巻二百四 列伝第一百二十九

唐書巻二百四

列伝第一百二十九

方技

李淳風 甄権 許胤宗 張文仲 袁天綱 客師 張憬蔵 乙弗弘礼 金梁鳳 王遠知 薛頤 葉法善 明崇儼 尚献甫 厳善思 杜生 張果 邢和璞 師夜光 羅思遠 姜撫 桑道茂



  おしなべて天文・卜占・人相見・医術・技術は、すべて技である。技によって自らを一代で顕すことのできる者は、またこれを天が悟ったからであり、習熟しなくてもそうなったのである。しかし士君子がこれをよくすれば、不迂(愚かにはならず)・不泥(滞らず)・不矜(奢らず)・不神(神聖化しない)となる。しかし小人がこれをよくすれば、愚かにして様々な妨げに入り、滞って大方に通じることがなく、奢って大衆に誇り、神聖化して人々を欺くのである。だから前聖は教えとしなかったのは、思うにこれを惜しんだのであろう。李淳風のように太宗を諌めて濫りに誅殺させず、許胤宗が処方の書籍を著さず、厳譔が諌めて乾陵と合葬させようとしなかったのは、際立って当時に有益である者で、これは椿事とみなすべきものである。王遠知張果姜撫らのように怪しい幻術で偽り騙すようなのは、また技の下の者である。


  李淳風は、岐州雍県の人である。父の李播は、隋に仕えて高唐県尉となったが、官を捨てて道士となり、黄冠子と号し、著作によって自分の考えを明らかにした。李淳風は幼くして聡明かつ優秀で、群書に通暁し、天文暦算に明るかった。貞観年間(623-649)初頭、傅仁均と暦法を争い、議する者は多くは李淳風の意見に従い、そのため将仕郎によって太史局を担当した。渾天儀をつくり、前代の得失を批評して、『法象書』七篇を著してこれを撰上した。承務郎に抜擢され、太常博士に遷り、太史丞に改められ、諸儒とともに書を修撰し、遷って太史令となった。太宗は秘讖を得て、「唐は中に弱く、女武があって王に代わる」とあった。そこで李淳風に尋ねると、「その兆しはすでに出来ており、すでに宮中にいるのです。また四十年で王になり、王になって唐の子孫を全員殺し尽してしまいます」と答えた。帝は「私は探し出して殺そうと思うがどうであろうか」と尋ねると、「天の命じるところは、消すことができません。王が果して死ななければ、いたずらに疑似の者を殺し、度をこして無実の者にまでその手が及ぶのです。また陛下が寵愛されておられても、四十年もすれば老い、老いると優しくなり、易姓がなったとしても、唐を絶やすことはできません。もし殺せば、また蘇って成長し、思い通りに多くを殺し、そうすれば陛下の子孫は残ることはなくなっていまいます」と言ったから、帝はその発言を採用して沙汰止みとした。

  李淳風は吉凶を予言することは、まるで符号するかのようで、同時代の術家は鬼神を操って占っていると思っており、学習によらずに到達したから、ついに計り知ることができなかった。功績によって昌楽県男に封ぜられた。詔を奉って算博士の梁述・助教の王真儒らとともに五曹・孫子等の書を是正し、刊定注解し、学官に立てた。麟徳暦を撰術して戊寅暦と替え、候は最も細密であった。秘閣郎中から再度太史令となり、卒した。撰述した制度に関する書籍、『乙巳占』等の書籍は世に伝わった。子の李該、孫の李仙宗は、二人とも太史令に抜擢された。

  唐初で暦について述べるべき者はただ傅仁均がいる。傅仁均は、滑州の人で、太史令で終わった。


  甄権は、許州扶溝県の人である。母が病のため、弟の甄立言とともに医書を研究し、遂に医者として高名を得た。隋に仕えて秘書省正字となったが、病と称して辞職した。魯州刺史の庫狄嶔が風痺のため弓を引くことができなくなった。甄権の的の前で安土に向かって立たせ、その肩の隅に鍼し、進み出て、「これで射ることができます」と言ったが、果たして言葉の通りであった。貞観年間(623-649)、甄権はすでに百歳を超え、太宗がその家に行幸して、飲食を見て、その医術について尋ね、朝散大夫に抜擢し、几杖・衣服を賜った。しばらくして卒し、年は一百三歳であった。撰した『脈経』・『針方』・『明堂』等の図は当時に伝えられた。

  甄立言は仕えて太常丞となった。杜淹は腫が流れるのに苦しんだから、が診断させたところ、「今から十日後の昼時すぎに死ぬでしょう」と言い、その通りとなった。ある道人がいて腹が膨れて煩わしいこと二年となり、「腹の中に虫がいる。誤って髪を食べたからそうなったのだ」と診断し、雄黄一剤を与えた。しばらくすると、一匹の親指のような蛇を吐き、目がなかった。これを焼くと髪の毛の匂いがして、そこで治癒した。

