきいてやって来た。勝ちいくさが日夜報ぜられて来た。
皇帝は、集まった臣下たちにつぎのように言ったのである。 「さきに国がはじめて生まれたときは、父帝は、国民のために、突厥の下についていた。臣服したふりをしていたのである。朕はいつも心を痛め思い悩みながら、いつかはこの恥を天下より一掃せんと考えていた。いま、天の導きにより、各将軍の向かうところみな勝利を収めている。朕はいまやようやく事を成し遂げるのであろうか」
貞観四年(630)正月、
李靖は軍を進めて悪嶺定の方に駐屯し、頡利に夜襲をかけた。頡利は驚き、本営を磧口まで逃げた。大首領の康蘇蜜らが、隋の蕭皇后と楊正道を連れてきた。中国人で以前ひそかに皇后と文通したものがあると言うものがあって、中書舎人の陽文瓘がとり調べ罰するよう願った。
皇帝は「天下がまだ統一されていないときに、人があるいは隋のことを思うのは当然である。いまは寝がえりするものも、もういない。罰する必要などはない。とり調べることもない」と答えた。頡利は窮して鉄山に逃げ籠もったが、兵力はなお数万あった。執失思力を派遣して、うわべは哀れそうに罪をわび、服属することを乞うた。皇帝は、鴻臚卿の
唐倹、将軍の
安修仁らに命じて、特使として派遣してそれを安撫させた。唐倹がかれらのところに居る以上、かれらはかならずや安心しているだろうと察知した李靖は、そこでそれを襲撃し、民衆をみな捕えてしまった。頡利は千里馬を手に入れ、ひとりで沙鉢羅設のところへ逃げのびた。行軍副総管の
張宝相が頡利をとりこにし、沙鉢羅設の蘇尼失は、その配下のものたちとともに降服してきた。突厥の国もついに亡びた。定襄・恒安の地もとり返し、ゴビ砂漠まで境域はひろがったのである。
頡利が都に到着すると、皇祖のおたまやにいけどりにしたことが報告された。
皇帝は
順天楼に臨御され、儀仗隊を配置し、一般民衆に見物させた。役人が可汗を引き立ててくると、皇帝は つぎのように言った。「汝の罪は五つある。汝の父のとき、国が破れ隋に頼って安んずることができた。一本の鏃の力だけの助けもせず、先祖のおたまやにいけにえを供えないようにした。これがその一である。わが国と隣国でいながら信義を守らず辺境をさわがせた。その二である。兵力に頼って戦うことを止めず、配下の諸部落は怨恨をいだくにいたった。その三である。中国人をおびやかし、いため、作物を荒らしてしまった。その四である。縁組みを許したのに、ひきのばして逃げかくれした。その五である。朕が汝を殺しても、十分の理由がある。渭水のほとりでの盟約はいまだ忘れていない。だから、あくまでも責めるということはしない」。そこで、その家族郎党をみな返してやり、太僕寺に宿をとらせて食料を支給した。
思結俟斤が、四万の民衆とともに投降してきた。可汗の弟の欲谷設は高昌に逃げたが、それからまた投降してきた。伊吾の町の主長はもと突厥に服属していたものだが、配下の七城全部をもって献上してきたので、その土地を西伊州とした。
皇帝は詔して、「突厥はむかし流行病におそわれ、長城の南には骸骨が丘をなしている。役人は神酒と供物をそなえて 祭りをして埋葬せよ」と命じた。さらに詔して、隋朝時代の動乱で多くの中国人が突厥の手中に入っていたのを、使者を派遣し、黄金絹織物で男女八万人を買い戻し、平民とした。
頡利は家屋内で暮らそうとせず、平常は宮城内に天幕を張って暮らしていた。いつまでもふさぎこんでいて、はっきりせず、家族と悲歌をうたっては、いっしょに泣いていた。顔つきも、げっそりとやつれてしまった。
皇帝はそれを見て憐れに思い、虢州が山を負っていて鹿の類が多く、狩猟の楽しみも多いだろうと考えて、刺史にしようとした。しかし辞退して赴任しようとしなかったので、右衛大将軍に任命して、りっぱな土地と邸宅を賜わった。皇帝 はこう言った。「むかし啓民可汗が国を亡ぼしたが、隋の文帝は食糧、衣料を惜しむことなく、人びとを励まして、もり立てて、存立させた。始畢のときになるといくらか強くなり、軍隊でもって煬帝を雁門で包囲した。いま頡利が破れ亡びたのも、かれらが徳にそむき義を忘れ、必然の結果でなかろうか」。頡利の子の畳羅支はひじょうに善良な性質だった。突厥人たちが都で宿舎を与えられると、多くの婦人たちはいろいろなものを供給され、畳羅支も貰ったが、その母はさいごにやって来たので貰えなかった。そのため畳羅支は肉も食べようとしなかった。皇帝はその話を聞いて感心し、「生まれながらにして仁、孝の徳をそなえているものは、中国の人も異国の人も区別はない」と言い、かれに手厚く物を賜い、母親にも肉を供給した。
貞観八年(634)、頡利は死んだ。帰義王の号を贈り、荒という謚を賜わった。その国の人たちに命じて、それを葬るのに、その礼式に従って火葬させ、濁水の東に墓をつくらせた。その家来の、胡禄達官の吐谷渾邪という者は、頡利の母の婆施の勝臣(婚前からのつきそい)であった。頡利が生まれると吐谷渾邪のところにあずけられていたのであって、このとき悲しみのあまり自殺したのである。
皇帝は珍しいことだとして、中郎将の号を贈 り、命じて頡利の墓の側に葬らせ、中書侍郎の
