李鈞 りきん
?-878
晩唐の宗室・武将。河東節度使(太原)の
李業の子。その世系は
李虎(太祖)→
李禕→
李叔良→
李孝協→李思忠→李超成→李澄真→
李文通→
李業→李鈞である。検校兵部尚書。乾符元年(874)霊武節度使に任じられた。汝州防禦使となり、乾符四年(877)六月、検校尚書右僕射、潞州大都督府長史、昭義軍節度使、潞邢洺磁観察等使に任じられた。同年十月、幽州節度使の
李可挙、吐渾の
赫連鐸・白義誠、沙陀部・安慶部・薛葛部と合流して
李国昌を討伐するよう命令を受けた。乾符五年(878)十二月、
李克用と岢嵐県の洪谷で戦ったが敗れ、流れ矢に中って戦死した。なお『新唐書』本紀 広明元年八月辛卯条では、軍乱のため殺害されたとする。
本紀・列伝・史料
最終更新:2025年01月23日 13:41