巻二百一十九 列伝第一百四十四

唐書巻二百一十九

列伝第一百四十四

北狄

契丹 奚 室韋 黒水靺鞨 渤海


  契丹はもと東胡種族で、その先祖は匈奴に破られて鮮卑山を保守した。魏の青竜年中(233-236)に部酋の比能がやや悪賢いため幽州刺史王雄に殺され、ついに部衆が微力になり、シラ・ムレンの南、黄竜(営州)の北に逃れひそんだ。北魏になって自ら契丹と号した。その地は長安の東北五千里あまりにあたり、東は高麗、西は奚、南は営州、北は靺鞨・室韋と接し、冷陘山をへだてて自ら固めていた。射猟し常居せず、君長の大賀氏は精兵四万を有し、八部にわかれて突厥に臣属し、俟斤(イルギン)の官に任じられた。おしなべて調発や攻戦を行なうには、諸部がみな集まって、射猟を行なうには各部が自由行動をとった。奚と仲がわるく、戦闘して不利になると、逃れて鮮卑山を保守した。その風俗は突厥とほぼ同じく、死んでも墓に葬らず、馬車に屍をのせて山に入り、樹上に置いた。子孫が死ぬと、その父母は朝夕哭くが、父母が死んでも哭かない。また服喪期間がない。

  武徳年間(618-623)、その大酋の孫敖曹と靺鞨の長突地稽とともに遣使来朝した。しかも君長はときに辺境に小規模な入寇を企てた。のち二年、君長が使者を遣わし、名馬や良質の貂を献上した。貞観二年(628)、摩会が来降した。突厥の頡利可汗は外夷と唐朝とが合するのを欲しないので、梁師都の身柄を唐に返還する代償に、契丹君長摩会の来降を唐が拒むよう要請した。太宗曰く、「契丹と突厥は同類ではない。いますでにわが朝に降ってきたのに、なお身柄をもとめることができようか。梁師都はもともと唐の民であるのに、わが州部を盗んだのを突厥は援助した。わが方ではかれを捕らえねばならぬ。情誼上、契丹の摩会と梁師都とをとりかえることはできない」と。明くる年、摩会は再び入朝したので、鼓纛(君長を象徴するとさしもの)を賜わった。以後常貢した。太宗が高麗征討するや、契丹のすべての酋長と奚の首領とを発して従軍させた。太宗が帰還の際、営州を通過するとき、その君長の窟哥および老人たちを召し、それぞれ分に応じて繒采(いろぎぬ)を賜い、窟哥を左武衛将軍とした。

  大酋の辱紇主の曲拠また部衆をひきいて来帰したので、その部落を玄州とし、曲拠を刺史に拝し、玄州を営州都督府に属させた。いくばくもなく窟哥も部落をあげて内属したので、松漠都督府を置き、窟哥を使持節十州諸軍事松漠都督とし、無極男に封じ、国姓李氏を賜わった。八部の達稽部を峭落州、紇便部を弾汗州、独活部を無逢州、芬問部を羽陵州、突便部を日連州、芮奚部を徒河州、墜斤部を万丹州、伏部を匹黎・赤山二州となし、ともに松漠府に附させ、辱紇主を刺史とした。

  窟哥が死ぬと奚と連合して唐朝に叛いた。行軍総管阿史徳枢賓らは、松漠都督の阿ト固を執えて東都(洛陽)に献じた。窟哥に二人の孫があり、枯莫離は左衛将軍・弾汗州刺史となり、帰順郡王に封じられた。尽忠は武衛大将軍・松漠都督となった。そして孫敖曹にも孫があって万栄といったが、万栄は帰誠州刺史となった。このとき営州都督の趙文翽が驕りむさぼり、しばしば部下を侵侮したので、李尽忠らはみな怨望した。孫万栄はもと侍子として入していたので、中国の形勢を知り、乱心をいだいて疑わず、尽忠と万栄とはともに兵を挙げて文翽を殺し営州を占拠して叛した。李尽忠は自ら無上可汗と号し、孫万栄を大将とし兵を従って四方を攻略させたところ、兵の向かう所たちまち下ったので、旬日にして兵数万に達したが、十万と妄言した。崇州を攻めて討撃副使許欽寂を執えた。

  武后は怒り詔して、鷹揚将軍曹仁師、金吾大将軍張玄遇、右武威大将軍李多祚、司農少卿麻仁節ら二十八将をして討撃させ、梁王武三思を楡関道安撫大使、納言の姚疇をその副使とした。あらため万栄を万斬、尽忠を尽滅と号した。唐軍の諸将は西破石・黄谷に戦って敗績し、玄遇・仁節はみな捕虜となった。進んで平州を攻めたが克たず、敗戦の報告を聞くと武后は、右武衛大将軍建安王武攸宜を清辺道大総管として契丹を撃つべく奴隷のうち勇者を募り、そのものを官が主人から買い取って兵に仕立てて征討軍に加えた。孫万栄は馬に枚をふくませ、檀州を夜襲した。清辺道副総管の張九節は決死のもの数百を募り、肉薄して戦ったので、万栄は敗れて山に走った。にわかに尽忠が死ぬと、突厥黙啜可汗はその部衆を襲破した。孫万栄は散兵を収容してふたたび勢力を振るい、別将の駱務整・何阿小をして冀州に侵入させ、刺史の陸宝積を殺し、民数千人を掠めた。