  後世、医術によって名が顕れた者に、清漳県の宋侠・義興県の許胤宗・洛陽の張文仲李虔縦・京兆の韋慈蔵がいる。

  宋侠の官は朝散大夫・薬蔵監となった。


  許胤宗は陳に仕えて新蔡王外兵参軍となった。王太后が風病で物を言うことができず、脈拍は弱くなって答えることが難しくなり、医家は治療に窮したことを告げた。許胤宗は、「飲み薬として与えてはいけない」と言い、そこで黄耆・防風を湯数十斛で煮て、病床の下に置き、気体は霧のように、燻べてこれを薄めると、夕方には話すことができるようになった。義興太守に抜擢された。武徳年間(618-623)初頭、散騎侍郎に累進した。関中で骨蒸疾(結核)が流行し、伝染していって、感染した者は皆死んだが、許胤宗が治療すると必ず治癒した。ある者がそのことを著書にして後世に残すことを勧めたが、「医術というものは、とくに意をはらうのみであって、考察を詳しくすればわかることなのである。また脈拍の変化は微かなものであってわかりにくく、我が意を説明しようにも、口頭では述べることができないのだ。また古の名医は、脈をみることを重要視し、これによって病を知ることができたのだ。病は薬とは相対するものであって、ただ一つの薬を用いて病にあたれば、直ちにその病にあたれば、気は純となって速やかに治癒するのである。今人が脈を診断することができず、思いによって病をはかるようなことがあると、薬を多くしてうまくいくことを願っているが、喩えて言うならば、猟で兎を知らないのに、原野を駆けさせ、一人が兎を得られるようにするようなもので、医術もまたこのように粗雑なものである。一つの薬がたまたま病にあたっても、ほかの薬が相互に抑えられるなら、威力を発揮することができず、これは治癒の証拠とすることが難しいのである。脈の妙技は伝えることができず、無駄に調剤を書き表したところで、ついに世の中には無益になってしまい、これが私の著作をしない理由なのだ」と答えた。卒した時、年七十歳以上であった。


  張文仲武后の時に仕え、尚薬奉御となった。特進の蘇良嗣が朝廷にて、病となり、朝廷で倒れた。張文仲は「鬱憤のためです。もし胸が痛むのでしたら、ほとんど救うことができません」と診断し、しばらくして胸の痛みを訴えた。また「心臓に痛みがくるのなら、もう危ういでしょう」と言い、にわかに心臓の痛みを訴えて死んだ。張文仲は風と気を論じると最も詳しかった。武后は名医たちを集めて共に書籍を著させ、王方慶に詔して監督させた。張文仲は、「風には百二十四、気には八十あり、治療が適宜を得なければ、死に至るのだ。ただ頭痛は上気・足気とともに、薬で制御することができる。病風の人は、春・秋の末の月、内蔵を通じて熱を漏らすことができれば、極端に苦しむことはない。それから病となって治れば、次第に回復するのだ」と述べ、そこで日常的に用いたり重要些末の事十八種を撰述して奉った。

  李虔縦の官は侍御医となり、韋慈蔵は光禄卿となった。


  袁天綱は、益州成都の人で、隋に仕えて塩官県令となった。洛陽におり、杜淹王珪韋挺と遊んだ。袁天綱は杜淹に向かって、「君は秘府の書籍や学校で該博であるから、文章によって名が顕れるだろう」と言い、王珪に向かって「法令が完成して、天と地がそれぞれ相対するから、十年もせずに官は五品にのぼるだろう」と言った。韋挺に向かって「顔が虎のようだから、武によって官につくだろう」と言った。「だが君たち三人はしばらくして全員譴責されるだろうが、私はその時にまた会えるだろう」と言った。杜淹は侍御史によって天策に入って学士となり、王珪は太子中允となり、韋挺は隠太子と親しく、推薦によって左衛率となった。武徳年間(618-623)、全員が事件によって巂州に流され、袁天綱と会って、「君らはついに貴くなれるぞ。杜くんの位は三品になるが、寿命はお話にならん。王くん、韋くんも三品になって、杜くんの後に寿命がつきるが、ただし晩節は二人共苦しむぞ」と言った。竇軌に向かって、「君の額は出っ張って、後頭部の骨は貫き、下顎は出ているから、十年で名が顕れるだろう。功績は梁州・益州の間で立てるだろう」と言い、竇軌は後に益州行台僕射となったが、袁天綱はまた「赤脈が瞳を犯しており、語ろうとすると赤色が浮かんで顔面に入るから、公は必ず多くを殺すだろうが、自戒していただきだい」と言ったが、竇軌は果たして罪とされて召喚された。袁天綱は、「公は心配することはない。右の顎のくぼみが動いているから、しばらくもしないうちに必ず帰れるだろう」と言ったが、果して帰って都督となった。

  貞観年間(623-649)初頭、太宗が召見して、「古に厳君平がいたが、朕は今君を得た。どう思うか」と尋ねると、「彼は時代にあいませんでした。臣はもとよりそのことで彼に勝っています」と答えた。武后が幼いとき、袁天綱はそのを見て、「夫人は貴い子を産むだろう」と言い、そこで二人の子の武元慶武元爽を見て、「官は三品となり、家を保つ主となるだろう」と言い、韓国夫人を見て、「この娘は貴くなるが、には利さないだろう」と言い、武后は最も幼く、乳母が抱いて面会したが、偽って男だとした。袁天綱は武后を一瞥して歩いていって見てみると、驚いて、「龍の瞳・鳳の頸で、極めて貴い験だ。もし女であったら、天子となっただろうに」と言った。九成宮にいて、岑文本を見させると、「学堂の英才で、眉は目を過ぎているから、文章は天下に振るうだろう。首に骨が生えていて、まだ大成していないが、自ら前に見えるなら、三品になる相である。肉が骨を称えなければ、長寿ではない兆しだ」と言い、張行成馬周を見て、「馬君は伏犀貫脳(額が出っ張っていて額全体に及ぶ)で、背に背負っている物があるかのようで、これは貴くなる験である。近古の君臣の相で君のような者に今まで出会ったことがない。だが顔面の溝が赤くなって耳に根がなく、後で骨が隆起しなければ、寿命は長くはないだろう。張君は晩年に官位を得て、ついに宰相の位になるだろう」と述べ、その術の精密さの類はこのようであった。高士廉が「君はどの官になって終わるのかね」と尋ねると、「僕は夏四月になってから、しばらくして死んでいますよ」と答えたが、その時期になって火山県令で卒した。