岑文本に詔して、その事を頡利と渾邪の墓碑に刻ませた。間もなくすぐ、蘇尼失も殉死した。蘇尼失は啓民可汗の弟である。始畢は沙鉢羅設にしたが、配下は五万帳、その本営は霊州の西北にあった。風貌は雄々しく勇敢で、下のものに対してはめぐみ深く、多くの人が信服していた。頡利の政治が乱れても、かれのところだけは反逆することがなかった。頡利が唐に降ったとき、頡利は小可汗にしていたが、頡利が敗れてしまったので、配下のものぜんぶをつれてやって来て、ゴビ以南の地にはついに人影もなくなったのである。北寧州都督、右衛大将軍に任ぜられ、懐徳王に封ぜられたといわれている。
頡利がほろぶと、その支配下にあったものは、薛廷陀のところへ行ったり西城に入ったりしたものものもあったが、なお唐へ降ったものも十余万あった。
皇帝は命じて、その処置に対すれ適策を討議させた。みなが言ったのは、「突厥は永年中国をさわがせていたが、いま天がそれを亡ぼしたのであって、義を慕いすすんで帰服したのではない。降伏したものや捕虜にしたものをみな戸籍に入れ、兗州・豫州の無人の地に住まわせ、耕作、織物などを習わせてほしい。この百万人の虜たちも斉の人にしてしまうことができるので、それは中国の人口をふやし、砂漠の北の土地を無人にすることになる」ということだった。中書令の
温彦博は、つぎのような提案をした。「漢の建武帝の時に、降伏した匈奴人を五原の辺境地帯に置き、その部落はそのままにして防衛の任に当たらせたようにする。その固有の風習を変えずに安撫するのであって、無人の地に人が住み、しかも疑惑の意図もないところを示すことになる。もし兗州や豫州にまで入れると、かれらの本性 にもそぐわず、包容し育てる道ではない」。秘書監の
魏徴は、このように提案した。「突厥は、代々中国の敵となっていた。いまやって来て降伏した。ただちに滅ぼしてしまうのでないならば、黄河の北へ追い返すべきである。かれらは鳥獣のように粗野な心を持つもので、われらと同類ではない。弱いときには下手にでるが、強くなればすぐ叛くというのが、その天性である。秦や漢のとき、精鋭なる軍隊と勇猛なる将軍でもって黄河の南の地方を占領して郡や県としたのは、中国に近づけさせたくなかったからである。陛下が突厥を黄河の南の地に居らせようとされるのは、どういうことか。そして降伏してきたものは十万を数える。数年もたてば、増えて二倍になるだろう。しかも、都にも近い。これは治しにくい胸と腹の病というべきである」。温彦博は言う。「そうではない。天子は、四方の夷にとっては、天地万物を養うように、上から覆いあるいは下から載せるかのようにして安全ならしめるものである。いま突厥は破滅し、残ったものが帰服してきたのに、それに憐れみを加えずに放っておくことは、天が覆い地が載せるようにという道義にもとり、四方の夷に手をさしのばさぬと見なされよう。私は思う。かれらを黄河の南の地に居らせることは、死ぬものを生かし亡ぶものを存在させることになり、かれらは代々その徳を忘れないはずで、そむくことがどうしてあろうか」。魏徴は言う。「魏のとき、胡人の部落が近くの郡のあちこちにあった。晋呉を平定すると、郭欽と江統が晋の武帝にそれを追い出すことを勧めた。しかし武帝はその策をとらず、劉淵・石勒の乱がおこって、ついに中国を倒した。陛下があくまでも突厥を引 きいれて黄河の南に居らせようとされることは、いわゆる虎を飼うことによって自分から災難をのこすということと同じようなものである」。温彦博は言う。「聖人の道は通ぜぬところはない。それで、教えるときに差別はないともいわれる。かれらの傷つきいためつけられながら生き残ったものが、窮してわが方に帰服してきたのである。われわれは、それを助け保護して、内地に入れ、礼法を教え、農耕を身につけさせ、また酋長たちの中から良いものを選んで宮廷の宿直番にもつければよい。なにを心配することがあろうか。光武帝は南匈奴の単于を五原に置いたが、けっしてそむきはしなかったではないか」。中書侍郎の
顔師古、給事中の
杜楚客、礼部侍郎の
李百楽らはみな皇帝に勧めて、「黄河北方の地方に居らせ、おもだった者を立ててそれぞれの部落をまとめさせ、土地の大小があっても主従関係を結ば せぬのがいちばん良い。そうすれば国は小さく、権力は分散し、もう中国に敵対することはできない。長い手綱で遠くから馬をあしらうというやり方である」とした。しかし皇帝は、温彦博の言うところを尊重し、けっきょく朔方(北方)の情況を調べ考えて、幽州から霊州の間に、順州・祐州・化州・長州の四州を設置して都督府とした。頡利のむかしの領土は分割して、左は定襄都督、右は雲中都督を置いて、二都督府で統治させた。おもだった酋長たち五百人を将軍や郎将にし、朝廷への伺候を許されたものも百人ちかくあり、長安に入って戸籍登録されたものは数千戸あった。そこで突利可汗を順州都督とし、配下のものをひきつれて、その所領に行かせることにした。
突利は、はじめ泥歩設だった。隋の