  武后は尽忠の死を聞くと、更めて詔して夏官尚書王孝傑・羽林衛将軍蘇宏暉に兵十七万をひきいて契丹を攻撃させたが、官軍は東硤石に戦って敗れ、孝傑は戦死し、万栄は勝に乗じてついに幽州に居った。武攸宜は将を遣わして討たせたが、克つことができなかったので、右金吾衛大将軍河内郡王武懿宗を神兵道大総管、右粛政台御史大夫婁師徳を清辺道大総管、右武威衛大将軍沙吒忠義を清辺中道前軍総管と為し、兵二十万をもって賊を討たせた。万栄は鋭く勇をふるって南進し、高州(河北省)河間の県を荒らし、はばかるところなく掠奪をほしいままにした。ここにおいて神兵道総管楊玄基は奚軍を率いてその背後をおそったので、契丹軍は大敗し、部将の何阿小を捕虜とし、別将李楷固・駱務整を降し、没収した兵器は積み上げるほどであった。万栄は軍をすてて敗走し、その残兵はふたたび合して奚と戦ったが、奚は四面から攻囲して大いに潰滅させた。万栄は東に走ったので、張九節は三たび伏兵をもってうかがった。万栄は力窮まり家奴と身軽に軽馬で潞河の東に走ったが、ひどく疲れて林の中に臥したところを家奴に首を斬られた。張九節はその首を洛陽に伝えたので、余衆は潰え、武攸宜は凱旋帰還した。武后は喜んで天下に赦し、神功と改元した。

  契丹は自立することができず、ついに突厥に付属した。久視元年(700)詔して左玉鈐衛大将軍李楷固・右武威衛将軍駱務整に契丹を討たしめ、これを破った。この両人はみな捕虜であって勇将である。かつては辺を犯してしばしば官軍を苦しめたものであるが、こうして功をたてた。

  開元二年(714)李尽忠の従父弟の都督李失活は黙啜可汗の政が衰えたので、部落をひきいて頡利発の伊健啜と来帰した。玄宗はかれらに丹書鉄券を賜与した。のち二年、奚の長李大酺らとみな来朝したので、詔して復び松漠府を置き、失活を都督とし松漠郡王に封じ左金吾衛大将軍を授けた。そしてその府(松府)に静析軍を置き、失活を経略大使とし、所部の八部長はそれぞれ刺史に抜擢した。詔して将軍薛泰を押蕃落使とし、軍を督戦して鎮撫させた。玄宗は東平王李韶の外孫楊元嗣の女を永楽公主として失活に降嫁した。明くる年、失活が死んだので特進を贈り、遣使して弔祠させ、その弟の中郎将娑固に封冊および所領をつがせた。明くる年、娑固は公主と来朝し、宴・資を受けた。

  可笑于なる者が静析軍副使であったが、かれは勇をたのんで衆に人望があった。娑固はかれを殺そうとしてまだ心が決しないうちに可突于が反して娑固を攻めたので、娑固は営州に奔った。営州都督許欽澹は州の武兵五百をもって、奚の長李大酺の兵とを連合して可突于を攻めたが勝たず、娑固・大酺はみな死んだ。欽澹はおそれて軍を移して楡関に入った。可突于は娑固の従父弟の鬱于を奉じて君長とし、遣使して謝罪した。そこで話して鬱于を松漠郡王に拝して可突于の罪を赦した。鬱于が来朝したので率更令を授け、宗室の慕容の女を燕郡公主として降嫁した。可突于もまた来朝したので、左羽林衛将軍に抜擢した。鬱于が死んで弟の吐于がいたが、可突于との仲が悪く、部下もうまく統べることができず、燕郡公主をつれて来奔したので、遼陽郡王に封じて宿衛に留めることとした。可突于は李尽忠の弟邵固を奉じ部を統べさせたので、王(松漠郡王)を襲ぐことを許した。玄宗が封禅(泰山で天を祀る)の礼を行なうや、邵固は諸藩の部長らとみな従行して行在所に詣でた。翌年、左羽林衛大将軍を拝し広化郡王に封じられ、宗室陳氏の女を東華公主として邵固に妻わせた。詔してその部の百余人にも官職を授けた。邵固はその子を侍子とした。

  可突于もふたたび来朝したが、宰相(中書侍郎)の李元紘が礼遇しなかったので、不平の思いで去った。張説が曰く、「かれは獣心で、ただ利によって動くものであるが、契丹の国政を左右し部衆をひきつけている。もしかれを礼遇しなければ、来朝しないであろう」と。のち三年、可突于は邵固を殺して屈烈を立てて王とし、奚の部衆を脅やかしてともに突厥に降った。東華公主は平盧軍(営州城)に走った。詔して幽州長史・知范陽節度事趙含章にこれを撃たしめ、中書舎人裴寛と給事中の薛儼を遣わして壮士を募り、忠王浚(後の粛宗)を河北道行軍元帥、御史大夫の李朝隠と京兆尹裴伷先を副とし、程伯献・張文儼・宋之悌・李東蒙・趙万功・郭英傑ら八総管の兵を率いて契丹を撃たせた。すでにまた忠王に河東道諸軍元帥を兼任させたが、王は行かなかったので、礼部尚書の信安郡王李禕を持節河北道軍副元帥とし、趙含章と塞を出て敵を捕え大いにこれを破った。可突于は逃走し、奚の部衆は投降したので、王(信安王)は二蕃(契丹・奚)の俘虜と首級を諸廟に報告した。