  子の袁客師もまたその術を伝え、廩犧令となった。高宗は一匹の鼠を小箱に入れ、術家にあてさせたところ、全員が鼠だと言った。袁客師が一人だけ、「確かに鼠ではありますが、しかし入ったときは一匹で、出ると四匹になります」と言い、これを発いてみると、鼠が三匹の子を生んでいた。かつて江(長江)を渡ると、舟を叩いて帰ったから、左右の者が理由を聞いたところ、「舟中の人の鼻の下の気が全員墨となっていて、だから渡ることができない」と言ったが、にわかに一人の男子がいて、片足が不自由で背負われ、直ちに舟に載ったのを見て、袁客師は「貴人がいるのだから、私は渡ることができる」と言ったところ、江の中で風がたちまち起き、ほとんど転覆するところであったが免れた。片足が不自由な男子は婁師徳であった。


  当時、長社県の人で張憬蔵という者がいて、技術は袁天綱と同等であった。太子詹事の蒋儼が尋ねると、「公の災厄は三尺の土の下にあり、六年たって貴くなる。六十歳で蒲州刺史となるが、禄が途絶えるだろう」と答えた。蒋儼は高麗への使者となり、莫離支に捕らえられ、地下牢にいること六年で帰還した。蒲州刺史となったが、年齢は張憬蔵が言った通りであったから、そこで掾史・妻子を召寄せて、これから死ぬだろうと告げると、にわかに詔があって致仕を聴された。劉仁軌が郷人の靖賢とともに占うよう願うと、張憬蔵は「劉公は五品となってから譴責されるが、しまいの位は人臣に冠するだろう」と答えた。靖賢に向かって「君は客死すると決まっている」と答えた。劉仁軌は尚書僕射となった。靖賢はふざけて「私の三人の子は全員豊かな田や邸宅がある。私はどうして客死しようか」と言ったが、突然三子を喪い、田や邸宅はすべて売り払い、友人の家に寄寓して死んだ。魏元忠が年少であったとき、張憬蔵に面会して尋ねたが、しばらく答えなかったから、魏元忠は怒って、「困窮や栄達は天命にあって、どうして君が預かろうか」と言い、衣を払って去ろうとした。張憬蔵は突然立って、「君の人相は怒っている時に出てくる。位は必ず公卿・宰相に登るだろう」と言った。姚崇李迥秀杜景佺も魏元忠について来ていたが、張憬蔵は「三人は全員宰相になるだろう。だが姚くんが一番貴くなる」と言った。郎中の裴珪の妻の趙氏が面会すると、張憬蔵は「夫人の目は居住まいが厳しくなく、法に「豕は淫を視る」とあり、また「目に四白あれば、五夫宅を守る」とあるから、夫人は罪を得るだろう」と述べたが、にわかに悪事を罪とされ、財産を没収されて掖廷に入れられた。裴光庭は宰相であったとき、張憬蔵は紙に大きな字で「台」字を書いて送ってきた。裴光廷は「私はすでに台司(三公・宰相)であるが、さらに何事があるというのだろうか」と言ったが、その後三日して、台州刺史に貶された。

  隋末にまた高唐県の人で乙弗弘礼という者がいて、煬帝が即位以前の藩屏時代に召見された。乙弗弘礼は祝賀して、「大王は万乗の主となられますから、戒めることは徳があるだけです」と言った。即位すると、ことごとく諸術家に詔して坊におらせ、乙弗弘礼を総摂とした。全国は次第に乱れると、は、「お前は昔朕に言ったことはすでに験があった。だが終わりはどうなのか」と尋ねると、乙弗弘礼は返答をためらっており、帝はこれを知って、「言わなければ死ぬぞ」と言うと、乙弗弘礼は、「臣は人臣の人相見をしますが、陛下と同じような人相の類は長くはありません。しかし「聖人不相」といいますから、ですから臣は知ることができないのです」と返答した。これによって役人に勅して監視され、他の人と話すことができなかった。

  薛大鼎が罪とされて没籍されて奴となると、貞観年間(623-649)に、乙弗弘礼に人相見を願ったが、「君は奴婢じゃないか。どうしたいというのか」と言い、衣を脱いで見せるように言い、乙弗弘礼は腰の下を指さして、「位は方岳(地方長官)になるだろう」と言った。