淮南公主がやってきたとき、彼女を妻とした。頡利が即位すると、すぐ下の弟を延陀設として延陀部を支配させ、歩利設に霫部を支配させ、統特勒に胡部を支配させ、斛特勒に斛薛部を支配させ、突利可汗には契丹・靺鞨の両部を支配させた。かれの本営は、その南の方角に幽州のあるところに置かれた。東部の民衆がぜんぶかれの管轄下となったが、突利は無法に搾取したので、配下のものはついて行こうとしなかった。そこで、薛延陀・奚・霫などがみな唐に内属した。頡利はそれらを突利に攻めさせたが、また大敗して、配下のものたちも騒ぎみだれてかれから離れていく始末だった。頡利はついにかれを召しとり笞うち、長い間ゆるさなかった。突利はかつて、すすんで
太宗と手を結んでいた。そののち頡利が衰えると、しばしば突利から軍隊を出させようとしたが、かれはそれに従おうとしなかったので、それより攻めあうようになったのである。突利が入朝を願ったとき、
皇帝は近侍の臣たちにつぎのように言った。「昔から、国を治めるのに、自分が苦労しながらもひとのことを心配するようなら、その国は長くつづくが、人を使って自分に仕えさせようとすれば、その国はかならず亡びる。いま突厥が衰え乱れたのも、その可汗が主君としてなっていなかったからである。突利はごく身近な人間であったのに、どうしようもなくなってやって来た。夷狄どもが弱ければ、辺境地帯も安心である。しかし、その亡ぶのを見ると、自分としても心配せざるをえない。自分にも不十分なことがあり、災難なしにすましうるかと思うからである」。そして、突利がやって来ると、かれを丁重にもてなし、食事を中止してそれを賜わった。右衛大将軍に任じ、北平郡王に封じ、七百戸の食邑を与えていた。都督とすることになって、
太宗は、つぎのように言った。「汝の祖父の啓民が破れ亡んだとき、隋はそれを回復させたのに、その徳をかえりみず、それ に報いることもせず、汝の父の始畢はかえって隋の敵となった。汝はいま窮してわが方に投降してきた。自分が汝を立てて可汗としないのは、前の失敗を考えるからである。自分は、中国が平安であるように、また汝の一族も亡びないでいてほしいと思うので、汝を都督にするのである。お互いに侵掠しあうことなく、永らくわが北方の一藩でいるように」。突利は、頭を下げてぬかずきながら、命ずるところに耳をかたむけていた。そののち入朝してきたとき、并州道まで来て、死んでしまった。二十九歳であった。皇帝はかれのために葬式を行ない、また岑文本に命じて墓に銘文を書かせた。子の賀邏鶻が後をついだ。
皇帝が
九成宮に行幸されたとき、突利の弟の結社率は郎将として宿直番に当たっていたが、ひそかに同族人と連絡をとり、反乱をおこして無理やりに賀邏鶻を連れて北方に帰ることを企てた。そしてその一党に、「晋王(のちの
高宗)が丁夜(午前二時、第四直時)に先ばらいの兵士たちがついて外出すると聞いている。その隙をついて進めば、皇帝の居所に侵入できよう」と言った。この夜は大風が吹き真暗となったので、晋王は外出しなかった。結社率ははかりごとがもれるのを恐れ、すぐ中央の陣営に矢を射かけ、騒ぎたてて人を殺した。番兵たちは力を合わせてそれを撃退したので、かれらは逃げ、厩番を殺し、馬を盗んで、渭水を渡ろうとした。見まわり兵が捕えて斬った。賀邏鶻の罪はゆるし、秦嶺の外に追放した。このようなことがあって、多くの家臣たちも、あらためて、突厥を中国に居住させることはよろしくないと言うようになった。皇帝もまたそれを心配していたので、阿史那思摩を立てて乙弥泥孰俟利苾可汗とし、李の姓を賜い、その本営を黄河の北に置かせ、すべての人たちをそのむかしの土地に帰らせることにした。
思摩は頡利の一族である。父は咄六設である。かつて啓民が隋に逃げたとき、砂漠以北の諸部族は思摩を可汗に立てたが、啓民が国に服すると、可汗を称することをやめた。性格は開放的でかしこく、占いをよくした。始果・処羅の両可汗とも、かれをかわいがったが、その 顔つきが胡人(イラン系)に似ていたので、阿史那族ではないのではないかと疑った。そのため、ただ夾畢特勒であって、設にはなれなかったのである。武徳年間のはじめ(618頃)、たびたび使者としてやってきた。高祖はその誠実さに感心して、和順郡王に封じた。諸部族の多くが中国に通じるようになっても、思摩だけは残って、頡利といっしょに捕われた。
太宗は忠義なことであるとして、右武候大将軍、化州都督に任じ、もと頡利の配下にあった諸部を統治させ、黄河南方の地に居らせ、さらにのち移して懐化郡王に封じたのである。ここでまさに移住しようとするときになって、かれらは内心で薛延陀を恐れ、境界から出ようとはしなかった。