  明くる年、可突于は辺に侵寇したので、幽州長史薛楚玉・副総管郭英傑呉克勤烏知義羅守忠は万騎および奚をひきいてこれを撃ち都山の下に戦った。可突于は突厥兵をもって来攻したので、奚はおそれてどちらにもつかず、部衆は走って険に拠った。烏知義・羅守忠は敗れ、郭英傑と呉克勤とは戦死し、唐兵万人が殺された。玄宗張守珪を幽州長史とし経略させた。守珪はすでに善将としてとどろき、可突于はおそれて、表では臣属せんことを願い、西北にはしって突厥にたよった。衙官の李過折は内心可突于に不平を懐いていたので、張守珪は客の王悔をしてひそかに可突于を迎え、兵をもって可突于を囲んだところ、過折はその夜可突于・屈烈およびその支党数十人を斬って降ったので、守珪は李過折に契丹部衆を統べさせ、可突于らの首級を函詰めにして洛陽に伝えた。李過折を北平郡王に拝し松漠都督とした。可突于らの残党が過折を撃殺してその一家を屠ったので、一子の刺乾は遼陽の安東に走り、左驍衛将軍に拝せられた。 開元二十五年(737)、張守珪は契丹を討伐して再びこれを破った。以後戦功があれば必ず廟に報告するよう詔があった。

  天宝四載(745 、契丹の大酋李懐秀が降ったので、松漠都督に任じて崇順王に封じ、宗室の女独孤氏を静楽公主として降嫁した。この歳公主を殺して叛き去ったので、范陽節度使の安禄山は討ってこれを破った。更めてその酋長の楷落を恭仁王に封じ、代って松漠都督とした。安禄山玄宗の行幸にあたり、帝の意をむかえようとして、表を上り契丹の討伐を乞うた。幽州・雲中・平盧・河東の兵十余万人を発し、奚の部衆を郷導として大いにシラ・ムレンの南に戦ったが敗北し、死者数千人を出した。これより安禄山は契丹と互いに侵掠して、かれが反乱を起こすまで解けなかった。

  契丹は、玄宗の開元・天宝年間(713-754)には使者を朝献させることおよそ二十度。もとは范陽節度使を押奚・契丹使としたが、粛宗の至徳年間(756-758)以後は藩鎮が所領を勝手にして自分たちの平和維持のみに務め、防衛やものみを厳にして、辺事の生じないようますます謹んだ。契丹もまた入寇することがなく、毎歳数十人を選んで長安に朝会させ、つねに天子に召見されて物品を賜わり、官秩を与えられた。部下数百人をひきいてきて、みな幽州の館に駐留した。至徳から宝応(756-763)まで再度朝献し、大暦年中(766-773)に十三回、貞元年間(785-804)に三回、元和年中(806-820)に七回、大和・開成年間(827-840)に四回、遣使朝貢した。しかし天子はかれらが裏では回鶻に附隷するのをにくんで、契丹の酋長に官爵を復さなかった。会昌二年(742)、回鶻が破れて契丹酋長屈戍がはじめてふたたび内附したので、雲麾将軍・右武衛将軍を拝した。そこで幽州節度使の張仲武はかつて回鶻が契丹に与えた旧印にかえて、唐朝の新印を契丹に賜与し、この印を「奉国契丹之印」といった。

  咸通年間(860-874)に、契丹王の習爾之は再度遺使して入した。その部落はようやく強くなり、習爾之の死後その族人の欽徳が嗣いだ。光啓時代(885-887)天下に盗(群雄)が興り、北辺が多事となった。契丹は室韋・奚などの小部種をかすめてみな役服し、幽・薊に入寇した。劉仁恭は全軍をひいて星山をこえて討伐し、毎年のように塞下の牧草を焼いて、かれらが駐牧できないようにしたため牧馬が多く死亡した。そこで契丹盟約を乞い、良馬を献じて牧地を求めた。仁恭はその乞いを許したが、かれらはふたたび盟約にそむいて入寇した。劉守光(仁恭の子)は平州を守成していたが、契丹が万騎をもって入寇したので、守光はいつわって和睦し、天幕中で宴飲した。そのとき伏兵がおこって契丹の大将をとらえた。契丹部民は嘆いて馬五千匹を納めて大将の身柄を贖わんことを願ったが、守光は許さなかった。欽徳は莫大な賂を出してこれを求めたので、十年間辺境に近づかないことを条件に盟約した。

  欽徳は、晩年その政治がおとろえた。契丹の慣習法として、八部大人(部長)はつねに三年ごとに代る。ときに耶律阿保機が部長の象徴である鼓旗を建てて新しく一部をつくり、三年経ても代ることを承知せず、自ら王と号して国を有したので大賀氏はついに亡んだ。


   奚もまた東胡種である。匈奴に破られて烏丸山を保守した。漢の曹操はその帥蹋頓を斬ったが、かれらはその後裔であろう。元魏(北魏)のとき自ら庫真奚と号し鮮卑の故地に居た。長安の東北四千里にあたる。その地は東北は契丹に接し、西は突厥、南は白狼河、北は霫に接し、突厥と同俗である。水草を逐うて畜牧し、フェルトのテントを住居とし、車を環らして陣営とする。その君長は、つねに五百人の武装兵で本陣をまもる。余の部衆は山谷の間に散居する。賦税による収入がない。部民は射猟をもって生活の資とし、黒黍をつくり、収穫すると山下の穴蔵に貯える。木をきって臼とし、瓦鼎(すやきの器)に濃い粥をつくり、寒水をまぜて食す。戦闘を喜ぶ。兵は五部あり、各部には一人の俟斤がいてこれを司どる。その国は、西は大洛泊(タール・ノール)にいたる。回紇の本牙を隔たること三千里、多く土護真水(老哈河)流域による。その馬は登攀に善く、その羊は黒色である。盛夏には必ず移動して冷陘山を保つ。山は媯州の西北にあたる。隋代に始めて庫真の二字を去ってただ奚とした。