  玄宗の時代に金梁鳳なる者がいて、非常に人の貴賤や早死・長生きを言い当てた。裴冕が河西留後となると、金梁鳳はたちまちに「半年もしない内に兵乱がおきます。君は御史中丞となって宰相に任じられるでしょう」と言い、また「一つの太陽は洛陽に向かい、もう一つの太陽は蜀に向かい、もう一つの太陽は朔方に向かいますが、この時公は宰相となります」とも言ったが、裴冕はその発言を怪しいと思い、交際を絶やした。にわかに安禄山が叛き、裴冕は御史中丞となって召喚されたから、そこで三つの太陽について尋ねた。すると、「洛陽に行った太陽(安禄山)にはただちに滅びます。蜀に行った太陽(玄宗)は長くは持ちません。朔方へ行った太陽(粛宗)はいよいよ明るくなるでしょう」と答えた。粛宗が即位すると、裴冕は遂に宰相となったから、帝に推薦して、都水使者を拝命した。金梁鳳は呂諲に向かって、「君は宰相となるでしょうが、大いに恐ろしい目にあってから得られるでしょう」と言った。呂諲は駅史を責め立てて打ち据えると、駅史は突入して呂諲を射て、二本の矢がほとんどあたるところであり、走って逃れ、翌年宰相となった。李揆盧允は官服を脱いで常服で偽って面会しようとしたが、金梁鳳は許さなかったから、二人は真実を語ると、金梁鳳は、「李くんは舎人から年を経て宰相となるが、盧くんは郎官を過ぎない」と言った。李揆は後に宰相となり、盧允を抜擢して吏部郎中とした。


  王遠知は、世系はもと琅邪出身で、後に揚州の人となった。父の王曇選は、陳の揚州刺史となった。母は昼寝しているとき、夢に鳳がその体に集まって、そこで妊娠した。浮屠の宝誌が王曇選に向かって、「生まれた子は当代きっての方士となるだろう」と言った。

  王遠知は若い頃から聡く明敏で、多くの書籍に通暁し、陶弘景に仕えてその術を伝え、道士となった。また臧兢に従って遊学した。陳の後主がその名を聞いて、重陽殿に召し入れ、弁論は奥旨を超え、非常に嘆息した。隋の煬帝が晋王であったとき、揚州を鎮所とすると、人の助けで迎えさせて謁見すると、しばらくして髪が白くなり、突然黒髪に戻ったから、は恐れ、送り返した。後に涿郡に行幸すると、王遠知に詔して臨朔宮で謁見し、帝は弟子の礼をとり、仙人の事について尋ねた。詔して京師に玉清玄壇を建立してそこにおらせた。揚州に行幸することになると、王遠知は帝が京師を遠く離れることはよくないと述べたが、聞き入れられなかった。

  高祖の身分がまだ低かったとき、王遠知は密かに天命を語っていた。武徳年間(618-623)、王世充が平定された頃、秦王房玄齢が平服で通り過ぎると、王遠知はまだ面識がなかったが、出迎えて「中に聖人がおられる。王ではないですか」と語ったから、二人はそこで本当の事を話した。王遠知は「まさに太平天子になられるでしょう。ご自愛くださいませ」と言った。太宗が即位すると、王遠知を官位につけようとしたが、辞退した。貞観九年(635)、詔して潤州即茆山に道観を建立し、ここにおらせた。詔に、「奏上されたものを見てみると、願いは旧山に帰ることにあり、すでに別詔で平生に違うことはなく、あわせて祠観を建立し、以前の思いを押し広げたい。まだ先生が早晩江外に至ったのを知らないのに、祠観はどうして完成させられようか。太史令の薛頤らは行って朕の思いを述べよ」とあった。

  王遠知には怪しい発言が多くあり、その弟子の潘師正に向かって、「私は若い頃に罪があって、天に登ることができない。今、少室伯となったのだから、私はこれから行こうと思う」と詫び、そこで沐浴し、衣冠を整え、まるで眠るかのように遂に卒した。ある者は年齢を百二十六歳だと思うと言ったという。子の王紹業に「お前が年六十五歳で天子に見え、七十歳で女君に見える」と遺命した。調露年間(679-680)、王紹業はその発言を上表し、高宗に召見され、感嘆して褒められ、王遠知に太中大夫を追贈され、升真先生と諡された。武后の時再び召見されたが、両方とも遺命の年の通りであった。また金紫光禄大夫を追贈された。天授年間(690-692)諡を升玄と改められた。


  薛頤は、滑州の人である。隋の大業年間(605-618)に道士となり、天文・律暦をよくした。武徳年間(618-623)初頭、ついで秦王府に仕え、密かに「徳星(木星)が秦を示すところにあるので、王は天下の帝となるでしょう」と語ったから、秦王は上表して太史丞とし、しばらくして太史令に遷った。貞観年間(623-649)、太宗が泰山を封じようとすると、彗星があらわれ、薛頤はそこで「臣は天の意を推し量っています。陛下はまだ東に向かうべきではありません」と申し上げた。またちょうどその時大臣が上奏したから、は遂に取り止めとした。強く願って道士となり、帝は薛頤のために道観を九嵏山に建立し、「紫府」と名付け、薛頤は太中大夫を拝命して、ここに住まわせた。そこで祠に清台(天文台)を建て、時候や災害を観測して上奏したが、上奏したことが太史の李淳風のと合致した。数年で卒した。


  高宗の時に、また葉法善という者がいて、括州括蒼県の人であった。代々道士となり、陰陽・占卜・呪禁の術を伝え、占いをよくして怪鬼を防いだ。がこのことを聞いて、京師に召し出し、寵遇によって官位につけようとしたが、拝命しなかった。内斎場に留まり、礼遇や賜い物は非常にあつかった。当時、帝はことごとく方士を召し出し、黄金を化して丹をつくろうとしたが、葉法善は上言して、「丹は簡単にはできません。徒らに財と日を費やすだけです。真偽を調査してください」と述べ、帝はこれを許し、およそ百人以上がすべて罷免された。かつて東都の凌空祠で壇を築いて祭祀を行い、都の人はことごとく行って見物したが、数十人が自ら火の中に飛び込んだから、大衆は非常に驚き、救い出して免れた。葉法善は笑って「これは憑き物に魅せられたのだろう。私だけが法によってこれを治すことができる」と言い、彼らに尋ねると信じるようになり、病もまた全員が癒えた。その幻惑の類はこのようであった。