皇帝は、司農卿の郭嗣本に命じて、勅使として薛延陀に書状を届けさせた。それにはつぎのようにあった。「中国は、礼と義をおもんずる国であるので、いたずらにその国を滅ぼすことはない。頡利は無法で残忍だったから、討伐し捕えたので、けっしてその土地や人民を取ろうとしたのではない。それゆえ降伏した部民を黄河の南方に住まわせたので、そこの茂った草やすばらしい泉は、牧畜に役だち、人口も日々ふえている。いままた、思摩を可汗として、その昔の領域に帰らせようと思う。薛延陀が可干位の命を受けたのは前のことであり、突厥よりは上である。砂漠以北はすべて薛延陀が支配し、その南は突厥がそれを有する。おのおの境を守って、お互いに犯すことがあってはならぬ。もしこのとりきめに負くようなことがあれば、自分は自身で軍をひきい、その罪あるものを討伐しよう」。思摩はいよいよ出発することになった。皇帝はそのために酒宴を催し、思摩を前によびよせて言った。「一本一草も、植えてそれが成長し茂るのを見るのは楽しみである。ましてや自分にとって、汝の部人を養い、汝の馬、羊を育て、昔のようにしたのは、なおさらのことである。汝の父母の墓は黄河の北にある。いま汝は昔の治所を復活させるのである。酒宴を催し、また門出を慰めよう」と。思摩は泣き、酒盃を捧げ、万年の長寿を祈り、そして言った。「わが国が滅亡したあげくにも、陛下は、わが身を故郷になおあらしめたもうた。願わくば、わが子孫は、いつまでも唐につかえて、厚いおめぐみに報いますように」と。趙郡王の
李孝恭、鴻臚卿の
劉善因は、思摩の部落まで行った。そこでは壇場を黄河のほとりに築き、うやうやしく可汗任命の書を授け、またそれにつづみと大旗とを賜わった。なお帝は詔して、左屯衛将軍の阿史那忠を左賢王とし、左武衛将軍の阿史那泥孰を右賢王にして、その大臣とさせた。
薛延陀は、突厥が北に向かったのを聞くと、その領民が逃亡し、砂漠を越えることを心配し、兵をととのえて待っていた。警告のため唐の使者が行くと、つぎのようなことわりを言った。「天子が侵略しあってはならぬと言われた以上、その言葉にはつつしんで従う。しかし、突厥はすぐ裏切る。かれらが滅亡する以前、中国人を麻を断つように殺した。陛下はかれらを破ったが、思うに、かれらの一族、領民はみな奴婢とし、唐国民のつぐないとすべきだったのに、かえって子供を養うような扱いをした。そのあげく結社率がそむいた。このように、信用できぬことはきわめ て明瞭で、今のような扱いをしていてはのちに乱があるだろう。陛下のために徹底的にかれらを責め討たせてほしい」。貞観十五年(641)、思摩は、十余万の人びと、兵力四万、馬九万頭をひきいて、はじめ黄河を渡り、昔の定襄城に本営を置いた。その土地は、南は大河、北は白道川で、広範に牧畜ができ、竜荒(北方の民)の地ではもっとも豊かなところで、突厥人たちは争ってそれを利用しようとしていたところである。思摩は使者をつかわしてお礼を言 い、「陛下のおめぐみによって突厥を支配する者となったが、代々お国の番犬となって、天子の北門を守護したい。もし薛延陀が侵略してくれば、長城の内側まで入って、その線で守らせてほしい」と言った。帝は命じてそれを許した。
三年たって、思摩はその配下のものをつなぎとめておくことができなくなり、多くのものがそむきはじめた。思摩はそれを恥じ、入朝し、志願して宿直番に入った。あらためて右武衛将軍を拝命した。遼東遠征(高句麗討伐)に従軍し、流れ矢にあたった。帝はかれのために傷口の血を吸ったが、そのいつくしみの厚いことは、このようであった。遠征から帰り、都で死んだ。兵部尚書・夏州都督の号を追贈し、
昭陵(太宗が生前自分のために築造した陵墓)に陪葬し、墳土をきずいて出身地の白道山をかたどり、その功労を碑にきざんで化州に立てさせた。
右賢王の阿史那泥孰は、蘇尼失の子である。はじめわが国に帰服したとき、皇室の女を妻せ、忠という名を賜わった。思摩に従って国外に出たものの、中国を思慕し、唐の使者に会うと涙を流し
皇帝の側近として仕えたいと願った。帝はそれを許可した。
思摩がもう国を保持できなくなり、 残っていた人びともつぎつぎに南下して黄河を渡り、勝州、夏州の間に散らばって居住していた。帝が遼の地(高句麗)を征討しようとしたとき、「突厥が黄河以南に居り、都にも近いから、東征しないでほしい」という者がいた。帝はこう言った。「君主たるものは、疑ってはならぬ。殷の湯王や周の武王が桀王や紂王の民を教化したとき、善導されないものはなかった。隋が正道を失ったときには、天下みなそれにそむいた。なにも夷狄だけがそむくのではない。朕は突厥の滅亡をあわれみ、黄河以南に入れ、助け元気づけた。そのため かれらは近くの薛延陀のところに行こうとせず、むしろ遠くのわが方にやって来た。それほどこちらの方に心を深く寄せているのである。朕は五十年の策を立てている。中国は突厥にわずらわされることはなくなるであろう」。思摩の領民が南下してしまったので、車鼻可汗がその土地をとってしまった。
車鼻もやはり阿史那の一族で、突利領内の者だった。名は斛勃で、代々小可汗であった。頡利が敗れると、諸部は共同してかれを君長にしようとした。そのとき薛延陀の長が可汗を称したの で、車鼻もすすんでそれに帰服した。その人となりは沈着果敢で、知恵もあり、人びとは心服していた。薛延陀はにくみおそれ、おどしたので、車鼻は領民をひきいて逃げ、薛延陀の数千騎が追跡したが勝つことができず、車鼻たちは金山(アルタイ山)の北方にもぐりこんでしまった。その土地は三方が断崖になっており、ただ一方だけが車や騎馬が通りうるところで、土地はゆたかで平らで広い。そこを占拠したのである。兵力は三万、みずから乙注車鼻可汗と号した。長安よりは一万里である。西は葛邏禄、北は結骨のだったが、それらをみな支配した。ときどきは出ては薛延陀の人間や家畜を掠奪していた。薛延陀はそののち衰え、車鼻の勢力はますますさかんとなった。