  唐の武徳年中(618-626)に高開道がその兵をひきいて再度幽州に入寇した。長史の王詵がこれを撃破した。太宗の貞観三年(629)に始めて来朝し、十七年間に四回来朝した。太宗が高麗征討するにあたって大酋の蘇支が従軍して戦功を立てた。数年ならずしてその酋長の可度者が内附した。太宗はそのために饒楽都督府を置き、可度者を使持節六州諸軍事・饒楽都督となし、楼煩県公に封じて李氏を賜わった。阿会部を弱水州、処和部を祁黎州、奥失部を洛壊州、度稽部を太魯州、元俟俊部を渇野州とし、各酋長の主を刺史として饒府に隷属させた。東夷都護府を営州に復置し、兼ねて松漠・饒楽の地を統べさせ、東夷校尉を置いた。

  高宗の顕慶年間(656-660)に可度者が死ぬと、奚がついに反した。顕慶五年に定襄都督阿史徳枢賓・左武候将軍延陀梯真・居延州都督李含珠を冷陘道行軍総管とし、明くる年、詔して尚書右丞崔余慶に節を持し定襄等の三都督を総護してこれを討伐させた。奚は懼れて降伏したので、その王の匹帝を斬った。万歳通天年間(696)に契丹が反くと、奚もまた叛した。奚は突厥とともに相表裏(服従したり背いたり)したので、両蕃と号した。

  延和元年(712)に、左羽林衛大将軍幽州都督孫佺・左驍衛将軍李楷洛・左威衛将軍周以悌に兵十二万をひきいさせて三軍とし、奚を襲撃させ、冷陘山に次したところ、前鋒軍の李楷洛は奚の大酺と戦って不利に陥った。孫佺は懼れて軍をおさめ、大酺を詐わって曰く、「自分は詔を奉じてをするために来たのに、李楷洛が軍の節度にそむいて戦いをしかけたが、それは天子の御意志ではない。楷洛を誅戮して軍中に布告しよう」と。大酺がいうよう、「誠に自分を慰撫するためなら賜与の品があるでしょう」と。孫佺は軍中にあった繒帛・帯などを出して与えた。大酺はこれを謝し孫佺に軍を還すよう要請したので、全軍は戦線から脱退することができたが、兵士たちは先を争って隊伍を乱して退いた。大酺の兵は追い討ちをかけたので、ついに唐軍は大敗し、殺傷するもの数万、孫佺と周以悌はみな捕虜となって突厥の黙啜可汗のもとに送られて殺害された。唐朝は国家多事で、奚部を討つ余裕がなかった。

  玄宗の開元二年(714)、奥蘇悔落を遣使して降伏を乞うたので、饒楽郡王・左金吾衛大将軍・饒楽都督に封じ、詔して宗室出身の女、辛氏を固安公主として大酺の妻とした。明くる年入朝して婚姻を結んだので、始めて営州都督府を復し、右領軍将軍李済を天子の使節として大酺を護送させた。のちに契丹の可笑于と闘って戦死したので、弟の魯蘇が奚部を領し、王をついだ。詔して保塞軍経略大使を兼任させた。牙官塞黙掲が抜いたが、公主は酒宴にかこつけてこれを誘殺した。玄宗はその功を嘉し、公主に数万のものを賜与した。公主はその母とたがいに相論告し合い罪をえたので、更めて成安公主の女韋氏を東光公主として妻わした。のち三年、魯蘇を奉誠郡王・右羽林衛将軍に封じ、その部下の首領たちおよそ二百人を抜擢してみな郎将を授けた。

  しばらくして契丹の可突于が反すと、奚の部衆を脅やかして突厥に降ったが、魯蘇はこれを制することができずにのがれ走り、公主は平盧に奔った。幽州長史趙含章は清夷軍を発してこれを討ち破ったので、一部の部衆は帰降した。明年、信安王禕は笑色の李詩・鎖高らの部落五千帳を降し、その地を帰義州とした。そこで王の李詩を左羽林軍大将軍・本州都督とし、帛十万を賜わって、その部を幽州の一隅に置いた。

  李詩が死に、子の延寵が嗣ぐと、契丹とともにまた叛したが、幽州張守珪にせめられて延寵は降伏し、再び饒楽都督・懐信王を拝し、宗室出の女楊氏を宜芳公主として降嫁された。延寵は公主を殺して再び叛したので、詔して他の酋婆固を立てて昭信王・饒楽都督として奚部衆を定めさせた。安禄山が范陽節度使になると、辺功を詭りたびたび苦戦をしては盛んに戦功を飾り、俘虜を献じた。その君の李日越を誅し、俘虜の壮者をえらんで雲南の戍兵とした。玄宗の一代にはすべて八回入朝貢献し、至徳・大暦年間に十二回であった。

  貞元四年(788)、室韋とともに振武を攻めた。のち七年、幽州節度使はその部衆六万をやぶった。徳宗のとき二回朝献した。元和元年(806)君長の梅落が入したので、検校司空・帰誠郡王を拝し、部酋の索氐を左威衛将軍・檀薊州遊兵馬使に、没辱孤を平州游弈兵馬使とし、みな国姓李氏を賜わった。しかしひそかに回鶻・室韋の兵士と連合して西城・振武を犯した。憲宗の世にすべて四回朝献した。

  大和四年(830)ふたたび辺に盗したので、盧竜軍の李載義が破って大将以下二百余人を執え、その首帥の茹羯を捕縛して来献した。文宗は李載義の戦功を賞して、冠帯を賜い、右驍衛将軍を授けた。のち五年、大首領匿舎朗が来朝した。宣宗の大中元年(847)、北部諸山の奚が悉く叛したので、盧竜の張仲武は有力部長を捕らえて帳落二十万を焼き払い、その刺史以下の面耳三百、羊牛七万、輜貯五百乗を取って京師に献じた。咸通九年(868)その王の突董蘇が大都督薩葛を遣わして入朝した。