  高宗中宗の二朝を経て五十年、山中を往来し、時々禁中に召し出された。常に仏法を喜ばず、毀謗しようと尽力したから、議する者はその好悪を浅薄なものとしたが、しかし術は優れたものとし、ついに人物を測り難かった。睿宗が即位すると、ある者が申し上げて密かに助力した。先天年間(712-713)、鴻臚卿を拝命したが、ただし員外に置かれ、越国公に封ぜられ、景龍観を家とし、その父を追贈して歙州刺史し、寵遇は当時に輝いた。開元八年(720)卒。あるいは隋の大業丙子(616)に生まれたといい、死んだのが庚子(壬戌の誤りか)であったから、百七歳であったという。玄宗は詔を下して哀悼を述べ、越州都督を追贈した。


  明崇儼は、洛州偃師県の人であり、梁の国子祭酒の明山賓の五世の孫である。幼くして父の明恪が安喜県令に赴任するのに従い、役人で鬼神を召喚することができる者がおり、ことごとくその術を伝えられた。乾封年間(666-668)初頭、地方官の推薦によって、黄安県丞に任じられ、怪しい術によって自らの名声をあげた。高宗が召し出すと、非常に喜び、冀王府文学に抜擢された。試めそうと地下室をつくり、宮人にその中で音楽を演奏させ、明崇儼を呼び寄せて「一体何の祥であろうか。私のために止めてくれ」と言うと、明崇儼は桃木を書いて二枚の符をつくり、部屋の上にうちつけると、音楽はただちに止まった。宮人は「怪龍が見えたので、怖くて止めました」と言った。盛夏には雪が欲しいと思うと、明崇儼は座ってしばらくして取り出して奉った。自ら陰山に取りに行ったのだと言っていた。四月、帝は瓜が欲しいと思い、明崇儼は百銭を求め、しばらくして瓜を献上し、「これは緱氏県の老人の農園の中から得ました」と言った。帝は老人を呼び寄せてその理由を問うと、「一瓜を埋めて失いましたが、土中から百銭を得ました」と答えた。

  正諌大夫に遷った。は宮中に入れて供奉させ、謁見するごとに、時政を述べ、多くは鬼神に託して発言した。武后のためにまじないのことをするようになると、また章懐太子の不徳を訴えた。儀鳳四年(679)、強盗に東都で刺殺され、もの好き達が「明崇儼は鬼を使役して労苦させていたから、鬼に殺されたのだ」と言ったが、太后太子が客人に殺させたのだと疑い、そこで侍中を追贈し、諡を荘とし、子の明珪を秘書郎に抜擢した。御史中丞の崔謐らに再審を命じると、無実なのに罪に陥れられた者は非常に多かった。太子が廃され、死に至った理由であったのも明白であった。


  尚献甫は、衛州汲県の人で、天象の吉凶の判断をよくした。武后に召し出され、道士であるから太史令に抜擢されたが、「臣は粗野なので、官長に仕えることができません」と辞退したから、武后は太史局を改めて渾儀監とし、尚献甫を長官とし、秘書省には隷属させなかった。しばしば災異について尋ねられ、また上陽宮にて術家を集めて地方等の書物を編纂した。長安二年(702)、熒惑(火星)が五諸侯(二十八宿の井宿の中の星官名。ふたご座)を犯し、尚献甫は「五諸侯は太史の位です。臣の命式は納音で、金です。火・金の仇なので、臣は死ぬでしょう」と述べた。武后は「朕が卿のために占ってあげよう」と言い、水衡都尉に遷し、「水は金を生ずるから、卿は心配いらない」と言ったが、秋になって卒し、武后はその見識に称賛するしかなく、再び渾儀監を太史局としたという。


  厳善思の名は譔で、同州朝邑県の人で、字で通行した。父の厳延は、河東の裴玄証・隴西の李真・蔡静とともに儒術に通じ、図讖に通暁した。厳善思は厳延の業を伝えられ、褚遂良上官儀らがその能力を優れたものとした。高宗が泰山を封ずると、銷声幽薮科に推挙されて及第し、襄陽県尉に任命された。親を喪い、墓を家とし、そのため隠居すること十年となった。武后の時に監察御史に抜擢され、右拾遺内供奉を兼任し、しばしば天下の政事について申し上げた。この時、酷吏は大獄を構えたが、厳善思を詳審使とし、八百人以上が冤罪から助けられ、千姓以上が許された。長寿年間(692-694)、司刑寺の囚人を再審し、疑いが事実ではない者百人を釈放した。来俊臣らがこの事を憎んで、誣告して罪とし、交趾に流謫されたが、五年で帰還することができた。この当時李淳風が死に、天文の専門は全員適任者はおらず、そこで厳善思に勅して著作佐郎の職によって太史令を兼任させた。聖暦二年(699)、熒惑(火星)が輿鬼(二十八宿の第二十三宿の鬼宿の古称。かに座等)に入り、武后がその占を尋ねると、「大臣がこれに該当するでしょう」と答えた。この年、王及善が卒した。長安年間(701-705)、熒惑(火星)が月に入り、鎮星(土星)が天関(おうし座ζ星)を犯し、厳善思は「法では乱臣が罪に伏するでしょうが、下が上に謀するの象があります」と述べ、一年ほどで張柬之らが兵を起こして二張(張易之張昌宗)を誅殺した。給事中に遷った。