貞観二十一年(647)、 子の沙鉢羅特勒をつかわして来朝し、産物を献上し、また自分自身も入朝したいと願った。帝は、雲麾将軍の安調遮・右屯衛郎将の韓華を派遣し、迎えに行かせた。かれらが到着してみると、車鼻はのけぞりかえっていて、入朝の意志などない。韓華が、葛邏禄と手を結んでおどしせまることを考えたが、車鼻の方でそれを知ってしまい、韓華は車鼻の子の陟苾特勒と争いたたかって死に、安調遮は殺された。帝は怒り、右驍衛郎将
高偘を派遣し、回紇・僕骨の兵を動員して攻撃させた。その大酋長の歌邏禄泥孰闕俟利発や処木昆莫賀咄俟斤らが、あいついで降してきた。高偘の軍は阿山で攻撃を加えたが、車鼻の民は戦おうとせず、かれは愛妾をつれ、数百騎を従えて逃走した。高偘は追跡し、金山まで行って捕らえ、都に送った。
高宗は車鼻を責め、こう言った。「頡利が敗れたときお前は助けなかった。縁者をかまわぬものである。薛延陀が破れたとき、お前は逃げてしまった。忠ならざるものである。したがって、罪はまさに死に価する。しかし朕の見るところ、先帝は捕虜とした酋長をみなゆるしている。いまお前の死も免じよう」。そして縛をといてやった。帝は先祖の前で捕虜を責め、さらに、
太宗の
昭陵の前にも連れて行った。左武衛将軍に任じ、長安に家も与えたが、その領民は鬱督軍山に居らせ、狼山都督府を設置して統治した。それ以前、車鼻の子の羯漫陀は、泣きながらかれを諌め、唐国に帰服しようと言ったが、聞き入れられなかった。そこで子の菴鑠を入朝させ、そのあと自分も来降してきた。帝はかれを左屯衛将軍に任じ、新黎州を設置して領民を統治させた。ここにおいて、突厥はすべて辺境守護の臣下となったのである。はじめて単于都護府を置いて狼山・ 雲中・桑乾の三都督に蘇農などの二十四州を統治し、瀚海都護府に、金微・新黎など七都督に仙蕚・賀蘭など八州を統治させ、おもだった者を選んで都督または刺史とした。麟徳初年(664)、それまでの燕然都護府を瀚海都護府と改称して、回紇を統治させ、もとの瀚海都護府をむかしの雲中城に移して、雲中都護府とした。砂漠以北の異民族の州は、みな瀚海都護府に属し、以南のものは雲中都護府に属した。雲中は義成公主の居たところである。頡利のほろんだあと、
李靖が、突厥の弱りはてたものたち数百帳(家族)をそこに移住させ、阿史徳をその長としていた。かれらもようやくさかんとなったので、李靖は意見を上申し、諸王のうち誰かをもって可汗とし、現地に行かずに統治することを願った。帝は、「いまの可汗はむかしの単于である」と言って、雲中都護府を単于大都護府と改め、殷王の李旭輪(のちの
睿宗)を単于都護とした。帝が泰山で封禅の儀を行なったとき、 都督の葛邏禄叱利ら三十余人が随行して泰山の麓まで行ったが、儀式が終わると、帝は命じて名を封禅記念碑にきざみこんだという。
およそ三十年間、北方で戦いのしらせはなかった。 調露初年(679)になって、単于都護府管内で、大酋の阿史徳温傅と奉職との二部が反乱をおこし、阿史那泥孰匐を立てて可汗とした。二十四州の酋長がみな、それに呼応してそむいた。そこで、鴻臚卿で単于大都護府長史の
蕭嗣業、左領軍衛将軍の
苑大智、それに右千牛衛将軍の
李景嘉らに討伐させた。しかし優勢をよいことにして備えを怠っており、たまたま雨から雪まで降って、兵士は寒さにこごえ、逆に敵に襲われて大敗し、一万余人が殺された。苑大智らは、残兵を集め、進んでは戦い、戦っては進みして、なんとか逃れたのである。このため蕭嗣業は桂州に流罪となり、その他の者も連座して免官となった。あらためて礼部尚書の
裴行倹を定襄道行軍大総管とし、太僕少卿の
李思文、営州都督の
周道務、西軍の
程務挺、東軍の
李文暕をひきいて、全軍およそ三十万で反逆者を捕え討たせることにした。帝はさらに命じて、右金吾将軍の
曹懐舜を井陘に、右武衛将軍の
崔献に絳州の竜門に駐屯させた。明くる年 (680)、裴行倹は黒山で戦い、大いに敵を破った。阿史那泥孰匐をその配下の者が斬り、かれの首を持ってきて降伏した。奉職を捕え帰還した。残った連中は狼山にとじこもった。はじめかれらがそむく前、鶏が鳴きながら群をなして飛び、国境内に入ってきた。土地役人が、「世間でいう突厥雀だ。南に飛んできたから、突厥がやってくるにちがいない」と言っていた。春になって北に帰って行ったが、そのときは、みな途中の霊州、夏州の間で落ち、しかも多くは首がなかった。はたして泥孰匐はせん滅されたのである。狼山の残党が雲州を掠奪したが、都督の
竇懐哲と、右領軍中郎将の程務挺とがそれを追いはらった。
永隆の年(680)、温傅部はまた頡利の一族の子の阿史那伏念を夏州から迎え、黄河をいそぎ渡ってきたかれを立てて可汗とした。諸部もそれに応じ従った。そしてその翌年(681)には原州・慶州に侵略してきた。帝はふたたび
裴行倹を大総管に任命し、右武衛将軍の
曹懐舜と幽州都督の