  その後は契丹が強くなり、奚は敢えて抗せず部衆を挙げて契丹に服属したが、契丹の政治は苛烈で、奚はこれを怨み、その酋去諸は別部をひきいて唐朝に内附し、媯州の北山によって、ついに東奚・西奚となった。


  室韋は契丹の別種で、東胡の北辺にいた。けだし丁零(トルコ族)の苗である。その地は黄竜の北、傍峱越河畔にあたっており、京師の東北七千里にあたる。東は黒水靺鞨、西は突厥、南は契丹、北は海にのぞむ。その国には君長はなく、ただ大酋長はみな莫賀咄と号し、その部を管轄して突厥に附する。小部は千戸、大部は数千戸、川谷にそって散居し、水草を逐って生活する。徴税はなく、狩猟はつねに衆をよび集めて行ない、おわるとみな散居する。互いに属することがない。ゆえに部人は猛悍で戦闘を喜んだが、ついに強国となることはできなかった。木を切って犂をつくり、人がそれを挽いて田を耕すので収穫は甚だすくない。その気候は寒くて夏は霧や雨、冬は霜や霰が多い。その風俗は、富人は五色の珠をもって顔に垂れる。結婚すれば男子がまず女子の家で役し、三年たつと家産を分与され、妻とともに家産を車載して鼓舞して還る。夫が死ぬと妻は再婚しない。部ごとに大棚をつくり、死する者の屍はその上におく。喪期は三年である。土地には金・鉄がすくなく、多く高麗に資材を仰ぐ。武器には角弓・矢があり、人びとは弓射をよくする。つねに夏はむし暑い。西は貣勃山・次対山の二山を保守する。山には草木・鳥獣が多い。しかしブヨに苦しむので、巣居して避ける。酋長が死ぬとその子弟が継ぎ、子弟がいなければ部内の豪傑者を推し立てる。多くの人びとは牛車に乗り、蘧蒢(アンペラ)をもって部屋をつくる。水をわたるには薪を束ねて桴(いかだ)とし、あるいは皮(かわぶくろ)をもって舟をつくる。馬の下鞍はみな草で、手綱も草を編んでつくる。住居はあるいは皮で部屋をおおうか、あるいは木をまげて蘧蒢(アンペラ)でおおう。移動するときはそれらを車載して行く。その家畜は、羊はおらず、馬も少なく、牛はいても使わない。大豚がいて、人びとはこれを食す。その皮をして服や座ぶとんをつくる。その言語は靺鞨語である。

  部落は、すべてで二十余にわかれ、嶺西部・山北部・黄頭部は強い部である。大如者部・小如者部・婆萵部・訥北部・駱丹部は、みな柳城(営州)の東北におり、近いものは三千、遠いものは六千里以上である。最西に烏素固部があり、回紇と接し、倶倫泊の西南にあたる。泊(湖)から東に塞没部がある。やや東に塞曷支部があり、最強の部である。啜河の南に居る。河はまた燕支河ともいう。さらに東して和解部・烏羅護部・那礼部・嶺西部がある。北にあるのを訥比支部という。北に大山あり、山のかなたのものを大室韋といい、室建河畔にいる。河は倶倫泊から発源し、めぐって東流する。河の南に蒙瓦部がある。その北は落坦部である。河は東流して那河(東松花江)・忽汗河(牡丹江)に合する。また東して黒水靺鞨部を貫流する。ゆえに靺鞨は河を跨いで南部と北部にわかれる。河は東して海(日本海)に注ぐ。峱越河は東南流してまた那河と合する。その北に東室韋がある。けだし烏丸東南隅の余人である。

  貞観五年(631)に、始めて来朝して良質の貂を貢した。のち再び入朝した。長寿二年(693)に叛したので、将軍李多祚が撃ってこれを平定した。景初年間(707)再び朝献して突厥征討を援助しようと請うた。開元・天宝年間(713-756)にすべて十回朝献した。大暦年間(766-779)に十一回、貞元四年(788)、奚とともに振武軍に入寇した。節度使唐朝臣は、ちょうど勅使をねぎらっていたが、驚いて敗走した。室韋は勅使を捕らえて大いに殺掠して去った。翌年、使者が来謝した。大和年間(827-835)に三回朝献し、大中年間(847-860)中に一回来朝した。咸通年間(860-874)に大酋の怛烈とがみな遣使して長安に来た。しかし名の知れた夷でなかったので、後のことは史書より失伝した。


  黒水靺鞨は粛慎の地に居り、これはまた挹婁ともいい、元魏では勿吉といった。長安の東北六千里のところに位置し、東は海に瀕し、西は突厥に属し、南は高麗、東は室韋と接し、数十部に分かれ、酋長がそれぞれ治めている。その中で顕著なものを粟末部というが、これは最も南に居て、太白山、また徒太山とも呼ばれる、にあたり高麗と接し、粟末水に沿って居住している。この河は太白山に源を発し、西北して它漏河(兆児河)に注ぐ。栗末部のやや東北を汨咄部といい、さらにその次を安居骨部といい、ますます東を払涅部という。安居骨の西北を黒水部といい、粟末の東を白山部という。各部の間隔は遠くて三、四百里、近くて二百里である。