  武后が崩ずると、乾陵に合葬しようとしたが、厳善思は建言して、「尊き者が先に葬られると、卑しき者は入ることができません。今、乾陵を開けることは、卑しき者を尊き者に動かすことで、術家が嫌うところです。また玄関は石門で、金属を溶かして隙間を閉ざしているので、鏨で削るのでなければ開けることができず、墓道は静寂であり、多くが驚き汚すところとなってしまいます。もしくは別に隧道をつくってその中に入っても、それは昔葬った時に神位を前もって定めたので、さらにまた有害となるのです。先に乾陵を造営しましたが、国に大難があり、易姓建国すること二十年以上、今またこれを造営することは、難が再び生じることになるのです。合葬は古の法ではなく、ましてや政事に不安があるのですから、どうして準拠することができましょうか。漢の時代に皇后は別に陵墓を造営し、魏・晋になって始めて合葬したのです。漢は祭祀を重ねること四百年ですが、魏・晋の祭祀は長くはなく、これもまたその験なのです。今もし改めて吉地を選び、乾陵の附近に造営して従葬の義を取るならば、神霊に知らしめることになり、通じないことはありません。もしそれが知ることがなかったとしても、また何の益がありましょうか。山川の精気は上って列星となります。葬るのにその適宜の場所を得るなら、神霊は安じて後嗣は盛んとなります。その適宜を失うなら、神霊は危うく後嗣は損われるのです。願わくば私の愛情を割き、社稷を長久にならしめますように」と述べたが、中宗は受け入れなかった。

  神龍年間(707-710)、武后の服喪が解かれると、太常寺が音楽の予行演習を願い、郊廟に供しようとしたが、詔して許さなかった。厳善思は奏上して、「音楽は陰陽の気の変化であって、天地が感じ入って五行が調うのはそれが理由なのです。漢・魏の喪礼では、日を月にかえましたが、思うに「三年間も礼を実践しないと、礼は崩壊するでしょう。三年間、音楽を演奏しないと、音楽も崩壊するでしょう」といいます。礼は陰です。楽は陽です。楽が崩壊すれば陽は伏せ、礼が廃れれば陰が過ちとなり、そのため変わるのが適宜であれば、孝道の大となるのです。人や神を安んじるのは公の任です。哀痛で心身をくさらせるのは私事です。王者は私事によって公の任を害することはしません。太常寺の奏上の通りになされますように」と述べ、はこれに従った。礼部侍郎に遷った。上表して皇后が政治を勝手にして社稷の憂いとなっているから、汝州刺史とするよう求めた。かつて姚崇に向かって、「韋氏の禍は大地を血まみれにしますが、相王がおられる所には華蓋紫気があり、必ず皇帝の位につかれるでしょう。公はよくお守りすることです」と語っており、睿宗が即位すると、姚崇はその語ったことを上聞し、召されて右散騎常侍を拝命した。

  それより以前、譙王李重福が均州に移される時、汝州を通過すると、厳善思が刺史となっていた。謀反すると、偽礼部尚書に任じられた。李重福が敗北すると、結託の罪で死罪に相当し、吏部尚書の宋璟・戸部郎中の李邕はその罪を軽いものとし、給事中の韓思復も強く無実を願ったから、そこで静州に流された。それより以前、厳善思が御史となると、中書舎人の劉允済が酷吏に陥れられ、死ぬところであったが、厳善思がその無実の訴えに尽力し、免れることができた。戸部尚書の王本立がこれを見て、「祁奚が叔向を救ったようなことが、厳公にあったのだ」と言った。後に劉允済に会って、語っても今までそのことには及んだことがなかった。韓思復が厳善思について釈明したのも、また自らの徳とはせず、当時の人々は長者の報いと称えた。後に赦免によって帰還した。開元十六年(728)卒した。子の厳向は、乾元年間(758-760)に鳳翔尹となり、三代とも全員が年八十五歳であったという。


  杜生は、許州の人で、易による占いをよくした。奴婢が逃亡してしまった者が、奴婢がどこに逃げたのか尋ねた。「ここから行くと使者に会うだろう。丁寧にその鞭をくれるように頼みなさい。もしもらえなかったら、事情を説明しなさい」と忠告すると、その人は果たして道で使者に会い、言葉の通りにすると、使者は怪しんで、「鞭がなかったら、私は馬を進めることができない。路端の小枝を折ってくるのなら替えてあげよう」と言ったから、小枝を折りに行くと、逃亡した奴婢がその下に伏せているのを見つけ、発見できた。他日、また奴婢が逃亡してしまった者がおり、杜生は「五百銭を持って道でうかがい、鷂(ハイタカ)を進上する使者に会ったら、そのうち一羽を買いなさい。必ず奴婢を得られるだろう」と忠告した。にわかに使者がやって来ると、その人は事情を説明し、使者はそこで一羽を与えると、突然飛び上がって茂みに止まったから、捕まえに行くと逃亡した奴婢を発見できた。大衆は神とみなした。