李文暕とに補佐させた。敵のまわし者が、「伏念と温傅とは黒沙に居るがひじょうに食糧が欠乏している。軽装備の騎兵だけで攻めとることができる」とだましたところ、曹懐舜だけは信用し、軍の装備を軽くさせ、急行して黒沙まで行った。しかし敵に会わず、薛延陀の残衆を発見して降服させただけだった。ひきかえして長城まで来たところで温傅の軍と出あい、戦って双方同じくらいの戦死者を出した。裴行倹の軍隊は、代州の陘嶺の入口で、とりでを築いて守って いたが、まわし者を敵の方へ送りこんだ。そのため伏念と温傅とは反目しあうようになったので、そこで軍を出して伏念を攻撃し、それを破った。伏念は逃走したが、曹懐舜と遭遇し、一日中両軍は移動しながら合戦をくりかえし、最後に曹懐舜は伏念に破られ、軍を捨てて雲中に逃げた。兵士たちは敵の乗ずるところとなり、無数の死者が出たが、みな故郷を思って首を南にむけてたおれていたという。曹懐舜はいけにえを殺して伏念と誓約を結び、それで死を免れたのである。伏念はさらに北方に行き、荷物や妻子は金牙山にとめておいて、軽装備の騎兵だけで曹懐舜を襲撃しようとした。ちょうど裴行倹の派遣したある隊長がその荷物を襲いとったので、伏念はひきあげようとしたが帰るところがなくなり、北方に逃げ細沙に拠った。 裴行倹は単于都護府の駐屯兵を出し追跡させた。伏念は、唐軍がそれほど遠くまで来ることはできぬと思い、備えをしていなかったので、唐軍が行くと驚き恐れ、戦いを交えることができなかった。そしてけっきょく使者を間道づたいに裴行倹のところまで派遣し、温傅をつかまえて降伏してきたのである。裴行俊はそれを捕虜として都に送った。長安の
東市で斬刑に処せられた。
永淳元年(682)、骨咄禄がまたそむいた。骨咄は頡利の親類である。雲中都督の舎利元英配下の一首領だった。代々吐含をついでいた。伏念が敗れると、骨咄禄は散亡したものをよせ集めて総材山を拠点とし、黒沙の城も占有した。五千余人おり、九姓の家畜や馬を盗みとり、だんだんと強大になっていった。そこでみずから立って可汗となり、弟の黙を殺に、吐悉匐を葉護とした。そのころ、単于都護府管下で、唐に降付した突厥家族部落を監理している阿史徳元珍なる者がいて、単于府の長史の
王本立のところにある罪で拘禁されていた。骨咄禄が侵略してくると、元珍はかれを説得して諸部をかえさせ、罪ほろぼしとしたいと願ったので、王本立はそれを許した。ところがかれはむこうへ行くとすぐ骨咄禄に降り、その謀議に加わったのであり、骨咄禄はさいごには、かれを阿波達干とし、全軍兵をその指揮下に入れた。それから突厥は単于都護府の北辺を侵略し、ついに并州を攻め、嵐州の刺史の
王徳茂を殺した。一部はさらに定州を掠奪したが、北平郡刺史の霍王の
李元軌がそれを撃退した。つぎには媯州を攻め、都護を包囲して司馬の
張行師を殺し、蔚州を攻めては、刺史の
李思倹を殺し、豊州都督の
崔知弁を捕えた。帝は命じて、右武衛将軍の
程務挺を単于道安撫大使として、辺境防備にあたらせた。
嗣聖・垂拱(684-688) 年間に突厥は連続して朔州・代州などに侵略し、役人などを連れさったりした。左玉鈴衛中郎将の
淳于処平が陽曲道総管となり、賊を総材山に攻撃しようとして忻州まで来たところで、賊と出会い、力のかぎり戦ったが失敗し、死者五千人を出した。あらためて
武后は天官尚書の
韋待価を燕然道大総管とし、討伐させた。その翌年(687)、また昌平に侵入してきた。右鷹揚衛大将軍の
黒歯常之がそれを撃退したが、こんどは朔州地方に やって来た。黒歯常之はそれと黄花堆で戦って、敵が敗れて逃げるのを四十里ほど追った が、砂漠を越えて遁走してしまった。右監門衛中郎将の
爨宝璧も敵を追跡しようとした。賊がすぐ破滅すると考え、うまくやって手がらを立てたいと思った。そこで志願者をつのって境外二千里までを偵察させ、賊の無防備のときをねらおうとした。ところがいまや賊の居ると ころに到達するというところで、そのことを兵士たちに漏らしたところ、賊にも伝わり、賊は陣容をととのえて出撃することができ、みな死力をつくして戦ったが大敗した。宝璧は逃げ帰ったが、全軍が敵の手に落ちたのである。武后は怒って、宝璧を処刑し、骨咄禄を改めて不卒禄とよぶことにした。そのご間もなく、元珍は突騎施を攻撃中に戦死した。天授年代のはじめ(690)、骨咄禄は死んだが、その子は幼くて即位できなかった。
黙啜がみずから立って可汗となった。位をうばってから数年して、はじめて霊州を攻め、多くの住民を殺し掠奪した。
武后は、
薛懐義を朔方道行軍大管とし、内史の
李昭徳を行軍長史に、鳳閣鸞台平章事の
蘇味道を司馬として、朔方道管の
契苾明・鴈門道総管の
王孝傑・威化道総管の
李多祚・豊安道総管の
陳令英・瀚海道総管の
田揚名らを指揮させ、ぜんぶで十八将軍の軍が国境を出て、中国人、外国人の歩兵、騎兵がいっしょになって討伐に向かった が、賊に出会わず、ひきあげた。間もなく、王孝傑を朔方道行軍総管に任命し、辺境を整備させた。契丹の李尽忠らがそむいたとき、黙啜は、賊を討伐してお役に立ちたい、と願ってきたので、詔してそれを許した。左衛大将軍の官を授け、帰国公に封じ、左豹韜衛将軍の