  白山はもと高麗に属していたが、唐の軍隊が平壌を取ると、その部衆は多く唐の治下に入った。汨咄・安居骨らは皆逃げ散じ、しだいに衰弱してわからなくなり、遺民は逃げて治下に入った。ただ黒水だけは完全で強く、十六の部落に分かれて南と北とに対立している。思うに、これは最も北方に居るものである。その人は勁健で、歩兵戦をよくし、常に他の部を恐れさせている。風俗は、編髪で、猪の牙を綴り雉の尾を挿して冠の飾りとし、おのずから他の諸部と異なっている。性質は残忍精悍で、射猟を善くし、心労がない。壮者を貴び老人をいやしむ。住居には家屋がなく、山川に沿って土地を掘り、その上に木の梁をわたして土を覆い、家のようである。夏は穴から出て水や草を追い求め、冬は穴に入って暮らす。尿で顔を洗い、夷狄の中で最も不潔である。死者は埋めるが、棺桶がなく、生前乗っていた馬を殺して祭る。その酋長を大莫払瞞咄といい、代々継承して長となる。文字がないその矢は石鏃で、長さが二寸であり、恐らく桔矢石塔の遺法である。家畜には豚が多く、牛羊がない。車・馬があり、田は耕し、車は歩いて推す。粟麦があり、土地には貂鼠・白兎・白鷹が多い。塩泉があり、水気が蒸発して、塩が樹上で凝固する。

  武徳五年(622) 酋長の阿固郎は始めて来朝し、太宗の貞観二年(628)臣附し、常に貢献した。地を燕州とした。皇帝が高麗を伐つと、その北部は反し、高麗と合同した。高恵真らが部衆を率いて安市を助けたが、戦うごとに靺鞨は常に前方に居た。帝は安市を破り、恵真を執え、靺鞨の兵三千余を捕らえて、悉くこれを穴埋めにした。

  開元十年(722)その酋長の倪属利が来朝すると、玄宗は直ぐ勃利州刺史に任じた。そこで安東都護薛泰は、黒水府を置き、部長を都督・刺史とすることを請うた。朝廷はそのため長史を置いてこれを監督し、府都督に李氏の姓を賜わり、献誠と名づけ、雲麾将軍の位をもって黒水経略使を兼任し、幽州都督に隷属させた。帝の末年まで十五回来朝し、大暦年間(766-779)に凡そ七回、貞元年間(785-805)に一回、元和年間(806-820)に二回来朝した。

  初め黒水の西北に思慕部があり、さらに北に十日行くと郡利部があり、東北に十日行くと窟設部があった。これはまた屈設とも号した。それからやや東南に十日行くと莫曳皆部があった。また払涅・鉄利・虞婁・越喜などの部があった。その地は、南は渤海を踊り、北と東は海に際まり、西は室韋にあたる。南北の長さは二千里で、東西は千里である。払涅・鉄利・虞婁・越喜はときどき中国に通じたが、郡利・屈設・莫曳は自ら通ずることが出来なかった。いまその京師に来朝しているものを左に附記する。

   払涅はまた大払涅とも称し、開元(713-741)、天宝(742-756)年間に八回来て、鯨睛(鯨の眼球の水晶体)・貂鼠・白兎の皮を献じた。

  鉄利は開元年間(713-741)に六回、越喜は同年間に七回、貞元年間(785-805)に一回、虞婁は貞観(627-649)年間に二回、貞元年間(785-805)に一回来た。その後、渤海が盛んとなり靺鞨は皆これに付属したので、ふたたび会同して朝献しなかった。


  渤海は、もとの粟末で、高麗に付属していた。姓は大氏である。高麗が滅亡すると、その民を引き連れて挹婁の東牟山を確保した。この地域は営州から東方二千里離れた所にあり、南北は泥河を境にし新羅と相対している。東は海で、西は契丹と境を接し、城郭を築いて守りを固めていた。高麗の亡命者は、しだいにこの地にやって来た。

  万歳通天年間(696)に、契丹の李尽忠は営州都督の趙に反逆して彼を殺した。舎利の乞乞仲象は靺鞨の酋長の乞四比羽や高麗の遺民たちとともに東に移り、遼水(遼河)を渡って太白山(長白山)の東北を確保した。この地は奧婁河(牡丹江)に遮られ、壁を築き、守りをしっかり固めていた。武后は乞四比羽を許国公に、乞乞仲象を震国公に、それぞれ封じることによってその罪を許そうとした。しかし、比羽はその命を拒否したため、武后は玉鈐衛大将軍の李楷固と中郎将の索仇にして比羽を殺させてしまった。この時、仲象は既に死んでおり、その子祚栄は残った者を引き連れて遁げ去った。楷固は祚栄の後を追って天門嶺を越えたが祚栄は高麗と靺鞨の兵をあげて楷固の軍隊に攻撃をかけたので、楷固は敗れて引き揚げていった。この時、契丹が突厥に付いたので、唐軍の道は断たれてしまい、討ち克つことができなかった。祚栄は比羽に従う民を組み入れた。その地が唐から遠く離れているのを幸いに、国を建て、祚栄はみずから震国王と名告り、また使者を遣わして突厥と国交を結んだ。震国の面積は五千里四方で、戸数は十余万、精兵は数万人、非常に書物を知っていた。扶餘・沃祖・弁韓・朝鮮海北のそれぞれの故地にあった諸国は、すべて震国の領土になった。中宗の代に、侍御史張行岌を使者として遣わされ、祚栄を招撫したところ、祚栄はその子に入侍させた。睿宗の先天年間(712)に使を遣わして祚栄を左驍衛大将軍・渤海郡王とし、その支配領域は忽汗州として、祚栄を忽汗州都督に任じた。この時以来、靺鞨の名称は使わず、渤海と称するようになった。