  当時、浮屠(仏僧)のという者がいて、黄州の人である。天官侍郎の張敬之と親しかった。張敬之は武后の在位中でありながら、常に朝服を指さして子の張冠宗に向かって、「これは王莽の王朝の服だな」と言っていたが、にわかに張冠宗は父を三品にしようとし、役人に詣でて言状した。泓は「君は三品を求めるべきではないな」と言ったから、張敬之は大いに驚いたが、後に張冠宗の方が出世する意味だと知った。張敬之の弟の張訥之の病はほとんど死ぬ所であったが、泓は「公の弟の位は三品になるだろう。心配する必要はない」と言い、後に快癒した。かつて燕国公の張説が邸宅を売ろうとしたが、「東北の地を掘ってはなりません。地気盛んな土地です」と忠告し、他日、張説に会って、「宅気がなくなってしまいましたが、どうしましたか」と尋ね、張説と共に見てみると、東北の隅に三箇所一丈(約3m)以上の穴が掘られており、泓は驚き、「父の富貴は一代だけで、子どもたちは終わりをよくしないでしょう」と言った。張説は驚き、平地に戻そうとしたが、泓は、「よそから持ってきた土には気がなく、地脈とは連なっていません。人間の身体に例えるなら傷跡を他の肉で補うようなもので、意味がありません」と言った。張説の子は全員賊によって汚されて死ぬか排斥されたという。


  張果は、その郷里や家系を隠し、自分から中条山に神仙として隠棲していた。汾・晋の地域で暮らし、世間では数百歳の人であると伝えていた。武后の時に、召し抱えようと使者を派遣したとたんに死んだしまった。後の人が再び恒州の山中に暮らしている張果に会った。

  開元二十一年(733)、刺史の韋済が張果のことを皇帝にご報告申し上げた。玄宗は通事舎人の裴晤を張果のもとに行かせて迎え入れようとしたが、張果は裴晤にあうとすぐに息が途絶えて倒れ伏し、ずいぶん時間が経ってようやく息を吹き返した。裴晤は執拗に迫ることはせず、急ぎ都に戻って状況を皇帝にご説明申し上げた。はかさねて中書舎人の徐嶠を派遣し、御璽で封じた詔を持参させて、臣下の礼を求めると、ようやく東都にやって来た。張果は集賢院に泊まり、輿に乗るという待遇で天子に宮殿に入った。帝は自分自身で直接張果に天下国家を治める道と神仙のことについて下問した。その時の対話は秘匿されて伝わっていない。張果は養生のための呼吸法に長けており、何日も食事をとらないで、たびたび美酒を振る舞われた。張果は「私は尭帝の丙子の歳の生まれで、尭帝の宰相を務めていた」と言ったことがある。その要望はというと実際に六・七十歳であった。当時、邢和璞という者がいて、人の寿命を知ることができた。師夜光という者には霊視能力があった。帝は邢和璞に張果の生死を推定させると、はっきりとせずその手がかりさえつかめなかった。帝は張果を呼び寄せ、師夜光に霊視させると、彼には張果がそこにいることが見えなかった。

  高力士に「私はトリカブトの煎汁を飲んで苦しむことがない者は超人であると聞いたことがある」と言い、その時は寒い日であったから、トリカブトの煎汁を取り寄せて張果に飲ませ、三度進めたが、張果は酔い崩れて「うまい酒ではない」と言い、そこで寝てしまった。しばらくして歯を見ると焦げて縮んでいた。そこでまわりの者を振り返って鉄の如意を取り、歯を撃ち落とし、抜けた歯を帯びの中に隠し、さらに薬を取り出して抜けたあとに塗った。かなり時間が経つと、歯はすでにキラキラと白く生えそろっていた。帝はますます神仙だと考えるようになった。玉真公主を張果に降嫁させたいと思ったが、まだ口にはしていなかった。張果はふと秘書少監の王迥質と太常少卿の蕭華に「諺にあるが、嫁を娶って、それが皇帝の娘ならば、普通に土地に役所ができてしまい、恐れ多い」と言った。二人は張果の言葉に思い当たるふしがないことを訝しんだ。するとまもなく使者がやって来て、「玉真公主を先生に降嫁させたい」との詔を伝えた。張果は笑って、詔を固辞した。詔を下して集賢院に肖像を描かせようとしたが、丁寧に辞退して山に戻ることを願いでると、詔によって裁可された。銀青光禄大夫に抜擢され、通玄先生との称号を授かった、布帛三百匹を下賜され、付き人二人を与えられた。恒山の蒲吾県にやってくると、ほどなくして卒したが、ある者は尸解したのだと言っていた。帝は張果のために棲霞観を亡くなった場所に建立した。


  師夜光は、薊州の人で、若くして浮屠(僧侶)となった。長安にやってきて、九仙公主のおかげで温泉で謁見を賜り、はその弁舌を優れたものだと思い、冠帯を賜い、四門博士を授け、緋衣・銀魚・金・絹数千を賜り、寵臣のように左右に侍ることができた。

  邢和璞は黄老を喜び、『潁陽書』を著し、世に伝えられた。

  天宝年間(742-756)、孫甑生という者がいて、方技の巧みさで有名だった。石を用いて石同志を戦わせたり、草で人と騎馬を作って走らせたりした。楊貴妃は見て喜び、たびたび宮中に召し入れた。

  また羅思遠という者がいて、隠形の術が出来た。はこの術を学んだが、羅思遠はその術のすべてを教え尽くすことに同意せず、帝が試しに隠形の術を行うと、いつも衣帯が消えずに残ってしまった。羅思遠と共に試すと、やはり効果があった。手厚く金や布帛を下賜したが、卒然として受けなかった。帝は怒って、幞で包み込み、押しつぶして彼を殺してしまった。しかし数日後、宮中の使が蜀から戻ってくる際に、羅思遠が乗り物に乗り西に行くのに出会った。彼は笑って言った。「お上も戯れに何とひどいことをなさるのか」


