厳善思 げんぜんし
645-729
初唐・武周・盛唐の官人。同州朝邑県(陝西省大荔県)の人。厳延の子。麟徳元年(664)銷声幽薮科に推挙されて及第し、襄陽県尉に任命された。
武后執政時に監察御史に抜擢され、右拾遺内供奉を兼任した。酷吏から無実の者を多く救ったため、
来俊臣らに誣告され、交趾に流謫された。帰還後、
李淳風の後任として著作佐郎、太史令となった。給事中、礼部侍郎を歴任したが、
韋皇后の専横から逃れるため、自ら汝州刺史となったが、
睿宗の復位とともに右散騎常侍に任じられた。譙王
李重福が反乱をおこすと礼部尚書の偽官に任じられ、そのため反乱終結後に死罪に相当したが、
宋璟・
李邕・
韓思復の弁護により静州に流された。後に赦免にあって帰還した。子に厳宙・
厳向がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2025年04月12日 02:42