  玄宗の開元七年(719)、祚栄が死ぬと、その国では私に高王の諡号を付けた。子の武藝が王位に就くと、彼はおおいに領土を開拓し、東北の諸夷は畏れて服従した。また独自に年号をつくり、はじめに仁安とした。帝(玄宗)は武藝を冊立し、王位とその所領を継承させた。それから間もなく、黒水靺陽の使者が入朝したので、帝はその地を黒水州と定め、長史を派遣して総督させた。武藝は部下を召集して謀議した。「黒水は、はじめわが領域を通過して唐と通交していた。また往時、突厥に吐屯の官を乞うた時もあったが、いずれの場合もまずわが国に報告してから事を運んでいた。しかるに今、唐の官僚になることを請い、それをわが国に告げようともしない。このことはまさに唐と謀って、両方から自分を攻めようとするものであろう。」と言った。そこで弟の門藝と舅の任雅相に命じて兵を徴発させ、黒水を攻撃させようとした。しかし門藝はかつて人質として唐の京師で滞留していたことがあったため、出兵することの利害を充分知っていたので、武藝を諌め、「黒水が唐の臣下にならんと願い出ている矢先に、わが国がこれを攻撃しようとすることは、唐に背くことです。唐は大国であり、兵の数もわが国の万倍も備わっております。ここで唐朝の怨みを買うことは、すなわちわが身の滅亡を待つだけです。昔、高麗がその全盛時代に、兵士三十万をもって唐を相手に戦いました。はたして、この行為が雄強だと謂えたでしょうか。唐兵は、ひとたび戦いに臨んだだけで、かの地をことごとく一掃してしまったではありませんか。今、わが国の兵数は、その高麗の兵の三分の一にすぎません。王が私の諫言を聞きとどけないなら、よくない事態を招来しましょう」と言ったが、武藝はこれに従わず兵を唐の国境まで送った。その地で門藝は再び武藝に書を送り、出兵を固く読めた。ところが武藝はますます怒り、従兄の壱夏を代将としてその国境へ送り、門藝を召還して殺そうと企てた。この全てを知った門藝は、身に危険を感じたので、みずから唐に投降した。そこで玄宗は門藝に左驍衛将軍の官位を授けた。武藝は使者を派遣して、門藝の罪状の一部始終を報告させ、門藝を処刑したいと願い出た。ところが玄宗は門藝を安西に移すように、という詔を下しながら、武藝にうまく知らせた。「門藝は進退窮ってついに我が国に投降して来たのであるから、これを殺してしまうわけにはいかない。それに、今はすでに悪地に流してあるので、ここにはもう居ない。」という内容であった。そして武藝の使者を留めて帰そうとせず、その代りに鴻臚少卿李道邃と源復に命じて、この詔を武藝に知らせた。しかし武藝は、本当のところ大門藝が悪地に移されていないということを聞き知ったので、上書し、「陛下におかれましては、不当にも過をもって天下に示しておられます。」といい、必ず門藝を殺そうとした。帝は、道邃と復が国家の機密を漏言してしまったことに立腹し、二人を左遷してしまった。また、表面的には門藝を斥けるそぶりをし、そうして武藝に対しては偽りの報告をさせた。

  十年後、武藝は、大将の張文休に命令を下し、海賊を率いて登州を攻撃させた。帝は、急拠門藝に命令を下し、幽州の兵をあげて武藝の軍を攻撃させた。太僕卿の金思蘭を新羅に帰し、新羅の兵を進めて渤海の南辺を撃たせた。たまたま大寒に見舞われ、雪がうず高く積もり、半数以上も兵士が凍死したため、なんらの成果もあげられずに引き返さざるをえなかった。武藝は、弟の門藝を討つため刺客を募って東都に侵入させ、路上で大門藝を狙い刺そうと謀ったが殺せなかった。河南府は、この刺客を捕えてすべて殺してしまった。

  武藝が死ぬと、その国では私に武王と謚をした。その子欽茂が位に就くと、改元して大興とした。詔して欽茂に王位と所領とを継承させた。これにより欽茂は国内を大赦した。天宝年間(742-756)の末頃、欽茂は首都を上京(竜泉府)に遷した。ここは旧国から三百里離れた所で、忽干河の東側にある。玄宗の時代に二十九回朝貢使を派遣した。宝応元年(762)、詔して渤海(を渤海)国に昇格させ、また欽茂を王に進めて、検校・太尉の位も授けた。大暦年間(766-779)には二十五回の朝貢使が派遣され、ある時は日本の舞女十一人が献じられた。貞元年間(785-804)に、都を上京の東南方の東京(竜原府)に遷した。欽茂が死ぬと、文王と諡された。その子宏臨は早死のため、族弟の元義が即位したが、一年で猜疑と怨念のため国人に殺され、宏臨の子華璵を推して王位につけ、再び上京(竜泉府)に都を遷した。また改元して中興とした。華璵が死ぬと、成王と諡された。

  欽茂の末子嵩鄰が即位し、正暦と改元した。詔して右驍衛大将軍とし、王位を継がせた。建中年間(720-783)から貞元年間(785-805)にかけて、四度使者が派遣された。嵩鄰が死ぬと、康王と諡された。その子元瑜が即位すると、永徳と改元した。死ぬと、定王と諡された。弟言義が即位し、朱雀と改元し、また王位を継ぎ、その他の称号も以前の通りであった。死ぬと僖王と諡された。ついでその弟明忠が即位して、太始と改元した。一年で死に、簡王と諡された。つぎに従父仁秀が即位すると、建興と改元した。四世の祖にあたる野勃は、祚栄の弟である。仁秀は、海北の諸部族を討ち倒して、領土の拡大に成功した。詔して検校司空に任命し、仁秀を王位に就かせた。元和(806-820)年間に、使者がおよそ十六度朝貢に来た。長慶年間(821-824)は四度、宝暦年(825-827)は二度の朝貢であった。大和四年(830)に仁秀が死ぬと、宣王と諡された。その子新徳は早死のため、孫の彝震が即位し、年号を成和と改めた。翌年詔して位を継がせた。文宗代には使者が十二回も来朝し、会昌年間(841-847)には四回遣わされてきた。彝震が死ぬと弟の虔晃が即位し、死ぬと、玄錫が王位を継いだ。咸通年間(860-874)には三度朝貢使が派遣された。