閻知徴を先方まで行かせ、国書を与えてかれを遷善可汗とした。そこで黙啜は軍をひきいて契丹を攻撃したが、たまたま李尽忠は死に、突厥軍は松漠の部落を襲撃し、李万栄の妻子や荷物類をみな手に入れた。契丹のおもだった連中はつぶれてしまった。武后はその功をほめたたえ、ふたたび閻知微に命じて、勅使として行き、黙啜に特進の称号を与え、頡跌利施大単于立功報国可汗とすることにした。その任命がまだ行なわれないうちに、にわかに霊州・勝州に攻めこみ、殺人、略奪などしたいほうだいのことをしたが、駐屯軍のため破られた。そこでまた使者を派遣してことわりを言い、武后の子となることを願い、また、娘があるので諸王の誰かに娶せたいとも言った。さらに河曲六州の降戸の返還を求めたが、その前に、突厥の内属したものを豊・勝・霊・夏・朔・代など六州の間に分散居住させており、それを河曲六州の降人とよんでいたのである。黙啜はまた種粟十万石、農器具三千点、鉄数万斤もほしがった。しかし武后は許さず、宰相の
李嶠もまた、よろしくないと言った。黙啜はうらみ、なまいきな言葉づかいをして、わが使節の司賓卿の
田帰道を拘束してしまった。そこで、納言の
姚璹らが申してて要求したものを黙啜に与えるよう願った。その結果、栗、農具、降人数千家族が黙啜のものになり、それいらい、突厥は強くなってしまったのである。
武后は詔して、淮陽王の
武延秀に黙啜の女をむかえて妃とするようにさせ、命じて、
閻知微に春官尚書の官を兼ねさせ、司卿の
楊鸞荘とを勅使として武延秀を護送させた。かれらが到着すると黙啜は、つぎのようなわけのわからぬことを言った。「自分は、娘を唐の天子の子に嫁がせようと思っていた。いま来ているのは、武后の家の子ではないか。また自分たちは代々唐に帰付しているのに、いま聞くところでは、唐家の子孫としては二人だけしか居ないとか。自分は、その者たちを唐皇帝に立てねばならぬ」と。そして武延秀らを拘禁しておいて、閻知微をかってに可汗とよび、黙啜自身、十万騎を指揮し、静難、平狄、清夷などの軍を攻撃した。静難軍使の慕容玄崱は兵五千とともに降伏した。賊はさらに侵入して媯州・檀州を包囲した。武后は詔して、司属卿の
武重規を天兵中道大総管、右武威衛将軍の
沙吒忠義を天兵西道総管、幽州都督の
張仁亶を天兵東道総管にして、兵およそ三十万で攻撃させ、右羽林大将軍の
閻敬容と
李多祚とを天兵西道後軍総管とし、その兵はまた十五万だった。黙啜は蔚州の飛狐県を破り、さらに進んで定州をふみにじり、刺史の孫彦高を殺し、家を焼きはらって、村々は空っぽになってしまった。 武后は怒り、詔を下して、「黙啜を斬る者あれば王とする」と懸賞をかけ、また斬啜とよぶことにした。賊は趙州を包囲し、長史の
唐波若がそれに通じたため、入りこんで刺史の
高叡を殺した。さらに進んで相州を攻めた。武后は詔して、沙吒忠義を河北道前軍総管 に、李多祚を後軍総管に、将軍の嵎夷公の富福信を奇兵総管として、敵を攻撃させた。そのとき
中宗が房陵郡より帰還して皇太子となり、行軍大元帥を拝命した。納言の
狄仁傑を副元帥とし、文昌右丞の
宋玄爽を長史に、左粛政台御史中丞の
霍献可を司馬に、右粛政台御史中丞の
吉頊を監軍使に、将軍の扶余文宣ら六人を子総管とした。まだ出陣しないうちに黙啜はそれを聞き、趙州・定州を占領し、とらえた男女八、九万人をことごとく穴埋めにして、五回道からひきあげて行った。途中経過するところの人間、家畜、財宝、子女はすべて掠奪していった。諸将軍はみな遠くから見ているだけで、あえて戦おうとはしなかった。ただ狄仁傑だけが、軍をひきいて追跡したが、追いつくことができなかった。
黙啜は勝利をよいことにして、中国を軽んじ、いい気になっていた。兵力はだいたい頡利のときと同じで、土地は東西南北一万里、北方諸族はみなその命に従った。また弟の咄を立てて左察とし、骨咄禄の子の黙矩を右察とし、いずれも兵二万を指揮させた。子の匐倶は小可汗として位は両察の上とし、処木昆ら十姓(西突厥)の兵四万を支配下に置き、拓西可汗とよばせた。突厥は連年、辺境地帯を侵略したので、警備兵は休むひまもなかった。そこで
武后は
魏元忠を検校并州長史に選任して天兵軍大総管とし、
婁師徳を副総管として、陣地をととのえ敵を待ち受けさせた。のちあらためて魏元忠を霊武道行軍総管にうつして、敵に備えさせた。
黙啜は隴右道の牧馬一万頭を奪って行き、すぐまた辺境地帯を侵略した。詔して、安北大都護の相王(のち
睿宗)を天兵道大元帥とし、并州長史の
武攸宜、夏州都督の
薛訥をひきい、
魏元忠とともに賊を攻めさせようとしたが、軍がまだ出発せぬうちに黙啜は去った。その翌年、塩州・夏州を侵略し羊馬十万を奪い、石嶺関を攻め、ついに并州を包囲した。雍州長史の
薛季昶を持節山東防禦大使として、滄・瀛・幽・易・恒・定・媯・檀・平など九州の軍を指揮させ、州都督の
張仁亶に、諸州や清夷軍、障塞軍の兵を統率して薛季昶と挾撃体制をとらせた。また相王を安北道行軍元帥として諸将を統監させたが、相王は動こうとせず、行かなかった。敵は代州・忻州に侵入し、掠奪、殺人をした。
長安三年(703)、黙啜は莫賀達干を使者として派遣し、娘を皇太子の子に娶せたいと願ってきた。