  姜撫は、宋州の人である。自ら仙人の不死術に通じていると言っており、隠居して世に出なかった。開元年間(713-741)末、太常卿の韋縚が名山を祭り、ついでに隠れた民を訪れ、また姜撫がすでに数百歳であると申し上げた。召して東都に到着すると、集賢院に滞在させた。そこで「常春藤を服用すれば、白髪が黒髪に戻り、長生することができる。藤は太湖に生えているのが最良で、終南山にも往々にしてあるが、太湖のものには及ばない」と申し上げたから、は使者を派遣して太湖に赴かせ、多く採取して朝廷の老臣に賜った。そこで天下に詔して、自分たちにも求めさせた。宰相の裴耀卿が酒坏を捧げて千万歳の寿を奉り、帝は喜び、花萼楼に出御して群臣と宴し、藤百箱を出して、満遍なく賜った。姜撫を抜擢して銀青光禄大夫とし、冲和先生と号した。姜撫はまた「終南山に旱藕(蓮根)があり、これを食べれば寿命が延びます」と申し上げたから、形を葛粉のようであったから、帝は雑煮にして大臣に賜った。右驍衛将軍の甘守誠は薬石の判別を得意とし、「常春は、千歳藟のことです。旱藕は杜蒙です。方術家が長年用いてこなかったのを、姜撫は名称を変えて神格化しました。民間では酒に藤を漬けますが、飲んだ者の多くは突然死します」と述べたから、そこで沙汰止みとした。姜撫は内心で恥じ入り、薬を求めて山に籠もることを願い、ついに逃げ去った。


  桑道茂は寒人で、その系譜や先祖の記録は失われた。太一遁甲の術をよくした。乾元年間(758-760)初頭、官軍が安慶緒を相州で包囲すると、危急甚だしかったが、桑道茂は包囲の中にあって、密かに人に向かって「三月壬申に西軍は潰滅する」と語り、その時期になると、九節度使(郭子儀李光弼李嗣業王思礼魯炅李奐許叔冀董秦季広琛)の軍がすべて敗北した。後に召し出されて待詔翰林となった。建中年間(780-783)初頭、上言して、「国家は三年もしないうちに災厄にあいますが、奉天に王気があります。城壁を高くして濠を浚い、王者の居場所とし、万乗の軍を受け入れられるようにすべきです」と申し上げると、徳宗はその数々の事を験としたから、京兆尹の厳郢に詔して軍数千および神策軍の兵を出発して奉天を城とした。その当時、夏の暑い盛りに行ったから、人々はその理由を知る由もなかった。朱泚が叛くと、は奉天に避難したから、頼って助けとなった。

  李晟が右金吾大将軍となると、桑道茂は一枚の縑(かとり)を持ってきて李晟に見せ、再拝して、「公が貴くなって盛んとなることは比類ありません。しかし私の命は公の手の中にありますから、赦免していただけませんか」と言ったから、李晟は大いに驚き、その発言を理解することができなかった。李道茂は懐中から一書を出して、自らの姓名を書き、その左には「賊に脅された」と書いてあり、強く李晟の署名を願った。李晟は笑って、「私に何て書いて欲しいのかね」と言うと、桑道茂は「ただ手紙の通りに赦免せよ、とです」と言ったから、李晟はそれに従った。後にまた縑で李晟の服との交換を願い、胸に「他日でも信頼する」と書くように頼み、再拝して去った。桑道茂は果たして朱泚の偽官に任じられて汚された。李晟が長安を回復すると、逆徒とともに旗下に捕縛され、死刑に処されようとすると、李晟の服と書簡を出して示した。李晟は奏上して、死罪を許された。

  当時、藩鎮は支配地域を勝手にして安寧する時がなかったが、桑道茂は「年号を元和とすれば、盗賊どもは殲滅される」と言い、憲宗の時代になって験があらわれた。桑道茂が住んでいた所に二本の柏樹が非常に生い茂っており、「人が住んでいる所に木が生い茂ったら取り払うべきである。木が盛んならば土は衰え、土が衰えれば人が病むからだ」と言い、そこで鉄数十斤をその下に埋め、また「後でこの地を掘り起こした者は死ぬだろう」と言った。大和年間(827-835)、温造がここに住むと、鉄を発掘して温造は死んだ。杜佑楊炎と親しく、盧𣏌がそのことを憎んだから、杜佑は恐れ、そのことを桑道茂に尋ねると、「あなたは年内に地方職に任じられますが、そうすれば福寿は果てしないでしょう」と答えたが、突然饒州刺史を拝命し、後に司徒で終わった。李泌が病み、桑道茂は紙に「三月二日の宴会で災厄があり、国と家は吉だが身は危い」と書き、中和日になると、李泌は病は重いにも関わらず、無理に朝廷に入った。徳宗は李泌が歩くこともできないのを見て、詔して邸宅に帰らせたが、卒した。この日、北軍が反乱を企てたが、仗士が捕らえて彼らを斬った。李鵬が盛唐県令となると、桑道茂は、「君の官位はこれ止まりだが、長男は宰相になり、次男もまた大藩の鎮となり、子孫は百世まで栄えるだろう」と言った。李鵬が卒すると、後に李石は宰相となり、李福は七鎮を治め、子孫たちは名が顕れたという。


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最終更新:2025年04月14日 02:35
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