  はじめ学生が京師にある大学にしばしば派遣され、古今の制度を習得させ、ここにいたって海東の盛国へと発展を遂げた。行政区画は五京・十五府・六十二州である。粛慎の故地は上京と定め、竜泉府と名付けられ、竜・湖・渤の三州を治めた。南方を中京とし、顕徳府と名付けられ、盧・顕・鉄・湯・栄・興の六州を治めた。かい貊の故地は東京と定め、竜原府とした。これはまた柵城府とも呼ばれ、慶・塩・穆・賀の四州を治めた。沃沮の故地は南京と定め、南海府として沃・睛・椒の三州を治めた。高麗の故地は西京と定め、鴨淥府とし神・桓・豊・正の四州を治めた。長嶺府は瑕・河二州を治めた。扶餘の故地には扶餘府を置き、常に強兵を配備して契丹に備え、また扶・仙二州を治めた。鄚頡府は鄚・高二州を治めた。挹婁の故地は定理府とし、定・潘二州を置き、安辺府は安・瓊二州を置いた。率賓の故地は率賓とし、華・益・建三州を治めた。払涅の故地は東平府とし、伊・蒙・沱・黒・比の五州を置いた。鉄利の故地は鉄利府とし、広・汾・蒲・海・義・帰の六州を置いた。越喜の故地は懐遠府とし、達・越・懐・紀・富・美・福・邪・芝の九州を置いた。安遠府には寧・郿・慕・常の四州を置いた。また郢・銅・涑の三州は独奏州とした。涑州の近辺に涑沫江(北流松花江)が流れ、それ思うにいわゆる粟末水であろう。竜原府東南の沿海は、日本道である。南海府には新羅道が、鴨淥府には朝貢道が、長嶺府には営州道が、扶餘府には契丹道が、それぞれあった。

  俗称では王を可毒夫、あるいは聖主、あるいは基下といった。王の命令を教という。王の父は老王、母は太妃、妻は貴妃、長子は副王、諸子は王子と呼ばれた。官職は、道には左相長官・左平章事・侍中・左常侍・諫議がこれに属す。中臺省には右相・右平章事・内史・詔誥・舎人がこれに属す。政堂省では大内相一人が左右相の上に置かれ、左右司政が各一人、左右平事の下に配置される。これは唐制の左右僕射に相当する。左右允は(唐の)二丞に当たり、左六司は忠・仁・義部の三部を統率し、おのおの一人の卿が属され、これは司政の下に置かれた。その支司に爵・倉・膳の部があって、部の長官は郎中で、員外もあった。右六司は智・礼・信の部を統率し、その支司に戎・計・水の部があり、その卿郎は左に準ずるもので、いずれも六官に相当する。中正臺には大中正が一人置かれ、御史大夫に相当し、司政の下に配置され、少正一人が置かれた。また殿中寺・宗属寺には大令がいた。文籍院は監令といい、監にはすべて少監が属していた。太常寺・ 司賓寺・大農寺は卿である。司蔵寺・司膳寺は令で、(次官は)丞といった。冑子監は監長といわれた。また、巷伯局には常侍の官があった。

  武員には、左右の猛賁衛・熊衛・罷衛と、南左衛・南右衛と北左衛・北右衛があり、それぞれ大将軍一人、将軍一人が置かれた。手本がたいてい中国の制度に倣ったものであるというのは、かくのごとしである。官位の秩序形式は、三秩以上の服色は紫色で、牙笏と金魚袋をもつ。五秩以上の場合は緋色で、牙笏と銀魚をもつ。六秩・七秩は浅緋衣で、八秩は緑衣で、それぞれ木笏である。

  珍重されるものは、太白山(長白山)の兎、南海の昆布、柵城の豉、扶餘の鹿、鄚頡の豕、率賓の馬、顕州の布、沃州の綿毛、龍州の紬、位城の鉄、盧城の稲、湄沱湖の鯽と、果実では九都の李、楽游の梨である。

  その他の風俗は、高麗・契丹とほぼ同じである。幽州の節度府と互いに使者を派遣しあっていた。(幽州の節度のある)営平から唐の都まではほぼ八千里もあり、遠くて、その後朝貢があったかどうか、史家は伝を失い、反乱を起こしたのか、臣附していたかはわからない。


  賛にいう、唐の徳の偉大なるかな!領土の際は天の覆うところを、ことごとく臣下として所蔵させた。海辺にいたるまでの広大な地の内外は、州県としないところはなかった。遂に天子を尊んで「天可汗」といった。三皇五帝以来、いまだこのようなことはなかった。辺境の酋長らは唐の印璽や旗印をまって国を治め、すべて賓客としないということはなく、外敵は簡単に捕らえられ、南蛮・東夷の財宝はあいついで朝廷に運び込まれた。衰えるのはきわめて激しく、その禍いは内に移り、天宝年間以降、天下は衰退し、唐軍は北は黄河を越えることなく、西は秦・邠の地でとどまった。外敵を凌ぐこと百年、ついに滅亡した。顧みるに痛ましいかな!そのためにいう、「自分の修養に励んで徳を積み、その徳で人々を感化する、これは聖人がよくすることである」と。

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最終更新:2025年04月21日 10:18
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