武后は、平恩郡王の
李重俊と義興郡王の
李重明とを、盛装して宮廷内で立たせ使者に会わせた。黙啜はまた大首領の移力貪汗をつかわして、馬千頭を献上し、縁組みを許されたことに謝意を表した。武后はその使節を手厚くもてなした。
中宗があらためて即位すると黙啜は鳴沙に攻め入って来た。そのとき、霊武軍大総管の
沙吒忠義が戦ったが、勝つことができず、一万に近い死者を出した。賊はついに原州・会州に侵入し、多数の牧馬を奪い取った。帝は詔を下して、突厥との縁組みは中止し、黙啜を斬る者あれば一国の王とし、諸衛大将軍の官を与えるという懸賞をかけた。黙啜がわが使節、鴻臚卿の
臧思言を殺した。帝は、左衛大将軍の
張仁亶に命じて、朔方道大総管にし、辺境に駐屯させた。その翌年、はじめて黄河の外に、東、中、西の三受降城を築き、突厥の侵入路をふさいだ。そののちかなり経って、
唐休璟が、かわって駐屯した。
睿宗があたらしく即位すると、黙啜はまた縁組みを願ってきた。詔して、朱王の
李成器(睿宗の長子)の娘を、
金山公主として嫁がせることにした。しかしたまたま、左羽林大将軍の
孫佺らが奚と冷陞山で戦い、奚の捕虜となり、黙啜に進呈されたが、黙啜はかれを殺してしまった。そこであらためて、刑部尚書の
郭元振をもって唐休璟と交替させた。
玄宗が即位し、突厥との縁組みは中止となった。黙啜はそこで、その子の楊我支特勒をつかわして宿直番に入れ、つよく縁組みを求めたので、
蜀王の娘の
南和県主を楊我支特勒に妻せ、可汗には書状を送って慰撫した。明くる年(714)、その子の移涅可汗に、同俄特勒、火抜頡利発の石阿失畢をひきい、精鋭な騎馬軍でもって北庭を攻めさせた。北庭都護の
郭虔瓘はそれを防撃し、同俄特勒を市城の前で斬った。敵はばらばらになって逃げた。火抜頡利発は帰ろうとせず、その妻子を連れてわが国に逃げて来た。かれを左武衛大将軍・燕山郡王とし、その妻には
金山公主の称号を与え、いろいろの物を十二分に賜わった。長安にいた楊我支特勒が死に、詔して、帝室一族の三親等以上のものには、かれの家を弔問させた。このとき、突厥はふたたび、書面をもって縁組みを求めてきたが、帝は返事をしなかった。
はじめ景雲年間(710-711)に、黙啜は、西方で娑葛を亡ぼし、東方ではついに契丹や奚も服属させた。そしてその支配下のものに対し、なさけ容赦もない扱いをしていた。すでに年も老い、いよいよ愚行暴行をはたらくようになり、配下の諸部落はうらみそむくようになっていたのである。十姓(西突厥)の左翼の五咄陸の啜(チュル)たち、 右翼の五弩失畢の俟斤(イルキン)たちが、みな降付を願ってきた(715)。葛邏禄、胡禄、鼠尼施の三族に、大漢都督の特進の称号を持つ朱斯、陰山都督の謀落匐難、玄池都督の蹋実力胡鼻らが、領民をひきいて内付してきた。帝は詔を下して、これらの部民を金山方面に居らせた。そして、右羽林軍大将軍の
薛訥を涼州鎮軍大総管とし、赤水軍、建康軍、河源軍を指揮して涼州に駐屯させ、都督の
楊執一に補佐させ、右衛大将軍の
郭虔瓘を朔州鎮軍大総管として、和戎軍、大武軍に并州の北の 諸軍を指揮して并州に駐屯し、長史の
王晙に補佐させた。それで新しく降付したものを安撫し、掠奪暴行を監視させたのである。黙啜はしばしば葛邏禄などを攻撃したが、帝は命じて、その方面の都護や総管らに、相互に連絡をとりながら応援させた。そのためかれらの勢力もだんだんと弱まっていった。その婿の高麗の莫離支の高文簡、𨁂跌(エティズ)都督の思太、吐谷渾の大酋の慕容道奴、郁射施の大酋の鶻屈頡斤・苾悉頡力、高麗大酋の高拱毅らとともに、合計一万余帳ものものが、あいついで辺境にやってきた。詔して、それらを黄河以南の地にいれ、高文簡を左衛大将軍・遼西郡王に任じ、𨁂跌思太を特進、右衛大将軍兼𨁂跌都督・楼煩郡公にし、慕容道奴を武衛将軍兼刺史・雲中郡公に、鶻屈頡斤を左驍衛将軍兼刺史・陰山郡公に、苾悉頡力を左武衛将軍兼刺史・雁門郡公に、高拱毅を左領軍衛将軍兼刺史・平城郡公にした。将軍はみな員外置(定員外)でそれぞれ相応の賜わり物があった。
黙啜は、かれにそむいた九姓を討伐し、砂漠の北で戦ったが、九姓はつぶれさり、人も家畜もみな死んだ。思結部など生き残ったものが来降してきた。帝はみなに官を与えた。そこで
薛訥を朔方道行軍大総管にし、太僕卿の
呂延祚と霊州刺史の
杜賓客とに補佐させて、辺境警備にあたらせた。詔して、金山、大漠、陰山、玄池の諸都督らに、共同して黙啜を攻めることを考えさせたが、褒美の規準を示し、物も与えていいきかせておいた。黙啜はまた九姓の抜野古(バイルク)を討ち、独楽河で戦った。抜野古は大敗したので、黙啜は気楽にひきあげていて、警戒していなかった。かれが大きな林のなかを通ったとき、抜野古の敗残兵がとつぜんとび出し、黙啜を襲って斬ってしまった。そして、蕃地に入っていた使節の
郝霊佺といっしょに、黙啜の首を都まで持って来た。
骨咄禄の子の闕特勒は、むかしの領民を集め、黙啜の子の小可汗やその他一族をほとんどみな殺し、自分の兄の黙棘 連を可汗に立てた。これが毘伽可汗である。
最終更新:2025年07月13日 11:39