趙犨 ちょうしゅう
824-889
晩唐の武将・藩鎮。陳州宛丘県(河南省周口市淮陽区)の人。趙叔文の子。
趙昶の兄。
趙珝・趙巌の父。代々忠武軍の牙将であったが、
黄巣の乱がおこると、陳州民の要請で陳州刺史となり、長安が黄巣軍によって陥落すると、長安からの撤退の際に陳州を通過することを予想し、中和三年(883)に黄巣軍が長安を撤退し、先鋒の
孟楷軍が陳州を攻略すると、これを撃破。さらに黄巣の大軍の重囲を受けたが、三百日後の中和四年(884)四月、
周岌・
時溥・
朱全忠の救援軍が到来し、さらに
李克用の救援が来ると黄巣軍は撤退。陳州を守り抜いた。さらに
秦宗権が叛くと、秦宗権からも陳州を防衛。功によって奉国軍節度使を設立し、泰寧軍節度使も兼領した。解囲の経緯から朱全忠に対して合力し、朱全忠隆盛の契機をなした。
趙昶に後事を託して卒した。『新唐書』『旧五代史』『新五代史』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2026年07月19日 02:28