厳向 げんこう
680-764
盛唐の官人。同州朝邑県(陝西省大荔県)の人。
厳善思の子。大理卿。至徳二年(757)、御史中丞の
崔器、憲部侍郎の
韓択木とともに三司使となって
安禄山に降伏して大官となった
陳希烈・
達奚珣らに賜死・死刑等厳罰を科した。乾元年間(758-760)鳳翔尹となったが、乾元二年(759)鳳翔府七馬坊の押官がしばしば州県の間を脅かして殺人し、県尉の謝夷甫は怒りにたえられず、笞打ちして殺してしまった事件で、中丞の
崔伯陽に詔して三司使とともに取り調べさせたが、結審しなかった。
毛若虚の取り調べによって罪は謝夷甫に着せられたが、崔伯陽が強固に訴えたために
粛宗の怒りを買い、関係官吏が全員処罰されることとなり、厳向は嶺外の一尉に貶された。宝応年間(762-763)太常員外卿となった。
列伝・史料
最終更新:2025年04月12日 02:43